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心はB♭で響いている  作者: World of Tukimoto
第1章 響く音響編 —始動—

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84話 指先の記憶

人は、すべてを覚えているわけではない。

忘れてしまうこともある。

失ってしまうこともある。

それでも。

言葉では説明できないものが、心や身体のどこかに残っていることがある。

たとえ過去を知らなくても。

そこにあった時間を覚えていなくても。

もう一度、同じ場所に立つことはできるのかもしれない。

家を後にした陽翔(はると)は、外で待っていた四人と合流する。


「どう、何か分かった?」


守田(もりた)が口を開いた。


陽翔は、少しだけ黙った。


「……まあ、少しは」


「本当?」


守田の表情がわずかに明るくなる。


しかし。


「でも、今は話さない」


「え?」


守田が目を丸くする。


「なんで?」


「奏多(かなた)が、自分から話したいと思ったときに話せばいいと思うから」


陽翔は、そう答えた。


「俺が勝手に話すことじゃない」


「……」


狩川(きりかわ)は、何かを察したように陽翔を見る。


「そういうことね」


「うん」


陽翔は短く頷いた。


「だから、俺からは何も言わない」


「そっか……」


守田も、それ以上は聞かなかった。


陽翔は、もう一度だけ奏多のいる家へ視線を向ける。さっきまで向き合っていた顔が、頭に浮かんだ。


「……まあ、少なくとも」


陽翔が小さく呟く。


「話してくれてよかったよ」


その言葉に、陽翔以外の四人は何も返さなかった。

ただ、それぞれが静かに頷いた。


すると狩川が、何かを思い出したようにバッグへ手を伸ばす。


「あ、そうだ。せめてこれだけでも渡しておこう」


そう言って、取り出したものを紙袋の中へ入れた。


そして、そのまま家へ向かって歩き出そうとする。


しかし。


「分かりました。それは僕が渡しておきます」


零(れい)が、狩川を止めた。


「え?あ、うん。お願い」


狩川は少し戸惑いながらも、紙袋を零へ手渡す。


「じゃあ、時間も遅いですし、もう帰りましょうか」


「そうですね」


陽翔が頷く。


こうして、陽翔、守田、狩川の三人は、来た道を戻っていった。



すると、時計を見た慶江が、何かを思い出したように呟いた。


「やば、今日ピアノレッスンだった。ごめん、私も先帰るね」


「え、あ、うん」


零が返事をするより早く、慶江は零に手を振る。


「じゃあね!」


そう言い残すと、慶江は大急ぎで走り去っていった。


その場に一人残された零は、手に持った紙袋へ視線を落とす。


「……これ、何だろう」


少しだけ気になりながらも、零は紙袋の中身を確認する。


そして、中身を確かめた零は、再び奏多の家へと向かって歩き出した。



奏多の部屋に、零が入ってくる。


「あれ、みんなは?」


「時間が時間だしね。もう帰ったよ」


「そ、そっか」


奏多は、小さく頷いた。

零は、そんな奏多の様子を見ながら、静かに尋ねる。


「どう? 少しは落ち着いた?」


「……うん」


奏多は少しだけ考えてから、答えた。


「嬉しかった」


「え?」


「話を聞いてもらえるだけでも……嬉しかった」


奏多は、俯きながら続ける。


「まだ……怖いけど」


一度、言葉を止める。


「また、話したい」


「……」


「柊木君と……ちゃんと話せるようになりたい」


零は、何も言わずに奏多の言葉を聞いていた。

そして、少しだけ笑う。


「じゃあ、今はしっかり休まないとね」


「うん」


零は、手に持っていた紙袋を奏多へ差し出した。


「はい、これ」


「これは……?」


「さぁ、僕もよく分からない」


「え?」


「でも、みんな待っててくれてるんじゃないか?」


奏多は、少し戸惑いながら紙袋の中を覗き込む。


「これって……」


そこに入っていたのは。

ストリートパフェの生クリームDX。


サマナガ以来食べていなかったものだった。


通常でもなかなか買うことのできない人気商品。


そして何より。

奏多の大好物だった。


紙袋の中には、保冷剤が無造作に押し込まれている。


奏多は、しばらくそれを見つめていた。


そして。


「……ふふ」


静かに微笑んだ。


一枚の手紙も添えられている。



全国も頑張ろうね!!



それから、一週間が経った。


部活の始めの挨拶を済ませると、瞬崎(しゅんざき)が口を開いた。


「では、今から合奏――の前に」


瞬崎は、静かに扉へ視線を向ける。

そして。


「入ってきてください」


その言葉と同時に。


扉が、ゆっくりと開いた。


「ッ!!??!!!」

「響(ひびき)君!!!!」


部員たちの声が、音楽室に響き渡る。


そこに立っていたのは――

月本(つきもと)響だった。


響は、そのまま部員たちの前まで歩いていく。


そして、少しだけ姿勢を正した。


「……えっと」


部員たちの視線が、一斉に響へ集まる。


「しばらくの間、休んでしまって……みんなには迷惑をかけました。ごめんなさい」


響は、静かに頭を下げる。


「それと……心配してくれた人も、ありがとうございます。でも、正直に言うと、僕にはここに来るまでの記憶がありません」


顔を上げる。


「まだ色々と、みんなに話せてないこともあるけど……」


少しだけ間を置いて。


「今日から、また部活に戻ります」


その言葉に、部員たちの表情が少しずつ明るくなる。


「全国に向けて、またみんなと練習したいと思ってるので」


響は、いつものように自然体で続けた。


「これからまた、よろしくお願いします」



「では、続いて課題曲のAから」


「はい!」


瞬崎の言葉とともに、部員たちが楽器を構える。

響も、ユーフォを構える。


目の前には、一枚の楽譜。

響は、しばらくその楽譜を見つめていた。


「……」


まるで、初めて見る文字を読もうとしているようだった。


音符の並び。

記号。

書き込まれた指示。

どれも見覚えがない。


「響君、最初はこの音から入るよ」


若田(わかだ)が指を差す。


「はい」


響は頷いた。


「あと、ここは少しだけ音を抑えて。周りを聴いて」


「分かりました」


部員たちからも、いくつか声が飛ぶ。


「響君、次ここだよ」

「ここ、前よりちょっと遅めに入る感じ」


「分かりました」


響は、そのたびに楽譜へ目を落とした。


困惑している。

吹きづらそうにしている。


まるで、自分が何をしているのか分からないような表情だった。


それでも。


「……」


音が鳴る。

その瞬間。

響の指が、自然に動いた。


一つ。

また一つ。

迷いがない。


まるで、何度も繰り返してきたかのように。


響自身は、戸惑っていた。


「……なんで」


自分でも分からない。


楽譜を読むのも。

この曲を吹くのも。


初めてのはずなのに。

指だけは、知っている。


響は顔を少し歪めながら、それでも音を止めなかった。


そして。

ユーフォから流れ出す音は――


完璧だった。



「響君!」

「本当に記憶ないの!?」

「大丈夫なの?」

「そもそも、復帰していきなり吹きたいとか、イカれてないか?」

「さっきの演奏、何であんなに吹けるの!?」

「やっぱり凄いな……」

「いや、逆にちょっと怖いんだけど……」


合奏後、一斉に響へ声が飛んできた。

まるで質問攻めだった。


響は、次々と投げかけられる言葉に少し困ったような表情を浮かべる。


「えっと……一個ずつでいい?」


「本当に何も覚えてないの?」


「うん」


響は頷いた。


「僕がここに来てからのことは、ほとんど」


「じゃあ……俺のことは?」


一人の部員が、おそるおそる尋ねる。

響は、その顔を見る。


「……名前と、どんな人かしか聞いてなくて」


「そっか……」


少し残念そうな声。


響は申し訳なさそうにしながらも、続ける。


「ごめん。でも、聞いた話は覚えてるから」


「じゃあ、俺は?」


「えっと……」


響は少し考える。


そして。


「確か……来島青馬(らいとうおうま)君?」


「そう! 来島青馬!」


来島が少し嬉しそうに声を上げる。


「じゃあ、僕のことは?」


今伊が続ける。


「今伊(いまい)……先輩?」


「そうそう!」


「香久山(かぐやま)先輩……で合ってますか?」


「おお、正解」


香久山が頷く。


響は、一人ずつ顔と名前を確認するように見つめていく。


「永井營(ながいいとな)、君?……」


「うん」


「……確か、そんな感じだったと思う」


「そんな感じって何?」


永井が苦笑する。


「ごめん」


響も、少しだけ困ったように笑った。


けれど。

部員たちは、そんな響を見つめていた。


名前は知っている。

どんな人なのかも聞いている。


けれど。

そこにあるはずの「思い出」は、何一つない。


それでも響は、目の前にいる人たちと一人ずつ向き合おうとしていた。



「また明日ね〜」

「帰り道、気をつけてね」


「うん、ありがとう」


響は来島たちと別れると、廊下を歩き出した。


親の車も、もう来ている頃だ。

早く戻らないと。


そう思いながら歩いていると――

突然、後ろから腕を強く掴まれた。


「うわぁ!!な、何!?」


驚いて振り返る。

そこに立っていたのは、一人の男子だった。


「君は、確か……」


響は、その顔を見つめる。


何かを思い出そうとするように。

けれど、何も浮かばない。


それでも、聞いていた情報を必死に探す。


「青のメガネだから……柊木真尋(まひろ)、君?」


その瞬間。


柊木の手に、さらに力が入った。


「ちょ、い、痛いって」


響が顔を歪める。

それでも、柊木は腕を離さなかった。


そして。

震えるような声で。



「本当に……何も覚えて、ないの……?」

戻ってきた場所。

そこにある景色も。

そこにいる人たちも。

そこで過ごした時間も。

響にとっては、まだ「思い出」ではない。

それでも、音を出せば指が動く。知らないはずの音が、自然と響いていく。

失ったものは、まだ戻っていない。

けれど。

ここからまた、新しい時間を積み重ねていくことはできる。

一方で、忘れられた側にとっては。

それは決して簡単なことではなかった。

感想、評価、ブクマ、レビューも是非お願いします。

次回もお楽しみに!!

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