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心はB♭で響いている  作者: World of Tukimoto
第1章 響く音響編 —始動—

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85話 次の舞台へ

人は、過去を変えることはできない。

忘れてしまった時間も。

失ってしまった記憶も。

大切にしていた思い出も。

それでも、時間は止まらない。

昨日までとは少し違う場所で。

知らない景色の中で。

人はまた、新しい時間を積み重ねていく。

そして、季節が変われば、学校にも新たな日常が訪れる。

「本当に……何も覚えて、ないの……?」


腕を掴む力が、さらに強くなる。


「痛ったいなぁ、なんだよ、急に」


あまりの痛みに、響(ひびき)は思わず柊木(ひいらぎ)の手を振りほどいた。


柊木は、歯を食いしばっていた。

ギシギシと、歯が擦れる音が確かに聞こえる。


「……」


その様子を見た瞬間、響は思わず我に返った。


「ッ!ご、ごめん。そういうつもりじゃ……」


「……なんで」


柊木が、ようやく口を開いた。


「え?」


「なんで……覚えてないんだよ」


その声は、怒鳴っているわけではなかった。むしろ、今にも消えてしまいそうなほど震えていた。


「僕たちと過ごした時間も……全部?」


「……うん」


響は、ゆっくりと頷く。


「ごめん。何度も言われたけど……本当に何も思い出せない」


「……嘘だ」


「え?」


「嘘だろ……」


柊木が一歩、響へ近づく。


「だって……普通に吹いてたじゃん」


「……」


「楽譜だって、最初は分からなかったのに……吹き始めたら、何でもないみたいに吹いてたじゃん」


柊木の声が、少しずつ震えていく。


「だったら……なんで僕たちのことは覚えてないんだよ……」


「……柊木君」


「僕は……」


柊木が言葉を詰まらせる。


拳が、強く握り締められる。


「僕は、お前と一緒にやってきたこと……全部覚えてるのに」


響は、何も言えなかった。


「練習したことも……大会のことも……全部」


柊木の声が、さらに小さくなる。


「……全部、僕には残ってるのに」


「……」


「なんで……何も残ってないんだよ」


その言葉に、響はしばらく柊木を見つめた。

そして。


「……ごめん」


「……謝らないで」


柊木が、すぐに返す。


「そうやって謝られると……余計に、どうすればいいか分かんなくなるのに……」


少し考えて、響は口を開く。

 

「僕には……たぶん、柊木君が今どんな気持ちなのか、全部は分からない」


「……」


「だって、僕にはその時間がないから」


柊木の表情が、わずかに歪む。

けれど、響は言葉を止めなかった。


「でも」


響は、柊木をまっすぐ見つめる。


「柊木君が、その時間を大切にしてたってことは分かるよ」


「……だったら」


柊木の声が震える。


「だったら、なんで……」


「だからこそ、謝るしかないんだと思う」


「……」


「僕には、その時間を返すことはできないから」


響は、一度だけ視線を落とした。


「思い出そうとしても、何も出てこない。みんなが話してくれたことは分かる。でも、それは僕自身が経験した記憶じゃない」


「……うん」


「だから……今すぐ柊木君が納得できないのも、当然だと思う」


柊木が黙り込む。


響は、そんな柊木を見ながら、ゆっくりと言葉を続けた。


「でも」


「……?」


「僕は、ここに戻ってきたことを後悔してないよ」


柊木が顔を上げる。


「楽譜を見ても、みんなの顔を見ても、何も思い出せない。でも……」


響は、自分の手を見る。


「この手は、ちゃんと覚えてた」


「……」


「だったら、もしかしたら……これから覚えていくことだってできるんじゃないかな」


「これから……?」


「うん」


響は頷いた。


「僕には、柊木君と過ごした時間はない」


その言葉に、柊木の表情が再び曇る。


けれど。


「でも、これから柊木君と過ごす時間なら作れる」


「……」


「それじゃ……駄目かな?」


柊木は、何も言わなかった。


「昔の僕の代わりにはなれないかもしれない」


響は苦笑する。


「というか、僕自身だから、代わりっていうのも変だけど」


柊木の口元が、ほんの少しだけ動いた。


「でも……」


響は続ける。


「これから一緒に練習したり、また大会に出たり、くだらないことで話したり……そういう時間を、もう一回作ることはできる」


「……」


「僕は、柊木君が覚えてる時間を消したいわけじゃない」


響の声は、静かだった。


「それは柊木君の大切な思い出なんだから」


柊木は俯いたまま、何も言わない。


「だから……その思い出は、そのままでいいと思う」


「……響」


初めて、柊木が名前を呼んだ。


響は、少しだけ目を見開く。


「僕は……」


柊木の声が震える。


「……まだ、受け入れられない。何も覚えてないって……まだ、納得できない」


「うん」


「……腹が立つ。悲しい、悔しい」


「……うん」


響は、ただ頷いた。


「でも……」


柊木は、ゆっくりと顔を上げた。


「……もう、怒っても仕方ないんだよな」


響は少しだけ考える。

そして。


「怒ってもいいと思うよ。僕が柊木君の立場だったら……たぶん僕も怒るから」


「……」


「だから、無理に納得しなくていい」


響は、柊木をまっすぐ見つめた。


「ただ……」


一拍置く。


「僕は、これからもここにいるから」


柊木の目が、僅かに揺れた。


「だから……また一緒にやろうよ」


しばらく、二人の間に沈黙が流れた。

やがて柊木は、俯きながら小さく息を吐いた。


「……ずるいよ、本当に」


「え?」


「そんなこと言われたら……何も言えないじゃん」


「……ごめん」


「だから謝るなって……」


柊木はそう言いながら、響から顔を背けた。


その声には、先ほどまでの張り詰めたものが少しだけ消えていた。


「……分かった」


「……うん」


「全部は……まだ無理だけど」


柊木は、ゆっくりと響を見る。


「……これからのことなら、考えてみる」


「そっか」


響は、少しだけ笑った。


「じゃあ、それでいいよ」


柊木は目を伏せる。


「うん...」


その言葉を最後に、柊木はようやく響の腕から手を離した。



それから、まもなく文化祭への準備期間が始まった。


部活動だけではない。学校全体が、少しずつ文化祭へ向けて動き始めていた。


そして響もまた、久しぶりに教室での時間を過ごしていた。


「じゃあ、こっちはこの紙を切っていこう」

「了解!」

「そっちはもう終わった?」

「あとちょっと!」


教室のあちこちから、クラスメイトたちの声が聞こえてくる。


机は教室の端へ寄せられ、普段なら黒板へ向けられている机も、今は作業台代わりになっていた。


壁には文化祭の装飾。

床には段ボールや画用紙、絵の具。


普段とはまるで違う教室の景色に、響は少しだけ周囲を見回した。


「響、そっち持って」

「これ?」

「そうそう。そこ押さえてて」

「分かった」


言われた通りに、響は段ボールを押さえる。


「もうちょっと右」

「ここ?」

「うん、そこ!」

「了解」


そのまま作業を続ける。


何気ない会話。

何気ない時間。

それだけだった。


けれど。

響にとっては、その一つ一つが新しかった。


クラスメイトとこうして話すことも。

一緒に文化祭の準備をすることも。

自分がこの教室で、以前どんな時間を過ごしていたのかも。


何も覚えていない。

それでも。


「……なんか、楽しいな」


思わず、響が呟いた。


「え?」


近くにいたクラスメイトが振り返る。


「文化祭準備が?」


「うん」


響は少しだけ笑った。


「なんとなく」


「なんだそれ」


クラスメイトが笑う。


「でも、まあ分かる。こういうの楽しいよな」


「だね」


響も笑った。


その瞬間。


「響、そこ終わったならこっち手伝って!」


「分かった!」


再び声が飛んでくる。

響はすぐにそちらへ向かった。


記憶はない。

このクラスで過ごした時間も。

友達と笑った時間も。


何一つ、思い出せない。


それでも。

今、この場所で笑っていることだけは確かだった。



東縁(とうえん)高校の文化祭。

その名は――T Fes(ティーフェス)。


毎年秋の初めに開催される、東縁高校最大の学校行事の一つである。


クラスごとの展示や出し物をはじめ、部活動による発表、ステージイベントなど、校内のいたるところで様々な催しが行われる。


普段はそれぞれの場所で活動している生徒たちが、この日ばかりは一つの学校行事のために動く。


文化祭という一日を作り上げるために、準備期間から多くの生徒がそれぞれの役割を担い、教室や廊下、体育館など、学校全体が少しずつその姿を変えていく。



ある日。


部活のミーティングが行われていた。


部員たちはいつものように集まり、瞬崎(しゅんざき)の前に並んでいる。


「では、皆さんに一つお知らせがあります」


瞬崎がそう切り出した。


「……?」


部員たちは、何が始まるのかと顔を見合わせる。


そして。

瞬崎は、いつもと変わらない様子で口を開いた。


「今年から、T Fesのイベントの一つとして――」


一度、言葉を切る。


「吹奏楽部による、スペシャルコンサートをすることになりました!」


「…………」


一瞬。

音楽室が、完全に静まり返った。


そして。


「えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!!」


部員たちの叫び声が、音楽室中に響き渡った。

過去は、簡単には変わらない。

忘れてしまった人も。

忘れられない人も。

それぞれが、それぞれの想いを抱えたまま、それでも前へ進んでいく。

そして東縁高校では、文化祭に向けた準備が始まった。

教室も。

学校も。

そして、吹奏楽部も。

いつもの日常が、少しずつ変わっていく。

新しい季節に、新しい舞台。

ここからまた、東縁の物語が動き始める。

感想、評価、ブクマ、レビューも是非お願いします。

次回もお楽しみに!!

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