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心はB♭で響いている  作者: World of Tukimoto
第1章 響く音響編 —始動—

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93話 TRI-EUPH

人は、目の前にあるものだけを見ているとは限らない。

いつもそこにいるはずの人。

当たり前だと思っていた時間。

そして、まだ見つけられていない答え。

少しずつ変わっていく日常の中で、それぞれの胸に小さな疑問が生まれていく。

その疑問が向かう先にあるものを、彼らはまだ知らない。

「え、若田(わかだ)先輩が?」


それは、突然だった。


「はい。体調不良らしくて。今日は休むそうです」


若田が休むことは珍しかった。

三年生の中でも特に真面目で、常識人。

欠席も遅刻も、ほとんどなかった。


だからこそ。


「まぁ、同じ人間だからな。こんなことがあってもおかしくはないだろ」


みんなそう思い、特に気に留めることはなかった。



昼休み。


響(ひびき)、来島(らいとう)、永井(ながい)の三人は、いつものように机を囲んで昼食を取っていた。


「そういえば、柊木(ひいらぎ)君と奏多(かなた)君は?」


響が尋ねる。


「二人で食べてるって」


来島が答えた。


「へぇ」


響は少し意外そうな顔をする。


「最近、あの二人結構話すようになったよね」


「そう?」


「うん。前よりずっと一緒にいる気がする」


「まぁ、仲良くなったんじゃね?」


来島はそう言いながら、弁当を口に運んだ。


「そういえば、陽翔(はると)は?」


「クラリネットのパートで食べてるよ」


永井が答える。


「あー……」


来島が呆れたように息を吐く。


「まーたコキ使われてんのか」


「コキ使われてるって……」


来島は少し不満そうに眉を寄せる。


「だってさぁ。あのクラの先輩たち、なんかムカつくんよな」


「また始まった」


永井が苦笑する。


「陽翔はちゃんと努力してるってのにさ。自分の方が下手なくせに、偉そうにしてるのが気に入らねぇんだよ」


「まぁまぁ」


響が苦笑する。


そんな他愛のない話をしながら、三人は昼食を続けていた。


けれど。


ふと。

永井が箸を止めた。


「……そういえば」


「ん?」


「若田先輩、今日休みなんだよね」


「ああ」


来島も思い出したように頷く。


「体調不良だってさ。珍しいよな」


響が呟いた。


「うん」


永井は少し考えるように視線を落とした。


「……僕、ちょっと怖いんだよな」


「怖い?」


響が聞き返す。


「最初に出会ったときはさ」


永井は、ゆっくりと言葉を続けた。


「すごく穏やかで、優しそうな人だと思ったんだよ」


「うん。俺もそう思った」


来島が頷く。


「でも最近は……」


永井は少しだけ言葉を選ぶ。


「なんか、一人で自分を追い詰めてるような感じがする」


「……」


「何かに固執してるっていうか、執着してるみたいな……そんな感じ」


響は黙って聞いていた。


「響は、何か知ってる?」


「え?」


突然聞かれ、響は目を瞬かせる。


「若田先輩のこと。何か聞いてない?」


「……いや」


響は首を横に振った。


「僕には、分からないよ」


それは当然だった。


響自身、まだ何も知らない。

自分の過去すら、分からないのだから。


「……そうだよな」


来島が小さくため息をついた。

そして。


「響、そもそも覚えてないんだからな」


「……」


その言葉に、永井が来島を見る。


「来島君」


「……あ」


来島はしまった、という顔をした。


「ごめん、響。あんまり言わない方がいいよな」


「いやいや、全然いいよ」


響は笑った。


「こうやって色々話せば、いつか思い出せるかもしれないし。だから、気にしなくていいよ」


響はそう言って、再び箸を動かした。


三人の間に、少しだけ静かな時間が流れる。


けれど。

その会話の中に残った若田という名前だけは、三人の胸の中から消えることはなかった。



「え、今日も?」

「はい。さっきメールで来て、休みますって」

「二日連続で……」


翌日も、若田は学校を休んだ。


一日だけなら、誰もそこまで気には留めなかった。

けれど、二日連続となると、さすがに少しだけ気になってくる。


「まぁ、なんか体調がすぐれないんだろ」

「そうだね」

「無理して来るよりはいいんじゃない?」


そんな会話を交わしながらも。

結局、誰もそれ以上深くは考えなかった。


若田がいない。

ただ、それだけのことだと思っていた。



午後の部活動。


三年生の若田が休んでいるため、バスパートの練習は、副パートリーダーである香久山(かぐやま)が仕切ることになった。


「――はい、ストップ!」


香久山が手を上げる。


「チューバ。今のところ、もう少し音の芯を意識してみよう。特に来島は、大きく吹こうとするだけじゃなくて、息をしっかり楽器の中に入れる感じ」


「はい」


「コンバス。ここは、もっとお互いを聴き合って。特に今伊(いまい)はもう少し永井の音も聴いて溶け込ませるんだ」


「はい!」


「ユーフォは……」


香久山は少し考える。


「もう少しだけ、音を前に飛ばすのと、大きく出してみようか」


「前に、ですか?」


桜咲(おうさき)が首を傾げる。


「そう。今でも十分鳴ってるけど、ホールで吹くことを考えるなら、もっと遠くまで届けるイメージで」


「はい」


再び楽器を構えた。


「それじゃ、もう一回」



休憩時間。

香久山は椅子に座るなり、大きく息を吐いた。


「……はぁ」


思わず肩を落とす。


「仕切るのって、こんなに大変なんだな……」


普段は若田がやっていること。

それを実際に自分がやってみて、初めて分かった。


「若田、すごいなぁ……」


「でも、いきなりでこんなにできてるのもすごいですよ!」


来島が笑顔で言う。


「まぁ、私もそう思います」


茅野は相変わらず、そっけない口調だった。


「香久山先輩がパーリーでも、全然違和感ないですけどね」


桜咲もそう言って笑う。


「そうか?」


香久山が少し照れたように笑った。


「でも、ぶっちゃけ」


桜咲がふと思い出したように口を開く。


「私の聴いた感じだと、そこまで変わってるようには見えませんでしたけどね。ユーフォ」


「そう?」


香久山が首を傾げる。


「はい」


桜咲は少し考えてから続けた。


「ぶっちゃけ、私たち二人のときでも、三人のときと同じくらい出てたと思いますよ」


「……」


「ていうか、響君一人で――」


「そ、そんな」


響が慌てて口を挟んだ。


「先輩二人がいてこそですよ」


少し恥ずかしそうにしながら、響は笑う。


「そういうとこだよ」


桜咲が言った。


そして。

響のおでこに、指を突き立てる。


「痛っ」


「そう言ってるけどさ」


桜咲は響を見る。


「君、頭は忘れてるだけで、他は何も変わってないよね」


「ちょ、桜咲」


香久山が止めようとする。

けれど、桜咲はそのまま続けた。


「はっきり言って、私は若田先輩がずっとソロに選ばれてることに、違和感しかなかった」


「ちょ、な、何言ってるんですか、桜咲先輩!」


響が慌てる。

しかし、桜咲は止まらない。


「響君の方が明らかに上手いと思うんだけど――」


「桜咲。その辺にしたら?」


その声と同時に。

気がつくと、茅野が立っていた。


茅野は桜咲の手を掴み、その指を響のおでこから引き剥がす。


桜咲は軽く舌打ちをして、眉をひそめた。


「何も知らないくせに」


「えぇ、何も知らない」


茅野は淡々と答える。


「だから、とりあえず止めてるだけ」


「わざわざ答えなくていいから!!」


「はいはい、もうやめ!」


香久山が二人の間に入った。


「こんなとこで言い合いしてても仕方ないでしょ?」


二人を交互に見る。


「二人とも、今は部活中だよ」


「……」


桜咲は黙り込む。


「すみませんでした。先輩」


茅野はすぐに頭を下げた。


それを見た桜咲は、小さくため息をつく。


「……すみません」


そして。


「ちょっと気分が優れないので、一人で練習してきます」


「え、ちょ、桜咲先輩!?」


桜咲は楽器と自分の荷物を持つと、そのまま教室を出て行ってしまった。


残された六人は、しばらくその背中を見つめていた。


「……しょうがない」


香久山が小さく息を吐く。


「とりあえず、一旦個人練習にしよう。オーディションもあるしな」



それから。


何日経っても、若田は学校に来なかった。


「……今日も?」

「うん。今日も休みだって」


最初のうちは、まだ誰も深く考えていなかった。


「まぁ、体調悪いんだろ」

「そうだよね」


けれど。

次の日も。


「今日も休み?」

「はい」


さらに、その次の日も。


「……今日も?」

「今日もです」


そして。


「え、明日も?」

「……たぶん」


少しずつ、周囲の反応が変わっていった。


「さすがに長くない?」

「大丈夫なのかな……」

「誰か連絡取ってないの?」


そんな声が、少しずつ増えていく。


一日。

二日。

三日。

そして、それ以上。


若田がいないことが、当たり前になり始めていた。


けれど。

それは決して、良い意味での「当たり前」ではなかった。


「……まだ来ないんだ」


誰かがそう呟く。

返ってくる言葉は、もうなかった。


最初はただの体調不良だと思っていた。


けれど。

ここまで長くなると。


さすがに、誰もが同じことを考え始めていた。


――若田先輩、本当に大丈夫なのかな。



桜咲は廊下の端で楽器を構えていると、


「あれ、桜咲〜。こんなとこでどうしたの?」


声を掛けられた。


振り向く。

そこにいたのは――。


「守田(もりた)」


守田だった。


「どうしたの?こんなところで」


守田は桜咲の顔を見て、少し首を傾げる。


「てか、何その顔。響君と喧嘩でもしたの?」


クスッと笑いながら言った。


「守田」


「ん? どうしたの?」


桜咲は少し黙った。

そして、


「守田はさ」


「うん?」


「若田先輩、どう思う?」


突然の質問に、守田は少し考える。


「どうって……」


守田は困ったように笑った。


「どうも思わないよ?」


「……」


「だって、私、若田先輩のことをずっと見てきたわけじゃないし」


少し考えてから。


「まぁ、なんか優しくて真面目そうな印象はあるかもね」


「……上手いと、思う?」


桜咲の声が、少し震えた。


守田はその変化に気づかないまま答える。


「え?」


「若田先輩。上手いと思う?」


「そりゃ……」


守田は少し笑う。


「三年なんだから、上手いのは当たり前でしょ?」


そして。


「どうしたの、桜咲らしくないね」


その言葉を聞いて、桜咲は俯いた。

手が、震えている。


「……じゃあ」


ゆっくりと顔を上げる。


「聞き方を変える」


守田をまっすぐに見つめる。


「響君と若田先輩」


一度、言葉を切った。


「どっちが上手いと思う?」


その目には涙が滲んでいた。

守田の表情から、笑顔がゆっくりと消えていく。


「……そんなこと聞いて、どうするの?」


「どうもしない」


桜咲は答える。


「私がこれを聞いたからって、何か状況が変わるわけでもない」


声が震える。


それでも。

守田から目を逸らさない。


「でも、ただ……」


握っていた手の震えが、さらに大きくなる。

手元の楽器が、わずかに揺れた。


「……ただ、私が知りたいの」


守田は、しばらく黙っていた。


桜咲の顔を見る。


震えている手。

滲んだ涙。


そして。


「……響君、かな」


静かに、そう答えた。


「……」


桜咲は何も言わなかった。


「私、若田先輩のことをずっと見てきたわけじゃないから」


守田はゆっくりと言葉を続ける。


「正直、若田先輩がどれくらい上手いのかは、私には分からない」


「……うん」


「でも」


守田は、まっすぐ桜咲を見る。


「響君の音なら、ずっと聴いてきたから。いや、正しくは、聞かされてきた、聞かざるを得なかったって感じかな」


少しだけ間を置いて。


「私は、響君の方が上手いと思う」


「……」


桜咲の目から、涙が一粒だけ落ちた。


「……そっか」


小さな声だった。

そして。


「やっぱり……そうなんだ」


桜咲は俯いた。

握りしめた手は、まだ震えている。


守田は、そんな桜咲を見つめた。


「それを聞いて、どうするのさ?」


「……」


桜咲は答えなかった。


ただ。

しばらく俯いたまま、唇を噛みしめる。


「……分からない」


やがて、消え入りそうな声でそう呟いた。


「ただ……」


桜咲は顔を上げる。


「ずっと、気になってたから」


その目には、まだ涙が残っていた。


「どうして響君じゃないんだろうって」


守田は何も言わなかった。


「私には、それがずっと分からなかった」


桜咲は楽器を抱え直す。


「だから……知りたかっただけ。ありがとう」

数日後。


「本当に、どうしたんだろうなぁ」


響は一人、裏庭で練習していた。


若田が学校に来なくなって。

もう、二、三週間ほど経つだろうか。


オーディションは、今週末だというのに。


「……大丈夫かな?」


楽器を膝に置き、響は空を見上げた。


そのとき。


「響君」


「……?」


聞き覚えのある声がした。


「話がしたい」


「その声は、若田先――」


響の声が止まった。

そこに立っていたのは。


確かに、若田だった。


「……え」


久しぶりに見る、その姿。


けれど。

以前とは、何かが違っていた。


表情が硬い。

そして、どこか思い詰めているような。


そんな顔だった。


「どうしたんですか?」


響は立ち上がる。

そして、少し困ったように笑った。


「そんな怖い顔して」



感想、評価、ブクマ、レビューも是非お願いします。

次回もお楽しみに…


2026年9月22日をもちまして、本作品は連載一周年を迎えました。

読んでくださってる皆さん、本当にありがとうございます。そしてこれからもよろしくお願いします。

番外編「心はB♭で響いている〜Beyond the Stage〜」にて連載一周年記念スペシャルを投稿しました。

是非ご覧ください。

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