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心はB♭で響いている  作者: World of Tukimoto
第1章 響く音響編 —始動—

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92話 それぞれの疑問

人は、忘れてしまったものを取り戻そうとするとき、その先に何が待っているのかを知ることはできない。

ただ、分からないからこそ、知りたいと思うこともある。

音楽も、記憶も。

そして、これから進む道も。

それぞれの想いを胸に、彼らは次の舞台へ向かっていく。

中に入ると、少し埃が舞っていた。

長い間、あまり使われていなかったのだろうか。


部屋の中には、静かな空気が流れている。


壁際には本棚があり、その中にはいくつもの本や楽譜が並んでいた。


机の上には、いくつかの小物が置かれている。


窓際にはカーテン。

ベッドの上には、きれいに畳まれた布団。


どこにでもあるような、普通の部屋だった。

けれど。


「……」


なんだか、懐かしい気分だった。


初めて入るはずなのに。

どうしてだろう。


見覚えがあるような。

そんな気がする。


「……変なの」


響は小さく呟いた。


部屋の電気は、つきっぱなしだった。

誰かがさっきまでここにいたのだろうか。


それとも、ただ消し忘れていただけなのか。


響はゆっくりと部屋の中を見回した。


そして。

ふと、視線を前へ向ける。


机の上に、何かが乗っていた。


「……?」


響は近づいていく。


手を伸ばして、それを持ち上げた。


それは、CDケースだった。

オーボエの絵が描かれたパッケージ。


その絵に、響の視線が止まる。


「オーボエ……」


プロの奏者の演奏なんだろうか。


そう思いながら、ケースをひっくり返す。


裏側には、演奏者の名前が書かれていた。


響は、その文字をゆっくりと目で追う。


そして。


「天奏勇夫(てんそうはやお)……」


その名前を、口にした。


「なんで、気付かないの?」


「うわぁ!!」


突然、すぐ横から声が聞こえた。


思わず体がビクンと跳ね上がる。


「……え?」


響が振り向く。

そこには、堂々と愛美(みなみ)が立っていた。


「驚きすぎ」


「お、お姉ちゃん……?」


「あと、気付かなすぎ」


「……」


まさか。

部屋に入ってから、ずっと真横にいたんだろうか。


そう考えると、少し背筋がゾクっとした。


「で、何の用?」


愛美が尋ねる。


響は、手に持ったCDケースを見る。


そして。


一度、深呼吸をした。


「……聞きたいことがあるんだ」


愛美は、そっけなく言った。


「……あんたに話すことなんか何もない。出てって」


「いや、ある」


「ない」


「ある」


「ないって言ってるでしょ!!!」


愛美は、近くにあった棚を足で蹴った。


「どこまで、人に付け込もうとしたら気が済むの?」


「……」


「何も分からないくせに」


「僕が!!」


響の声が、部屋に響いた。


愛美が黙る。

響は、ゆっくりと息を吸った。


「僕が、知りたいんだ」


「……」


「全部忘れてしまっている、この僕が」


響は、自分の胸に手を当てる。


「何か、分かるかもしれない」


一度、言葉を止める。


「思い出せるかもしれない」


そして。


「だから……」


その言葉を聞いても、愛美の表情は変わらなかった。


「それで、私を利用したいだけでしょ?」


「……え?」


「自分の記憶を取り戻すために、私を利用したいだけ」


「いや、そんなつもりは――」


「あるに決まってる」


愛美が言い切った。


「あんたは、いつも……」


声が震える。


「いつも、いつも、いつも……」


愛美は響を睨みつける。


「自分以外のことには、嘘ばっかり!!」


「……」


響は、何も言えなかった。


その言葉の意味が分からない。


けれど。

愛美の表情を見れば、それがただの怒りではないことだけは分かった。


「……何も知らないくせに」


「お姉ちゃん……」


「何も覚えてないくせに……!」


愛美が一歩、響へ近づく。


「分かったような顔して……!」


「……!」


次の瞬間。


愛美が響へ詰め寄った。


突然のことに、響は反応できない。


「お姉ちゃん、待っ――」


「もう、いい加減にしてよ!!」


感情を抑えきれなくなった愛美の声が、部屋に響いた。


そのまま響を思いっきり殴り飛ばす。

響はそのまま倒れ込んだ。


何が起きているのか。

どうして、ここまで怒っているのか。


何も分からない。


愛美は倒れた響の胸ぐらを掴む。


「私は……!」


愛美の声が震える。


「私はずっと……!」


そこで言葉が途切れた。

握りしめた手が、わずかに震えている。


「……なのに」


愛美は俯いた。


「なんで、あんたは何も覚えてないのよ……」


「……」


響は答えられなかった。

答えられるはずがなかった。


自分自身が、その答えを失っているのだから。


「……もう、出てって」


愛美は、そう言った。


けれど。

その声には、さっきまでの怒りとは少し違うものが混じっていた。


これ以上、何かを言えば。

これ以上、響に近づけば。

きっと、自分はもっと酷いことを言ってしまう。


そんな思いを押し殺すように、愛美は視線を逸らした。


「……これ以上、私に聞かないで」


その言葉は、冷たかった。


けれど。

その奥には、響をこれ以上傷つけたくないという気持ちが、ほんの僅かに残っていた。


響は、何も言わずに扉へ向かった。


ドアノブに手をかける。


そして、扉を開こうとした、そのとき。


「……一つ、言えるとするなら」


愛美の声が聞こえた。

響は振り返らない。


「……あんたにとっては」


少しだけ、間が空く。


「何も知らない方が、幸せってことだよ」


「……」


その言葉を聞いた。


けれど。

その意味を理解する暇もなく。

響は部屋を出て行った。


静かに、扉が閉まる。


残された愛美は、一人になった部屋で俯いた。


「……ごめん」


誰にも聞こえないほど小さな声だった。



そうして。

響は、自分の部屋へ戻った。


「……」


口元に手を当てる。

指先に、わずかに血がついた。


きっと、さっき愛美に殴られて口が切れたんだろう。


響はそれを拭い、そのまま椅子に座り込んだ。


「……結局」


何も聞き出せなかった。

せっかく、知ることができるかもしれないと思ったのに。

結局、自分は何も知らないままだ。


響は俯いた。

後悔が、少しずつ胸の中に広がっていく。


そのとき。

ふと、手元にあるものに気がついた。


「……あ」


CD。

愛美の部屋から持ってきたものだ。


返し忘れていた。


「……これ、お姉ちゃんのなのに」


響は立ち上がろうとした。


けれど。


「……」


足が、小さく震えた。


なぜだろう。

自分でも分からない。


ただ。

愛美の部屋へ戻ることを、身体そのものが拒んでいるような気がした。


「……」


しばらく、その場で立ち尽くす。


そして。

響の視線が、机の上へ向いた。


そこには、CDプレイヤーが置いてある。


「……」


手元のCDを見る。


もう一度、プレイヤーを見る。


「……ちょっとくらい、聞いてもいいよね」


誰に言うでもなく、響は呟いた。


そして。

CDプレイヤーの電源を入れる。

音量を、極限まで小さくする。


「……」


響はCDをセットした。


そして。

再生ボタンを押した。



――♪


小さな音が、部屋の中に流れ始めた。


映画『魔女の宅急便』で使われた、『海の見える街』。


最初に聞こえてきたのは、ピアノだった。


静かで。

けれど、ただ静かなだけではない。


一音一音が、まるでそこに置かれていくようだった。


響は、何も言わずに耳を澄ませた。


そして。

その音の上に、オーボエが重なった。


「……」


思わず、息を止める。

柔らかい。

けれど、芯がある。


細い音なのに、決して弱くない。


一つの音が空間に生まれた瞬間。

その音だけで、部屋の空気が少し変わったように感じた。


オーボエ特有の、どこか人の声にも似た響き。


それがピアノの音に寄り添いながら、ゆっくりと旋律を紡いでいく。


前に出すぎない。

かといって、埋もれることもない。


ピアノが一歩進めば、オーボエも一歩進む。


ピアノがほんの少し呼吸をすれば、オーボエも同じ場所で呼吸する。


まるで。

二つの楽器が、最初から一つの音楽だったかのように。


「……すごい」


思わず、声が漏れた。


けれど。

その声すら、邪魔に思えるほどだった。


響は椅子に座ったまま、身動き一つ取らずに聴き続ける。


音の立ち上がり。

息の入り方。

音の終わり方。


一つ一つが、異常なほど丁寧だった。


ただ音程が正確なだけではない。

ただ音色が綺麗なだけでもない。


その音が、どこへ向かおうとしているのか。

次の音へ、どう繋げるのか。


ピアノが奏でる音楽の流れを完全に理解した上で、その中に自分の音を置いている。


それなのに。


「……全然、苦しくない」


響は、そう呟いた。


凄い演奏なのに。

聴いている側に、凄さを押しつけてこない。


ただ。

そこに音楽がある。


そんな演奏だった。


オーボエの音が、少しだけ高い場所へ上がっていく。

それに合わせるように、ピアノの響きも変わる。


ほんの僅かな変化。


けれど、その瞬間。

二つの楽器の距離が、さらに近づいたように聞こえた。


オーボエが歌う。

ピアノが支える。


そして。

ピアノが歌えば、オーボエがその続きを受け取る。


どちらかが伴奏で、どちらかが主役。

そんな単純な関係ではない。


二人で一つの音楽を作っている。

そんな演奏だった。


響は、無意識のうちに指を動かしていた。


膝の上で。

ほんの僅かに。

音楽に合わせるように。


「……」


そのことに、自分で気づいていない。

ただ耳だけが、音を追っていた。


次の音。

その次の音。

旋律の流れ。

ピアノの和音。

呼吸。

間。


すべてが、寸分の狂いもなく噛み合っている。


それなのに。

機械のような正確さではない。


むしろ。

人間が演奏しているからこそ生まれる、僅かな揺らぎまでが音楽の中に溶け込んでいた。


「……こんなの」


響は、思わずCDケースへ目を向ける。


そこに書かれていた名前。

天奏勇夫。


その名前を、もう一度思い出す。


そして。

また音へ意識を戻す。


オーボエが、静かに旋律を歌い上げる。


その音は。

優しかった。


どこか懐かしいような。

遠い場所から聞こえてくるような。


そんな音だった。


「……」


胸の奥が、僅かにざわつく。


知らない。

この曲も。

この演奏者も。

この演奏を聴いた記憶も。


自分にはないはずなのに。


なぜか。

この音を、もっと聴いていたいと思った。


そして。

曲が終わりへ向かっていく。


オーボエの音が、少しずつ遠ざかっていく。

ピアノも、それに寄り添う。


最後の音が。

静かに、部屋の中へ溶けていく。


――。


音が消えた。

それでも響は、しばらく動かなかった。


再生が止まったCDプレイヤーを見つめる。


「……」


静かだった。

けれど。


耳の奥には、まだ音が残っている。


響はゆっくりと息を吐いた。


「……凄い」


それしか言葉が出てこなかった。


技術が凄い。

音色が凄い。

表現が凄い。

そんな言葉では、足りない。


ただ。

この人は、本当に音楽を知っている。


そんな気がした。


そして。

なぜだろう。


響は、自分の手を見つめた。

さっきまで音楽に合わせて動いていた指。


その指先を見ながら。

胸の奥に、ほんの僅かな違和感を覚えていた。


――この音を。

自分は、どこかで知っているような気がする。


けれど。

それが何なのか。


響には、まだ分からなかった。


「そういえば、『天奏』って名前の人って、うちの学校にもいたような」



部活動を終えた三人は、並んで帰路についていた。


「いやー、今日も疲れたー!」


久瀬(くぜ)が大きく伸びをする。


「分かる。全国大会の練習って、こんなに大変なんだね」


狩川(きりかわ)も苦笑しながら、鞄を持ち直した。


「でもさ……」


少しだけ、狩川が前を向く。


「私たち、本当に全国に行くんだね」


「……うん」


その言葉に、久瀬も少しだけ声を落とした。


これまで目指してきた場所。

何度も話して、何度も憧れて。

それが、今はもう目の前にある。


「なんか、まだ実感ないなぁ」


「私も」


二人は笑った。


けれど、その笑顔には、ほんの少しだけ寂しさが混じっていた。


「……それにさ」


狩川が小さく呟く。


「私たち、本当に終わりなんだね」


「……うん」


全国大会。

その舞台に立つ。

それは、三年生にとって高校最後の舞台でもある。


「オーディションもあるしね」


久瀬が言った。


「誰が出るんだろうね」


「さあ……」


二人がそんな話を続ける中。

ふと、久瀬が隣を見た。


「……あれ?」


若田(わかだ)が、少し離れて歩いていた。


「若田君、どうしたの?」


声を掛けられ、若田が足を止める。


「……ごめん、先帰るね」


「え、あ、うん。さよなら〜」


「また明日ね」


二人の声を背に。

若田は一人、歩き出した。


その手は、強く握りしめられていた。



今まで。

どうして、自分だったのか。


響を差し置いて。

なぜ、自分がソロオーディションで選ばれ続けてきたのか。


その答えを、若田はまだ知らない。


だからこそ。

もう、直接聞くしかなかった。



「……僕は、」

全国大会という舞台を前に、それぞれの時間が少しずつ動き始めている。

楽しかった時間も。

苦しかった時間も。

すべてを抱えたまま、彼らは次の舞台へ進んでいく。

まだ見えていないものも。

まだ分からないことも。

それでも、立ち止まることはできない。

感想、評価、ブクマ、レビューも是非お願いします。

次回もお楽しみに!!

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