8.顔なし令嬢と刺繍
「今日は僕は午前中は研究、午後から沼に追加の蛙を捕まえに行く。この塔の中は自由に行き来してもらって構わないし、何か欲しいものがあったらシリカかマイカに言いつけておくれ」
翌朝、アルフォンスは朝食の席でエリザベスにそう告げた。昨日は髪を後ろに撫でつけ露わになっていた額は今日はすっかり隠され、前髪の奥から青い目がちらちらと見えていた。エリザベスはそれを見て、前が見えづらくてうっとうしくないのかしらと少しだけ思った。
昨日の夕食と同じで朝食も素晴らしく、ふわふわのベッドでたっぷり睡眠をとったエリザベスの空腹を優しく満たしてくれている。食後のお茶を楽しんだ後、宣言通りアルフォンスは塔の三階に籠った。
「この塔の三階はまるごとお坊ちゃまの研究スペースにあてられていますの。魔術書を揃えた図書室もありますわ」
「まあ、是非今度そこに連れて行って欲しいわ。でも、今はアルフォンス……の研究の邪魔をしてしまいそうだから、あとにしましょう」
アルフォンスはここにいないと言うのに、名前で呼んで欲しいという彼のお願いを思い出してエリザベスは彼の名前の後につけようとした「様」を飲み込んだ。
実家から持ってきた数冊の本を読んで過ごすのも悪くはなかったが、こんなによくしてくれるアルフォンスの気持ちに自分も何か返したいと思ったエリザベスはマイカに頼んで、しばらくしていなかった刺繍をしようと思った。
「お坊ちゃまに刺繍のハンカチをプレゼントなさりたいと? あらあらまあまあ、そんなの、大喜びに決まっていますわ」
「ええ、でもわたし、刺繍はあまり数をこなしていないから得意じゃないの。令嬢同士のお針子会にもほとんど呼ばれたことがなくて……」
「あらそうですか? このマイカが何度でも一緒に刺しますわ。人間のご婦人にはとても作れないような複雑な図面でもなんなくできるようにマイカは作っていただいております!」
「人間に作れないようなのなんかなおさらわたしには絶対に作れないわよぉ……」
塔の二階はシリカとマイカの作業場にあてられていた。マイカが繕い物をしたりシーツなどを管理しておく家事室に刺繍の道具が一式揃っているというので、エリザベスはそこにお邪魔してマイカの教えを乞うことにした。
(アルフォンスだけじゃない。使用人にもこんなに良くしてもらえるだなんて思ってなかったけど、マイカが協力的で本当に良かった……)
顔を失ってすぐ、目に見えて冷たくなったクラウスの気を引くために、まだ子供だったエリザベスは拙い運針でクラウスのイニシャルの入ったハンカチを彼にプレゼントしたことがあった。彼は受け取ったハンカチを一瞥し、軽く礼だけ言って控えていた使用人にすぐに預けて、それ以来そのハンカチを持ち歩くことはなかった。最初はもったいなくて使えないと思ってくれているのかもしれないと思ったエリザベスだったが、どんどん冷たくなる彼の態度を受けてそれが悲しい願望なのだと思い知らされた。それ以来刺繍をしていないので、今からすぐにアルフォンスにハンカチのプレゼントをしようとするなら名前の綴りを刺すくらいしかできなそうと素直にマイカに告げた。
「お名前、よいじゃありませんか。きっとお坊ちゃまは自分がアルフォンスという名前であることを万物に感謝するに違いありません。ではさっそく始めましょう。アルフォンス様はよく手をお汚しになるので新しいハンカチならここに山ほどありますのよ。今日は最初ですし、針に糸を通すのも、玉止めもマイカにおまかせください。きっとお坊ちゃまの午後のお出かけに間に合うと思いますわ!」
それでわたしが作ったことになるかしら、とエリザベスは心配したが、例え一刺しだってエリザベスが刺した部分があればアルフォンスにとってそれは特別な宝物になると主張するマイカを信じることにする。
「まずはアウトラインステッチです。今回はこれでシンプルにアルファベットを刺していきましょう。今後上達したら飾り文字に挑戦していくと大変よろしいかと思います。マイカがAlphonseの三番目、pの文字を刺しますので、それを参考にして一文字目、アルフォンス様のAを刺してみてくださいね」
「頑張るわ……!」
外からは暗くうっそうと見えていた塔も登ってみると窓から朝の爽やかな日の光が射し、特に白い布が沢山あるこの家事室はとても明るい。光の中で、エリザベスは一刺し一刺しアルフォンスの名前の刺繍を刺す。
「とても筋がおよろしいですわ。いかがですか? ご自分で刺したお坊ちゃまのイニシャルは」
一文字刺すだけで、エリザベスの白い額には汗が浮き出ていた。すいすいと泳ぐように針を運ぶマイカとは違ってエリザベスの刺繍の腕はとても拙い。子供のころに一度やったことのある、まっすぐの線を作るだけの単純に見えるステッチでもいざ今やってみてるとガタガタでいびつだった。
「あんまり美しくないわ。でも、自分で刺したと思うとなんだか特別な気がする……」
「そうです。自分でものを作ると言うのはそういうことなのだとアルフォンス坊ちゃまもおっしゃってました。きっと坊ちゃまもその特別感を読み取ってくださるはずですわ……!」
マイカは教えるのがとてもうまかった。刺繍の出来でなく、できたことを褒めてくれる。エリザベスはふと、これはマイカそのものの性格なのだろうかと疑問に思った。マイカはゴーレムで、アルフォンスはそうあれとマイカを作ったのだ。きっと彼に同じやり方で物事を教えた女性がいたのではないだろうか。誰だろう、家庭教師だろうか。
子供のころのエリザベスに最初に刺繍を教えてくれたのは亡くなった実母だった。マイカには母のような慈しみを感じる。エリザベスは昨日庭でであった公爵夫人のことを思い出した。アルフォンスの母。もしかしたら、マイカのモデルは公爵夫人なのかもしれない。
(ソフィアのお母さま……。あたらしいわたしのお母様とは仲良くできなかった。公爵夫人とももっと仲良くなりたい。アルフォンス様と仲良くなったわたしを夫人に見せたい……。わたしはここで幸せになっていきたい……)
エリザベスは願いをひとつひとつ針に込めて刺繍を刺していく。そこには希望や感謝などのポジティブな気持ちが乗せられ、ガタガタで拙くても、なんともいえない温かさを感じる作品に仕上がって行く……。
「はあ……できた!」
太陽が高くあがるころ、エリザベスのハンカチは完成した。
「エリザベス様、素晴らしい集中力でしたわ。心のこもったとても愛らしい手刺繍です……。まあいけない。もうこんな時間? マイカは昼食の準備をしなければなりません。一緒に一階へ降りましょう。座って待っていてくださいな」
今着ている昼用のドレスにハンカチをしまっておく場所がなかったので、出来上がったハンカチは家事室に置いて行く。昼食を済ませ、宣言通り出かける準備をしているアルフォンスにエリザベスは声をかけた。
「あの、アル……フォンス?」
「……っ……。ああ、どうしたの? エリザベス。僕はいまから蛙を捕まえに行くけど……」
「蛙……あの、わたしも連れて行ってもらえないかしら……」
マイカにかなり手伝ってもらったとはいえ、アルフォンスへの初めての贈り物は二人きりのところで渡したいと思ったエリザベスは彼と一緒に出掛けたいと思っていた。
「エリザベス、沼地はドロドロで汚いし、スカートの裾を汚すよ。ご婦人には刺激の強そうなにおいがするし……」
「いいの、わたし、あなたと一緒に蛙を捕まえたいの!」
「……君、そんな風に思ったりするんだ。ああ、僕の知らない君はいったいどれだけいるんだい?」
「駄目かしら……」
「いいや、一緒に過ごそう。マイカ、彼女に乗馬用の服を用意して」
「かしこまりました」
先進的な王都では女性の乗馬にはキュロットを用い、王都が近い公爵領もそれを取り入れていた。乗馬用のコートにはポケットがあったので刺繍を施したハンカチをそこに忍ばせ、エリザベスはアルフォンスと共に蛙狩りに出たのだった。
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