#7 移動
……目が覚める。テントの中ではあるが、いつもと違う天井。
そして、横に誰かがいる。マルディーニにしては、重厚感のある身体。
その顔をみるや、私は一気に目覚める。
「ほ、砲術長!」
そう、私の横で寝ていたのは、砲術長のアルデリーギ中佐だった。
「……やっと目覚めたか、ロッセリーニ少尉」
ふと見れば、私も砲術長も軍服姿のままで、私はまるで砲術長に抱き着くように寝ていた。
「あ、あの、これは一体……」
「やむを得なかったからな」
何やら妙なことを言い出す砲術長だが、放心状態の私を前に、アルデリーギ中佐は続ける。
「戦いの後、気を失った貴官を抱えて陣地に戻ってきたのだが、貴官が私をつかんで離そうとしない。マルディーニ看護師にも相談したのだが、看護師が『そのまま一緒に寝ればいいじゃないですか』と進言するものだから、そのまま私のテントへ連れてきた、というわけだ」
事情を聴くと、どうやら私が原因らしい。考えてみれば、水平砲撃時の際に反動に耐えるため、必死にしがみついていた。気を失ってからも無意識に、その時の構えを取り続けてしまったのかもしれない。
が、問題は、一晩とはいえ、男の人と過ごしてしまったことだ。
「あ、あの……砲術長には大変申し訳なく思うのですが……その……」
「大丈夫だ。手は出していない」
私が言いたいことを察したのか、アルデリーギ中佐は私のしどろもどろな言葉に、即座に返した。
にしても、マルディーニのやつめ。砲術長にお持ち帰りを進言するとは何事か。看護師なんだから、何とかできただろう。
などと考えていると、砲術長が私にこう告げた。
「そうだ。貴官は気を失っていたから知らないだろうが、三日後に、本拠陣地をこの平原から、あの鉱山の麓へと移すことになった」
「えっ、本拠地を、移動するということですか?」
「そうだ。あの鉱山の権益を絶対的なものにする。軍司令部より、早々に通達があった」
「そうなのですね。確かにあの鉱山は、まさに宝の山というべき場所。確か、魔力の元となる魔石もとれるとか」
「その通りだ。ところで、ロッセリーニ少尉よ」
「はっ、なんでしょう」
「……そろそろ、離れてはもらえないか?」
私は、ハッとする。そういえば私、アルデリーギ中佐の身体にしがみついたままだ。
「も、申し訳ございません! あまりにも抱き心地が良くて、つい……」
「抱き心地が、良い?」
「あ、いえ、気にしないでください! で、では!」
そう言って私は立ち上がり、敬礼した後に、この佐官向けの個室テントを飛び出した。
ああ、なんてことだ。まさか砲術長と一晩を過ごしてしまうとか。しかし、手出しされていなかったことは幸いというか、残念というか……やはり私は、女として見られていないのではないかとも感じてしまった。
で、その日はマルディーニからもいじられる始末で、散々だった。
そんなことがあった三日後のこと。予定通り、本拠地の移動が始まる。
『全軍、前進を開始!』
拡声器越しに指揮官の号令が、乾いた風に乗って広大な平原に響き渡る。その声に呼応するように、無数の軍靴が大地を踏み鳴らす音が地響きとなって伝わってきた。
我々、人連合軍は今、大規模な前線基地の移動を行っている。
かつては海岸線から内陸へ三十キロほど入り込んだ平原に、巨大な遠征師団の拠点を構えていた。しかし、先日の激戦の末に希少金属が眠る鉱山の奪取に成功したことで、状況は大きく変わった。連合軍司令部は、その鉱山の麓——元々、魔族が強固な前線陣地を築き上げていたまさにその場所へと、我々の前線基地を丸ごと前進させるという決定を下したのである。
およそ一万人規模という、途方もない数の兵士や土木作業員、そして無数の物資を載せた何十台もの蒸気車両が、延々と続く列をなして進軍していく。蒸気車が吐き出す黒煙が青空を覆うように何本も長くたなびき、人と鉄の巨大な塊がアリのように列を成しながら魔大陸の奥地へと這い進む光景は、まさに圧巻の一言だった。
もちろん、それまで前線基地のあった広大な平原を完全に無人にするわけではない。海からの物資を中継し、前線へと送り届けるための兵站用陣地として、一定の兵力と施設は残される。なお、人連合軍司令部はこの名もなき平原と、奪取したばかりの鉱山に、我々人類の地図に記すための新たな名前を与えた。
我々が今、歩いているこの平原は「ヴァイストヘルト平原」と名付けられた。そして、前方に黒々とそびえ立つ、かつてギガオーガたちが立ち塞がったあの鉱山を「アイゼングラート山」と呼称することとなる。
「アイゼングラート山、か。鉄の背骨とは、よく言ったものだな」
私は、ゆっくりと進む四十二センチ榴弾砲「ディッケバルト」の牽引車に随伴しながら、遠くに見えるその威圧的な山の稜線を見上げた。先日の戦いで、あの山腹にあった魔族の魔法陣を私の算術によって粉砕し、この手で奪い取った場所だ。しかし、そこに勝利の甘美な感慨はない。二度の戦いで、あの山の山麓に染み付いた二千人以上味方の血と、数え切れないほどの魔獣の肉片が、今も私の脳裏にこびりついているからだ。
「イルザ! ちょっと、聞いてちょうだい!」
重苦しい思考に沈んでいた私の背後から、ひどく苛立った声が飛んできた。振り返ると、従軍看護師のマルディーニが、支給されたばかりの新しい看護服を揺らしながら、足早にこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。
「どうした、マルディーニ。野戦病院の引っ越し作業で忙しいんじゃないのか?」
「忙しいに決まってるじゃない! 薬瓶の梱包だけでほとんど眠れなかったのだから!」
彼女は私の隣に並ぶと、大きなため息を吐き出しながら恨めしそうに私を睨んだ。
「あんたの隊の『ディッケバルト』が砲撃してくれたおかげで、また私の仕事が増えたのよ! 知ってる? あのアイゼングラート山の麓へ向かう途中で、新しい『捕虜』が捕まったって話」
「新しい捕虜? あの攻撃で、魔族の生き残りがいたのか?」
私は思わず足を止め、マルディーニの顔を見返した。先日の戦闘では、ギガオーガを盾にして無数の魔獣を突撃させるという卑劣な戦術の本体を、十二キロ先の山腹ごとディッケバルトで吹き飛ばしたはずだ。あの榴弾の雨の中で、生き延びた者がいたというのか。
「それがいたのよ。名前は『ヴラゾヴラ』って言うらしいわ。あの岩みたいなギガオーガの群れを操れる、指揮魔術の一人らしいわよ」
「指揮魔術の使い手か……」
私は小さく呟いた。あの二千もの味方を死に追いやった、恐るべき軍団の指揮官の一人。その元凶が、生きて捕らえられたという事実に、私の内側で冷たい憎悪が首をもたげる。
「他にも数人の魔族が魔法陣の周囲にいたらしいんだけど、イルザが関わった四十二センチ砲の直撃を受けて、他の魔族は命を落としたそうよ。でも、そのヴラゾヴラってやつだけは、たった一人の生き残りとして瓦礫の下から引きずり出されたの。とはいえ、左腕を完全に失って、瀕死の重傷だったらしいけどね」
マルディーニは忌々しそうに腕を組み、言葉を続けた。
「で、その瀕死の魔族の治療を誰が担当するかって言ったら、また私なのよ! ブリヘーリアの魔族相手に治療経験があるからって理由だけで、魔族の治療を押し付けられたわ! ただでさえ引っ越しで忙しいのに、切断された左腕の止血と縫合、おまけにあのふざけた態度の魔族の相手までさせられるなんて、もう最悪よ! どうせまた『下等生物が気安く触るな』とか、まーた文句を言われるに決まってるわ!」
怒り心頭といった様子のマルディーニに、私は苦笑するしかなかった。
「すまない、もう一撃、加えておくべきだったかな。おかげで、中途半端に魔族を生かしてしまったようだ。次からは跡形もなく粉砕できるよう心がけるよ」
「ほんとよ。まったく、気を失ってアルデリーギ中佐に抱きついてる暇があったら、もうひと踏ん張りしてほしかったわね」
マルディーニはそう吐き捨てると、忙しそうに後方の衛生部隊の列へと戻っていった。
そんな彼女の後ろ姿を見送りながら、私は胸のポケットにある計算尺の上を取り出し、布で汚れを拭い取る。ヴラゾヴラという魔族、まさにあの巨大魔獣のギガオーガを操り、味方を盾にするという非情な戦術を用いた魔族の一人。ブリヘーリアとはまた違う、厄介な知恵を持った存在のようだ。いずれ、あの魔族とも対面することになるだろう。
我々の歩みは止まらない。アイゼングラート山の麓に向け、一万の軍勢は黒く焦げた大地をゆっくりと踏み越えていった。
太陽がやや西の空に傾き始めた頃に、我々第七十五砲術隊はついにアイゼングラート山の山麓、新たな前線基地の設営予定地に到着した。
そこは元々、魔族が強固な陣地を構えていた場所であり、先日の我々の砲撃によって完全に破壊された場所でもある。到着してまず私の鼻を突いたのは、周囲に立ち込める強烈な「焦げ臭さ」だった。
先日の激戦で倒れたギガオーガや、無数のゴブリン、コボルトといった魔獣の屍は、そのまま放置すれば腐敗し、疫病の温床となりかねない。そのため、我々本隊が到着する前に先行していた工兵隊や歩兵たちによって、ありったけの灯油が撒かれ、大規模な焼却処分が行われていたのだ。
その名残として、大地は文字通り真っ黒に焦げ、所々にまだ白い煙がくすぶっている。空気を吸い込むたびに、焼けた肉と脂、そして硝煙や煤煙の混じった不快な臭いが肺の奥まで入り込み、胃を小さく痙攣させた。
しかし、一万人の力は圧倒的だった。大勢の兵士や土木作業者たちが、その焦げた大地をスコップや重機で瞬く間に整地していく。邪魔な瓦礫や焼けた骨は溝に埋められ、その上に新たな土が被せられる。そして、周囲の森から切り出された木材が次々と運び込まれ、小気味よい槌の音と共に、丸太の小屋やテント群が雨後の筍のように立ち並んでいった。
たった数時間の間に、黒く死に絶えていた大地は、人類の活気と規律に満ちた巨大な軍事拠点へと生まれ変わったのである。
「よし、第七十五砲術隊の区画はここだ。各員、ディッケバルトの整備とテントの設営にかかれ」
砲術長の指示に従い、我々も自らの居場所を作り上げる。重い砲弾の運搬や陣地構築の力仕事を終え、ようやく日が沈む頃になって、私は割り当てられた女性用の小さなテントで、わずかな休息の時を迎えていた。
埃まみれの軍服を脱ぎ、簡易な水浴びで身体の汚れを落とす。硬いコットの上に寝転がり、ランタンの揺れる灯りを見つめていると、身体の奥底から泥のような疲労感が湧き上がってきた。
やや焦げ臭さの残る空気ではあるが、それでも今は、砲声も魔獣の咆哮も聞こえない。ひと時の平和だ。私は目を閉じ、この静寂に身を委ねた。
◇◇◇
陣地のもっとも奥まった一角。そこには、二人の魔族の捕虜を収容するために、特別に頑丈な丸太と鉄格子で作られた牢獄が設えられていた。
分厚い木の壁を隔てて隣り合う二つの独房。片方には、先日から捕らえられている長距離炎魔術の使い手であるブリヘーリアが、そしてもう片方には、今日運び込まれたばかりの指揮魔術の使い手、ヴラゾヴラが収容されていた。
ヴラゾヴラは左腕の付け根から先を失い、マルディーニによって分厚い包帯が巻かれていたが、それでもなお、失血と激痛で荒い息を吐いていた。
だが、魔族の生命力は人間の比ではない。ヴラゾヴラは薄暗い牢の中で、壁の向こうに同胞の気配を感じ取っていた。
(……そこにいるのは、魔族か)
ヴラゾヴラは声を出さず、念話によって直接相手の脳裏に語りかける。相手が魔族ならば、人に聞かれることなく会話が通じる。すると壁の向こうで、鎖の擦れる音が小さく響く。
(そうだ。我は攻撃魔術師の、ブリへーリアだ)
(やはり魔族であったか。俺の名は、ヴラゾヴラ。巨大魔獣専任の指揮魔術師だ。そういえば先の戦いで魔族が二人、失われたと聞いていたが、その一方が生き残り、惨めにも人間に囚われていた奴がいたのか)
同じ魔族同士だというのに、まるで見下した物言いだ。だが、魔族という種族は互いを味方だと思ってはいない。利害が一致すれば共に戦うが、そうでなければ殺し合うことも辞さない。人のような協力関係など、彼らの間には存在しない。
その物言いに、ブリへーリアはこう返す。
(そういうお前も人に囚われ、怪我をして動けぬようではないか。互いに惨めなものだな)
ブリヘーリアの念話には、同胞に対する労わりなどは微塵もない。売り言葉に、買い言葉。下劣な物言いを、そっくりそのままブリへーリアはヴラゾヴラに返した。
(くそっ。あの人間どもの放つ鉄の弾は異常だ。我の展開した数千匹もの魔獣の陣形の、もっとも密集したところを撃ち抜き、その生き残りもあの火薬とやらの威力で持って粉砕しやがった。さらに、遥か後方にいた我の頭上にまで、寸分の狂いもなく弾を撃ち込んできた。さしもの長射程魔術をもってしても、ああも正確には狙えまい)
ヴラゾヴラは激しい痛みに耐えながら、悔し紛れに念話でそう返した。
(この屈辱、決して忘れぬぞ。おい、ブリヘーリアよ。お前は攻撃魔術の達人であろう。ならばこの忌まわしい鉄の檻など、貴様の魔力ならばこじ開けることは可能なはずだ。さあ、今すぐここから逃亡し、魔王様のもとへ戻らぬか?)
左腕を失ったこの魔族は、逃亡を呼びかける。が、ブリへーリアは冷淡に一蹴する。
(馬鹿を言うな、ヴラゾヴラ)
(馬鹿とはなんだ。お前、まさか人間どもに飼われていたいのか?)
(お前は、今の自分の状態が分かっていないのか? マルディーニという人間から聞いた話では、腕を失って瀕死の状態だというではないか。そんな状態で、この人間どもの大軍勢の中をどうやって逃げ切るつもりだ。それに、我は檻を吹き飛ばすほどの魔術は使えぬ。それをやったら、貴様と我ごと吹き飛ばしてしまう。仮にこの檻を抜け出したところで、瀕死の重傷では人間どもからは逃れられぬぞ)
(そこをどうにかするのが、攻撃魔術師であろう、ブリヘーリア)
(我がここに止まるのは、それだけではない。我は、魔術を超えるあるものを聞き出そうとしている)
ブリヘーリアの念話のトーンが、ふと熱を帯びた。
(ヴラゾヴラよ。お前もその身で散々、味わったであろう。あの人間どもの放つ鉄の弾が、その頭上に正確に狙いを定めて降り注ぐことを。この人間どもは、「算術」なる力でそれを可能にしている)
(算術……? なんだ、それは。強力な魔術か。しかし、人間どもからは魔力など感じぬぞ)
(手のひらで握れるほどの細長い板を用い、空間を数値で読み取り、魔族のいる場所へその砲弾とやらを寸分違わず落とす術だ。我々が数百年かけても辿り着けなかった、理不尽なまでの正確な狙いを定める術を奴らは持っている。我は、その力を手に入れるまでは動かん。あの小娘……イルザという算術の使い手から、その真髄を全て引き出すまでは)
(なんだと、そんな凄まじい者が、この人間どもの集団にいるというのか?)
(お前も、会えば分かる。いずれそのイルザと顔を合わせる時が来るであろう)
(馬鹿な。魔族ともあろうものが、人間どもから知恵を乞うなど……)
その言葉に、ヴラゾヴラは絶句した。あの高位の魔族であるブリヘーリアが、魔力を持たぬ人間から何かを学ぼうとしているというのだ。それは、魔族の常識からすれば絶対にあり得ないことだった。しかし、自らの軍団を完膚なきまでに粉砕されたヴラゾヴラにとっても、その「算術」という術の名は、彼の意識に未知の畏怖と共に突き刺さる。
◇◇◇
アイゼングラート山麓での駐留が始まって二日目の朝。私はアルデリーギ中佐からの命を受け、再び陣地のはずれにある急造の丸太小屋——魔族らの牢獄へと足を運んでいた。
「少尉、今度は新入りの捕虜、ヴラゾヴラの尋問だ。奴は大型魔獣を操ることができるほどの強力な指揮魔術の使い手らしい。奴らがどのようにして魔獣を操っているか、その陣形を決めているのか、その秘密を探る」
「承知しました。が、砲術長、一つだけ質問することをお許し願えますか?」
「構わん、なんだ」
「小官は算術師であります。指揮魔術ならば、指揮経験のある上級士官がすべきではありませんか?」
「それはそうだが、お前はどういうわけか、魔族からは対等に見られているらしい。それゆえに、話を聞き出しやすい。それが、もう一人の魔族の尋問を担当することになった理由だ」
砲術長の回答は実に明快かつ不可解だった。確かにブリへーリアからは、前回の戦いを有利に導く言葉を引き出すことができた。それは私とまともに会話できる唯一の者だからだ。他の警備兵を始め、上級将校ですらもこの魔族はまともに会話をしようとしない。
ともかく、私は計算尺を胸のポケットに忍ばせて重い鉄の扉の前に立つ。見張りの警備兵が鍵を開けると、カビと血の臭いが混じった薄暗い空間が広がっていた。
鉄格子の向こう側、藁の敷かれた床に、その魔族は座り込んでいた。
頭にはねじれた二本の太い角が生えており、筋骨隆々とした体躯を持っているが、その左腕は肩のすぐ下から無惨に失われ、マルディーニが巻いた分厚い包帯が血で赤黒く染まっていた。彼こそが、あの二千もの味方の生き血を大地に吸わせた元凶の一人、ヴラゾヴラだ。
私が鉄格子の前に立つと、ヴラゾヴラは鋭い牙を剥き出しにして、黄金の瞳で私を睨みつけた。
「何の用だ、下等生物よ。俺と話をしようなどと、無駄なことを考えるものではない。貴様らの相手をすることなど、誇り高き魔族にとっては恥辱の極み、死んだ方がマシだ」
予想通りの罵詈雑言だった。魔族特有の、魔力のない人間を魂の底から見下すような傲慢な態度をとってきた。私は無表情のまま、その怒声を受け流した。
「私の名は、イルザ。お前を尋問するよう命じられて来ただけだ」
私の名を聞いた瞬間、なぜか一瞬、この魔族の眉が動く。変だな、初対面のはずだが、まさか私の名に聞き覚えがあるというのか?
「ほう……お前が……いや、妙な奴が来たものだと思っただけだ。そばにいる警備兵とやらと比べても小さく非力なお前が、俺に何を聞きたいというのか」
急に態度が変わった。いや、相変わらず小馬鹿にした態度なのは変わらないが、どこかさっきまでとは違う雰囲気を感じる。
「あのギガオーガの群れを操っている魔族だと聞いた。あれほどの巨大魔獣を、どうやって操っている? また、魔獣にどのような陣形を取ることができるかを聞き出したい。それが、司令部からの意向だ」
私ははっきりとそう告げる。もっとも、奴から簡単に何かが得られるとは思っていない。あのブリへーリアですらも、明確な言葉を私に伝えようとしたことがない。遠回しで曖昧な物言いしかしない。
しかも、算術の話をした後でないと奴は答えようとしない。それゆえに私は初歩的な算術の話をしてはブリへーリアから話を聞き出していたのだが、このヴラゾヴラという魔族からも同様にそれが可能かどうかはわからない。
実際、私のこの問いかけに、逆に問いかけてきた。
「そんなことよりもだ、貴様に聞きたいことがある。貴様が、我がギガオーガを始め、多くの魔獣と我が魔族の陣地の攻撃で、算術とやらを使った張本人か?」
おかしいな。どうしてこの魔族はいきなり「算術」などという言葉を言い出したんだ? 捕虜同士、口裏合わせできぬように熱い壁で隔てているはずで、ブリへーリアから私のことなど聞き出せるはずもない。
もしかすると、前回の戦いで我々の側の兵士を捕虜として捕らえて、そこから算術のことを聞き出したのかもしれない。でなければ、魔族が「算術」などと言う言葉を知るはずがない。だから私は、計算尺を取り出してこう答えた。
「私はこれを用いて、ディッケバルトという巨砲の弾道計算を行った算術師だ。詳しくは教えられないが、射程内にいる敵の頭上に、正確に砲弾を落とすための予測を、私は可能にしている」
彼は私が持つこの白い計算尺を、信じられないものを見るような目で見つめていた。
「……こんな薄っぺらい木片のような道具で、我が魔族や魔獣どもを狙い撃つだと? 信じられぬ。こんな小娘のその技が、俺の頭上にあの恐るべき鉄の雨を降らせたというのか?」
「そうだ。私がお前たちを、この計算尺によって弾き出した数字で弾道を導き出し、そして粉砕したのだ」
その瞬間から、ヴラゾヴラの態度が劇的に変化した。ブリヘーリアと同じだ、探求心むき出しの魔族へと変わった。
少なくともヴラゾヴラも、頭上から正確に狙い落とされる榴弾の脅威を味わっている。それを可能にする技が私にあると分かれば、当然、そうなるだろう。
ヴラゾヴラは喋れるほどには回復したものの、まだ起き上がることはできない。ベッドの上で、どうにか私へ話しかけるのが精一杯と言ったところだ。
「そうか。ならばその算術とやらのことを、聞きたいものだな」
「いや、私が尋問する側であって……」
「何をいうか。貴様らのことを知らずして、なぜ俺だけが答えねばならないのだ。少なくとも、俺が貴様の力を垣間見せることくらいしなければ、尋問に答えるつもりはない」
と、ヴラゾヴラは強気に出たため、私は仕方なく、ブリへーリアに話した時のように地面に弾道曲線を描き、この曲線を出すために必要な知識の話をした。
まったく、なんだって魔族という奴らはこうも傲慢なんだ。それにしても、二人揃って好奇心が旺盛ときた。これほど好奇心のある魔族どもが、どうしてこの七百年もの間、何の進化もなしえなかったのか。不思議でしょうがない。
で、ようやく弾道計算の概要を話した。それに満足したのか、ヴラゾヴラはようやく答えた。
「魔獣を操るなど、簡単なことだ。俺は指揮魔術の使い手。我が魔力は、視界に入る全ての魔獣の意識と繋がり、意のままに操ることができる。奴らは死の恐怖が目前に迫っても、それを感じさせないことで無敵の兵として人間どもを蹂躙することができるのだ。それは一朝一夕でできるものではなく、ある種の『感覚』として捉え、操っているのだ」
「感覚、か」
私はメモ帳を取り出し、ペンを走らせる。そして私は、さらに問いかける。
「では、あの戦いの時、私が五キロ離れた位置からお前たちの前衛を砲撃しギガオーガ後方の魔獣の群れを攻撃し、さらに最終局面で十二キロ離れたお前たち自身の頭上に砲弾を落とした時、お前はどうやってそれに対処しようとした?」
その問いに、ヴラゾヴラの顔が歪んだ。
「対処など、できるわけがなかろう。我の指揮魔術は、あくまで眼前に広がる魔獣を操るものだ。森の木々に逃げ隠れてしまった魔獣どもを目で捉えられない以上、空の彼方からの見えない攻撃を避ける盾にすることすらかなわなかった」
魔獣を操る者として、魔獣を操って戦うということは知っていた。だがそれは、あくまでも視覚に捉えた魔獣に対してのみ有効だったということか。
自信満々に答えるヴラゾヴラだが、これはかなり重要な情報が得られた。つまり、見えない場所にいる魔獣を操ることはできないと言っていることになる。
どおりで、森の中に魔獣を潜ませて襲うという戦術が取れないのか。あの森の狭い道を通る際に、その両側から魔獣が襲いかかってきたらどうしようもないと考えていたが、わざわざ魔獣らが切り開かれた森の中の道しか進まない理由がこれではっきりしたというものだ。
「聞きたいことは、だいたい聞けた。いずれ、マルディーニという看護師がきて、治療をしてくれる。あ、彼女も算術の使い手でもあるから、下手なことを言うと命に関わるかもしれないぞ」
私が最後にそう言い残すと、ヴラゾヴラはやや驚きの表情を見せた。ここ二日ほど、包帯を撒き直しては薬を塗りつけてくるあの娘までもが、まさか算術の知識を持っているとは驚くほかない。
「おい、イルザとやらよ。最後に、一つだけ聞きたい」
「なんだ」
「その『算術』とやらが、貴様らの弾道を落としたい場所に落としてくれることはわかった。だがそれは、人間の兵を操るためにも使えるものなのか?」
この問いに、どう答えるか悩んだ。が、算術の基礎がないものに答えたところで、問題はないだろう。そこで私はこう返した。
「当然だ。兵士の進撃速度や突撃のタイミング、そういうものを決める時にも算術は用いられる」
「……そうか」
ヴラゾヴラは、何かを感じたようだ。それはすなわち、算術というものが人の中で広く使われているということを、奴なりに暗に感じたのかもしれない。




