98話 笑っていてほしい
人は、同じ時間を過ごしていても、そのすべてを覚えているとは限らない。
昨日まで当たり前だったものが、気づけば遠くへ行ってしまっていることもある。
それでも、時間は止まらない。
今日が終われば、明日が来る。
そして、また新しい音が始まる。
久瀬は、目の前にいる響を見つめた。
明らかに、いつもの響ではない。
顔色が悪い。
目は大きく見開かれたまま、呼吸もどこか乱れている。
そして何より。
その表情には、今まで見たことのないほどの焦りと恐怖が浮かんでいた。
「だ、大丈夫? 凄い顔色悪いけど……」
久瀬が心配そうに声をかける。
すると。
「せ、せ、先……輩……」
響が震える声で答えた。
次の瞬間。
響は久瀬の両肩を掴んだ。
「え?」
そのまま、久瀬の身体を壁際へ追いやる。
「ちょ、響くん……?」
「全国大会は?」
「え?」
「全国大会はどうなったんですか?」
響の声は震えていた。
けれど。
その質問が終わるより先に、次の言葉が飛び出す。
「オーディションは?まだ、終わってませんよね?若田先輩はどこにいますか?なんで僕は、あの写真にいないんですか?他の三年生は?みんな、どうなったんですか?これは夢ですか?僕は昨日、若田先輩と話しましたよね?全国のオーディションで勝負するって……約束しましたよね?なのに、どうして全国大会が終わってるんですか?どうして一ヶ月も経ってるんですか?僕は、その間……何をしてたんですか?ねぇ、先輩。僕は――」
一つ。
また一つ。
響の口から言葉が溢れていく。
まるで。
壊れた機械が、同じ命令を繰り返すように。
「全国大会は?若田先輩は?オーディションは?僕は何をしてたんですか?なんで?どうして?これは夢なんですか?僕は――」
「響くん!」
久瀬が、声を張った。
しかし。
響は止まらない。
「違う。違うんです。そんなはずない。だって僕は……」
響の手に力が入る。
「昨日、ちゃんと……ちゃんと、若田先輩と……」
そこで。
言葉が途切れた。
響の瞳が揺れる。
「……約束、したんです」
その声は。
さっきまでの勢いが嘘のように、小さかった。
「今度こそ……本気で勝負するって……」
「……」
久瀬は、そんな響を見つめる。
そして。
ゆっくりと口を開いた。
「響くん」
「……はい」
「まず、落ち着こう」
「……落ち着けません」
即答だった。
「だって……分からないんです。僕だけ……何も分からない」
「……」
「全国大会が終わったことも、若田先輩がどこにいるのかも、三年生がどうなったのかも、この一ヶ月に何があったのかも、僕自身が……何をしていたのかも」
響は、俯いた。
「何も……分からないんです」
久瀬はしばらく黙っていた。
そして。
そんな響を安心させるように。
静かに言った。
「……分かったから」
「え?」
「落ち着いてほしい」
「……」
「全国大会のことも」
「……はい」
「オーディションのことも」
「……はい」
「この一ヶ月のことも」
響は顔を上げた。
その瞳には。
まだ不安が残っている。
けれど。
ほんの少しだけ。
縋るような光が宿っていた。
「だから、まずは聞いて。一つずつ話すから」
「東堂君、今日も早退するの?」
「あぁ」
「今日も顔色悪いね」
「そ、そうか?」
そう言いながら、東堂はバッグを握る。
「あんまり休みすぎないでよ。内申にも影響するでしょ?」
「分かってるさ。じゃ、またな」
「う、うん」
東堂は教室を後にした。
廊下を歩きながら。
東堂は、俯いていた。
その表情は。
教室にいたときよりも、ずっと暗かった。
東堂は、足を止める。
そして。
小さく呟いた。
「……結局、俺は何も救えなかった」
やがて、再び歩き出す。
今は。
響と顔を合わせたくなかった。
だから、今日も早退する。
それだけだった。
「東縁高校は、銀賞だったよ」
「……はい。音楽室で、写真と賞状を見たので」
響は、その言葉を繰り返した。
「うん」
久瀬は静かに頷く。
「全国大会には出た。結果は銀賞。豊川高校は金賞だったよ。駿河栄聖は銀賞」
「……」
響は黙って聞いていた。
全国大会。
本当に終わった。
それは、もう疑いようのない事実だった。
「じゃあ……若田先輩は?」
「……」
久瀬の表情が少し曇る。
「最近、ずっと学校に来てないよ」
「え……?」
「全国大会が終わってから、かな。私も理由までは知らないんだ」
「どうして……」
「それは、本当に分からない」
久瀬は首を横に振った。
「先生たちが何か知ってるのかもしれないけど、少なくとも私は聞いてないよ」
「……そうですか」
響は俯いた。
昨日。
確かに話した。
若田先輩と。
あれだけは、間違いない。
なのに。
今は学校にいない。
「……僕は?」
響が、ゆっくり顔を上げる。
「僕は、どうして全国大会にいなかったんですか?」
久瀬は少し考えるように黙った。
「確か……全国大会の前に、体調を崩したんだよね」
「……体調不良?」
「うん。それで大会に出られなかったって聞いてる」
「僕が……?」
響は、自分を指差した。
「うん」
「でも……僕、そんなこと……」
言葉が止まる。
覚えていない。
まただ。
また、自分の知らない時間の話だ。
「どんな体調だったんですか?」
「ごめんね」
久瀬は申し訳なさそうに答えた。
「私も、響くんがどんな状態だったのかまでは分からないんだ」
「……」
「学校では体調を崩したっていう話だけだったから」
響は頭を抱えた。
「……なんで」
「……」
「なんで僕は……忘れてるんですか」
久瀬も答えられない。
「私も、それが不思議なんだよ」
「……」
「昨日まで普通に話してたみたいに言うけど……響くんの中では、本当に昨日なんだよね?」
「……はい」
「でも、実際には一ヶ月近く経ってる」
「……はい」
「どうして、そんなことになってるのか……私にも分からない」
響は、しばらく何も言わなかった。
ただ、頭を抱えたまま。
自分自身に問いかけるように呟く。
「僕だって……知りたいですよ」
その声は、もう怒っていなかった。
ただ、困惑していた。
「僕が何をしてたのか、何を忘れてるのか、どうして、こんなことになってるのか……って、あれ?」
響が、ふと何かに気づいたように顔を上げた。
「……待ってください」
「?」
「てことは……三年生って」
久瀬は少しだけ寂しそうに笑った。
そして。
静かに告げる。
「うん。私達、もう引退しちゃってるんだよ」
「…………」
響の目が、大きく開いた。
「……引退」
「そっか、そういえば引退式にもいなかったよね」
その言葉が。
今までで一番、響の胸に重く落ちた。
「そのことも、全部忘れてるんですね。僕は」
どうして。
どうして僕は、忘れてるんだ。
本当なら。
全部、覚えていなきゃいけなかったはずなのに。
僕は、その間。
何をしてた?
誰と話して。
何を見て。
何を感じていた?
どうして。
どうして僕だけが、何も知らないんだ。
僕が忘れてしまったせいで。
誰かを傷つけたんじゃないのか。
僕が何かを忘れているせいで。
また、誰かを苦しめているんじゃないのか。
もしそうなら。
僕は――
一体、何をしていたんだ。
でも……
「でも……教えてくれて、ありがとうございます」
「響くん……」
「少なくとも、何も分からなかったわけじゃない。全国大会が終わったことも、若田先輩が学校に来てないことも、僕が大会に出られなかったことも……少しだけ、分かりました」
久瀬は、ほっとしたように頷いた。すると、何かを思い出したように口を開く。
「あ、そうだ。今日の放課後、時間ある?」
「え?」
「一緒に帰ろうよ」
「え? だって、部活が……」
「あ、大丈夫。私も受験勉強で図書室にずっといるから」
久瀬は、少し笑った。
「終わったら呼んでほしい。っていうか、そういえば今日、職員会議で部活なかったんだっけ」
「え、そ、そうなんですか?」
「うん」
久瀬は頷いた。
「じゃあ、すぐ帰れるね」
「……は、はい」
「じゃ、校門で待っててね」
そう言って。
久瀬は響に背を向け、教室へ戻った
その背中を。
響は、ぼんやりと見つめていた。
「あれ……?」
何だろう。
他に、
「他に……何か、聞いておきたかったこと……あった、よう、な……」
けれど。
その先は。
もう、何も出てこなかった。
そして。
放課後。
言われた通りに、響は校門で待っていた。
しばらくすると。
久瀬が昇降口から出てくる。
「お待たせ〜。進路相談で遅れちゃった」
「は、はい」
「さ、帰ろ」
久瀬が笑う。
「……はい」
響も頷く。
そうして二人は並んで、学校を後にした。
二人は、ある河川敷まで来た。
響には、ここへ来たことがあるような感覚があった。
けれど。
見覚えはない。
「……」
久瀬は、近くにあったベンチに腰掛ける。
「ほら、響くんも座りなよ」
「……はい」
響も、静かに隣へ座った。
川の流れる音だけが、静かに聞こえてくる。
しばらく。
二人は何も言わなかった。
ただ。
並んで、そこに座っていた。
やがて。
響が、口を開く。
「……なんで、一緒に帰ろうと?」
久瀬は、すぐには答えなかった。
川の向こうを見つめながら。
小さく息を吐く。
「……うん」
そして。
ゆっくりと響のほうへ顔を向けた。
「……感謝したかったから、かな」
「感謝……?」
「うん」
久瀬は、川の流れを見つめながら続けた。
「響くんが四月、入ってきた時から……私は何度も、その音に救われてきたの」
「……僕の、音に?」
「そう。もうだめだって思ったときがあったの。私には、どうすることもできないって。何をやっても上手くいかなくて、もう一歩も前に進めないって」
久瀬は、少しだけ笑った。
「そんなときにね」
一度、言葉を切る。
「偶然のいたずらみたいに、君の音が耳に入ってくるんだよ」
「……」
「その度に」
久瀬は響を見る。
「私は、もう一度。一歩を踏み出せた」
「僕は、そんな――」
けれど。
その言葉を最後まで言う前に、久瀬が静かに遮った。
「今は、思い出せないかもしれない」
「……」
「でも」
久瀬は、まっすぐ響を見つめる。
「こうして、響くんの音に救われた人がいるんだってことは、分かっていてほしい」
そして。
少しだけ笑って。
「少なくとも、私はその一人だから」
しばらく。
二人の間に、静かな時間が流れた。
そして。
久瀬が、ふっと笑う。
「……って、なんかそういう雰囲気?」
「……?」
響は首を傾げた。
「いや……意味が分からないです」
「ふふっ」
久瀬が笑う。
「響くん、そういうところだよね」
「……?」
響には、やっぱり意味が分からない。
けれど。
久瀬も、そんな響を見て笑っている。
やがて。
響もつられて、少しだけ笑った。
久瀬は、そんな響を見ながら、少しだけ寂しそうに言った。
「……でもね」
久瀬は、静かに口を開いた。
「正直、ちょっと寂しいよ」
久瀬は川の向こうを見つめる。
「ずっと一緒にやってきたから。毎日のように音楽室にいて、みんなで楽器吹いて。それが、もうないんだなって思うと、変な感じ」
響は、黙って聞いていた。
「でもそれは、響くんたちにとっては始まりでもあるんだよ」
「始まり……?」
「うん。私たちがいなくなったからって、東縁高校の吹奏楽部が終わるわけじゃないでしょ?これからは、響くんたちの番」
久瀬は、そう言って笑った。
「だから……ちゃんと前を向いてね」
「……」
響は、その言葉を聞いて。
しばらく何も言わなかった。
やがて。
小さく頷く。
「……はい」
「うん」
久瀬も頷いた。
「それなら大丈夫」
川を渡る風が。
二人の間を静かに吹き抜けていった。
すると久瀬は、突然立ち上がった。
「よし!じゃあ、響くんに頑張れパワーを送ります!」
「……え?」
久瀬は響の肩に手を置く。
そして。
「んんんん……!」
グッ、と力を込めた。
「ちょ、先輩……!」
響は思わず身をよじる。
「く、くすぐったいです……!あははっ!」
「ふふっ……!」
二人は顔を見合わせる。
そして。
どちらからともなく笑った。
――そうやって。ずっと笑っていてほしい。
それ以上、苦しまないでほしい。
あんな、
あんな過去を背負いながらなんて。
翌日。
東縁高校吹奏楽部。
部員たちは、再び音楽室に集まっていた。
瞬崎が、部員たちを見渡す。
そして。
「次は――」
一度、言葉を切って。
静かに告げる。
「アンサンブルコンテスト、ですね」
その言葉に。
部員たちの表情が、それぞれに変わった。
全国大会を終えても。
音楽は、まだ終わらない。
次の音へ。
また一歩ずつ。
彼らの時間は、進んでいく。
どうして?君は……僕を裏切るの?




