96話 今度こそ
ここまで積み重ねてきた時間の中で、すれ違っていた想い。
言葉にできなかったこと。
伝えられなかったこと。
それぞれが抱えていたものに向き合った先で、三人が見つける答えとは。
そして、響は新たな一歩を踏み出し、それぞれの想いが音になって交わる。
「譲れ、だと?」
若田が静かに呟いた。
その目は、東堂をまっすぐ睨んでいた。
「……だから、俺が選ばれてたのか」
東堂は何も言わない。
「響の方が……上手いって、俺だって分かってた」
若田の声が、わずかに震える。
「なのに、なんで俺が毎回選ばれるんだって……ずっと思ってた」
一歩。
東堂へ近づく。
「俺が知らないところで……お前が、響に譲らせてたのか」
「……ああ」
その一言を聞いた瞬間。
若田の表情から、何かが抜け落ちた。
今まで抱えていた疑問。
ずっと胸の奥に引っかかっていた違和感。
それらが、すべて繋がってしまった。
「……そういうことかよ」
拳が震える。
「俺が……選ばれてたんじゃない」
顔を上げる。
「お前が、俺を選ばせてたんだな」
次の瞬間。
若田の手が、東堂の胸ぐらを掴んだ。
「――ふざけんなよ!!」
「……」
胸ぐらを掴む手に力が入る。
「俺は……響と本気で競いたかったんだよ!!勝てなくてもいい。負けたなら、俺が弱かったって納得できる!」
「でも――」
若田は東堂を睨みつける。
「最初から譲られてたなんて……そんなの、俺が一番馬鹿みたいじゃねぇか!!」
「若田、それは――」
東堂が何かを言おうとする。
しかし、その言葉を遮るように、若田が続けた。
「黙れよ!!」
胸ぐらを掴んだまま、若田は叫ぶ。
「お前だけじゃない!」
「……!」
「響、お前もだ!!」
響が息を呑む。
「先輩……」
響が止めようと一歩踏み出した瞬間、若田が怒鳴った。
「お前だって俺に譲ってたんだろ!!」
「……」
「違うのかよ!?」
響は答えられない。
「お前も知ってたんだろ!?自分の方が上手いって分かってて、それでも俺に譲ってたんだろ!!」
「……先輩」
「だったら同じじゃねぇか!!」
若田の声が震える。
「東堂も……お前も……結局、俺を憐れんで、手加減して!!」
若田は響を睨む。
「お前ら二人とも、同じだ!!」
「違います!」
響がすぐに叫ぶ。しかし、声は震えていた。
「僕は……」
「じゃあ何だよ!!何で譲ったんだよ!?」
「……」
「何で俺と本気で勝負しなかった!?」
答えられない。
若田の目に、悔しさが滲む。
「たとえ本当は響の方が上手いって思ってても……それでも、オーディションで俺が選ばれたっていう事実だけは、信じたかった」
声が少しずつ掠れていく。
「それなのに……」
若田は東堂を振り返る。
「東堂が仕組んで、響。お前が譲ってた」
「……」
「だったら俺は……今まで何を信じてたんだよ」
東堂が、ゆっくりと下を向いた。
「……二年前、覚えてるか?」
「……何がだよ」
「俺がお前と初めて会った時のことだ」
若田は何も答えない。
東堂は、少しだけ息を吐いた。
「お前は……最初、ずっと静かだった」
若田が顔を上げる。
「必要以上に喋らない。目立とうともしない。ただ、練習だけは誰より真面目だった」
東堂は、当時のことを思い出すように目を伏せる。
「ユーフォを吹いてる時だけは、別人みたいだった」
「……」
「音に対して、本気だった。俺は……そんなお前を、すごいと思ってた」
若田の表情がわずかに変わる。
「尊敬してたんだよ。一緒に入ってきたばかりのお前を見て……こいつは本当に音楽が好きなんだって思った」
「……そんなの、今は関係ないだろ」
東堂は黙る。
「お前が何を思ってたかなんて……今の話とは関係ねぇよ」
「……違う」
東堂が静かに言った。
「似てたんだ」
「……は?」
「お前は……似てたんだよ」
東堂は顔を上げる。
「似てた……だと?」
「中学の時にな。お前と同じ、ユーフォを吹いてる奴がいたんだ」
東堂の声が少しだけ柔らかくなる。
「巴海斗って言ってな」
若田は黙って東堂を見る。
「海斗も、最初は静かな奴だった。自分から前に出るタイプじゃない。でも、楽器を持ったら変わった」
東堂は小さく笑う。
「音楽に対しては、誰より真っ直ぐだった」
「……」
「上手かった。それだけじゃない。自分より上手い奴がいたら、その音をちゃんと認めることができた」
東堂は、海斗の姿を思い出すように目を細める。
「誰かの音を否定しなかった。自分が苦しくても、音楽そのものを嫌いにはならなかった」
そして。
「……そんなところが、お前と似てた」
若田は何も言わない。
「俺にとって、お前と海斗は……似た者同士だったんだ」
「だから、なんだよ。それが俺を陥れていい理由になるのかよ」
「ならない」
東堂は即答した。
「……なるはずがない。なっていいわけない」
その言葉に迷いはなかった。
「なのに、俺は間違えたんだ。海斗のようになってほしくなかった。また失いたくなかった」
「……」
「だから俺は、お前を守ろうとした」
東堂は苦しそうに笑う。
「でも……守り方を間違えた。響を抑えれば、お前は自分の音を信じられるようになると思った」
若田は何も言わない。
「響に譲らせれば、お前は自分の力で選ばれたと思える。そうすれば……海斗みたいにはならない」
東堂の声が震える。
「そう思ってた。でも、全部逆だった」
東堂は響を見る。
「海斗が……そして響、お前が教えてくれた。俺は誰かを守るために、別の誰かを壊していた。それじゃ、何も変わらない」
東堂はゆっくりと若田へ向き直る。
「もう、隠すことなんてできなくなった。これ以上隠していたら……もっと壊してしまう」
東堂は深く頭を下げた。
「もっと早く話しておけばよかった。最初から全部話していれば……お前をこんなふうに傷つけずに済んだかもしれない。響にも……こんなことをさせずに済んだかもしれない」
そして。
「……本当に、すまなかった」
東堂は頭を下げたまま、動かなかった。
「若田」
「……」
「俺が間違ってた。お前のためだと思ってたことは……結局、俺がお前自身を信じてなかっただけだった」
「……」
「本当に、すまなかった」
若田は、何かを言おうとして口を開いた。
けれど。
その前に、響がゆっくりと立ち上がった。
「……僕からも」
若田と東堂の視線が、響へ向く。
響は二人を見つめていた。
「僕は……何も覚えていません」
静かな声だった。
「東堂先輩が話してくれたことも。若田先輩が、今までどんな思いをしていたのかも」
一度、言葉を切る。
「正直に言えば……まだ、全部を信じ切れていないのかもしれません。僕には、その時の自分の記憶がないから」
響は自分の胸に手を当てる。
「だから……『僕はそんなことをしていない』って言うこともできます」
若田を見る。
「でも……それで終わらせたくないです」
「……」
「だって」
響の声が、少しだけ強くなる。
「今ここで、若田先輩が苦しんでいることは分かるから。東堂先輩が、ずっと後悔していたことも分かるから」
そして。
「過去がどうだったのか。僕にはまだ分かりません。過去は変えられない。でも……これからを変えることはできると思います」
若田は黙って響を見つめている。
「もし……過去の僕が、本当に若田先輩に譲っていたんだとしたら」
響は、まっすぐ若田を見る。
「今の僕は、もう二度とそんなことはしません。誰かに言われたからでもない。誰かを守るためでもない」
響の声に、迷いはなかった。
「僕自身が、そうしたくないからです」
一歩。
響は若田へ近づく。
「僕は……若田先輩と、本気で勝負したい」
若田は何も言わない。
響は静かに続ける。
「勝つか負けるかなんて、今は分かりません。でも、譲りません」
「……」
「今度は……ちゃんと、自分の音で向き合いたいです。それが、今の僕にできることだと思うから」
若田は、ただ響を見つめていた。
そこにあるのは、かつての響ではない。
少なくとも今、目の前にいる響は、
誰かに譲ることも。
誰かに譲らせることも。
もう、望んでいなかった。
しかし若田は、静かに言い返す。
「……今さら、そんなこと」
その声には、怒りだけではない。
悔しさが滲んでいた。
「今、それを言って何になるんだ。遅いんだよ。何もかも……」
若田は俯く。
「もう、そんな機会なんて――」
「全国大会のオーディション」
響が、静かに言葉を挟んだ。
「まだ、あるじゃないですか」
「……」
若田の言葉が止まった。
響は、若田をまっすぐ見つめる。
その表情に、笑みはなかった。
ただ、決意だけがあった。
「全国大会のオーディション」
響は、もう一度口にする。
「本気で、やりましょう」
「……響」
「僕も、もう譲りません……譲らせません」
「……!」
若田は顔を上げる。
「今度こそ、ちゃんと僕たち二人で……いや、桜咲先輩もいましたね。三人で」
誰かに決められた勝負じゃない。
誰かに譲られた結果でもない。
自分たちの音で。
自分たちの力で。
若田は、何も言わなかった。
ただ、響を見つめていた。
そして。
頬を、一筋の涙が伝っていく。
「……」
若田は、その涙を拭おうとはしなかった。
今まで抱えていた悔しさも。
怒りも。
自分が信じていたものが崩れてしまった苦しさも。
全部、消えたわけじゃない。
それでも。
若田は、ゆっくりと顔を上げた。
「……そうだね」
その声は、まだ少し震えていた。
けれど。
そこには、もう迷いはなかった。
「その目が、ずっと見たかったんだ」
響が、若田を見る。
「全国大会のオーディション」
若田は、まっすぐに響を見返す。
「今度こそ……本気で、オーディション」
響も、静かに頷く。
「お互いの百倍……いや、百万倍だ」
「……え?」
響が目を丸くする。
若田は、少しだけ笑った。
「お互いの百倍じゃ足りないでしょ?」
響も、思わず小さく笑う。
「じゃあ……お互いの百万倍を、ぶつけましょう」
二人の間に。
ほんの少しだけ、いつもの空気が戻った。
「本気だからね」
「譲る気はありませんよ?」
「分かってる」
そして二人は。
今度こそ、誰にも決められていない、自分たちだけの勝負へ向かっていく。
翌朝。
響は、いつも通り目を覚ました。
「……ん」
まだ少し眠い目を擦りながら、布団から起き上がる。
窓の外は、まだ暗い。
響は、ぼんやりとしながらスマートフォンへ手を伸ばした。
「全国大会のオーディション……もうすぐだ」
小さく呟く。
「でも……もう大丈夫。大丈夫だよ」
そう呟いて。
響は、スマートフォンの画面を開いた。
「……」
そして。
そこに表示されていた日付を見て、響の動きが止まった。
え…………………
11月22日(金)
5:00
響君。君は、君という人は、本当に身勝手だね




