83話 「大丈夫」の嘘
人は、誰かを想うからこそ、自分を責めてしまうことがある。優しさは、ときに言葉を閉ざし、本当の気持ちを心の奥へ押し込めてしまう。
誰にも迷惑をかけたくない。
誰も巻き込みたくない。
そう思えば思うほど、一人で抱え込んでしまうものなのかもしれない。
けれど、本当に必要なのは、誰かに答えをもらうことではなく、誰かに自分の声を聞いてもらうことなのかもしれない。
寺の奥へと進んでいくと、そこにはもう一つの建物があった。
本堂とは少し離れた場所に建っている。
おそらく、実際に人が生活するための家なのだろう。
「……ここにいるんだね」
狩川が呟いた。
陽翔と守田も、建物を見つめる。
ここまで来た。
けれど。
本当に、奏多と話すことができるのだろうか。
そんな不安が、三人の間に静かに広がっていた。
「ちょっと待っていてください」
零が三人を振り返る。
そして、一人で建物の中へ入っていった。
三人は、その場に残った。
しばらくして
建物の中から、声が聞こえた。
「うん、いいよ。入って」
零の声だった。
その声を聞いた瞬間、陽翔は小さく息を呑んだ。
「……行こう」
狩川が静かに言った。
陽翔と守田が頷く。
三人は、奏多のいる家の中へと入っていった。
部屋の中へ入ると。
「奏多ッ!!」
突然陽翔が声を荒げた。
その姿を見た瞬間だった。
奏多は、以前のように明るく笑っているわけではなかった。俯いたまま、身体を小さく縮めている。
陽翔の声に、奏多の身体がわずかに震えた。
「そ、そんな大声出さなくても……」
返ってきた声は、いつも学校で聞いていたものとはかけ離れていた。
弱々しく。
自信がなく。
今にも消えてしまいそうな声だった。
「奏多君、大丈夫?」
守田が心配そうに近づく。
奏多は、顔を上げなかった。
「……すみません」
小さな声で呟く。
「迷惑をかけてしまって」
「そんなことないよ」
守田がすぐに答えた。
しかし、陽翔は奏多を見つめたまま、何も言わなかった。
そして。
一度、深く息を吸う。
「ただ……気になってることはいくつかある」
陽翔が静かに口を開いた。
「だから、聞きに来たんだよ」
奏多は俯いたまま、黙っている。
陽翔は、奏多をまっすぐ見つめた。
「何があったのか。話してほしい」
陽翔がそう言うと、奏多はしばらく黙っていた。
やがて。
「……本当に、大したことじゃないんです」
奏多が小さく笑った。
けれど、その笑顔はいつものものではなかった。
「ちょっと疲れただけで。だから、もう大丈夫です」
「大丈夫って……」
陽翔が言葉を止める。
奏多は、三人を見た。
「わざわざ来てもらって、すみません」
「いや、だから謝らなくていいって」
守田が慌てて手を振った。
「私たちは、奏多君が心配だから来たんだよ」
「はい。ありがとうございます」
奏多は頷いた。
「でも、本当に大丈夫ですから」
「……」
「学校にも、もうすぐ行けると思います」
「本当?」
守田が少しだけ表情を明るくする。
「はい」
奏多は頷いた。
「だから、もう帰ってもらって大丈夫です」
その言葉に。
陽翔は、少しだけ眉をひそめた。
「……え?」
「いえ、あの……」
奏多は慌てたように手を振る。
「せっかく来てもらったのに、何も話せなくて申し訳ないなって」
「別に、そんなことは……」
「だから、もう大丈夫です」
奏多は笑った。
「本当に。僕のことは気にしないでください」
その言葉に、三人は黙った。
奏多は、何度も「大丈夫」と言っている。
迷惑をかけてしまってすみません。
心配してくれてありがとうございます。
でも、もう大丈夫です。
その言葉だけを繰り返している。
けれど。
「……」
陽翔は、奏多を見つめた。
何かがおかしい。
最初は、ただ本当に大丈夫なのだと思っていた。
奏多は昔から、誰かに心配をかけることを嫌がる奴だった。だから、今回もそうなのだろうと。
そう思っていた。
けれど。
「奏多」
陽翔が、ゆっくりと口を開いた。
「さっきから、俺たちの質問にちゃんと答えてないよな」
奏多の表情が、わずかに固まった。
「……え?」
「俺たちは、何があったのかを聞いてる」
陽翔は、奏多を見つめた。
「でも奏多はずっと、大丈夫だって言ってる」
「……」
「迷惑をかけてごめんって言ってる」
奏多は黙った。
「心配してくれてありがとうって言ってる」
陽翔の声が、少しずつ低くなる。
「でも、何があったのかは、一度も話してない」
奏多は、俯いた。
「……」
「奏多」
陽翔がもう一度呼ぶ。
「俺たちに、何か隠してるだろ」
陽翔の言葉に。
奏多の表情から、再び微笑みが消えた。
「……でも」
しばらく黙ったあと。
奏多は、言葉を絞り出すように口を開いた。
「ちゃんと話すなら……一人がいい」
その声は、震えていた。
「三人もいると……なんか、質問攻めみたいで……」
奏多は、慌てたように続ける。
「別に、嫌ってわけじゃないんだけど」
最後まで、誰かを傷つけないように。そんな言葉の選び方だった。
三人は顔を見合わせた。
陽翔も。
守田も。
狩川も。
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
奏多は、三人に話したくないわけではない。
ただ。
三人を前にして、すべてを話すことができるほどの余裕がない。
そのことだけは、三人にも伝わった。
「……分かった」
最初に口を開いたのは、狩川だった。
「じゃあ、私たちは外に出てるね」
「え?」
奏多が顔を上げる。
「いや、でも……」
「大丈夫」
狩川は、静かに笑った。
「ちゃんと話しておいで」
そう言って、守田と陽翔を見る。
「ね?」
「……うん」
守田が頷いた。
陽翔は、しばらく奏多を見つめていた。
そして。
「分かった」
ゆっくりと頷く。
「俺が残る」
その言葉に。
奏多の表情が、わずかに揺れた。
陽翔が残ることを確認すると。
「じゃあ、私たちも外にいるね」
守田がそう言って、先に部屋を出ていった。
それに釣られるように。
「じゃあ、僕たちも外にいるよ」
「う、うん」
奏多が小さく頷いた。
零と慶江も、守田のあとを追うように部屋を出ていく。
扉が閉まった。
先ほどまで何人もいた部屋に。
奏多と陽翔。
二人のクラスメートだけが残った。
部屋に、沈黙が落ちた。先ほどまで何人もいた場所とは思えないほど、静かだった。
陽翔は、何も言わなかった。
奏多が話し始めるのを待っていた。
しばらくして。
「……陽翔君」
奏多が、静かに口を開いた。
「うん」
「僕……」
そこまで言って、奏多は言葉を止めた。
何度か口を開こうとする。
けれど、声にならない。
「……ごめん」
「え?」
「やっぱり……ごめん。何を話せばいいのか、分からない」
「別に、順番に話さなくていいよ」
陽翔は、静かに答えた。
「話せるところからでいい」
奏多は、しばらく黙っていた。
そして。
「……僕は」
ようやく、言葉を絞り出した。
「みんなを巻き込みたくないんだ」
続ける。
「……柊木君から聞いたんだ。響君のことを」
その言葉に、陽翔の表情が変わった。
奏多の声は、震えていた。
「僕は……どうしても、それが気になってしまった」
一度、言葉を止める。
「響君を事故に遭わせたのは……ほぼ、僕だから」
陽翔は、何も言えなかった。
奏多は、俯いたまま続ける。
「響君を助けたくて……」
声が震える。
「それ以上に……理解したくて」
奏多は、両手を強く握った。
「柊木君なら、何か知ってるかもしれないって思ったんだ」
「……」
「だから、僕は……無理に聞き出そうとした」
奏多は、ゆっくりと顔を上げた。
「響君が今、どうなっているのか。僕だって信じたくない」
その目には、涙が浮かんでいた。
声が、さらに小さくなる。
「みんなのことを忘れちゃってるなんて……そんなこと……」
陽翔は、黙って奏多を見つめていた。
奏多は、何度か息を吸った。
けれど、呼吸はうまく整わなかった。
「柊木君は……もっと傷ついてたのに」
奏多の声が震える。
「僕が、無理に話しかけるから」
「……」
「僕のせいなんだよ」
奏多は、俯いた。
「僕の……無自覚な心が」
その言葉の意味を。
陽翔は、すぐには理解できなかった。
けれど奏多が今、自分自身を責めていることだけは分かった。
「……それ、本気で言ってるのか」
陽翔が静かに口を開いた。
奏多は、何も答えない。
「確かに、お前は柊木君に無理に聞いたのかもしれない」
少しだけ間を置く。
「でも」
陽翔は、奏多をまっすぐ見つめた。
「それだけで、全部お前のせいになるのか?」
「……」
「響を助けたかったんだろ」
奏多の肩が、小さく震える。
「理解したかったんだろ」
「……うん」
「それって、本当に悪いことなのか?」
奏多は唇を噛んだ。
「でも……結果的に、傷つけた」
絞り出すような声だった。
「柊木君も……響君も」
「だから?」
陽翔は静かに続ける。
「結果だけ見て、自分を全部悪者にするのか?」
奏多は答えられなかった。
ただ、俯いたまま拳を強く握る。
陽翔は、ふと窓の方へ視線を向けた。
窓の外では。
狩川たち四人が、本堂の前で静かに手を合わせていた。
誰も言葉を交わさない。ただ、それぞれが何かを願うように目を閉じている。
陽翔は、その光景をしばらく見つめた。
そして、もう一度奏多へ視線を戻す。
「見ろよ」
陽翔が静かに言った。
「みんな、お前を責めるために来たんじゃない」
奏多はゆっくりと顔を上げる。
「心配だから来たんだ」
部屋の中は静かだった。
奏多の瞳が、わずかに揺れた。
「……俺は、いつもオタクみたいに喋ってる奏多の方が好きなんだけどな」
思いがけない言葉だった。
奏多は目を瞬かせる。
「……あれ、止まらないから大変だけど」
陽翔は少しだけ苦笑した。
「でも、それくらい元気な方がお前らしい」
奏多は何も言えなかった。
陽翔は肩をすくめる。
「まぁ、確かに今俺が何を言ったところで、お前がすぐに元気になるとか、そういうわけじゃない」
少しだけ間を置いた。
「でもさ」
陽翔は真っ直ぐ奏多を見る。
「一人で抱え込むなよ」
「……」
しばらくして、奏多が小さく息を吐いた。
「でも……学校に行ったら、柊木君に会う」
その声には、はっきりと怯えが混じっていた。
「怖いんだ」
「そりゃ怖いだろ」
否定しなかった。
「でも、お前は柊木から逃げたいのか?それとも、謝りたいのか?」
「僕は......」
長い沈黙のあと。
「……謝りたい」
掠れた声だった。
陽翔は小さく頷いた。
「じゃあ、今はそれで十分だ」
「え?」
「無理に明日から元気にならなくていい」
陽翔は静かに続けた。
「でも、逃げ続けるな」
奏多は俯いたまま、その言葉を聞いていた。
窓の外では、風に揺れた木々の音が静かに響いている。本堂の前で手を合わせる四人の姿が、まだ見えていた。
奏多は、その光景をぼんやりと見つめる。
「……僕、戻れるかな」
「戻れるよ」
陽翔は迷わず答えた。
「時間はかかっても、ちゃんと戻れる」
その言葉に、奏多は何も返さなかった。
けれど。
俯いていた肩の力が、ほんの少しだけ抜けたように見えた。
陽翔は、小さく息を吐いた。
「だからさ」
奏多は、ゆっくりと顔を上げる。
「辛かったり、苦しかったりしたら、なんでもいいから話してくれよ」
「……」
「それが迷惑かどうか、決めるのは俺だ」
奏多の瞳が、わずかに揺れる。
陽翔は静かに続ける。
「でも、少なくとも、お前が話すことに嘘はないって、俺は信じてる」
陽翔は小さく笑い、ゆっくりと立ち上がる。
「じゃ、俺はもう行く。話してくれてありがとな」
扉へ向かいながら、一度だけ振り返る。
「俺は――いや、俺たちはいつでも待ってるから」
そう言い残し、部屋を出ていった。
奏多は何も答えなかった。
けれど、その目には。
先ほどまでとは少しだけ違う光が宿っていた。
誰かを心配して会いに行くこと。
何も言わずに隣にいること。
ただ「待っている」と伝えること。
そのどれもが、すぐに誰かを救えるわけではない。
それでも、その言葉や時間は、少しずつ止まってしまった心を動かしていく。
一歩は小さくても、前へ進もうとする気持ちは、きっと次の音へと繋がっていく。
感想、評価、ブクマ是非お願いします。
次回もお楽しみに!!




