82話 残された亀裂
人は、誰かがいなくなって初めて、その存在の大きさに気づくことがある。
いつも聞こえていた声。
いつもそこにあった笑顔。
当たり前だと思っていた日常。
それが失われた時、残された人たちは何を思うのか。
そして、誰かが立ち止まってしまった時、誰がその場所まで歩いていくのか。
病院の廊下に、静かな足音が響いていた。
瞬崎は、ポケットの中で振動したスマートフォンを取り出す。
画面に表示された名前を確認し、すぐに通話ボタンを押した。
「はい、瞬崎です」
電話の向こうから、病院の担当者の声が聞こえる。
瞬崎は黙って話を聞いていた。
「……はい」
短く返事をしながら、何度か頷く。
そして。
「……そうですか」
その声に、わずかな安堵が混じった。
「あと一週間……」
電話の向こうの言葉を確認するように、瞬崎は小さく呟く。
「分かりました。ありがとうございます」
通話を終える。
瞬崎は、しばらく画面の消えたスマートフォンを見つめていた。
「……あと一週間か」
月本響が、退院できる。
その事実に、胸の奥から安堵が込み上げてきた。
長かった。
事故のあと、響が病院へ運ばれてから。
記憶を失ったことが分かってから。
それでも、少しずつ前へ進もうとしている響を見てきた。
そして今。
ようやく、日常へ戻ることができる。
もちろん、すべてが元通りになるわけではない。
失われた記憶が戻ったわけでもない。
それでも。
「……よかった」
瞬崎は、誰に聞かせるでもなく呟いた。
あと一週間。
それだけ待てば、響は東縁高校へ戻ってくる。
いつもの場所へ。
いつもの仲間たちのところへ。
そう思った瞬崎は、ほんの少しだけ笑った。
――その頃。
東縁高校では、また別の場所で。
一人の生徒が、学校へ来られないまま時間を過ごしていた。
「奏多、今日も休みか……」
来島が、ぽつりと呟いた。
部室に、いつもなら聞こえてくるはずの声がない。
奏多がここ最近、ずっと部活を休んでいる。
いや。
正確には、学校そのものを休んでいた。
「……」
来島は、奏多がいつも座っている場所へ視線を向ける。
そこには、誰もいない。
いつもなら、朝から誰かに話しかけている。
誰かが困っていれば、すぐに声を掛ける。
奏多は、そういう人だった。
明るくて。
人懐っこくて。
誰とでもすぐに仲良くなれる。
少なくとも、来島はそう思っていた。
「……何があったんだよ」
来島は小さく息を吐いた。
しかし、なんとなく理由は分かる。
東海大会が終わった直後。
柊木と奏多の間に、何かがあった。
詳しいことまでは分からない。
ただ、あの日を境に。
奏多は学校へ来なくなった。
そして、柊木も。
以前のように、誰かと話すことが少なくなった。
部室の中には、いつも通り楽器の音が響いている。
それでも。
何かが足りない。
奏多がいないだけで、こんなにも静かに感じるのか。
来島は、もう一度空いた席を見た。
「……早く来いよ」
誰もいない場所へ向かって、そう呟く。
その声は、誰にも届かなかった。
その横で陽翔は、しばらくスマートフォンの画面を見つめていた。
『大丈夫か?』
既読は、つかない。
それでも。
「……やっぱり、気になる」
陽翔が、ゆっくりと立ち上がった。
来島が顔を上げる。
「何があったのか。ちゃんと話せば……何か分かるかもしれない」
陽翔は、奏多のいない場所を見つめた。
「俺、やっぱり奏多のところに行ってみる」
その言葉に。
「それなら、私も行く」
声を上げたのは、守田だった。
「同じパートだし。奏多がこんな状態なのに、放っておくわけにはいかないから」
そして。
「私も行く」
狩川も口を開いた。
「奏多とは、同じ中学だったから。ずっと見てきた。だからこそ……心配」
狩川は、少しだけ視線を落とす。
「二人が行くなら、私も行く」
陽翔は二人を見た。
そして。
「……うん」
小さく頷いた。
「三人で行こう」
その時だった。
「そんなことをして、何の意味があるの?」
音楽室に、冷たい声が響いた。
三人が振り返る。
柊木だった。
「それに、何も連絡せずに行くなら、勝手に人の家へ行くことになる。そんなことをするより……」
「じゃあ、何もしないのが正解なのか?」
陽翔が、柊木の言葉を遮った。
柊木の視線が、陽翔へ向く。
「奏多が学校に来なくなって、ずっと休んでる。それでも何もしないで、ただ待ってればいいのかよ」
「……」
「俺は、気になるから行く。それだけだ」
陽翔は、柊木をまっすぐ見た。
「何か分かるかもしれないだろ。だから……」
「陽翔」
香久山が、低い声で制止する。
「その辺にしておけ」
永井も慌てて口を開いた。
「そ、そうですよ。今ここで言い合っても……」
しかし。
柊木は陽翔を睨みつけるように見つめていた。
その目には、怒りがあった。
いや。
怒りだけではない。
何かを恐れているようにも見えた。
けれど、誰もその表情の意味を理解できなかった。
柊木は何も言わず、音楽室を出ていった。
扉が閉まる。
「……」
嫌な空気だけが残った。
しばらく誰も、何も言わなかった。
やがて。
狩川が静かに口を開く。
「じゃあ、今日」
陽翔と守田を見る。
「三人で行くから。先生にも連絡しておいて」
「は、はい。分かりました」
永井が慌てて頷いた。
そして。
「あの……行ってらっしゃい」
その言葉に、三人はそれぞれ頷いた。
「うん」
「ありがとう」
「行ってくる」
三人がそう答える。
けれど。
音楽室の中に残った空気は、まだ重かった。
誰もいなくなった扉を。
柊木が出ていった方向を。
誰も、しばらく見つめていた。
音楽室を出た柊木は、そのまま廊下を歩いていた。誰かに声を掛けられても、反応することはなかった。
ただ、歩く。
何も考えないように。
何も考えたくなかった。
階段を下りる。
一段。
また一段。
そして。
階段の突き当たりまで来たところで、柊木の足が止まった。
「……」
その場に、ゆっくりと座り込む。
背中を壁に預ける。
力が入らなかった。
「……どうして」
誰もいない。
誰にも聞こえない。
だからこそ。
柊木は、ようやく声を漏らした。
「どうして、また……」
その言葉の続きを、口にすることはできなかった。
狩川は、スマートフォンの画面を確認しながら山道を歩いていた。
その後ろを、守田と陽翔がついてくる。
「……」
しばらく、三人の間に会話はなかった。
陽翔は何度もスマートフォンの画面を確認している。
「あの」
守田が口を開いた。
「はい?」
「先輩って、奏多君の家知ってるんですか?」
狩川の足が、ほんの少しだけ止まった。
「あ、うん。昔何回か行ったことがあってね。ちょっと特殊なんだけどさ」
守田はゆっくりと周囲を見渡した。
「よくよく考えたら、奏多君ってこんな山道から毎日学校に通ってたの?」
陽翔は少しだけ考えた。
「……そうなりますね」
守田は絶句した。
「……すごいね」
三人は、再び歩き始めた。
山道は、さらに奥へと続いている。
木々に囲まれた道。
人の気配はほとんどない。
聞こえるのは、風に揺れる葉の音だけだった。
そして。
「……着いた」
狩川が足を止めた。
守田と陽翔も、前を見る。
そこにあったのは、一軒の建物だった。
まるで、そこだけ取り残されたように。
大きな建物が建っている。
寺のようにも見える。しかし、寺だと断言するにはどこか違っていた。
周囲には他の家がない。
人の気配もない。
ただ。
山の中に、その建物だけがぽつんと建っている。
「……ここ?」
守田が呟いた。
「そう」
狩川は頷く。
守田は、建物を見つめた。
「……奏多君、こんなところに住んでたんだ」
三人は、しばらくその建物を見つめていた。
山の中にぽつんと建つ。
寺のような建物。
その中に。
今、奏多がいる。
三人は、建物へ向かって歩いていった。
近づくにつれて、その全貌が少しずつ見えてくる。
やはり、寺にしか見えなかった。
大きな屋根。
古い木造の建物。
そして、その正面には。
「……本堂?」
守田が呟いた。
陽翔も、改めて建物を見上げる。
「奏多の家って……寺なの?」
「特殊ってこういう意味ですか」
陽翔も少し困ったように答えた。
さらに歩を進める。
その時だった。
本堂の前に、人影が見えた。
二人。
男女が並んで立っている。
二人は静かに手を合わせていた。
「……参拝者?」
守田が小さく呟く。
三人が近づいていくと、その二人が、こちらに気づいた。
そして。
「あっ」
男の方が、声を上げた。
「え、き、狩川先輩?!」
その声に。
狩川が足を止めた。
「……え?」
そして、自分を指差す。
「私?」
二人の男女は、驚いたような表情で狩川を見つめていた。
狩川もまた、二人の顔を見つめる。
「……えっと」
しばらく考えたあと。
「あっ」
狩川の表情が変わった。
「もしかして……」
「なんだ。慶江さんに、零君じゃん。久しぶり」
狩川はそう言いながら、近くにあったベンチへ腰を下ろした。
突然の再会に、二人は少し恥ずかしそうに苦笑する。
「まさか、こんなところで先輩と会うなんて……」
「えっとー……誰?」
陽翔と守田は、完全に置いていかれていた。
狩川は二人を振り返る。
「中学時代の後輩で。二人とも都幾川に行った子だけどね。奏多君とは凄い仲良しだったんだよ」
「あ、こんにちは」
先に、女子の方が頭を下げた。
「喜久慶江です」
「矢嶋零です。こんにちは」
零も続いて頭を下げる。
「いや、いいよ。そんなに硬くならなくて」
守田が慌てて手を振った。
すると、慶江が首を傾げた。
「それで……先輩はどうしてここに?」
「え?」
「だって、ここって先輩の家じゃないですよね?」
慶江は本堂を見た。
「まさか、先輩も参拝に来たんですか?」
狩川は、静かに首を横に振った。
「ううん。奏多君に話がしたくて、ここに来たんだ」
「……え?」
二人の表情が変わった。
「でも、奏多君はまだ学校じゃ……」
「うん」
狩川は頷いた。
そして、奏多がここ最近学校を休んでいること。
東海大会のあとに、ある友達との間で何かがあったこと。
そのために、三人で奏多の様子を見に来たことを説明した。
「……そんなことが」
慶江は、驚いたように呟いた。
零も、しばらく黙っていた。
「えっと……」
そして、ふと顔を上げる。
「じゃあ、今、家に奏多君がいるの?」
「おそらく」
狩川が答える。
二人は顔を見合わせた。
少しの沈黙。
やがて、零が口を開いた。
「分かりました。とりあえず、いるか見てきます」
そう言うと、零は本堂のさらに奥へと歩いていった。
「ちょっと、零君?」
慶江が声を掛ける。
しかし、零は振り返らなかった。
そのまま、本堂の奥へと姿を消していく。
「……」
陽翔と守田は、呆然とその背中を見送った。
「……行っちゃったね」
守田が呟く。
「うん」
陽翔も頷いた。
狩川は、そんな二人を見ながら小さく息を吐く。
「昔から、ああいう子だったから」
「そうなんですか?」
「うん。行動が早いというか……」
狩川は、本堂の奥へ視線を向けた。
「でも、助かるね」
その言葉に、三人は静かに頷いた。
零が戻ってくるまでの間。
三人は、ベンチに座りながら、しばらく他愛のない話をしていた。
「いやー……」
慶江が、少し感慨深そうに口を開く。
「まさか、東縁がエト学を破って全国に行くなんて」
「……」
狩川は、少し困ったように笑った。
「先輩、流石ですね」
「全然、私の力にはなれてないけどね」
狩川は苦笑する。
「そんなことないですよ」
慶江がすぐに返した。
「副部長だったじゃないですか」
「それだけだよ」
「それだけって……」
そんな会話を続けていた。
しばらくして。
本堂の奥から、零が戻ってくると。
「先輩」
その声に、狩川が振り返る。
「どうだった?」
「先輩の言っていた通りです」
零は頷いた。
「奏多君、今家にいますよ」
その瞬間。
先ほどまでの雑談の空気が、一瞬にして消え去った。
陽翔も。
守田も。
狩川も。
誰も、何も言わない。
零は続けた。
「今、話せそうかって聞いて……」
少しだけ間を置く。
零は、三人を見る。
「いいよ、と」
「……」
陽翔は、ゆっくりと立ち上がった。
そして。
一度、深く息を吸う。
「……よし」
陽翔は、二人を見る。
「行きますか」
守田と狩川が頷く。
三人は、奏多のいる家へ向かって歩き出した。
その先に、今の奏多がいる。
何を思い。
何を考え。
何に苦しんでいるのか。
三人は、まだ何も知らなかった。
響の退院まで、あと一週間。
けれど、その一方で。
奏多は、学校へ戻れない日々を過ごしていた。
いつも明るく、誰とでもすぐに仲良くなれた少年。そんな彼が、誰にも会わず、何も語らず、ただ一人で過ごしている。
柊木は、何を恐れているのか。
そして。
奏多のもとへ向かった三人は、彼と何を話すのか。
止まってしまった音は、再び響き始めるのか。
感想、評価、ブクマ是非お願いします。
次回もお楽しみに!!




