#10 制圧
翌日の朝は、耳をつんざくような魔族らの攻撃で始まった。
白み始めた空を、赤黒い火球が幾筋も引き裂いていく。一昨日に総崩れとなり、昨日から平原の端から徐々に内側に向かって急遽掘り進められた塹壕目掛けて、魔族たちは長距離魔術攻撃を執拗に繰り返してきた。
だが、彼らが放つ火球は、その狭い塹壕に正確に当てることはほとんどない。魔族には弾道計算する手段がないため、闇雲に撃つしかないからだ。ただ漠然と最大魔力で放たれる火球は、塹壕の数十メートル手前や後方に空しく着弾し、土砂を巻き上げるだけだった。
「伏せろ!」
塹壕の中で歩兵たちが身を屈める。爆風と熱波が頭上を通り過ぎ、パラパラと乾いた土が鉄兜を叩く。魔術の直撃を免れているとはいえ、その圧倒的な暴力の気配は確実に兵士たちの精神を削っていく。
だが、それ以上に魔族の方が苛立っている。業を煮やしたのか、魔族は次なる手を打ってきた。長距離魔術の着弾地点を縫うようにして、緑や褐色の肌をした魔獣たちが一斉に塹壕へと突入してきたのだ。ゴブリンやコボルト、オークといった低能な魔獣たちは、魔族に操られ、死の恐怖も知らずに狂信的な突撃を繰り返す。
「撃て! 撃ちまくれ!」
塹壕に潜んでいた歩兵たちが立ち上がり、一斉に小銃や機関銃の引き金を引く。乾いた銃声が重なり合い、硝煙が前線を白く染め上げた。
魔獣たちの前進を阻むのは、小銃の弾幕だけではない。塹壕の手前には、急造とはいえ二重三重に鉄条網が張り巡らされていた。鋭い有刺鉄線に魔獣たちが絡みつき、もがき苦しむ。彼らは痛覚を持たないかのように鉄線に肉を食い込ませながらも越えようとするが、その動きが止まった瞬間こそが最大の隙だった。
「てーっ!」
塹壕のやや後方に並んだ二十五センチ榴弾砲の列が、絶え間ない支援射撃を行う。鉄条網のすぐ向こう側で炸裂した砲弾が、群がる魔獣たちをバタバタと倒していく。飛び散る肉片と緑色の体液が、焦げた大地をさらに染めていった。倒されていく魔獣の屍が、次第に新たな壁のように積み上がっていく。
そんな一日が過ぎて太陽が沈み、闇が平原を覆い隠す夜になっても、休息は訪れない。
夜になると、歩兵と工兵たちは泥だらけの手でスコップを握り、再び塹壕を前へと掘り進める。ジリジリと、だが確実に平原の支配域を広げていくための地道な作業だ。
当然、魔族も黙ってそれを見過ごしはしない。それゆえ魔獣たちの夜襲を防ぐため、掘った側からすぐに新たな鉄条網が張られていく。闇夜に紛れてその鉄条網をかいくぐろうとする敵の魔獣軍団が現れるたび、それを阻止すべく激しい銃撃戦が行われた。
「左翼に敵影! 照明弾!」
照明弾が夜空を真昼のように照らし出し、鉄条網に群がる醜悪な姿を浮かび上がらせる。銃口から放たれる閃光が闇を切り裂き、魔獣の断末魔が響き渡る。昼夜を問わず、血と泥にまみれた戦いが延々と続いていた。
一方、前線の歩兵たちのさらに後方の見晴らしの良い丘陵地帯には、我々第七十五砲術隊を含むディッケバルト二十基が、魔族らの長距離魔術攻撃に備えて砲身を天に向けていた。
「敵魔法陣、展開を確認! 距離、十一.五キロ!」
見張り員の鋭い声が響く。私の出番だ。
私は胸のポケットから計算尺を取り出し、ランタンのわずかな灯りを頼りに数値を弾き出す。風向、気温、気圧、そして地球の自転によるコリオリ力。これら全てを計算に組み込むことで、初めて正確な射撃が可能になる。
「右三.五度、仰角四十四.七度、火薬十箱、弾着四十九秒、信管時間は四十七.五秒!」
私の導き出したすうちにもとづいて隊員は動き、全砲門に号令をかける。
「射撃用意よし!」
「よし、てーっ!」
巨大な鉄の獣たちが一斉に火を噴き、反動で大地が揺れる。放たれた四十二センチの重い榴弾は、闇夜を切り裂いて十二キロ先の森の奥深くへと飛翔していく。
「弾着、三、二、一、今!」
遠く離れた森の上空で、空高く魔法陣を描いていた魔族の頭上に榴弾が降り注ぎ、炸裂する。強烈な閃光が上がり、少し遅れて地響きが届く。
この対抗策は地道ながら、徐々に効果を上げていた。魔族が長距離魔術を放つために魔法陣を展開した瞬間、その位置を即座に特定し、二十基のディッケバルトが一斉に反撃の砲弾を叩き込む。距離の概念を持たない彼らには、なぜ自分たちの居場所が正確にバレて、頭上から鉄の雨が降ってくるのか理解できないだろう。
少しづつではあるが、日に日に敵の長距離魔術による攻撃が少なくなってきた。魔術師たちが次々と葬り去られ、生き残った者たちも魔法陣を展開すること自体に恐怖を抱き始めたに違いない。そのためか、むやみに魔法陣を展開させるのを控えるようになってきた。
そんな塹壕戦も一週間を迎え、戦況は膠着状態に陥っていた。
兵士たちの間にも、明らかな疲労感が見えてきた。毎日繰り返される魔獣の突撃、終わりの見えない塹壕掘り、降り注ぐ魔術の恐怖。予想以上に激しい魔族の攻勢と、なかなか前進できない苛立ちで、精神的にも肉体的にも兵士たちは限界まで削られていた。
私自身も例外ではない。睡眠は細切れで、計算尺を握る指は震え、泥と硝煙の臭いがこびりついた軍服は重く感じられた。
前線から負傷者を運んできた歩兵が、血走った目で呪詛を吐き捨てる。野戦病院のテントでは、マルディーニら看護師たちが不眠不休で治療にあたっているが、次々と運び込まれる負傷者の数に圧倒されていた。
しかし、そこまでして掘った塹壕も、まだ平原の中間地点すら達していない。日に日に掘る速度も遅くなり、焦燥感が募るばかりだ。
膠着した戦線、このままでは、連合軍が誇る兵力も、ジワジワと摩耗し全滅してしまうのではないか。そんな絶望感が、陣地全体を重く覆い始めていた。
だが、戦いが始まって八日目、ついに魔族側がしびれを切らし、動いた。
地平線の彼方に、信じられない光景が広がっていた。
「敵影多数! およそ十万、いや、それ以上!」
見張り員の声が裏返っていた。双眼鏡を覗いた私の目に飛び込んできたのは、まるでイナゴの群れのように、隙間なく大地を這い進んでくる無数の魔獣たちの姿だった。
過去の戦いで見た数万という規模すらちっぽけに思える、圧倒的なまでの数。彼らは怒涛の勢いで塹壕へと押し寄せてくる。
と同時に、魔獣の軍勢の中から、無数の巨大な魔法陣が一斉に現れた。
「敵長距離魔術、一斉発射来ます!」
空を埋め尽くすほどの火球が、真っ赤な尾を引いて我々の陣地めがけて降り注いできた。中長距離の魔術が使える魔族が、魔獣らに紛れ込み持ち得る全魔力をこの一戦に注ぎ込んできたのだ。
だが、この無謀とも言える作戦はむしろ、我々人連合軍にとっては幸いだった。
「目標、魔獣軍! 二十五センチ砲と呼応し、前方の魔獣の群れを全力で叩け!」
アルデリーギ中佐の怒号が飛ぶ。
魔族もよほどしびれを切らしたのだろう。長距離魔術が撃てない魔族は後方でこちらが迫るのを待っていたが、いつまで経ってもやってこない。だからこそ、魔獣を盾にしてその中から火や水、毒などの魔術を使う。しかし魔法陣を展開すれば、それは我々にとって「的を示した」ことを意味する。私は狂ったような速度で計算尺を滑らせ、次々と座標を弾き出した。
二十基のディッケバルトが、展開された魔法陣に向かって間断なく火を噴き、森の奥に展開する魔法陣めがけて集中砲火を浴びせる。ディッケバルトによる正確な反撃が、魔術を放つ無防備な魔族の魔術師たちを次々と木端微塵に吹き飛ばしていく。魔法陣を展開するたびに自らの居場所を教え、そこに致死量の榴弾が降り注ぐのだから、魔族側の被害は天文学的に増えていく。
さらに悪いことに、魔族の軍団内では致命的な同士討ちが発生していた。
後方からも、数少ない長距離魔術が放たれる。火や水、毒といった小中距離の魔術を放つ魔族らも、魔獣の群れに混じってそれらを放つ。
しかし、彼らの命中精度が絶望的に悪い。放たれた火球や毒の霧は、塹壕まで届く前に手前に落ち、あろうことか味方であるはずの前衛の魔獣たちに直撃したのだ。かえって中途半端に魔獣に紛れ込ませた魔族に魔術を撃たせたものだから、深刻な同士討ちが発生してしまった。これに、人の攻撃も加わる。
その光景を、私は後方のディッケバルトの脇から双眼鏡で眺めていた。
魔獣たちの悲鳴が平原に響き渡る。背後から味方の魔術で焼かれ、毒に侵された魔獣たちはパニックに陥り、前進の勢いを完全に削がれた。魔獣を操る指揮魔術師たちも、この想像を絶する混乱と同士討ちの連鎖を立て直すことができず、ますます魔族側は混迷を極めていく。
「敵軍、混乱状態! 前進を停止しています!」
見張り員の報告に、砲術長が獰猛な笑みを浮かべた。
「今だ! 足止めされた魔獣の群れに弾の雨を降らせるぞ! 砲撃用意!」
混乱により前進を止めた魔族軍に対し、二十五センチ砲とディッケバルトから放たれた無数の砲火が、容赦なく降り注ぐ。
大地が割れるような轟音と閃光。逃げ場を失い、密集して立ちすくむ魔獣と魔族の群れのど真ん中で、榴弾が次々と炸裂する。それは戦闘というよりも、一方的な殺戮に近い光景だった。
戦いから八日目にして、凄まじい砲火の嵐が止んだ後、平原から魔族軍の姿は完全に消え去っていた。
第一の目標である「グルートクッペ攻略戦」は、辛うじて人連合軍が勝ちをおさめることとなった。
だが、勝利の代償はあまりにも重かった。
泥と血にまみれた塹壕から這い出してきた歩兵たちの目は虚ろで、歓声を上げる気力すら残っていなかった。この一週間の激戦で、人類側の死者は一万を超えていた。
一方、平原を埋め尽くしていた魔獣らは、数十万の黒焦げた屍と化していた。見渡す限りの死体と肉片、そして鼻を突く強烈な腐臭と硝煙の入り混じった悪臭。あまりにも凄惨なその戦いの傷跡は、全軍を指揮する司令部にすら、次の戦いへの移行を躊躇させるほどのものであった。
私はこの消耗戦ともいうべき戦いを前に、戦慄を覚えた。あと何度、こんな無味残虐な行いを続けると言うのか。
◇◇◇
ちょうど、離れた平原で死闘が終わりを告げた、その夜のこと。
人類の本拠地であるアイゼングラート山麓の連合軍陣地は、重苦しい静寂に包まれていた。
陣地のもっとも奥まった一角にある、厳重な警備が敷かれた急造の丸太小屋。そこには、先の戦いで捕虜となった二人の魔族、長距離炎魔術の使い手であるブリヘーリアと、指揮魔術の使い手であるヴラゾヴラが収容されていた。
見張りの歩兵たちが小屋の周囲を巡回する中、闇夜に紛れて一つの小さな影が音もなく小屋の屋根へと舞い降りた。
月明かりに照らされたその影は、透き通るような白い肌に短めの藍色の髪、そして額から二本の繊細な角を伸ばした女形の魔族、リーリアだった。魔王の側近であり、素早い動きで隠密行動に長けた彼女は、人間たちの厳重な警戒網をあっさりとすり抜け、ここまで到達していたのだ。
魔族を捕らえている厳重な小屋の屋根の上に伏せたリーリアは、息を殺し、精神を集中させた。そして、小屋の中にいる同胞に向けて、直接脳内に響く「念話」を放った。
(……ブリヘーリア、ヴラゾヴラ。聞こえるか。私はリーリア。魔王様の命により、ここに参上した)
薄暗い牢の中で、重い鎖に繋がれていたブリヘーリアと、左腕を失い横たわっていたヴラゾヴラが、同時に目を見開いた。
(リーリアか……。わざわざ魔王様の側近まで動かすとはな)
ブリヘーリアが念話で冷ややかに応じる。
(こんな鉄の檻、私なら鍵を開けて抜け出させることもできる。今すぐここから逃げるぞ)
リーリアの言葉に対し、しかしブリヘーリアの意志は揺るがなかった。
(待て。我々はここを動くつもりはない。ヴラゾヴラの身体がまだ完全ではない。しかも、人間どもから引き出すべきものがある)
(何を言っている。人間などから何を引き出すのだ? 魔力を持たぬ下等生物から学ぶことなど、何もないであろう)
リーリアの念話には、明らかな混乱と怒りが混じっていた。魔族の常識からすれば、それは到底理解し難い狂気だった。
だが、ブリヘーリアの念話には、冷たい熱情が宿っていた。
(リーリアよ。お前は、人間が持つ「算術」という力を見たことがないからそう言えるのだ。我々の魔術を遥かに凌駕する正確さで、十二キロ先の標的を打ち抜く理不尽なまでの予測術。我々の同胞が数十万も塵と化したのは、その算術の力によるものだ)
(算術……?)
(そうだ。それを操る者が、この陣地にいる)
ブリヘーリアは、鉄格子の向こうの闇を睨みつけながら、リーリアにはっきりとこう言い放った。
(我々よりも先に、まずイルザという娘を捕らえよ。その娘を、魔王様の前に連れて行くのだ。きっと魔王様は、人間どものその力を理解し、その力を我らのものに変えてくれることだろう)
(そうか、承知した。ならばその任、果たそうではないか)
(私が一計を案じる。お前は、平原端の木々の陰で待て)
その言葉に込められた執念は、魔王の命令すら凌駕するほどの重さを持っていた。
魔族の刃が、算術師であるイルザ・ロッセリーニへと静かに向けられた夜だった。人と魔の戦いは、単なる領土の奪い合いではなく、魔族が人間の持つ叡智の一つを得る戦いになりつつあった。




