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#8 休息

 ヴラゾヴラは、考えた。もし己の指揮魔術——平面的で感覚頼りの魔獣の支配、これに「算術」という技を組み合わせたなら、より複雑な攻撃ができるのではないか?

 つまり彼は自身の魔獣を操る術に、算術が応用できるのではないかと勘繰り始めたのだ。

 先ほどまでイルザを下等生物と見下していた魔族が、自ずと算術という知識を乞うていた。魔族が算術の力に魅入られていく。それは、彼らの停滞した長い歴史に、人類が楔を打ち込んだ証でもあった。


 ヴラゾヴラが算術というものの底力を理解し始めたのとほぼ同じ頃、人間がまだ一度も足を踏み入れたことのない魔大陸の奥で、とある魔族が一人、歩いていた。

 その魔族の歩く先には、常に赤黒い禍々しい雲に覆われ、太陽の光すら届かないその絶望の地の中心に、巨大な黒曜石の城がそびえ立っていた。それは魔王が住む、魔王城である。

 その城の最上階、広大な玉座の間は、静寂が支配していた。


 床には赤い絨毯が敷き詰められ、壁には無数の魔獣の頭骨が埋め込まれている。そして、部屋の最奥にある巨大な玉座には、圧倒的な魔力の奔流を纏った影——魔王が座している。

 魔王の姿は濃密な闇に包まれており、その全貌を捉えることは誰にもできない。その玉座の前に、一人の魔族が進み出て、その場にて片膝をついていた。

 それは女形の魔族、「リーリア」である。

 魔族には性別がないが、リーリアのその姿は人間の女性に極めて近い、小柄ながらもしなやかで美しい曲線を持つ肢体を持っていた。透き通るような白い肌に、短めの藍色の髪。額からは二本の繊細な水牛のような角が伸びている。彼女は魔王の側近の一人ではあるが、強大な魔術の使い手ではない。

 ただ、このリーリアという魔族は「早さ」が売りであった。ゴブリン程度の初級魔術しか使えないが、その動きの俊敏さは魔獣などとは比べ物にならない。

 それゆえに、情報収集の任務には、このリーリアという魔族は最適だ。それゆえに魔王は、リーリアを呼び寄せた。


『……』


 玉座の上の魔王は、口を開くことはない。言葉を発することはないのだ。しかし、リーリアの脳裏には、念話なのか、あるいは魔族の魂に直接響く不可思議な言語なのか、重く冷たい「意志」が直接叩き込まれていた。


「はっ……。私の聞き及ぶ限りでは、我が君の仰る通り、二人の魔族、ブリへーリアとヴラゾヴラが人間どもに囚われた模様でございます」


 リーリアは深く頭を垂れながら、その意志に応えた。


『……』


 魔王のこの無言の語りかけに、リーリアの銀色の眉が微かに動いた。


「仰せの通りでございます。あの二人が敗れるなど、にわかには信じがたいこと。ましてや魔力を持たぬ脆弱な人間どもに捕まるなど、あってはならぬこと。ですが、それが事実であることは、疑いようもございません」

『……』


 魔王の無言の会話は続く。あの二人は魔王にとっても貴重な戦力であり、何より人間どもの手に長期間置くことは、魔王にとって好ましい状況ではない。彼らの行方を探り、可能ならば奪還せよ、と命じる。


「はっ、仰せのままに」


 魔王の意思を受けたリーリアは静かに立ち上がり、その美しい顔に冷徹な決意を浮かべた。


「我が君の憂いを払うことこそ、私の至上の喜び。ブリヘーリアとヴラゾヴラ……あの愚かにも人間に後れを取った二人を必ずや探し出し、あわよくば連れ帰ってご覧に入れます。もしそれが叶わぬ場合は……人間の手によって穢される前に、私の手で処分いたしましょう」


 リーリアがそう宣言すると、玉座の闇の奥にいる魔王からは満足げな意思が伝えられた。

 魔王の命を受けたリーリアは、直ちに魔王城を後にした。黒い霧が支配するこの魔大陸の中ほど地から、彼女は一直線に東の方角——アイゼングラート山麓の人連合軍陣地へと向かって移動を開始した。

 その時、この魔族はまだ知らない。人間の持つ「算術」という力によって、自らが駆り出される羽目になったということを。


◇◇◇


 アイゼングラート山麓に新たな陣地を構えてから数日。前線では小規模な魔獣の群れとの衝突はあるものの、魔族の大規模な反攻は鳴りを潜めていた。

 大敗を喫した魔族側も、態勢の立て直しを図っているのだろう。我々連合軍にとっても、この期間は兵站を整え、英気を養うための貴重な時間だった。

 私は日課となった牢獄への訪問を通じ、ブリヘーリアとヴラゾヴラとの対話を続けていた。それはもはや尋問というより、互いの思考を探り合うという奇妙な会話劇となっていた。

 私は、あの高位の魔族であるブリヘーリアとヴラゾヴラとの会話を通して、魔族がどう考えて何を企んでいるのかを知ろうとしていた。

 一方の彼らはといえば、算術というものを知ろうとあの手この手で聞き出そうとする。数百年という途方もない時間を生きる魔族にとって、その長寿ゆえに、彼らの時間感覚は我々人間とは根本的に異なる。「技術を急いで発展させる」とか、「知識を次世代に書き残す」という発想がないのだ。彼らにとって、力とは己の内に蓄積し、個の魔力を高めることでのみ証明される。

 だからこそ、千年以上の人間の知恵の結晶である「算術」というこの未知なる力に恐れと関心をもって接してくるのだ。


 一方、やや心を開き始めたヴラゾヴラには、私はより根源的な問いを投げかけてみた。


「ヴラゾヴラ。お前たちはなぜ、そこまで執拗に人と戦うのだ? 我々人間が海を渡る前は、お前たちはこの魔大陸で静かに暮らしていたのだろう?」


 その問いに、左腕の痛みが少し和らいだ様子のヴラゾヴラは、鉄格子に寄りかかりながら目を細めた。


「愚かな問いだな、イルザよ。我々魔族は、魔王様によって生み出された存在。その魔王様が『人間を滅ぼせ』と命じている。それだけのことだ」


 彼は自嘲気味に笑った。


「そもそもだ、魔力を持たぬ脆弱な生き物が、我々と同じ大地を歩き、増殖していくこと自体が、魔王様の意思に反するのだ。それゆえに、我らは人間どもに戦いを挑んでいる」


 彼らの戦う理由は、魔王の絶対的な命令と、魔力至上主義という種族の本能に根ざしている。だが、算術という存在が、その強固な岩盤に微かなヒビを入れ始めているのを、私は確かに感じ取っていた。


 そんな重苦しい魔族との対話を終えた午後。私は、マルディーニに呼ばれて、陣地の中央に設けられた木造の簡易食堂に足を運んだ。


「こっちだよ、イルザ!」


 奥のテーブルから、マルディーニが勢いよく手を振っていた。散々、魔族と怪我人の看護で疲れるとぼやく姿しか見せていなかった彼女にしては、嫌に上機嫌だ。何かよほど嬉しいことでもあったのか? などと考えながらその手を振る方に向かうと、マルディーニの前には、アルマイトのカップに入った温かい紅茶と、そして白い包装紙に包まれた、小さな長方形の物体が置かれていた。


「こ、これは……」

「ふふん、驚いた? 補給部隊が海から持ってきたばかりの特別配給品よ。なんと、チョコレート!」


 マルディーニは誇らしげに胸を張った。チョコレート。カカオ豆と砂糖で作られたその甘味は、後方でもなかなか口に入らない高級品だ。それが前線に届くなど、連合軍司令部も今回の鉱山奪取の戦果を、相当に高く評価している証拠だろう。

 そして、その先への戦いへ兵士たちを進ませるための、いわば免罪符でもある。こうやって兵士らを鼓舞し、その先にある香辛料の産地や未知の資源会得に向けて更なる戦いを続けさせる口実のようにも思えた。


「さあ、半分づつ食べましょう」


 彼女は包装紙を丁寧に剥がし、黒褐色の板チョコをパキッと二つに割って、私に差し出す。


「久しぶりだな、チョコなんて……」


 私は指先でその小さな欠片をつまみ、口に運んだ。舌の上にのせた瞬間、濃厚なカカオの香りと、脳の芯まで溶かすような強烈な甘みが口いっぱいに広がった。


「んんっ!」


 思わず声が漏れた。ここ数ヶ月は、塩辛い干し肉と硬い乾パンばかり流し込まれるだけだった胃袋に、その甘さは劇薬のように染み渡る。疲労しきった神経が、じんわりと解れていくのが分かった。


「美味しいでしょう? いやもう、最高よね!」


 マルディーニも目を細めつつ、幸せそうに頬を押さえている。


「ああ……本当に美味い。これまでのどんな弾道計算の答えよりも甘美だ」

「何よそれ、あのさぁ、チョコは算術じゃないんだから」


 マルディーニは私のこの感想に呆れながらも、久しぶりに満面の笑みを見せた。

 食堂の中は、同じように特別配給の恩恵に預かった兵士たちの明るい話し声で満ちている。外からは、陣地を構築する槌の音や、兵士たちの笑い声が聞こえてくる。

 先日の、血と肉片にまみれた凄惨な戦場が嘘のような、平和で穏やかなひと時がそこにはあった。


「ねえ、イルザ」


 紅茶を啜りながら、マルディーニがふと真面目な顔になった。


「あの魔族たち……ブリヘーリアやヴラゾヴラって、本当は私たちと分かり合える日が来たりするのかな。だって、あんたの算術の話を聞いて、態度を変えたんでしょ?」


 私は手元のチョコレートの欠片を見つめながら、静かに首を振った。


「どうだろうな。彼らが算術に興味を持っているのは事実だけど、それはあくまで『新たな力』への執着に過ぎない。彼らの本質は我々を魔大陸、いや、この地上から消し去ることだ。それが、魔王とやらの意思らしい」

「何それ、てことは、魔王を倒さない限り、私たちの戦いは終わらないの?」

「かもしれない。あるいは、魔族そのものも滅ぼさないと恒久の平和というものは訪れないのかもしれない」

「あーあ、途方もない話を聞いたら、せっかくのチョコの味が消えちゃったわ。早くこんな戦い終わらせて、故郷に帰りたい」


 と、マルディーニはぼやくが、私はすでに故郷を焼かれた身だ。どのみち、帰る場所などない。


「ともかく、人と魔族は七百年もの間、戦い続けてきた。鉱山一つ奪ったところで終わるわけがない。戦いは、これからも続くだろうな」

「そうよね……。って、せめてこのチョコレートを食べてる時くらいは、戦争のことなんて忘れさせてよね」

「すまない、マルディーニ。私にも紅茶を一口、くれないか」

「いいわよ、ほら」


 私たちは、カップを回し飲みしながら、とりとめのない日常の会話に花を咲かせた。

 アイゼングラート山麓に吹く風はまだ焦げ臭さを残していたが、この小さな食堂の中だけは、確かに人間らしい温かな時間が流れていた。

 この平和な時が、嵐の前の静けさであることも、そして魔王城からの刺客がすぐそこまで迫っていることも、この時の私たちには知る由もなかった。私はただ、口の中に残るチョコレートの甘い余韻を、静かに噛み締めていた。

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