86話 届いた知らせ
新しい季節が始まれば、学校の日常も少しずつ変わっていく。
文化祭に向けた準備が始まり、東縁高校吹奏楽部にも新たな舞台が用意された。
自分たちは、そこで何を演奏するのか。
誰に、どんな音を届けるのか。
これまでとは少し違う場所で、彼らは新しい一歩を踏み出していく。
そして、その音はやがて、思いがけない場所へも届いていく。
部員達は、どこかソワソワしていた。
自分達のために、ステージが用意されている。
その事実が、まだ現実味を持っていなかった。
「……本当にやるんだよな?」
「やるって言ってたじゃん」
「いや、そうなんだけど……」
「なんか、信じられないよな」
「分かる……」
音楽室のあちこちから、そんな声が聞こえてくる。
「文化祭で吹奏楽部がコンサートって……」
「しかも、ちゃんとステージまで用意されるんでしょ?」
「去年までじゃ考えられないよな」
その言葉に、何人かが静かに頷いた。
去年までなら、そんなものは絶対になかった。
文化祭で吹奏楽部が大きく取り上げられることもなければ、自分達のためにステージが用意されることもなかった。
むしろ、東縁高校吹奏楽部は、学校の中でも長い間、冷遇されてきた部活だった。
だからこそ。
「……なんか、すごいな」
香久山が、ぽつりと呟いた。
「俺たちが……文化祭で演奏するんだよな」
「しかも、ただの発表じゃなくてコンサート」
「スペシャルコンサート、だってさ」
「名前だけでもすげぇな」
小さな笑いが起こる。
けれど、その笑顔の奥には、隠しきれない期待があった。
「……何の曲やるんだろ」
「それな」
「やっぱり大会でやった曲?」
「いや、文化祭なら違う曲じゃない?」
「でも響が戻ってきたし、せっかくだから――」
そこまで言って、声が止まる。
一瞬、全員の視線が響をへ向いた。
「……?」
響は不思議そうに首を傾げた。
「僕がどうかした?」
「いや、なんでもない」
「そう?」
響はそう言って、再び周囲を見渡す。
その表情には、少しだけ笑みが浮かんでいた。
そして。
「……楽しみだな」
その一言に、周囲の部員たちも顔を見合わせる。
「……だな」
「うん」
「せっかくだし、ちゃんといい演奏にしたいよな」
「俺も」
「絶対成功させようぜ」
いつの間にか、音楽室には先ほどまでとは違う空気が生まれていた。
期待。
緊張。
そして、少しの興奮。
自分達の音を、もっとたくさんの人に聴いてもらえる。それだけのことが、今の彼らには特別だった。
去年までなら、そんな未来を想像することすらできなかったのだから。
「それで、コンサートの曲ですか……」
瞬崎が、部員達を見渡した。
「曲目については、皆さんに任せます」
「……え?」
一瞬、部員達が固まった。
「好きな曲、選んでいいんですか?」
「はい」
瞬崎はあっさりと頷いた。
「時間を考えると、だいたい六曲程度は演奏できると思います。その範囲であれば、皆さんで決めて構いません」
「六曲……!」
「結構できるじゃん!」
「で、何にする?」
瞬間、音楽室がざわつき始めた。
「やっぱりポップス系入れたい!」
「でも普通に吹奏楽曲もやりたいだろ」
「映画音楽とかどう?」
「それならアニメの曲も!」
「待って待って、そんなに入れたら六曲じゃ足りなくなるって!」
次々と意見が飛び交う。
「俺、あの曲やりたい!」
「どれ?」
「この前聴いたやつ!」
「曲名言ってくれ!」
「えーっと……」
「分からないのかよ!」
笑い声が起こる。
「でも……」
そんな中、久瀬が口を開いた。
「せっかく学校のみんなが聴きに来てくれるなら、知ってる曲も入れたほうがいいんじゃない?」
「確かに」
「普段吹奏楽聴かない人もいるだろうし」
「だったら、みんなが楽しめる曲を何曲か入れようよ」
「でも、吹奏楽部らしい曲も欲しいよな」
「有名なジャズとかもいいかも」
次第に、ただ好きな曲を挙げるだけではなくなっていく。
何を演奏したいのか。
誰に聴いてほしいのか。
どんなコンサートにしたいのか。
それぞれが少しずつ考え始めていた。
去年まで、自分達にはなかった場所。
今、その場所で何を演奏するのか。
それを決めるのは、自分達だった。
「お邪魔するよ」
扉が、静かに開いた。
「……なんだ、零君か」
奏多は、ベッドに座ったまま小さくため息をついた。
「待てよ。そんなに僕が来るの嫌だった?」
「いや、そういうわけじゃないよ」
奏多は少しだけ目を伏せる。
「ただ……凄いスパンで来るんだなって」
「そう?」
零は苦笑しながら、部屋の中へ入っていく。
「まあ、いいじゃん。暇だったし」
「君は暇じゃなくても来そうだけどね」
「それは否定できないな」
零はそう言って笑った。
しばらく、他愛のない話が続く。
けれど。
「そういえばさ」
零が、ふと思い出したように口を開いた。
「狩川先輩から聞いたんだけど」
「……先輩が?」
その名前に、奏多の表情が僅かに変わる。
「東縁高校、文化祭でコンサートやるらしいよ」
「……コンサート?」
奏多が顔を上げた。
「うん。吹奏楽部のスペシャルコンサートだって」
「……」
「しかも、演奏する曲は自分達で決めてるらしい」
零は、特に何かを意識することなく話している。
「六曲くらい演奏できるみたいでさ。今、みんなで曲を決めてるって」
「……そう」
奏多は短く返した。
けれど。
胸の奥が、妙にざわついていた。
文化祭。
コンサート。
六曲。
自分達で決める曲。
その言葉一つ一つが、頭の中に引っかかる。
「……いいね」
零が言う。
「楽しそうじゃん」
「……」
奏多は答えなかった。
羨ましい。
そう思った。
けれど、それを認めることが嫌だった。
東縁には、響がいる。
柊木もいる。
みんなで練習して。
みんなで音を出して。
そして今度は、文化祭で演奏する。
自分がいない場所で。
自分がいなくても。
東縁は、前へ進んでいる。
その事実が、胸の奥を締め付ける。
「……」
奏多は、膝の上で手を握った。
何かが込み上げてくる。
悔しい。
寂しい。
羨ましい。
そして――。
もう一度、音を出したい。
そんな感情が、押さえ込もうとしても消えてくれない。
「……奏多?」
零が、心配そうに声をかける。
「……なんでもない」
奏多はそう答えた。
けれど、自分でも分かっていた。
これは「なんでもない」なんかじゃない。
東縁が前へ進んでいる。
その話を聞いただけで、胸の奥に眠らせていたものが少しずつ動き始めている。
そして。
「……なら」
奏多が、ぽつりと呟いた。
零が振り向く。
奏多は、ゆっくりと顔を上げた。
「……僕だって」
帰り道。
陽翔は、一人で歩いていた。
夕方の空を眺めながら、今日の部活のことをぼんやりと思い返している。
文化祭。
スペシャルコンサート。
そして、これから決めていく曲。
そんなことを考えていた、その時だった。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。
「……ん?」
陽翔は足を止める。
画面を見ると、通知が一件届いていた。
「……奏多?」
表示された名前に、陽翔の表情が変わる。
奏多からのLINEだった。
「……」
陽翔は、少しだけ躊躇ってからトーク画面を開いた。
そして。
画面を確認した瞬間。
陽翔の動きが止まった。
「…………奏多」
しばらくの間、陽翔は何も言わなかった。
ただ、画面をじっと見つめている。
そこに書かれていた言葉を、何度も読み返す。
そして。
「……本当に」
小さく息を吐く。
「本当に、奏多は変わらないんだな」
陽翔は、スマートフォンの画面に向かって、ゆっくりと微笑んだ。
その笑顔には、どこか懐かしさがあった。
そして――。
少しだけ、嬉しそうだった。
数日後。
職員室。
放課後の校内が少しずつ静かになっていく中、久瀬と瞬崎は、並んで一枚の紙に目を落としていた。
「今後の部活動についてですが……」
瞬崎が、資料をめくりながら口を開く。
「前から話している通り、全国大会に向けて、改めて再オーディションを行います」
「はい」
「現在の部員構成を踏まえた上で、もう一度パートや役割を整理しておいた方がいいでしょう」
「分かりました」
久瀬は頷く。
「あ、文化祭のスペシャルコンサートについてですが……」
そう言って、久瀬は一枚の紙を差し出した。
「こちらが、部員達と決めた曲です」
「もう決まったのですか。早くて助かります」
瞬崎は紙を受け取る。
そして、書かれている曲目へ目を通していく。
一曲。
二曲。
三曲。
そのまま最後まで目を通したところで。
「……」
瞬崎の口元が、僅かに緩んだ。
「いいセンスをしていると思いますよ」
「……!」
久瀬が少し驚いたように顔を上げる。
「幅広い方が楽しめる、いいプログラムだと思います」
「あ、ありがとうございます」
久瀬は照れ隠しするように、頭を下げた。
瞬崎から直接褒められることなど、そう多くはない。だからこそ、その一言が少し嬉しかった。
しかし。
瞬崎は、もう一度紙へ視線を落とす。
「世代の曲から、今の曲まで……」
指で曲目を追っていく。
「それに、アンコールまで想定しているとは……」
そして、顔を上げる。
「久瀬さん、相当自信があるようですね」
冗談めかした口調。
その口元には、穏やかな笑みが浮かんでいた。
久々に見る狂気の顔だった。
久瀬はその表情に気づいたのか、少しだけ目を瞬かせる。
そして、頭を上げた。
「あはは」
少し照れたように笑う。
「アンコールのことは、ある人の希望なんですけどね」
「そうですか」
瞬崎は再び、穏やかな表情に戻った。
「では、その人も含めて……」
一度、紙へ目を落とす。
「それに了承した皆さんも、随分と自信があるのですね?」
「あ、ははは……」
久瀬は苦笑する。
「まぁ、いいでしょう」
瞬崎はそう言って、紙を整えた。
「では、こちらのプログラムで組んでおきます」
「ありがとうございます!」
久瀬は深く頭を下げる。
「失礼しました!」
久瀬が職員室を出ていく。
扉が静かに閉まった。
瞬崎は、机の上に置かれた曲目表へもう一度目を向ける。
そして。
「……楽しみですね」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
「三校目、プログラム十七番。島根県代表、静森学園高校」
アナウンスが、ホールに響き渡る。
直後。
大きな拍手が起きた。
しかし。
歓声は、全く起きなかった。
まるで。
それが当たり前のことであるかのように。
拍手だけが、静かにホールを満たしていく。
やがて、その拍手が落ち着く。
そして、流れるようにアナウンスが続いた。
「続いて、最も優秀な演奏をし、朝日新聞社賞を受賞した一校を発表します」
再び。
ホールが、一瞬の静寂に包まれる。
誰もが、次の言葉を待っていた。
そして。
「プログラム十七番、静森学園高校」
瞬間。
先ほどと同じように、大きな拍手が起きた。
しかし。
やはり、歓声はなかった。
当然の結果。
そう言わんばかりに。
その時だった。
「竹乃さん」
隣から、小さな声が聞こえた。
「全国も一位、取ろうね」
文化祭に向けて、東縁高校吹奏楽部が新たな一歩を踏み出した。これまで自分たちのための舞台すらなかった彼らにとって、今回のスペシャルコンサートは特別なものになるはず。
演奏する曲を自分たちで決め、どんな音を届けるのかを考える。そして、それぞれの胸の中でも、少しずつ何かが動き始めている。
新しい舞台。
新しい音。
そして、まだ見ぬ場所へ。
感想、評価、ブクマ、レビューも是非お願いします。
次回もお楽しみに!!




