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心はB♭で響いている  作者: World of Tukimoto
第1章 響く音響編 —始動—

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90話 過去からの訪問者

文化祭という一日が終わり、東縁高校吹奏楽部は再び次の舞台へ向かって動き始める。

全国大会。

その舞台へ立つために、まずはオーディションを越えなければならない。

それぞれが楽器を手に、再び音楽と向き合っていく。

けれど――。

その一方で、月本響の知らないところでも、何かが動き始めていた。

後日。

放課後の音楽室。


いつものように、部員たちが集まっていた。


けれど――。

今日は、いつもとは少しだけ空気が違っていた。


瞬崎(しゅんざき)が、部員たちの前に立っている。


「まずは……文化祭、お疲れさまでした」


その言葉に、部員たちは顔を見合わせる。


「お疲れさまでした!」


瞬崎は、そんな部員たちを見ながら、穏やかに笑った。


「改めて振り返ってみても、素晴らしい演奏だったと思います」


「……!」


何人かの部員が、少し照れたような表情を浮かべる。


「演奏そのものももちろんですが――」


瞬崎は、ゆっくりと言葉を続ける。


「何より、皆さんが本当に楽しそうに演奏していた」


その言葉に、部員たちは静かに耳を傾ける。


「そして、その音楽を聴いた方々からも、とても好評でした」


「ほんとですか?」


「ええ」


瞬崎は頷いた。


「文化祭に来ていた生徒や先生方からも、演奏が良かったという声をたくさんいただいています」


「おお……」


「中には、吹奏楽部の演奏を聴くために体育館へ来たという人もいたそうですよ」


「えっ」


部員たちの間から、小さなどよめきが起こる。


瞬崎は笑った。


「皆さんの音は、ちゃんと届いていました」


その言葉に、音楽室が静かになる。

誰もが、その言葉を噛みしめていた。


文化祭の日。

体育館に響いた音。

客席から聞こえた拍手。

アンコールの声。


それらを思い出す。


「……良かったな」


久瀬(くぜ)が、ぽつりと呟いた。


「うん」


別の部員も頷く。


瞬崎は、そんな彼らを見ながら微笑んだ。


「今回の文化祭は、東縁高校吹奏楽部(わたしたち)にとって、とても大きな一歩になったと思います」


一度、言葉を切る。


そして。


「だからこそ――」


瞬崎の表情が、少しだけ引き締まった。


「ここで、気持ちを切り替えましょう」


部員たちの表情が変わる。


「次に待っているのは――全国大会です」


その言葉が、音楽室に響いた。


全国。

これまで何度も口にしてきた言葉。


けれど。

今までとは、少し違って聞こえた。


文化祭が終わった。

次の舞台は、もう決まっている。


「全国大会へ向けて、ここからもう一度、準備を始めます」


瞬崎は、部員たちをまっすぐ見つめる。


「まずは――オーディションです」


部員たちの間に、緊張が走った。


全国の舞台に立つためには。

まだ、越えなければならないものがある。


文化祭で届けた音を。

今度は、全国という舞台へ。


「それでは――」


瞬崎が静かに告げる。


「ここから、また始めましょう」



ユーフォニアム

・課題曲Ⅰ「マズルカ」:第85〜100小節

・自由曲「黎明(れいめい)」:中間部ソロ


チューバ

・課題曲I「マズルカ」:F〜H

・自由曲「黎明」:G〜132小節


コントラバス

・課題曲 I「マズルカ」:J〜ラスト

・自由曲「黎明」:A、C〜D



「……また変わった」


来島(らいとう)が、配られた紙を見ながら呟いた。


そこには、全国大会に向けたオーディションの範囲が記されている。


「ほんとだ」


永井(ながい)が横から紙を覗き込む。


「東海のときと、また違うね」

「しかも、結構増えてない?」

「ここも追加されてるし、ここもだ」

「うわ……」


桜咲(おうさき)が思わず声を漏らした。


「全国だからって、いきなり増やしすぎじゃない?」


「全国大会に出るならこれくらい必要ってことでしょ」


茅野が紙を眺めながら言う。


「今まで以上に、ちゃんと準備しろってことじゃない?」


「まあ……そういうことなんだろうな」


今伊(いまい)が苦笑する。


香久山も頷いた。


「せっかく全国まで来たんだからな」


それぞれが、もう一度手元の紙へ視線を落とす。


全国大会。

その言葉を、改めて実感する。


今までとは違う。

求められるものも。

練習する量も。


そして――。

このオーディションの先にある舞台も。


響(ひびき)は、若田(わかだ)を見る。


そして。


「先輩」


若田の手が、一瞬だけ止まる。

響は、いつものように自然な表情で言った。


「全国大会に向けて……頑張りましょう」


「……」


返事はなかった。

若田は響の方を見ようともしない。

そのまま、自分の楽譜を開いた。


そして。

音を確認するように、静かに楽器へ息を入れ始めた。


「……」


響は、少しだけ目を瞬かせた。


聞こえなかったのかな。

そう思った。


けれど。

もう一度声をかけることはしなかった。


「……?」


少し不思議そうに若田を見る。

けれど、響にはその理由が分からない。


自分は、何か変なことを言っただろうか。

そんなことを考えながら。


響も、自分の楽譜へ視線を戻した。


「……僕も、やろう」


楽譜を開く。

全国大会オーディションの範囲。


今、自分がやるべきこと。

それだけを考える。


響は楽器を構えた。

その隣で。

若田もまた、一人で楽譜を見つめていた。


同じパート。

同じ音楽。

同じ全国大会を目指している。

それでも――。


二人の間には、まだ見えない距離があった。



その日の帰り道。

外は、ひどい雨だった。


空を覆う雲は厚く、雨粒が途切れることなく地面へ落ちている。


傘を差していても、風に煽られた雨が身体に当たる。


「……すごい雨だな」


響は、少し濡れた制服の袖を見ながら歩いていた。


学校を出るときは、ここまで降っていなかったはずだ。


それでも。

家に着く頃には、靴も少し濡れていた。


玄関の前に立つ。

鍵を開けて、扉を開く。


「ただいまー」


「おかえり」


いつものように、家の中から声が返ってきた。


「今日は遅かったわね」


「文化祭の後だから、少し片付けとかあって」


「そうだったの」


母親が、キッチンから顔を出す。


「ほら、タオル使いなさい。風邪引くわよ」


「ありがとう」


響はタオルを受け取り、髪を拭く。


家に帰る。

それだけのことなのに。


響にとっては、まだ少し不思議な感覚があった。


ここが自分の家。

目の前にいるのが、自分の両親。


頭では理解している。


けれど。


今の響にとって、それは「知っている」というより、「教えてもらった」ものだった。


「そういえば、今日の夕飯は?」


「今日は――」


母親が答える。


「それから、お風呂はもう沸いてるからね」


「分かった」


父親も、テレビを見ながら口を開いた。


「そういや、明日は学校――」


「明日は普通に授業」


「そうだったな」


そんな何気ない会話。


そのたびに、響は両親から少しずつ「いつものこと」を教えてもらう。


自分の家では、どこに何があるのか。

いつも何時頃に夕飯を食べるのか。

学校から帰ったら、どんなふうに過ごしていたのか。


覚えていないことは、まだたくさんある。


それでも。

こうして毎日の生活を繰り返していくことで、少しずつ今の生活には慣れてきていた。


「……そうだ」


響がふと思い出したように口を開く。


「この前言ってた楽譜なんだけど――」


そのときだった。


――ピンポーン。

家の中に、インターホンの音が響いた。


「……誰だろう?」


母親が立ち上がる。


「こんな時間に?」


外では、相変わらず激しい雨が降っている。

父親もテレビから視線を外した。


「俺が出るよ」


「お願い」


父親が玄関へ向かう。

響も、何となくその後ろについていった。


そして。

玄関の扉が開く。


「はい――」


そこで。


父親の声が止まった。


「……え?」


響も、玄関の方へ視線を向ける。


そこに立っていたのは――。

一人の女性だった。


全身が雨に濡れている。

髪からは水滴が落ち、服もすっかり濡れていた。

傘を持っている様子もない。


ただ。

何も言わず、そこに立っている。


響は、その女性を見つめた。


知らない人だった。

少なくとも。

響の記憶には、こんな人はいない。


「……愛美(みなみ)?」


父親が、驚いたように名前を呼んだ。


「……!」


母親も、玄関へ駆け寄ってくる。


「愛美……!」


その女性は、ゆっくりと顔を上げた。


「な、なんで連絡もせずに急に……」


母親が心配そうに問いかける。


けれど。

女性は、しばらく何も答えなかった。


「愛美?」


もう一度、母親が呼ぶ。


すると。

女性は、ぽつりと呟いた。


「……分からない」


「え?」


母親が目を見開く。


「どうしたの?」


「……分からない」


同じ言葉。

父親も困惑した表情を浮かべる。


「どうして来たんだ?」


「……分からない」


「何かあったのか?」


「……分からない」


何を聞かれても、返ってくるのは、その言葉だけだった。


「……分からない」


響は、黙ってその女性を見つめていた。


愛美。

両親がそう呼んでいる。


ということは。


きっと、自分にとっても大切な人なのだろう。


けれど。

思い出せない。


名前を聞いても。

顔を見ても。

何も浮かんでこない。


ただ。

目の前に、ずぶ濡れになった見知らぬ女性が立っている。


「……」


響は、不思議そうに彼女を見つめた。


そして。


その女性――愛美もまた、何かを失ったような目で、家の中を見つめていた。



その日の夜。

雨は、まだ降り続いていた。


窓の外から、雨粒が屋根や窓ガラスを叩く音が聞こえている。


「いただきます」


いつものように、家族三人――いや。

今日は、四人で食卓を囲んでいた。


愛美は、何事もなかったかのように椅子に座っている。


濡れていた服は着替えさせてもらった。

髪も乾かした。


けれど。

その表情は、どこかぼんやりとしていた。


響は、向かいに座る愛美をちらりと見る。


やはり。

何度見ても、知らない人だった。


「……」


それでも、両親にとっては違う。

父も。

母も。

愛美を知っている。


自分だけが、知らない。

そんな奇妙な食卓だった。


「これ、食べる?」


母親が愛美に料理を取り分ける。


「……うん」


「無理に食べなくてもいいからね」


「大丈夫」


愛美は、箸を手に取る。


そして。


普通に食事を始めた。


「……」


響も、黙って食事を続ける。


最初のうちは本当に、いつもと変わらなかった。


学校のこと。

文化祭のこと。

明日の予定。


そんな何気ない話をしながら、夕食を食べていく。

愛美も、ときどき小さく頷いていた。


けれど、しばらくすると。

父親が箸を置いた。


「……なあ」


食卓の空気が、少しだけ変わった。


愛美が顔を上げる。

父親は、まっすぐ愛美を見ていた。


「どうして、見舞いに来なかったんだ?」


「……」


愛美は答えない。


「響が入院していたとき」


父親の声は、静かだった。


「どうして一度も来なかった?」


「……分からない」


「……」


父親の表情が、わずかに曇る。


「返事もしなかったよな」


「分からない」


「何度も連絡したんだぞ」


「……分からない」


同じ言葉。

何度聞いても返ってくるのは、それだけだった。


「愛美」


父親の声が少し強くなる。


「何があったんだ?」


「分からない」


「どうして響のところへ来なかった?」


「分からない」


「……本当に何も覚えてないのか?」


「分からない」


「……」


父親が拳を握る。


母親が心配そうに父親を見る。


「あなた……」


けれど。


父親は止まらなかった。


「お前は、響のことをどう思ってるんだ?」


「……分からない」


「家族だろ!」


突然、声が大きくなった。


響の手が止まる。

愛美も、じっと父親を見つめている。


「響が事故に遭って、記憶まで失って……」


父親の声が震える。


「それなのに、お前は一度も来なかった!」


「……分からない」


「分からない、分からないって……!」


父親が声を荒らげる。


「何なんだ、それは!」


食卓が静まり返った。


外では、激しい雨が降り続いている。

響は、ただその光景を見つめていた。


何が起きているのか、分からない。


愛美も。

父親も。

母親も。

誰もが何かを知っているようなのに。


自分だけが、その輪の外にいるようだった。


「……」


愛美が俯く。


そして。


次の瞬間。


ガタンッ!


椅子が大きな音を立てた。


愛美が立ち上がった。


「……!」


響が驚いて顔を上げる。

愛美は、震えていた。


その手が、ゆっくりと上がる。


そして。


父親を指差した。


「――――っ!」


何かを叫んだ。


けれど。

言葉は、うまく聞き取れなかった。


「……愛美?」


母親が戸惑う。


それでも、愛美は叫び続ける。


声が震えている。

怒っている。

何かを訴えている。


「どうした?」


父親が問いかける。


しかし。

愛美は答えない。


ただ。

その指先だけが、少しずつ動いていく。


父親へ向けられていたはずの指が。

ゆっくりと。

別の方向へ向いた。


そして――。

止まった。響の方で。


「……え?」


響は、目を見開いた。


愛美の目が、自分を捉えている。


その表情には。


明らかな怒りがあった。


「……僕?」


愛美の口から、再び声が漏れる。


けれど。

何を言っているのか、響には分からない。


ただ。


その言葉と。

その視線と。

向けられた指先だけは、明らかに、自分へ向けられていた。


「……」


響は、動けなかった。


知らない女性。

それなのに。

その人は今。

まるで自分を責めるように、何かを叫んでいる。


どうして。

なぜ。

自分が――。


愛美の叫び声が、雨音の中に響いていた。


しばらくして。

父親が、大きく息を吐いた。


「……はぁ」


その表情には、疲れが滲んでいた。


そして。

父親は、響を見る。


「響」


「……うん?」


「少し、部屋にいてくれないか」


「え……?」


響が、父親を見る。


「三人で……話したい」


その言葉に響は、少しだけ戸惑った。


けれど。


「う、うん」


小さく頷く。

椅子から立ち上がろうとした、そのとき。


「……響」


母親の声が聞こえた。


響が振り返る。

母親は、俯いていた。


そして。

頬には、涙が流れていた。


「……ごめんね」


「……え?」


何に対して謝っているのか。

響には分からなかった。


「どうして……」


聞こうとした。


けれど。

母親は、それ以上何も言わなかった。


ただ。

静かに涙を流している。


「……」


響も、何も言えなかった。


そして。

そのままリビングを出た。


 

扉が閉まる。


「……」


廊下に、一人。

響は立っていた。


まるで。

自分だけが、そこから追い出されたような気がした。


家族なのに。

家族の話なのに。

自分だけが、その中に入れない。


響は、何も考えないようにして、自分の部屋へ向かって歩き出した。


一歩。

また一歩。


廊下には、雨の音だけが響いている。


そのとき――。


「――ドンッ!!」


突然。

何かを叩きつけるような、激しい音が響いた。


「……!」


響の足が止まる。

リビングの方からだった。


続けて。


「――――!」


何か声が聞こえた。


けれど。

何を言っているのかまでは、分からない。


響は、その場に立ち尽くした。


振り返れば、何が起きているのか、分かるかもしれない。


けれど。

響は、振り返らなかった。


振り返ることが、できなかった。


「……」


そのまま、前だけを見て。

響は、ゆっくりと歩き出した。


背中の向こうから、何かが崩れていくような音が聞こえていた。


けれど。

響は、一度も振り返らなかった。



「お疲れ様でしたー!」


楽屋に、明るい声が響き渡った。演奏会を終えたばかりの楽屋には、まだ熱気が残っている。


「いやぁ、今日も無事終わったな!」

「お疲れ!」

「いやー、今回も良かったですね!」

「最後の曲、かなり盛り上がってたぞ!」

「本当にお疲れ様でした!」


あちこちから、労いの言葉が飛び交う。


そんな中。

一人の男が、ある人物へ声をかけた。


「いやー、さすが天奏(てんそう)先生!」


「ん?」


「オーボエソロ、本当に見事でしたよ」


そう言われると、少しだけ笑った。


「ははは。褒めても、何も出ないからな」


「またまたー!」


「でも――」


天奏は、周囲を見渡した。


「今日はみんなで飲もうって決めてるからな!」


「おおおお!」

「賛成!」

「やった!」


その一言に、楽屋の空気が一気に沸き立つ。


「じゃあ、今日はとことん行きましょう!」

「お疲れ様でしたー!」

「お疲れ様!」


笑い声が広がる。


そんな喧騒の中。

天奏は、ふと足元へ視線を落とした。


「……ん?」


そこに。

一枚の楽譜が落ちていた。


それを拾い上げる。

そして――。


「……」


その場で、動きが止まった。


「ん?天奏先生、どうしましたか?」


近くにいた者が、不思議そうに声をかける。


「……ああ」


天奏は、手にした楽譜を見つめたまま答える。


「いや……なんでもない」


「そうですか?」


「ああ」


天奏は、ほんの少しだけ笑った。


「ちょっと、昔のことを思い出してね」


「昔?」


「ああ」


天奏は、楽譜から視線を上げる。


「教え子の一人を」


「へぇ……教え子ですか」


「ああ」


天奏は、しばらく黙っていた。


そして。

遠い記憶を探るように、ゆっくりと口を開く。


「確か……名前は――」


一度、言葉を止める。


そして。

静かに。


その名前を口にした。





「月本(つきもと)……愛美」


――――。

文化祭を終え、東縁高校吹奏楽部はいよいよ全国大会へ。しかし、全国の舞台に立つためには、まだ越えなければならない壁がある。

ここから始まる、全国大会オーディション。それぞれの想いを胸に、部員たちは再び楽器を手にする。

全国の舞台で奏でる音は、誰のものになるのか。

そして、彼らを待ち受けるものとは――。

感想、評価、ブクマ、レビューも是非お願いします。

次回もお楽しみに!!

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