94話 何を信じればいい?
ユーフォに出会ったのは、小学生くらいだろうか。
確か、おじいちゃんにプレゼントしてもらったのが最初だった。
おじいちゃんは、僕にとって両親以上に親だった。優しくて、厳しくて、それでも絶対に見捨てることはなかった。
両親からは、そんなもの、感じられなかったから。
いや、
そもそも僕の親は、物心ついた頃には、すでにこの世にはいなかったが。
東堂は廊下を歩いていた。
いつもと変わらない、学校の廊下。
特に目的があるわけでもなく、ただ次の場所へ向かっていた。
そのときだった。
「……ん?」
ふと、外から声が聞こえた。
誰かが話している。
少し遠い。
けれど、聞き覚えのある声だった。
東堂は足を止める。
そして、近くの窓へ歩み寄った。
窓から下を覗く。
そこにいたのは――。
「……若田と、響?」
思わず呟いた。
こんなところで、二人が話している。
それ自体は、何もおかしくない。
けれど。
二人の様子が、どこか普通ではなかった。
若田の表情。
そして、響の困惑したような顔。
東堂は、しばらく二人を見つめた。
すると。
下から、若田の声が聞こえてきた。
「君は……僕に、わざと負けていたのか?」
東堂の表情が変わった。
「……」
その言葉に。
胸の奥が、嫌な音を立てた。
まさか。
そう思った。
けれど。
続いて聞こえてきた言葉が、その考えを確信へと変えていく。
「どうして、君じゃないの?」
東堂は窓から目を離せなかった。
――この話は。
自分が、知らないふりをしてはいけない。
そう思った。
そして。
東堂は、階段へ向かって走り出した。
僕がここ数週間、学校を休んでいた理由。
別に、体調を崩していたわけじゃない。
……いや、体調は悪かったのかもしれない。
ただ、それは身体じゃない。
ずっと、考えていた。
どうしてなんだろうって。どうして僕が、ソロに選ばれるんだろうって。
四月に君と出会ったときから、それはずっと感じていた。
僕より、響君の方が上手い。
それは、疑いようのないことだった。
なのに、オーディションではいつも僕が選ばれる。
一度だけじゃない。
何度やっても。
怖かった。
東海大会の直前、響が記憶を失ったと聞いた。そのことだって、僕には信じられなかった。
本当に何も覚えていないのか。
それとも、僕には言えない何かがあるのか。
そんなことを考え続けていたら、いつの間にか、学校に行くことすらできなくなっていた。
だから、休んでいた。
答えが欲しかった。
自分が今まで何を信じて、何のためにユーフォを吹いてきたのか。
それを確かめたかった。
「若田先輩……」
目の前に立つ若田を見て、響は思わず声をかけた。
「何週間も休んでましたけど……大丈夫ですか?」
若田は、しばらく黙っていた。
そして、小さく息を吐く。
「……心配してくれてたんだね」
「そりゃ、しますよ」
響は苦笑した。
「ずっと来なかったから……何かあったのかなって」
若田は、響をじっと見つめる。
その表情は、いつもの優しいものとは少し違っていた。
「……響君」
「はい」
「僕は、ずっと考えていたんだ」
「何を、ですか?」
若田は、少しだけ目を伏せた。
そして。
「どうして、いつも僕なんだろうって」
「……え?」
「オーディションのことだよ」
その言葉を聞いて、響は黙る。
「どうして僕が選ばれるんだろうって、ずっと考えていた。僕より、君の方が上手いのに。どうして、どうして……いつも君じゃないんだろうって」
響は、少し困ったように若田を見る。
「……すみません。僕には……」
「響君」
声が、少しだけ震えた。
「君は……僕に、わざと負けていたの?」
「……え?」
「僕にソロを譲っていたんじゃないのか?僕を……憐れんでいたんじゃないのか?」
響は、何を言われているのか分からないような顔をしていた。
「そんな……そんな、こと」
「じゃあ、どうして?」
声が響いた。
「どうして、君じゃないの?」
けれど、その声に怒りはなかった。
ただ、ずっと抱えていた疑問を、確かめるような声だった。
「君と初めて会ったときから、自分が君より上だなんて、一度も思ったことがないんだ」
「……」
響は、何も言えなかった。
「音を聴けば分かる。技術もそうだし、音楽に対する感覚もそう。君には、僕にはないものがある」
若田は静かに拳を握る。
「でも、オーディションでは僕が選ばれた。一度だけなら、まだ分かる。審査する人の考えもあるし、その日の調子だってある。選ばれる理由なんて、いくらでも考えられるから」
若田は、少しだけ目を伏せた。
「だけど、何度やっても僕だった。嬉しさなんて、全くなかった」
一度、言葉を切る。
「だんだん怖くなっていったんだ」
響は、若田の言葉をただ聞いていた。
何を言われても。
自分には、分からないことばかりだった。
「君は何も言わなかった。悔しそうにするわけでも、怒るわけでもない。ただ、いつも通りだった。それが、余計に分からなかった」
「……僕が?」
響が小さく呟く。
若田は頷いた。
「君は、本当に何も気にしていないように見えた。だから、考えるようになったんだ。もしかしたら、君は最初から僕に譲っていたんじゃないかって」
「……」
「僕にソロを吹かせるために、僕が三年生だからとか、最後の大会だからとか。そういう理由で、わざと負けているんじゃないかって」
響は、困ったように若田を見る。
「僕は……そんなつもりは……ていうか、そんなこと」
「僕には分からなかったんだ。だって、君の方が上なんだから。それなのに、どうして僕が選ばれる?どうして君は何も言わない?どうして、僕は何度もソロを吹いている?」
若田の声がだんだん震えてくる。
「ずっと、そればかり考えていた」
その奥には、長い時間をかけて積み重なったものがあった。
「東海大会の前に、君は記憶を失ったそうだね……」
「それは…」
若田は少しだけ黙った。
「僕は、今も信じられない。そんな非現実的なことなんて」
「僕は……」
響は言葉を探す。
けれど、何も出てこない。
知らない。
覚えていない。
自分が過去に何をしていたのかすら、今の響には分からない。
「……すみません」
響は、小さく頭を下げた。
「僕には、本当に分からないです」
若田は、そんな響をしばらく見つめていた。
「……どうして?」
「……え?」
「どうして、何も言わなかったの?僕が選ばれたときも、僕がソロを吹いたときも。君は、何も言わなかった」
響は答えられない。
「僕だったら、納得できないと思う。自分より明らかに上手い人がいるのに、その人じゃなくて自分が選ばれるなんて」
若田は、また同じ言葉を口にした。
「どうして、君は何も言わなかったの?」
「……分かりません」
若田は少しだけ顔を上げた。
「本当に、何も思わなかったの?僕が選ばれるたびに。君は、何も感じなかった?」
「……」
「悔しくなかった?腹が立たなかった?僕に負けたと思わなかった?」
響は、何も答えられない。
「どうして……」
若田の声が、また小さくなる。
「どうしてなんだよ」
「僕は、ずっと考えていたんだ。君の方が上手い。君の方が、ソロに相応しい。なのに、僕が選ばれる。どうして?」
また同じだった。
答えのない問い。
「君が僕に譲っていたのなら、それで全部説明がつくと思った。だから、そうなんじゃないかって……ずっと思っていた。でも君は違うと言う」
若田の声のトーンが少し下がる。
「じゃあ、何なんだよ。僕が選ばれていた理由は何なんだ?君が何も言わなかった理由は?どうして僕だった?どうして君じゃなかった?どうして……」
若田は言葉を止めた。
けれど、すぐにまた口を開く。
「どうしてなんだよ……」
響は、ただ若田を見るしかなかった。
「若田先輩……」
「でも、僕には……」
そこで言葉が詰まる。
「……これしかないんだ」
「じゃあ、僕は何を信じればいい?」
若田の問いに、響はしばらく黙っていた。
そして。
「……すみません」
ゆっくりと顔を上げる。
「何度聞かれても、やっぱり分からないです」
「……」
「僕には、本当にそんな覚えはありませんし、そんなつもりで先輩にソロを譲った覚えもないです」
「……」
「僕が何を考えていたのかも、どうして若田先輩が選ばれていたのかも……」
響は、苦しそうに言葉を続ける。
「本当に、何も分からないんです」
「……そう」
若田は小さく呟いた。
「何も……分からないんだね」
「はい……」
「そう……」
若田は俯いた。
しばらく、何も言わなかった。
けれど。
その沈黙は、穏やかなものではなかった。
握りしめた拳が、震えている。
「……じゃあ」
若田が顔を上げる。
「僕は、どうすればいいんだよ」
「え……」
「ずっと考えたんだ。何週間も、ずっと。どうして僕なんだって、どうして君じゃないんだって。君なら何か知ってるんじゃないかって、君なら僕に答えをくれるんじゃないかって……!」
声が、初めて大きくなった。
響が驚いて目を見開く。
「でも君は……」
若田の呼吸が荒くなる。
「分からない、覚えてない、そんなことばかり……!」
「若田先輩……」
「じゃあ僕はどうすればいいんだよ!!」
ついに。
若田の声が、響のいる場所に響き渡った。
「君より下手なのに、僕ばかり選ばれて!嬉しいわけないだろ!!自分の力で取ったソロなのかも分からなくなって!それでも、君は何も言わない!どうしてだよ!!」
響は、何も言えなかった。
若田の目には、怒りだけではない。
悔しさ。
苦しさ。
そして、長い間抱え続けてきた疑念があった。
「僕は……」
若田の声が震える。
「僕は、本気だったんだよ……」
その言葉だけが。
今までで一番、弱々しく響いた。
「若田先輩……」
響は、ゆっくりと若田へ近づいた。
「少し、落ち着いてください」
「……」
「僕は、本当に何も分からないんです。だから――」
「来るな!!」
若田が叫んだ。
「……!」
響が足を止める。
けれど。
それでも響は、若田を落ち着かせようと、もう一歩だけ近づいた。
「若田先輩、僕は――」
「来るなって言ってるだろ!!」
若田が腕を振り払った。
その手が、響に当たった。
「――っ!」
体勢を崩した響の身体が、そのまま地面へ倒れ込む。
「……っ!」
頭を打った。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
遅れて、頭に強い痛みが走る。
「……痛……」
響は頭を押さえながら、うずくまった。
けれど。
若田の感情は、もう止まらなかった。
「……僕だって……!」
若田は響の胸ぐらを掴んだ。
「僕だって、分からないんだよ!!」
「……っ」
響は苦しそうに若田を見上げる。
若田の目から、涙が落ちていた。
「何で僕なんだよ……!何で僕ばっかりなんだよ……!君の方が上手いのに!君の方が、ずっと……ずっと上手いのに!」
声が震える。
それでも、若田は響の胸ぐらを離さなかった。
「僕は本気でやってきたんだ!本気で練習して!本気でソロを取りに行って!選ばれたときだって……本当に嬉しいと思おうとした!なのに……!」
涙が、次々と頬を伝っていく。
「どうしても、頭から離れなかったんだよ……!僕が選ばれたのは、本当に僕の力なのかって……!君が、僕に譲っていただけなんじゃないかって……!僕は……僕は……!」
若田の声が途切れる。
「そんなの……」
唇を震わせながら、響を見つめる。
「そんなの、ずっと分からないままなんて……耐えられないよ……!」
響は何も言えなかった。
目の前で涙を流している若田を見ても。
何を言えばいいのか分からない。
何をすれば、この人の苦しみを止められるのか。
それすら、今の響には分からなかった。
「僕は、本当に、何も……」
「そんなので、僕が納得するとでも思った?」
震えた声のまま、響を見つめる。
響は、何も答えられない。
「……舐められたものだよ」
若田の声が、低くなる。
「僕だって……本気でやってきたんだ」
拳を握る。
「それを……君は全部、分かった上で――」
拳が振り上げられた。
その瞬間。
「やめろッ!!!!!!!!!!」
空気を震わせるほどの声が響いた。
若田の動きが止まる。
響も、顔を上げる。
そこに立っていたのは――。
「……東堂」
「と、東堂、先輩?」
東堂は、荒い息を吐きながら二人を見ていた。
そして。
「もう、やめろ……!」
その声は、怒りだけではなかった。
震えていた。
「それ以上、響に何かするな……!」
若田は、呆然と東堂を見る。
「……なんで、お前がここにいるんだ?」
東堂は答えなかった。
ただ、若田をまっすぐ見つめていた。
「……お前には関係ないだろ。これは、僕と響の問題だ」
東堂の拳が、強く握りしめられる。
「……違う。違うんだ、若田」
東堂は、震える声で言った。
「これは……お前たち二人だけの問題じゃない。俺が……話さなきゃいけないんだ」
東堂は、静かに息を吸った。
「全部……俺が話す」
若田が抱えていた疑問。それは、何度考えても答えの出ないものだった。
自分よりも上手いと思っている相手がいる。
それなのに、選ばれるのはいつも自分。
その理由が分からないままでは、素直に喜ぶことさえできない。
そして今、その問いは本人へと向けられた。答えを知らない響と、答えを求め続けた若田。
二人の想いは、果たして交わるのか。
そして、この場に現れた東堂が語ろうとしているものとは。
感想、評価、ブクマ、レビューも是非お願いします。
次回もお楽しみに!!
2026年9月22日をもちまして、本作品は連載一周年を迎えました。
読んでくださってる皆さん、本当にありがとうございます。そしてこれからもよろしくお願いします。
番外編「心はB♭で響いている〜Beyond the Stage〜」にて連載一周年記念スペシャルを投稿しました。
是非ご覧ください。
↓こちらから
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