91話 答えを求めて
学校では、次の舞台へ向けた準備が始まっていた。
全国大会。そこには、これまでとは違う景色が待っている。
けれど。
その一方で、月本響の中には、別の疑問が残っていた。
自分の知らない過去。
家族が抱えているもの。
そして、自分自身が忘れてしまった時間。
その答えを探すように。
響は、一つの扉の前に立っていた。
あれから。
二時間ほど、自分の部屋にいた。
勉強をしたり。
本を読んだり。
音楽を聴いたり。
できるだけ、何も考えないようにしていた。
リビングでは、父と母と愛美が話をしている。
何を話しているのか、響には分からない。
ただ。
あのとき聞こえた、激しい音だけが頭の片隅に残っていた。
「……」
時計を見る。
そろそろ、かな。
響は椅子から立ち上がった。
部屋を出て、一階へ向かう。
急にトイレに行きたくなったのだ。
階段を下りる。
廊下を歩く。
そのときだった。
「――ドンッ!」
「……!」
響の足が止まった。
まただ。
何かを叩きつけるような音。
そして。
リビングの方から、話し声が聞こえてくる。
「……」
まだ、終わっていない。
あれから二時間も経っているのに。
父と母と愛美は、まだ話をしていた。
響は、その場に立ち尽くした。
聞いてはいけないような気がした。
けれど。
自分の家で起きていることなのに。
自分だけが何も知らない。
そのことが、どうしても気になった。
響は、リビングの扉を見つめる。
そして。
小さく息を呑んだ。
中から聞こえてくる声が、今度ははっきりと聞こえた。
「全部あいつの自業自得でしょ?!」
愛美の声だった。
「どうして、そういう風になるの?」
母親の声が返ってくる。
「うるさい!」
「愛美……」
「だいたい、パパもママも響、響、響ばっかり!」
愛美の声が震える。
「私に何か心配かけてくれたことあるとでも言いたいの?」
「それは……」
父親が言葉を詰まらせる。
「私だって、ずっと我慢してきたんだよ!」
「愛美、落ち着いて」
「どうしてなの?!」
愛美の声が、さらに大きくなる。
「響に音楽の才能があるからなの?」
「……」
「そんなの関係ないじゃない!」
「愛美、そういうつもりじゃ――」
「パパもママも、音楽なんて全く関係ないくせに!」
「……!」
響の目が僅かに開く。
音楽。
その言葉が、何度も耳に入ってくる。
「私だって、あいつに無理やり音楽に引き摺り込まれて……」
愛美の声が震える。
「パパもママも、それを黙って見てるだけだったよね?!」
「違う!」
父親が、初めて強く言い返した。
「俺たちは、お前が嫌がっていることを知らなかったんだ!」
「嘘!」
「本当だ!」
「じゃあ、どうして止めてくれなかったの?!」
「……」
父親が黙る。
母親が、静かに口を開いた。
「愛美……あなたが音楽を始めたとき、あんなに楽しそうだったじゃない」
「最初はね!」
「……」
「最初は、私だって楽しかった!」
愛美の声が震える。
「でも、途中から違った!」
「愛美……」
「やりたくなかった!」
その言葉が、家の中に響いた。
「本心でもない音楽を、押し付けられる気持ち分かるの?!」
「……」
「弟のお願いだから聞いてあげなさいって……」
愛美の声が、少しずつ小さくなる。
けれど。
その言葉の奥にある怒りは、消えていなかった。
「そんなの……あんまりだよ」
「愛美……」
「私がどんな気持ちだったか、パパもママも分かってなかったじゃん……」
母親が何か言おうとする。
しかし。
「違うの……」
愛美が遮った。
「私が欲しかったのは、音楽じゃない」
「……」
「友達と普通に過ごしたかった」
その言葉に、父親も母親も黙り込む。
「そのせいで……」
愛美の声が震えた。
「私は友達も失った」
「……」
「友達を見捨てて……」
言葉が途切れる。
「急に音楽に……」
愛美は、うまく言葉を続けられなくなっていた。
「裏切って……それで……」
その先の言葉が出てこない。
代わりに。
「……っ」
小さく息を詰まらせる音が聞こえた。
そして。
ぽた。
ぽた。
涙が落ちる音がした。
「……愛美」
母親の声が、優しくなる。
「ごめんなさい……」
「……」
「私たちも、あなたの気持ちをちゃんと見てあげられてなかった」
「……違う」
愛美が呟く。
「今さら……そんなこと言われても……」
「でも――」
「遅いよ!」
再び、声が響いた。
「全部、遅すぎるんだよ!」
「愛美!」
父親が叫ぶ。
「響だって、好きでこんなことになったわけじゃないんだ!」
「……!」
その言葉に、愛美が黙る。
「事故に遭って、記憶まで失って……」
父親の声が震える。
「今の響に、昔のことを責めても何も変わらない」
「……」
「お前だって分かってるはずだ」
「……何を?」
「響が、お前に何かを強制したわけじゃないってことくらい」
愛美は答えなかった。
「お前が音楽を始めたことも、その後どうするか決めたことも――」
父親は、一度言葉を切った。
「全部、お前自身の人生だ」
「……」
「俺たちが間違えたことまで、響のせいにするな」
その言葉に。
愛美は、俯いた。
しばらく。
何も聞こえなかった。
ただ。
外から降り続ける雨の音だけが響いている。
扉の向こうで。
響は、動けずにいた。
音楽。
友達。
そして。
自分。
何を言っているのか?
知らない言葉ばかりだった。
けれど。
一つだけ、分かったことがある。
――自分と愛美の間には。
自身が知らない、過去がある。
トイレに行く気が無くなってしまい、そのまま二階へと戻った。
「静森、学園?」
「そう。全国行くなら、外せないよね」
来島が、興味津々といった様子で聞き返す。
「そんなに凄いの? その……静なんちゃらって」
奏多が、思わず首を振った。
「凄いなんてもんじゃないよ」
「え?」
「なんせ――『聖地の覇者』って呼ばれるほどだからね」
「聖地?」
柊木が少し考えるように首を傾げる。
「それって、普門館のこと?」
「まあね」
奏多が頷く。
「今は名古屋のセンチュリーホールだけど」
「へぇ……」
「まだ学校としての歴史は、それほど長くないんだけどね」
奏多は、少し得意げに続ける。
「特に凄いのが、吹奏楽と野球なんだよ」
「野球も?」
陽翔が驚いたように聞き返す。
「そう。どっちも全国レベル」
「マジかよ……」
来島も目を丸くする。
奏多は、指を立てながら続けた。
「吹奏楽なんて、全国大会で二十年連続金賞」
「二十年?!」
来島の声が大きくなる。
「さらに、その中で一位まで取っちゃうんだから」
「一位……」
陽翔が呟く。
「それ、もう化け物じゃん……」
「だから『聖地の覇者』なんだよ」
奏多が笑う。
「全国大会に行くなら、絶対に意識しておいた方がいい」
「うわぁ……」
来島は改めて、手元の楽譜を見る。
全国大会。
そこには、そんな学校も出てくる。
東縁高校がこれから立とうとしている場所は、今まで自分たちが経験してきた大会とは、やはり違うのだ。
「……」
その横で。
響は、黙っていた。
「……?」
来島が、ふと響の方を見る。
「おーい」
返事がない。
「響、起きてるか?」
「うわぁ!」
突然声をかけられ、響が肩を跳ねさせる。
「あ、ごめん」
「大丈夫か?」
来島が心配そうに顔を覗き込む。
「ちょっと、ぼけっとしてた」
「どうしたの?なんか調子悪い?」
「いやいや」
響は、少し笑って首を振った。
「なんでもない」
そう答えた。
けれど。
その頭の中には、昨晩聞いた言葉が残っていた。
音楽。
友達。
愛美。
そして――。
自分。
全国大会の話をしているはずなのに。
響の意識は、まだ家族の過去から離れられずにいた。
「ただいま」
響は家に帰ってくる。
けれど。
誰も玄関には現れなかった。
「……いないのかな?」
そう思った。
しかし。
玄関の扉は、開きっぱなしになっている。
「……あの、母さん?父さん?」
返事はない。
響は靴を脱ぎ、家の中へ入っていく。
リビングの扉を開けた。
「……」
父は、机に俯いていた。
その姿を見た瞬間、響は何も言えなくなった。
そして。
別の部屋から、母の声が聞こえてくる。
「……」
きっと、泣いているんだろう。
昨日のことを思い出す。
愛美。
音楽。
友達。
そして――自分。
響は反射的にリビングの扉を閉めた。
そのまま、自分の部屋へ駆け込む。
「……」
ベッドに腰を下ろす。
また。
昨日みたいな話をしていたんだろうか。
そんな考えが、頭から離れない。
そして。
ふと、思った。
――僕だけ抜きにして。
一体、何の話をしていたんだろう。
昨日、聞こえてきた言葉。
愛美が音楽を嫌になった理由。
友達を失ったこと。
そして。
自分が、その過去に関わっていること。
けれど。
自分には、その記憶がない。
「……」
もし。
その話をもっと聞くことができたら。
何か思い出せるかもしれない。
何か。
分かるかもしれない。
そう思った。
気付いた時には。
響は、自分の部屋を出ていた。
廊下を歩く。
そして。
一つの扉の前で、足が止まった。
愛美の部屋。
「……」
響は、扉を見つめる。
ここに。
自分の知らない過去がある。
そんな気がした。
「……お姉ちゃん?」
響は、扉の前で声をかけた。
「入っていい?」
返事はない。
「……お姉ちゃん?」
もう一度。
それでも。
返ってこない。
「……」
響は、しばらく扉を見つめていた。
何度も。
何度も呼んだ。
けれど。
部屋の中からは、何も聞こえてこない。
「……」
入っていいのだろうか。
そんな迷いが、胸の中に浮かぶ。
けれど。
昨日聞いた言葉が、頭から離れなかった。
知りたい。
自分の知らない過去を。
響は、小さく息を吸った。
そして。
勇気を出して。
ゆっくりと、ドアノブに手をかけた。
過去は、忘れたからといって消えてしまうわけではない。
誰かの記憶の中に残り。
誰かの言葉の中に残り。
そして時には、何気ない一つの場所にさえ残っている。
知らない過去を前にして響は、ただ立ち止まることしかできなかった。
けれど。
その先には、きっと――。
まだ知らない「自分」がいる。
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