81話 心はB♭で響いていく
人の心は、音と同じなのかもしれない。近くにいても、同じ場所にいても、すれ違ってしまうことがある。
伝えたかった想い。
届かなかった言葉。
胸の奥に残り続けた後悔。
それでも、もう一度向き合うことで、重なり合うものがある。
音楽は、一人では完成しない。それぞれの想いが重なった時、新しい響きが生まれる。
海斗先輩の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
(僕が……?)
胸の奥がざわつく。
(そんなこと……)
理解できない。
理解しようとしても、何も思い浮かばない。
中学時代。
西野中。
海斗先輩。
東堂先輩。
その名前を聞いても、記憶の中は真っ白なままだった。
(僕が先輩を傷つけた……?)
信じられない。
というより、実感がない。
事故の前の自分が何を考え、何をしていたのか。
響には、その「僕」が分からない。まるで、知らない誰かの話を聞かされているようだった。
(そんなこと……本当にあったの?)
思わず海斗先輩を見る。
そこにいるのは、冗談を言っている人ではない。
苦しそうで、申し訳なさそうで。何年も抱え続けてきたものを、ようやく口にしようとしている人の顔だった。
だからこそ、余計に分からない。
(僕は……何をしたんだ……?)
東堂は、ゆっくりと響を見た。
その瞳には、揺らぎ始めた怒りと、それでも消えきらない憎しみが宿っていた。
(そうだ……元を辿れば、全部、こいつが――)
東堂は一歩、響へ近づく。
響は何も言えない。ただ、その視線を受け止めることしかできなかった。
「東堂君!」
突然、海斗が東堂の腕を掴んだ。
「やめてくれ!!」
東堂は振り返る。
「離せ、海斗」
「嫌だ!」
海斗はさらに強く手を握る。
「お前だって分かってるだろ!」
東堂が叫ぶ。
「元を辿れば、全部こいつが原因なんだよ!」
「違うんだ!!」
病室に海斗の声が響く。
東堂が言葉を止める。
海斗は息を切らしながら、東堂を真っ直ぐ見つめた。
「二人は……何も悪くないんだよ」
海斗は東堂の腕を離さない。
震える手に、力だけが入っていた。
「……ごめん」
小さく漏れたその一言に、病室が静まり返る。
「東堂君。本当に、ごめん」
東堂は何も言わない。
海斗はゆっくりと息を吸った。
「僕ね……ずっと謝りたかったんだ」
「……」
「東堂君に何も言わないまま、辞めちゃったこと」
視線が床へ落ちる。
「あの時の僕は、自分のことで精一杯だった。何を言えばいいのかも分からなくて。どうしたらいいのかも分からなくて。気づいたら……逃げるように部活を辞めてた」
東堂の表情が少しずつ揺らぐ。
「君は何度も僕を励ましてくれた。『お前はお前だ』って。『比べるな』って。それなのに僕は、何も言わずに君の前からいなくなった」
海斗は苦しそうに笑う。
「親友失格だよね」
東堂は思わず口を開く。
「海斗……」
海斗は首を横に振る。
「それだけじゃない。」
ゆっくりと響へ視線を向ける。
「響君」
響は小さく肩を震わせる。
「君にも、ずっと謝りたかった」
「……え?」
「君は何も悪くなかった。僕を傷つけようなんて、一度も思ってなかった。ただ音楽が好きで、ただ一生懸命だっただけ。それなのに僕は、自分の弱さと向き合えなくて、勝手に苦しんで、勝手に辞めた」
海斗は唇を噛む。
「そして、その理由を誰にも話さなかった。そのせいで東堂君は、全部響君のせいだと思ってしまった。響君は、何が起きたのかも分からないまま、ずっと恨まれることになった。」
海斗は深く頭を下げる。
「全部、僕のせいだって言いたいわけじゃないけど」
そこで一度言葉を止める。
「でも。僕が何も伝えなかったから。僕が逃げてしまったから。二人に、こんな誤解をさせてしまった」
東堂は拳を強く握り締めた。
「……そんなわけ、ないだろ」
かすれた声だった。
海斗は黙って東堂を見る。
「それだって……」
東堂は響へ視線を向ける。
「響がいたから起きたことだ。響が……あんな才能を持ってたから。だから、お前は……」
言葉が止まる。
「だから、お前は……そうなっちまった」
病室が静まり返る。
東堂は続けようとする。
「だから……」
しかし、その先が出てこない。
「だから……」
何度口を開いても、言葉にならない。
海斗の言葉が頭の中で何度も響く。
――君は何も悪くなかった。
――ただ音楽が好きで、一生懸命だっただけ。
(違う)
そう思いたい。
(違うはずだ)
そう言い聞かせる。
けれど。
「……」
胸の奥で、何かが少しずつ崩れていく。
「だから……」
最後の一言だけが、どうしても続かなかった。
海斗は、響の方を見た。
その表情は、どこか寂しそうで。それでも、ようやく決意したような笑顔だった。
「ごめんね」
「……え?」
響は戸惑う。
海斗は小さく笑った。
「やっぱり……自分で言うべきだよね」
響は首を傾げる。
その反応を見て、海斗の胸が少し痛んだ。
本当に覚えていない。
あの日のことも。
あの時、自分が何を言ったのかも。
それでも。
「東堂君」
海斗はゆっくりと息を吸った。
「初めて会った日のこと、覚えてる?小学校でさ。一緒にやったでしょ? 金管バンド」
東堂の動きがピタリと止まる。
「君が誘ってくれたんだっけ?嬉しかったんだよ僕みたいな人でも……誰かと一緒に音楽をやっていいんだって思えたから」
気がつくと海斗は、静かに涙を流していた。
「その時に言ってくれたよね『誰かの音を否定する奴が、どうして音楽を語れるんだよ』って」
海斗は、まっすぐ東堂を見つめる。
「……覚えてる?」
東堂は、下を向く。
「俺は...」
「僕は、それだけは、なによりも覚えてるよ。僕はそれを守ってきた。誰の音も否定しなかった。たしかに、"自分"を否定したのは事実だ。それでも……」
海斗は静かに東堂を見る。
「今の君は、昔の君が一番嫌っていたことをしてる。自分より上手い人間を見て、そいつの音じゃなくて、存在を否定しようとしてる」
海斗はそのまま東堂に近づく。
「君は昔、そんなこと言わなかった。誰かの音を奪うんじゃなくて、隣で一緒に吹こうとしてくれた。誰よりも優しかった」
東堂の震える手をそっと握った。
「だから僕は……そんな君を知ってるからこそ、苦しいんだよ。東堂君は、響君を憎む前に……昔の自分を思い出してほしい」
海斗の言葉を聞いた東堂。
でも、すぐには顔を上げられない。
「……違う」
小さく呟く。
海斗が見る。
「違うんだ……」
東堂は拳を握る。
「俺は……」
そこで言葉が詰まる。
本当は分かっていた。
響が何かをしたわけじゃないこと。あいつはただ、音楽をしていただけだということ。
でも。
認めてしまったら。自分が今まで憎んできた相手は、ただの一人の後輩だったことになる。
そして。
その後輩を傷つけたのは、自分自身になる。
「……東堂先輩」
響は、ゆっくりと口を開いた。
東堂の視線が、響へ向く。
「僕は……本当に覚えていません」
その言葉に、東堂の表情がわずかに揺れる。
「なぜか……二人の名前だけは覚えていました」
響は海斗と東堂を見る。
「海斗先輩。東堂先輩。その名前だけは、ずっと頭の中に残っていたんです」
けれど。
「でも……」
響の視線が少しだけ落ちる。
「二人に何をしていたのか。二人から、何を言われていたのか。何があったのか。それだけは……何も思い出せません」
病室に静寂が流れる。
響自身も、まだ信じられないような気持ちだった。
目の前にいる二人は、自分の知らない過去を知っている。自分が覚えていない時間を、この二人はずっと抱えてきた。
「だから……」
響は小さく息を吐く。
「僕には、二人の苦しみを全部理解することはできないと思います」
東堂の拳が、わずかに震える。
「僕が覚えていないから」
響は続ける。
「そんなことはなかった、なんて言うこともできません。二人がそう感じたことは、二人にとって本当に起きたことだから」
海斗の目が揺れる。
「でも……」
響は東堂をまっすぐ見た。
「一つだけ、言わせてください」
東堂は黙って響を見る。
「僕は……今の僕しか知りません。事故の前の僕が、何を考えて、何をしていたのか。それは僕には分からない」
一瞬、言葉を止める。
「でもだからって、逃げたいわけじゃありません」
響の声は静かだった。
「僕の知らない僕が、誰かを傷つけたのなら。その事実から目を背けたくはないです。何があったのか。二人が、どんな思いで今まで過ごしてきたのか」
響は少しだけ苦しそうに笑う。
「だって……僕にとっては覚えていない時間でも、二人にとっては、確かに存在した時間だから」
その言葉に、東堂は何も返せなかった。
響は続ける。
「ただ……今の僕が、その時の僕と同じなのかは分かりません。だから、もし許してもらえるなら」
響は深く頭を下げた。
「今の僕を、もう一度見てほしいです。昔の僕じゃなくて、
今ここにいる、月本響を」
病室に、静かな沈黙が落ちる。
海斗は、ただ響を見つめていた。
東堂もまた、何も言えなかった。
ずっと憎んでいた相手。
ずっと許せなかった存在。
その相手は、自分が知らない過去を背負いながら。それでも逃げずに、自分たちへ向き合おうとしていた。
東堂は、俯いたまま動かなかった。
何も言えない。
何を言えばいいのか、分からなかった。
ずっと探していた。
海斗を苦しめた原因を。
自分から大切なものを奪った存在を。
憎む理由を。
そのために、何年も。
何度も。
何度も。
響を見てきた。
けれど。
今、目の前にいる響は、自分が想像していた存在とは、あまりにも違っていた。
「……なんだよ」
小さな声が漏れる。
「なんなんだよ……」
東堂の肩が震える。
「俺は……」
拳を握る。
「俺は、ずっと……」
言葉が詰まる。
「お前のせいだって……」
響を見る。
「お前がいたから海斗は壊れたって……お前がいたから、全部めちゃくちゃになったって……」
東堂の目から、涙が落ちた。
「そう思わなきゃ、俺は……」
声が震える。
「俺は、どうすればよかったんだよ……」
病室に、東堂の声だけが響く。
「海斗がいなくなった理由が分からなかった。何も言ってくれなかった。俺は……親友だったはずなのに」
東堂は唇を噛む。
「何も気付けなかった。だから……」
顔を上げる。
「誰かのせいにしないと。俺自身が耐えられなかったんだよ……」
すると海斗は、静かに東堂へ歩み寄った。
そして、静かに東堂を抱きしめる。
「東堂君」
東堂は顔を上げられない。
涙で歪んだ視界の中で、海斗が優しく笑っていた。
東堂が小さく呟く。
「俺は……」
「ううん」
海斗は首を横に振った。
「もういいんだよ」
そして。
「東堂君が、東堂君でいてくれるなら」
その言葉を聞いた瞬間。
東堂の表情が崩れた。
「……っ」
声にならない声が漏れる。
「……海斗……」
次の瞬間。
東堂は、子どものように泣いた。何年も押し込めていたものが、一気に溢れ出す。
怒りも。
悔しさも。
後悔も。
全部。
「ごめん……本当に……ごめん……」
海斗は何も言わず、ただ東堂の背中に手を回した。
「大丈夫だよ。もう一人で抱えなくていいから」
少し離れたところで響は、その光景を見ていた。
正直、まだ分からない。
自分が二人にとって、どんな存在だったのか。
過去の自分が、何をしていたのか。
全部は分からない。
でも。
目の前の二人が、ずっと苦しんでいたことだけは分かった。
響はゆっくり歩く。
「……」
二人が気づく。
響は少し困ったように笑った。
「えっと……僕も、入っていいですか?」
東堂が目を見開く。
海斗は涙を流しながら笑う。
「……もちろん」
響は小さく頷く。
そして。
三人の距離が重なった。
しばらく何も言わなかった。ただ、互いの存在を確かめるように、その場にいた。
失った時間は戻らない。
忘れてしまった記憶も。
傷つけてしまった言葉も。
なかったことにはできない。
それでも。
三人は、もう一度向き合うことができた。
そして。
この時間だけは、言葉にしたかった。
すると、ほとんど同時に。
「……ありがとう」
三人の声が重なった。
東堂は驚いたように顔を上げる。
海斗も、響も、互いを見る。
誰に向けた言葉なのか。
きっと、三人とも違った。
東堂は――海斗と響へ。
海斗は――東堂と響へ。
響は――東堂と海斗へ。
それでも。
その言葉の意味だけは、同じだった。
「ありがとう。ここにいてくれて」
人は、相手のすべてを理解することはできない。見えているものだけで判断してしまうこともある。言葉にできない想いを抱えたまま、離れてしまうこともある。
けれど、向き合うことを諦めなければ。いつか届く言葉もある。
過ぎた時間を戻すことはできない。
消えてしまった記憶を取り戻すこともできない。
それでも、今ここにある想いは、確かに未来へ繋がっていく。
感想、評価、ブクマ是非お願いします。
次回もお楽しみに!!




