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【完結】金沢八景の風と、あの日のオムライス  作者: 坂道 昇


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京急の踏切と、名前に吹く風

読んでいただき、本当にありがとうございます。物語を最後までどうぞお楽しみください!

黄色。


鮮やかな、ひまわりのような黄色だった。


少し色褪せたテレビ画面の向こう側で、ふくよかなシェフが銀色のナイフを滑らせる。


こんもりと盛られたチキンライスの上に乗った、ラグビーボール型のオムレツ。


そこにすーっと一筋の切れ込みが入った瞬間、内側に閉じ込められていた半熟の卵が、自重に耐えきれなくなったかのように、とろり、と左右に花開いた。


画面越しにでもわかるほどの、とろとろで、ふわふわの卵。


そこへ、艶やかな焦げ茶色のデミグラスソースが、たっぷりと、惜しげもなくかけられる。


湯気とともに立ち上るであろうバターと肉の香りが、小さな四畳半の部屋にまで漂ってくるような気がした。


「わあ……っ」


当時、小学三年生だった私――富永楓菜とみながふうなは、食い入るようにテレビの画面を見つめていた。


時刻は夜の七時。


小さなちゃぶ台の上には、スーパーの半額シールが貼られたコロッケと、千切りキャベツ、そしてお母さんが作ってくれたお味噌汁が並んでいる。


我が家がお金持ちではないことくらい、子供心に十分理解していた。


お父さんは私が物心つく前にいなくなり、お母さんは昼間は工場のパート、夜はファミレスの裏方として、文字通り身を粉にして働いていたから。


だから私は、おもちゃも、可愛い洋服も、遊園地に行きたいというワガママも、一度だって口にしたことはなかった。


「楓菜はえらいね、我慢強くて」


そう言われて頭を撫でられるのが好きだったし、お母さんを困らせたくなかった。


けれど、その時だけは。


画面の中でキラキラと輝く『魔法のような料理』から、どうしても目を離すことができなかった。


「お母さん……あのね」


気がつくと、声が出ていた。


台所で洗い物をしていたお母さんが、「ん? どうしたの?」と振り返る。


濡れた手をエプロンで拭うお母さんの指先は、水仕事のせいで赤くひび割れていた。


その手を見た瞬間、胸の奥で警報が鳴り響いたのに、口は勝手に動いてしまった。


「私、これ、食べてみたい……! ナイフで切ったら、ふわって開くオムライス!」


言ってしまってから、ハッとした。


しまった、と思った。


外食なんて、年に一回、私の誕生日に近所のチェーン店へ行くのがやっとだ。


テレビに出ているような立派な洋食屋さんのオムライスが、どれだけ高いか。


お母さんがそのために、どれだけ長く立ち仕事をしなければならないか。


お母さんはテレビの画面を見て、それから私を見て、少しだけ目を瞬かせた。


そして。


「……そっか。美味しそうだね、楓菜。……ごめんね」


笑ったのだ。


ひどく申し訳なさそうな、傷ついたような、力ない微笑みで。


その顔を見た瞬間、心臓を冷たい手でギュッと掴まれたような気がした。


自分がとんでもない残酷な刃物を、たった一人で私を育ててくれているお母さんに突き立ててしまったのだと理解した。


「あ、あははっ! うそ、冗談だよ!」


私は慌てて両手を振り、引き攣った笑顔を作った。


「テレビ見てたら、ちょっと言ってみたくなっただけ! 私、お母さんが作ってくれる固い卵焼きの方が好きだもん! ほんとだよ!」


「楓菜……」


「コロッケ冷めちゃうから食べよ! 今日もおいしいね!」


必死に取り繕って、冷めかけたコロッケを口に放り込む。


サクサク感のない衣の音で、心臓の嫌な動悸をごまかした。


その週末、お母さんは少しだけ無理をして、夕飯にオムライスを作ってくれた。


薄焼きの卵でチキンライスをくるりと巻いた、昔ながらのオムライス。


ケチャップで『ふうな』と名前が書いてあった。


「おいしい、おいしいよ!」と笑って食べながら、私は心の中で泣いていた。


お母さんの愛情が嬉しかった。


けれど同時に、あの時テレビで見た『ふわとろのオムライス』は、私にとって絶対に触れてはいけない、口にしてはいけない『禁忌の象徴』になってしまったのだ。


『いつか、あんなオムライスを食べてみたい』


その密かな憧れには、分厚い南京錠をかけて、心のずっと奥底へと沈めた。


もう二度と、誰にもおねだりなんてしない。


自分で働いて、自分のお金で食べられるようになるその日まで。



* * *



「――ありがとうございました! またお越しくださいませ!」


ピッとバーコードを読み取る電子音が鳴り止み、お客さまに深くお辞儀をする。


「富永さん、お疲れ様。あがりでいいよ」


「ありがとうございます。お疲れ様でした!」


タイムカードをガチャンと押し、スーパーの制服から私服のカーディガンへと着替える。


時刻は午後七時半。


神奈川県横浜市、金沢区。


京浜急行線の金沢文庫駅から少し歩いたところにあるこのスーパーが、高校二年生になった私の現在の職場だ。


外に出ると、海の方角から生ぬるい秋の夜風が吹いてきた。


潮の香りが微かに混じっている、金沢区特有の風。


私は首に巻いていたストールを少しだけ直し、駅前の商店街へと歩き出した。


私が通っているのは、市立金沢商業高校。


地元では『Y校』と並んで伝統のある商業高校だ。


普通科の高校に行き、大学に進学するという道は、最初から私の選択肢にはなかった。


学費の安さはもちろんのこと、何より『早く資格を取って就職するため』だ。


現在、日商簿記検定二級の取得に向けて猛勉強中。


ゆくゆくは一級まで取り、高校を卒業したらすぐに会計事務所か、安定した企業の経理部に就職する。


そして、お母さんに楽をさせる。それが私の確固たる人生設計だった。


だから、放課後は簿記の補習か、このスーパーでのアルバイト。


休日は家事に充てる。


時給千二百円の重みを、私は誰よりも知っているつもりだった。


一時間働いて、ようやく千円札一枚と百円玉二枚。それを何時間も何時間も積み重ねて、やっと生活が成り立つ。


「……あ」


商店街のアーケードを抜け、少し薄暗い路地に入ったところで、私は思わず足を止めた。


換気扇が、ブォンブォンと重たい音を立てて回っている。


そこから吐き出されるのは、焦がしバターと、じっくり煮込まれたデミグラスソースの芳醇な香り。


鼻腔をくすぐるその匂いを嗅ぐだけで、空っぽの胃袋がきゅうっと音を立てて自己主張を始める。


赤レンガ風の外壁に、蔦が絡まるレトロな外観。


地元で長年愛されている老舗の洋食屋、『トムの木』。


ガラス張りの窓からは、暖色系のランプに照らされたアンティーク調の店内が見える。


楽しそうに食事をする家族連れや、ワイングラスを傾けるカップル。


私は、無意識のうちに店の外に立てられた黒板のメニュー表に目を向けていた。


チョークで達筆に書かれた文字。


『当店名物! 特製・たんぽぽオムライス(サラダ・スープ付き) ―― 1,400円』


千四百円。


私のアルバイト、約一時間ぶん以上の値段。


高校生が夕飯を一食食べるには、そして家計の足しにするために働いている私にとっては、あまりにも高すぎる金額だった。


「……やっぱり、私には贅沢だな」


誰に言うでもなく小さく呟き、はぁ、とため息をつく。


あれから何年経っても、南京錠をかけたはずの憧れは消えてくれない。


テレビで、スマホのSNS動画で、パカッと開くオムライスの映像が流れてくるたびに、あの日見た鮮やかな黄色がフラッシュバックする。


自分で作ってみようと何度か挑戦したこともある。


けれど、安い卵と家のテフロンが剥げたフライパンでは、どうしてもただのスクランブルエッグにしかならなかった。


火加減も、フライパンの振り方も、プロの技術には到底及ばない。


「いつになったら、食べられるのかなぁ……」


もう一度黒板の文字を見つめ、未練がましく匂いを胸いっぱいに吸い込んだ、その時だった。


ガチャリ、と重たい金属音がして、『トムの木』の裏手にある勝手口の鉄扉が開いた。


「うわっ、重っ……これ絶対、ソースの仕込みの残骸入れすぎだろ」


声と共に、両手に大きな業務用ゴミ袋を抱えた人影が路地裏に現れた。


白いシャツに、腰から下を覆う丈の長い黒のサロンエプロン。


腕まくりをした前腕には、うっすらと筋肉の筋が浮かんでいる。


私はビクッと肩を震わせ、慌てて立ち去ろうとした。


「あ、すみません、邪魔して……」


「ん?」


ゴミ袋を収集庫に放り込んだ人影が、バサッと前髪を掻き上げながらこちらを振り向いた。


薄暗い路地裏の街灯の下。


そこに立っていたのは、見覚えのある顔だった。


「……富永?」


「えっ……梶原、くん?」


思わず目を丸くする。


梶原颯太かじわらそうた。私と同じ、金沢商業高校の二年生。クラスメイトだ。


学校での彼は、いつも一番後ろの窓際の席で、けだるそうに頬杖をついたり、休み時間は机に突っ伏して寝ていたりする印象しかなかった。


派手なグループに属しているわけではないが、かといって大人しいわけでもない。


ただ、どこか「学校生活にそこまで興味がない」というような、冷めた空気を纏っている男子。


それが私の梶原くんに対する認識だった。


けれど今、目の前にいる彼はどうだ。


プロの料理人が身につけるような前掛けエプロンをきっちりと締め、シャツの袖は腕まくりされ、額には汗が光っている。


いつもは少し長くて鬱陶しそうな前髪も、仕事の邪魔にならないようにピンで無造作に留められていた。


なにより、その目だ。


教室で見せる、あの眠たそうな、ぼんやりとした目じゃない。


厨房の熱気をそのまま帯びたような、鋭くて、生き生きとした光を宿している。


「お前、こんなとこで何してんの。……あ、もしかして駅前のスーパーの帰りか?」


「う、うん。バイトの帰りで。梶原くんこそ、ここで働いてるの?」


「ああ。高校入ってからずっと厨房の補助でバイトさせてもらってる。ま、補助っつっても、鍋洗いと野菜の皮剥き、あとは怒鳴られながらのゴミ出しがメインだけどな」


自嘲気味に笑いながら、梶原くんはエプロンで手を拭った。


クラスでもほとんど話したことがない相手だ。


気まずい空気が流れるかと思ったが、彼は意外なほど自然体だった。


ふわりと、再び海風が路地裏を吹き抜けた。


私のカーディガンの裾が揺れ、梶原くんの前髪がわずかに靡く。


「……そういやさ」


風が止んだ後、梶原くんがふと思い出したように口を開いた。


「お前、下の名前、『楓菜ふうな』だったよな」


「えっ? あ、うん。そうだけど……」


「俺、『颯太そうた』。どっちも名前に『風』が入ってんだよな。一年の時の担任のオッサンに、『お前ら風コンビだな!』って、わけわかんねえ絡み方されたの、覚えてるか?」


「あ……」


言われてみれば、確かにそんな記憶があった。


入学してすぐのホームルーム。


担任の先生が名前の漢字を見て、そんな親父ギャグのようなことを言っていた気がする。


あの時は緊張していて苦笑いしかできなかったけれど、まさか彼がそんな些細なことを覚えていたなんて。


「覚えてる。……風コンビって、すごいダサいよねって、その時ちょっとだけ話したよね」


私がクスッと笑うと、梶原くんも「だよな。センスねえよ、あのオッサン」と口角を上げた。


なんだろう。


教室では遠い存在だったのに、ここが学校の外で、お互いに『働く人間』としての顔になっているせいか、不思議と緊張感が解けていくのを感じた。


「で? 富永は、うちの店の前で何やってたわけ?」


梶原くんが、ひょいと顎で黒板のメニュー表をしゃくった。


「あ……」


見られていた。


私がメニュー表を穴の空くほど見つめ、ため息をついていたところを。


急に恥ずかしくなって、顔に熱が集まるのがわかった。


誤魔化さなきゃ、と思った。


ただ匂いを嗅いでいただけだとか、通り道だったからとか。


けれど、先ほどの『風』の話題で少しだけ心のガードが下がっていたからだろうか。


それとも、エプロン姿の梶原くんから漂う、ほんのりとしたバターの香りに誘惑されたからだろうか。


私は、ずっと胸の奥の南京錠をかけて閉じ込めていた言葉を、ポロリとこぼしてしまった。


「……いつか、こういうお店の美味しいオムライスを食べるのが、夢なんだ」


言ってしまってから、ハッとして両手で口元を覆った。


高校生にもなって、オムライスを食べるのが夢だなんて。


しかもクラスメイトの男子に。


絶対に「子供っぽい」「大袈裟だ」と笑われる。


「あ、ご、ごめん! 今の忘れて! なんか、変なこと言っちゃって……」


「オムライス」


梶原くんの低い声が、私の慌てた声を遮った。


恐る恐る彼の顔を見上げる。


笑っているかと思った。


馬鹿にしているかと思った。


けれど、違った。


梶原くんは真顔だった。


メニュー表の『たんぽぽオムライス』の文字と、私を交互に見つめ、彼は静かに言葉を紡いだ。


「……ナイフを入れたら、真ん中からパカッと開いて、中からトロトロの半熟卵が溢れてくるやつ」


「え……」


「お前が食べたいのって、そういうのだろ」


なぜ、わかったのだろう。


私の目が丸くなるのを見て、梶原くんは小さく息を吐き、自分の右手のひらをじっと見つめた。


薄暗い街灯の下でも、その手に無数の小さな火傷の跡や、油が跳ねた痕があるのがわかった。


「あんなの、火加減とフライパンの振り方次第だ」


彼は、独り言のようにそう呟いた。


「卵の温度をギリギリで見極めて、手首のスナップだけで巻き上げる。……うちのマスターのオムレツは、芸術品だからな。そりゃあ、夢にも見るだろ」


梶原くんの言葉には、洋食というもの、そして料理に対する真摯な熱がこもっていた。


オムライスを夢見ることなんて、決して馬鹿にするようなことじゃないと、肯定してくれたような気がした。


「梶原くん……」


「……お前、明日もバイト?」



突然の問いかけに、私は小さく頷く。


「うん。夕方まで補習やって、そのあと七時半まで」


「そっか」


梶原くんはエプロンについた見えない埃を払うと、背を向け、勝手口のドアノブに手をかけた。


「じゃあ明日、バイト終わったらまたこの裏口に来いよ」


「え……?」


「どうせお前、いっつもスーパーの半額弁当とか、自分で作った適当なメシばっか食ってんだろ。顔見りゃわかんだよ」


図星を突かれて、私は言葉に詰まった。


「うちの店、明日はマスターが用事で早く上がるから。……まかないの余り、食わしてやる」


それだけを言い残し、梶原くんはガチャリと鉄扉を開けて、厨房の熱気の中へと戻っていった。


取り残された路地裏。


静けさが戻った空間に、換気扇の回る音だけが響いている。


頬に触れた夜風は、先ほどよりも少しだけ、温かく感じられた。


明日、この裏口へ。


信じられない約束に、私の心臓は、あの日テレビの前で鮮やかな黄色を見た時と同じように、高鳴り始めていた。

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