#12 奪還
後になって、私はアルデリーギ中佐から聞かされたことだが――私が魔族のリーリアによって陣地から連れ去られ、暗い森の中へと姿を消したその夜、人連合軍の司令部の天幕内では、怒号が飛び交う激しい論争が繰り広げられていたという。
「たかが算術師一人のために、なぜ特殊部隊を動かす必要があるのか!?」
恰幅の良い司令部の将官の一人が、私の捜索と救出を具申したアルデリーギ中佐に対し、冷酷なまでにそう言い放ったそうだ。
一万を超える死者を出したグルートクッペ攻略戦の直後である。ただでさえ兵力が削られ、司令部全体がこれ以上の損害を恐れて萎縮している状況下において、一介の少尉、しかも新米の女性兵士一人が姿を消したところで、軍の切り札でもある特殊部隊など動かせるはずがない。彼らにとって、たった一人の前線兵士の命など、盤上の駒程度にしか考えていない。実に上層部らしい、極めて合理的な判断とも言える。
だが、我が第七十五砲術隊の砲術長であるアルデリーギ中佐は、決して引き下がらなかった。彼は歴戦の勇士たる鋭い眼光で将官たちを見据えて、こう告げたという。
「閣下、それはご認識が甘いと言わざるを得ません。ロッセリーニ少尉は、ただの兵卒ではなく、我が軍の生命線である『算術』の使い手であるということです」
「それが、どうしたというのだ?」
「分かりませんか?」
その砲術長の言葉に、天幕の中は静まり返ったらしい。
「魔族どもはこれまで、ただ闇雲に魔術を放つことしかできませんでした。しかし、もし彼らがロッセリーニ少尉からその算術と弾道計算の方法を聞き出し、彼らの持つ恐るべき長距離魔術に応用されたならば、次の戦場がどうなるか、想像がつきませんか? 正確に計算された魔術弾が、我々の頭上に寸分の狂いもなく降り注ぐことになるのです。そうなれば、せっかく魔族に対して優位に立った我々は、彼らの魔術に完全に蹂躙されることになり、この魔大陸どころか人大陸への侵攻が再び始まるかもしれません。かつて航海術を盗まれ、魔族らが我が人大陸へ渡ることができるようになった、あの歴史を再び繰り返すことになるのです。そうなる前に、何としても彼女を救い出すべきだと考えます」
算術という技が、魔族の手に渡る。その先に待つ恐るべき予測を突きつけられ、とうとう司令部は折れた。彼らとて、先の戦いで十二キロ先から無差別に降り注いだ炎の雨の恐怖を忘れてはいない。あれが正確な狙いを持って軍の要所や司令部そのものを狙い撃ちしてきたらと想像し、背筋が凍ったに違いない。
かくして、司令部は第一特殊作戦隊の派遣を決定した。
特殊作戦隊の隊長であるディサンティス大尉率いる、軍の中でも選りすぐりの戦闘技能を持つ五人の特殊部隊員。そして、彼らの後を追うようにアルデリーギ中佐も自ら同行を志願した。
「随分と時間は経っている。だが、相手は大型魔族だ。中佐殿が倒したという小柄な魔族とは違い、その動きは鈍いはずだ」
ディサンティス大尉はそう推測した。彼らは夜を徹して馬車を走らせ、黒焦げの平原を一気に駆け抜ける。私が向かわされたであろうシャルフクッペと呼ばれる丘陵地まで素早く向かい、そこから部隊を散開させて、広大な森の中の探索を始めてくれていたのだ。
その頃、私がいかに救出部隊が迫っているかなど知る由もなく、ただ絶望と疲労の底を這いずり回っていた。
「うっ……はぁっ……はぁっ……」
月明かりすら満足に届かない、シャルフクッペの鬱蒼とした深い森の中を、私は休みなく歩かされていた。
私は前を歩く巨大な魔族、ガウガの手に握られた革紐に引かれ、よろめきながら歩を進めていた。首にはめられた冷たい金属の輪が、歩幅が遅れるたびに私の気管を締め付け、息を吸うことすら困難にさせている。
元々、私は王立工術大学で机に向かって計算尺を弾いていた算術師だ。重い装備を背負って何十キロも行軍する歩兵のような体力など、持ち合わせているはずがない。
軍靴の中でマメが潰れ、血が滲んでいるのが分かった。足裏に走る激痛と、絶え間ない緊張感、そして何時間歩かされたかも分からない疲労により、ついに私の両足は限界を迎えた。
ガクン、と膝から力が抜け、私は湿った腐葉土の上へと無様に倒れ込んだ。
「ううっ……!」
「おい、どうした?」
歩みを止めたガウガが、鬱陶しそうに革紐を引く。首輪が食い込み、私は苦痛に顔を歪めながら咳き込んだ。両手は後ろ手に縛られているため、地面に手をついて身体を支えることすらできない。
「う、動けない……」
かすれた声でそう告げる私を見下ろし、ガウガは筋骨隆々の巨体を揺らして鼻で笑った。
「なさけないやつだな。ただでさえ非力な人間の中でも、さらに弱い部類となるとこの程度の移動もままならんのか。まったく、リーリアのやつめ、厄介な役目をよこしやがって」
罵られつつも、私は反論する気力すらなかった。泥にまみれた顔を伏せたまま、荒い息を繰り返す。
ガウガは呆れたように大きなため息をつくと、私がこれ以上歩けないことを悟ったのか、周囲を見回した。
「仕方がない。そもそも人間とは脆い生き物だったな。このまま魔王様の前に到着する前に死なれてたとあっては、俺が困る」
そう言うと、彼は近くにあった手ごろな苔むした岩を見つけ、私を抱えてその傍らに座らせた。彼自身も、地響きを立てるようにして近くの倒木に腰を下ろす。
私は岩に寄りかかりながら、天を仰いだ。木々の隙間から、わずかに紫がかった夜明け前の空が見える。
「飲め」
不意に、私の胸元にドスッと何かが投げ落とされた。見れば、それは使い込まれた革張りの水筒だった。
私は前に手に縛られたまま、震える手で水筒の栓を開け、口に含む。
冷たい水が、ひび割れた唇と乾ききった喉を潤していく。ただの水が、これほど甘露に感じられたことはない。
ふと私は、その手元の水筒をじっと見つめた。
獣の革を縫い合わせ作られた、密閉性の高い精巧な水筒。それは、ちょうど七百年ほど前の船乗りたちが持ち歩いていたもの、その時代のものと同等のものと思われる。
そこに私は、違和感を感じる。
「……なぜ、お前たち魔族が、水筒という『道具』を持っているのか?」
私は、息を整えながらガウガに尋ねた。
ブリヘーリアによれば魔族は、自らの魔力を高めることのみに価値を見出す種族だ。武器や道具を進化させるという発想を持たず、ましてやそれを他者へ教え継ぐ「技術伝承」という概念がない。だからこそ、彼らは七百年前から戦術をほとんど変えることなく、停滞した歴史を歩んできた。
しかし、目の前にある水筒は、明らかに人がその作り方を教え、量産されたものだ。
私の問いに対し、ガウガは太い腕を組みながら、無愛想に答えた。
「それは七百年前、この地に現れ、その中で捕らえられ生かされた職人の一人が教えてくれた技によって作られたものだ」
七百年前。その言葉に、私は先日のアルデリーギ中佐の言葉を思い出した。人類が初めて海を渡り、この魔大陸に到達した際に魔族の襲撃を受け、生き残った船乗りたちが拷問の末に航海術や造船技術を奪われたという、あの忌まわしい歴史の始まりだ。
航海術だけでなく、こうした生活の道具を作る技術も、あの時、捕らえられた人間の職人たちから奪い取ったというのか。
それを聞いて、私にとっての違和感がよりはっきりする。
魔族は技術伝承をしない。あくまでも自らの努力と魔力のみで高みを目指す種族だと、我々は長年の分析で結論づけていた。
だが、考えてみれば、海を渡るための航海術や、この水筒の製法など、魔族の間にも確かに「伝承」されている技術がいくつか存在している。
ならばどうして、魔術は伝承をしないのだろうか? その積み重ねがあれば、我々のディッケバルトを越える長距離魔術だって完成していたかもしれない。
いったい、どういう基準で「伝承するもの」と「しないもの」を分けているのか?
私は、目の前に座る強面の大型魔族を、真っ直ぐに見据えて尋ねた。
「不思議だな。なぜ水筒を作る技や航海術は魔族の間で伝承されるのに、お前たちの最大の武器である『魔術』は伝承されないのか? 互いに教え合い、高め合えば、我々人類などとうの昔に滅ぼせていたはずではないか」
人としては、実に論理的な帰結だ。算術師である私から見れば、彼らの行動原理はあまりにも非効率で、矛盾に満ちている。
すると、ガウガは不機嫌に顔を歪め、低く唸るような声でこう答えた。
「それは、魔王様が決めることだ」
「……魔王、様が?」
「そうだ。我らが絶対の支配者。魔王様が『この技は残せ』と命じたものは、我らはそれに従い残し伝承する。だが、魔術に関しては『自らの力で掴み取れ』というのが魔王様の意思だ。故に、我々は他者に魔術を教えることはない」
「その魔王とは、一体何者なのだ?」
私がさらに踏み込んで問うと、ガウガの黄金の瞳に、初めて微かな「畏れ」の色が浮かんだ。
「我らが創造主。それ以上は、答えられない」
「それだけ? いや、もっと具体的な姿について知りたいんだが」
「やめておけ、人間」
ガウガの声が、一段と低く、冷たく響いた。
「それ以上のことを語ることは、我ら魔族にとって禁則事項なのだ。もしその戒めを破ろうとすれば、魔王様の呪縛により、一瞬で命を失う。それが魔族というものだ。お前もこれ以上、魔王様に対して無用な詮索をするな」
禁則事項。それを破れば死ぬ。
聞いたことがある。過去にも魔王について語ろうとした魔族が、その場で命果てたと。さらに、ブリヘーリアやヴラゾヴラも魔王について決して口を割らなかった。それは、自らの命を縛る絶対的なルールによって語れないという「呪い」がかけられているからなのだろう。
それが、我々人類が魔族を作り出したという魔王の姿を聞き出すことができない理由だったのだ。
それにしても、見た目も声もおっかない巨獣のようなガウガだが、不思議なことに、この魔族はこれまで接してきた傲慢なブリヘーリアやヴラゾヴラよりも、遥かに理性的で会話がしやすいように感じられた。
知性がないわけではない。ただ、彼らの知の限界が、魔王という存在によって意図的に設定されている。そう確信した私は、少しだけ心を許し、さらに根本的な疑問を彼にぶつけてみた。
「ならば教えてほしい。なぜお前たち魔族は、この世界に生み出されたのだ? そして、お前たちが盾として使っている、あの無数の魔獣たちとの関係は何なのだ?」
ガウガはしばらく沈黙し、夜明け前の薄暗い森の奥を見つめていた。やがて、彼はぽつり、ぽつりと語り始めた。
「魔族とは、魔王様を守り、魔王様の言葉を叶えるために創り上げられた存在だ。その魔王様は、人間どもがこの地に現われて以来、人間を滅ぼせと願っている。俺は生まれた時から、人間を滅ぼすという魔王様の意思を魂に刻み込まれている。それが今、俺たちが存在するただ一つの理由だ」
彼は大きなため息をつき、足元に転がっていた石を軽く蹴り飛ばした。
「そして、魔獣とは魔王様の住まうある特定の場所から、無尽蔵に生み出される存在に過ぎん。奴らには自我もなければ、誇りもない。言ってみれば、お前の持っているその水筒と同じ、ただの『道具』のような存在だ。だから壊れれば捨てるし、危うくなれば盾にする。使い捨てることに、何の躊躇いも持たない存在だ」
私は、その言葉に戦慄した。
魔王というのは、私が想像していた以上にこの魔大陸を完全に支配し、生態系すらも意のままに操っている恐るべき存在なのだ。何十万もの魔獣を使い捨ての道具として生み出し、魔族という強力な兵士を創り出し、彼らの思考すらも禁則事項という呪いで縛り付けている。
そんな強大な理不尽と、我々人類は七百年もの間、血みどろの戦いを続けてきたというのか。
私が沈黙していると、今度はガウガの方が、興味深そうに私を覗き込んできた。
「そういえば、俺も貴様に聞きたいことがある」
「何をだ?」
「どうしてお前は、『算術』なる不可解な力を身に着け、我ら魔族と戦う道を選んだのだ?」
ガウガは、私の細い腕と、泥にまみれた小さな身体を値踏みするように見た。
「見るからに貧弱で、重い武器すらも持てず、戦場を走る体力さえない。貴様ごときがなぜ、死と隣り合わせの魔族との戦いに身を投じたのだ? 人間の娘ならば、後方で安全に暮らす道もあっただろう」
その問いに、私の胸の奥で、冷たく黒い炎がチリチリと燃え上がった。
私は計算尺の入った胸ポケットを無意識に押さえながら、かつての業火に焼かれた故郷の記憶を呼び起こす。
「復讐だ」
「復讐?」
「そうだ。かつて人大陸で、私の住んでいた村が魔族に襲われた。その時、私を除く家族は全員、魔族の放った魔術によって無惨に焼き殺された。だから私は、家族への復讐を果たすためだけに戦うことを決めた」
私はガウガを真っ直ぐに睨み返した。
「私には力がない。剣も振れず、銃を撃つ反動にも耐えられない。それゆえ私は、体力を必要とせず、遠くにいる敵陣まで正確に弾頭を命中させる算術を習うことにした。それにより、多くの魔族を確実に葬り去ることができると考えたからだ。王立工術大学に入ってから高度な算術を身につけられたのは、お前たち魔族という種族を、この世界から殲滅したいという執念からだった」
私の呪詛のような言葉を聞いても、ガウガは怒るでもなく、ただ不思議そうに首を傾げた。そして、予想もしていなかった問いを私に投げかけた。
「……おい、一つ聞きたい。『家族』とは、なんだ?」
「えっ……?」
私は虚を突かれ、言葉を失った。
「いや、その……同じ血を分けた、親や兄弟たちのことだ。親は私たちを生んで育て、兄弟たちは共に遊んだり学んだり、時には喧嘩して仲直りする、そんな存在だ。魔族には、そういうものはないのか?」
「愛し合う? 血を分ける? 言葉の意味が理解できん。我ら魔族は、魔王様から直接、この身体のままで創り出される。魔王様以外の誰かから生まれるわけでもなく、誰かを育ててくれるわけでもない。だから、お前の言う『家族』というものが、どういう概念なのか全く想像がつかんのだ」
ああ、そうか。
私はその時、ようやく魔族という存在の決定的な異質さに気づいた。
彼らには、生殖という概念がない。親も子も兄弟も存在しない。ただ個として生み出され、個として存在し、個の力を高めることだけを求められる。だからこそ、彼らは他者の痛みに鈍感であり、人間がなぜこれほどまでに執念深く戦い続けるのか、その根源的な感情を理解できないのだ。
「うーん、家族というのはだな……」
私は、自分がなぜこれほどまでに彼らを憎んでいるのか、そして人間が何を守るために戦っているのかを、この会話の成り立つ魔族に少しでも伝えてみようと思った。憎き敵ではあるが、家族というものを知らないことはあまりにも不憫すぎる。だから私は、家族というものがどういうものであるかを語ろうとした。
「私が幼い頃、父はいつも……」
私が家族の温かな記憶を語ろうと口を開いた、まさにその瞬間だった。
ザシュッと、静寂の森を切り裂くように、周囲の茂みから音もなく六つの黒い影が飛び出してきた。
「!?」
ガウガが驚き、反射的に立ち上がろうとした。だが、飛び出してきた軍服姿の男たちの動きは、驚くほど俊敏で無駄がない。正面から二人が銃を構え、立ちふさがる。
「人間どもめ! どこから……」
逆上したガウガの周囲の空気が歪み、強大な魔力が練り上げられようとする。彼が魔術を放てば、周囲一帯が消し飛ぶほどの威力が発揮されるだろう。
だが、魔術が発動するよりも早く、ガウガの胸から何かが飛び出してきた。
それは、分厚く巨大な牛刀のような特殊な剣だ。私の目前で、その大型魔族の心臓が剣によって貫かれた。
「ガ、ハッ……!?」
ガウガの口から、大量の緑色の血が吐き出される。練り上げられていた魔力が霧散し、彼の巨体が痙攣する。
そんな魔族の首を、抜刀した鋭い軍刀を両手で構え、一陣の風のようにガウガの正面へと踏み込んだものが現れた。そして、その軍刀はガウガの首を、一刀両断する。銀色の軌跡が宙を描いたかと思うと、ガウガの太い首が、胴体から見事に切り離された。
ゴトン、と重い音を立てて、角の生えた巨大な頭部が地面に転がる。遅れて、心臓を貫かれたままの巨体が、大地を揺らして前のめりに崩れ落ちた。
まさに、一瞬の出来事だった。銃を構えた最初の二人は、囮だった。これほど大きな魔族となれば、銃を当てた程度ではすぐには死なない。犠牲を最小にするため、そして魔術を放つ隙すら与えないためには、剣や刀のような武器の方が有効だと、後で知ることとなる。ただ、この時の私は目の前で起きた惨劇に目を見開いたまま、言葉を発することすらできなかった。
「ロッセリーニ少尉! 無事か!」
血だまりの中から私を抱き起こしたのは、見慣れた軍服姿――砲術長のアルデリーギ中佐だった。
「ほ、砲術長……」
砲術長は、私の首にはめられた冷たい金属の輪を一瞥すると、舌打ちをし、特殊部隊の隊員に合図を送った。隊員が特殊な工具を取り出し、あっという間に首輪と両手を縛る縄を切断してくれた。
自由になった両手を摩りながら、私は転がっているガウガの首をぼんやりと見つめた。
彼の黄金の瞳は開かれたまま、空の虚空を見つめている。先ほどまで、私と静かに言葉を交わしていた存在が、今はただの肉の塊と化していた。
「よく無事でいてくれた、算術師。貴官が魔王の手に渡れば、魔族は算術を手に入れ、我々を蹂躙することになったかもしれない。いや、それ以上に貴官が無事であったことはよかった。すぐに、陣地へ戻るぞ」
「どうして私が、連れ去られたと?」
「リーリアという魔族を見つけた。やつは私に命乞いする際に、貴官を東に連れ去ったと教えてくれた。無論、用済みとなったその魔族もその場で殺した」
アルデリーギ中佐が私の肩を叩き、安堵の息を漏らした。だが、私の心の中には、助かったという安堵よりも、どこかやりきれない喪失感のようなものが渦巻いていた。
私を背中に抱える砲術長。その両脇を護るように囲む特殊部隊たち。そんな砲術長の背中で、私はこう呟く。
「あの、砲術長」
「なんだ、どこか怪我でもしたか?」
「いえ、たいした怪我はしてません。ただ……」
私はふと、あの大型魔族のいた岩の方を振り返った。
「私は、あの魔族に『家族』のことを、伝えられなかったのです」
私のその言葉に、砲術長は怪訝な顔をした。
「家族? 何を言っているのだ、少尉」
「あの魔族、思ったより会話の通じる相手でした。水筒の由来や魔王のこと、私が魔族に家族を殺され、復讐に走ったことも話したのです。が、彼らには家族という概念がないことを、その会話で知りました。だから私は、人間がなぜ戦うのか、家族というものがどれほど大切なものかを彼に教えようとしたのです。それを伝える間もなく、あの魔族は死んでしまいました。上手くは言えませんが、なぜかそれがどこか、心残りなのです」
私の言葉は、戦場においてはあまりにも感傷的で、青臭い戯言だった。
歴戦の砲術長であるアルデリーギ中佐は、私のその言葉を聞いて、小さく鼻を鳴らした。そして、私を抱えて歩きながらただひと言、こう言い放った。
「教えたところで、意味はない。所詮魔族とは、家族を持たない存在だからだ。それゆえに残虐になれるし、人と分かり合うこともない。だから、気に病むことなど微塵もない」
その言葉は、冷たい風のように私の心をすり抜けていった。
砲術長の言う通りかもしれない。彼らには血の繋がりも、愛という概念もない。人の形をしながらも、根源的な部分が欠落している彼らに、人間の家族の絆を言葉で説明したところで、決して理解し合える日は来ないのだ。
人間と魔族。
この二つの種族の間には、海よりも深く、決して埋めることのできない断絶がある。
「おっしゃる通りです、砲術長。私の、つまらぬ感傷でした」
私は砲術長の背中で揺られながら、自身の甘さを悟る。魔族とは長年戦ってきて、それがどういうものかということを、アルデリーギ中佐はよく知っている。
分かり合えないのなら、滅ぼすしかない。それがこの魔大陸で生き残るための、唯一の手段なのだ。
「ともかく帰るぞ、算術師。我々にはまだ、シャルフクッペに弾の雨を降らせるという任務が残っている」
砲術長は前を向き、救出部隊と共に、夜明けの光が差し込み始めた森を背にして前進し続けた。しばらく行くと、馬車が控えていた。それに乗って、私は再び人のいる陣地へと帰ってきた。
人と魔の戦いは、まだ終わらない。だが、まだ新兵である私は、あの大型魔族の死にどこか、わだかまりを感じていた。




