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心はB♭で響いている  作者: World of Tukimoto
第1章 響く音響編 —始動—

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80話 認めたくない天才

人は、誰かを理解しているつもりでも、本当の心までは見えない。

あの日、交わされた言葉も。

誰にも届かなかった想いも。

すべては、静かに今へと繋がっていく。

音楽室の扉が閉まる音だけが、静かに響いた。


「……先輩?」


返事はない。


一年生は閉まった扉をしばらく見つめたまま、小さく首を傾げる。


(怒らせちゃったのかな)


思い返してみる。


何か失礼なことを言っただろうか。


練習の誘い方が悪かったのか。

吹き方を指摘したからだろうか。


「……分からない」


小さくつぶやく。

胸の奥が少しだけ重かった。


嫌われたのだろうか。

もしそうだとしたら、理由くらいは知りたかった。


視線を落とすと、床にはユーフォが横たわっていた。

慌てて駆け寄り、そっと持ち上げる。


「危ないですよ……」


ベルやピストンに傷が付いていないか、一つひとつ確かめる。


異常がないことに、小さく息をついた。

そのまま自分の楽器と並べてケースへしまい始める。

 

「……まぁ、いいか」


ぽつりと漏らす。


「明日、謝ろう」


そう言ってケースを閉じる。


一年生は部室の電気を消し、二本のユーフォを抱えて静かな音楽室を後にした。



それからというもの。海斗(かいと)は、部活へ姿を見せなくなった。


一日。

二日。

三日。


最初は「風邪かな」と誰もが思っていた。

けれど、一週間が過ぎても、その姿は音楽室に現れない。


「海斗先輩、まだ休みなんですか?」

「体調でも悪いのかな……」


部員たちの間にも、不安の声が広がっていく。


顧問も何度か連絡を取っていた。

東堂(とうどう)も毎日のように様子を見に行っていた。


音楽室には、どこか重たい空気が流れ始めていた。


そんな中。


ただ一人だけ。

一年生は、いつも通りだった。


朝早く来て。

誰よりも練習して。

昼休みも譜面を開き。

放課後まで楽器を吹く。


「……海斗先輩、大丈夫なんでしょうか」

 

そう尋ねられても、


「早く元気になるといいですね」


そう静かに答えるだけだった。


事情を知らない。

だからこそ、いつも通り練習を続けていた。


だが、その"いつも通り"が。

少しずつ、部員たちの目には違って映り始める。


「海斗先輩があんな状態なのに……」

「何とも思わないのか……?」


誰かが、小さくつぶやいた。


その声は、やがて少しずつ音楽室の空気を変えていく。



海斗が部活へ来なくなって数日。

東堂は、とうとう一年生の前へ立った。


「おい」


一年生は譜面から顔を上げる。


「はい?」


「海斗に、何した」


音楽室の空気が止まる。

一年生は少しだけ考えるように目を伏せた。


「何か、とは?」


「とぼけんな」


東堂の声が低くなる。


「お前と最後にいたのは海斗だろ。その翌日からあいつは部活に来てねぇ」


「……」


「何を言った」


一年生は静かに首を横へ振った。


「何も言っていませんが」


「嘘つけ!」


東堂が一歩踏み出す。


「お前以外に理由なんかあるか!」


それでも一年生の表情は変わらない。


「本当に分かりません。先輩と一緒に練習して、そのあと急に出て行かれました。理由は、僕にも分かりません」


その淡々とした口調が、東堂の神経を逆撫でする。


「……お前、人の気持ち考えたことあるのか」


すると一年生は、不思議そうに東堂を見つめた。

そして、小さく首を傾げる。


「人の心配をする前に」


静かな声だった。


「東堂先輩は、ご自身のオーディションの心配をされた方がいいと思います」


東堂の動きが止まる。


「海斗先輩のことを考えても、オーディションの結果は変わりません。今、一番優先すべきことは、自分の演奏ではないでしょうか」


「……っ」


東堂は舌打ちした。


「チッ……!」


拳を握る。

殴りたい。

怒鳴りたい。

全部ぶつけてしまいたい。


けれど。


(……こいつの言ってることは正しい)


オーディションは、もう目前だ。

今、自分がやるべきことは練習。


海斗を心配したところで、状況は何も変わらない。

全部、正論だった。


なのに。

どうしてこんなにも、目の前の一年生が、許せないんだろう。



オーディション当日。


音楽室には、普段とは違う緊張が漂っていた。


譜面を見つめる者。

静かに楽器を磨く者。


目を閉じて深呼吸を繰り返す者。

誰もが、それぞれのやり方で心を整えている。


部屋の前に立った顧問が、一度全員を見渡した。


「それじゃあ始める前に、今日の流れを説明する」


静まり返る音楽室。


「今回のオーディションは課題曲、自由曲の順で行う。審査は私と外部講師を含めた複数名で――」


説明が続く。

その間も、誰一人として私語はない。


音楽室を見渡す。


そこで初めて、海斗先輩の姿が目に入った。


(……戻ってきてたんだ)


数日ぶりに見る姿だった。どうして戻ってきたのかは分からない。


けれど、今はオーディション直前だった。


海斗の表情は穏やかで、むしろ不思議なくらい落ち着いていた。


顧問は説明を終え、最後に口を開く。


「質問がなければ、このまま――」


「先生」


静かな声だった。けれど、その一言だけで、音楽室の全員が、同じ方向を向いた。


海斗だった。

ゆっくりと立ち上がる。


顧問も驚いたように目を向ける。


「どうした、海斗」


海斗は一度だけ深く息を吸った。

そして。


「……今回のオーディションですが」


一瞬、目を閉じる。

再び開いた瞳は、不思議なくらい穏やかだった。


「辞退させてください」


――時間が止まった。

誰も反応できない。

何を言われたのか、理解するまでに数秒かかった。


「……は?」


誰かが小さく漏らす。

顧問も言葉を失っていた。


「辞退……?」


東堂が立ち上がる。


「おい、海斗。」


海斗は振り返らない。


「何言ってんだよ」


返事はない。


「ふざけんな」


東堂の声が少しずつ震える。


「『もう少し頑張る』って言ったの、お前だろ!」


音楽室に響く。

海斗は静かに目を伏せた。


「……うん」


小さく頷く。


「そう言ったよ」


「だったらなんで!」


東堂が一歩踏み出す。


海斗はゆっくりと顔を上げた。

その表情には。


涙も。

怒りも。

悔しさもなかった。


ただ。

全部を諦めてしまった人間だけが浮かべる、静かな笑顔だけがあった。


「……もう」


小さく笑う。


「十分頑張ったから」


音楽室が、再び静まり返った。


「詳しいことは後で聞かせてください。今はオーディションなので」



何が起きたのか。

正直、よく分からなかった。


海斗先輩が、オーディションを辞退した。

ただ、それだけが頭に残っていた。


どうして辞退したのか。

何があったのか。


結局、最後まで分からなかった。


そんなある日だった。


職員室へ提出物を持っていった帰り。

廊下の向こうから、誰かの声が聞こえた。


「……東堂先輩?」


聞こえてきたのは、東堂先輩の声だった。


思わず足を止める。


職員室の扉は少しだけ開いていた。

中から会話が漏れてくる。


「何で辞退したんだよ!」


東堂先輩の声だった。


「あれだけ頑張るって言ったじゃねぇか!」


「……」


「俺、何回も言ったよな! お前はお前だって!」


返事は聞こえない。

しばらくして、小さな声が返ってきた。


「……ごめん」


海斗先輩だった。


「でも」


「でもじゃねぇ!」


東堂先輩の声が重なる。

「何を諦めてんだよ!何を勝手に終わらせてんだよ!俺はまだ、お前と一緒に吹きたいんだよ!」


沈黙。

長い沈黙だった。


やがて、海斗先輩が静かに口を開く。


「……東堂君。僕はもう、無理なんだ。」


「無理じゃねぇ!」


東堂先輩は食い下がる。


「逃げんな!」


「逃げてない!」


初めてだった。

海斗先輩の声が、大きくなったのは。


「僕だって逃げたくて逃げるんじゃない!」


息が乱れる。


「僕だって……!」


そこで言葉が詰まる。

東堂先輩は何か言おうとする。


「だったら——」


「やめてくれよッ!!!」


職員室中に響くほどの叫びだった。


「もう、たくさんなんだ!!」


声が震える。


「もう……頑張れなんて言わないでくれ……!もう、自分の音を信じろなんて言わないでくれよ……!もう……もう、何も残ってないんだ。僕には……!」


その瞬間。

東堂先輩の声が、止まった。

職員室は、静まり返った。


扉の向こうで、何が起きているのかは見えない。


けれど。

海斗先輩が泣いていることだけは。

扉越しでも、はっきりと分かった。



それから。

部活で海斗先輩の姿を見ることは、なくなった。


退部したのだろうか。

理由は分からない。

少しだけ気になった。


けれど。


「次は大会だな」


その言葉を聞いた瞬間、意識は自然と次の目標へ向いていた。


大会まで、残された時間は多くない。

今やるべきことは練習だった。


だから、海斗先輩のことを考える時間は、少しずつ減っていった。


いつの間にか。

頭の中から、その存在は静かに消えていった。



海斗がいなくなってから、音楽室の空気は、どこか変わってしまった。


誰もその名前を口にはしない。


けれど、誰もが気付いていた。

何かが壊れてしまったことを。


そして。

その矛先は、少しずつ一人の一年生へ向いていった。


その日も練習が終わり、部員たちが帰り支度を始めていた。


一年生は、いつも通りだった。

譜面を片付け、静かにユーフォをケースへしまう。


その時だった。


「……おい」


低い声が響く。


一年生が振り返る。

東堂だった。


その目には、怒りだけが宿っていた。


「東堂先輩」


「お前さ」


東堂はゆっくり近付く。


「何でそんな平然としてられるんだよ」


一年生は静かに首を傾げた。


「何のことでしょうか」


「何のこと、だと?」


東堂の肩が震える。


「海斗だよ!」


音楽室が静まり返る。


「海斗は、お前と会ってから部活に来なくなった!」


一歩。

また一歩。


距離が詰まる。


「お前が壊したんだろ!」


叫び声が音楽室に響いた。

それでも一年生の表情は変わらない。


「……何度も申し上げていますが、僕には理由が分かりません」


「ふざけるなッ!」


東堂は胸ぐらを掴んだ。

周囲から息を呑む音が漏れる。


制服が大きく乱れる。

それでも一年生は抵抗しなかった。


ただ東堂を見つめている。


「何でだよ!」


東堂の声は震えていた。


「何で海斗なんだよ!何でお前だけ、何も変わらねぇんだよ!」


握る力が強くなる。


「返せよ……」


震える声。


「海斗を……返せよ……!」


一年生は静かに口を開いた。


「離してください」


「黙れッ!」


さらに胸ぐらを締め上げる。


その瞬間だった。

一年生は東堂を真っ直ぐ見つめたまま、小さく言った。


「……暴力でしか、解決できないんですか」


東堂の動きが止まる。

音楽室の空気が凍り付く。


一年生は続けた。


「それでは何も解決しません」


ほんの一拍置いて。

感情のない声で、言い切る。


「……三年は三年でも、中身は三下ですね」


その一言だった。

東堂の中で、何かが切れた。


「てめぇぇぇッ!!」


怒号が響く。

周囲の部員たちが慌てて東堂へ飛びつく。


「東堂先輩!」

「やめてください!」

「離せッ!!」


何人がかりで押さえても、東堂は暴れ続ける。

その視線だけは、最後まで一年生から外れなかった。


一年生は乱れた制服を静かに整える。


そして、小さく息を吐いた。


ケースを持ち上げ、何事もなかったかなように音楽室を後にする。


その背中を見つめながら。

東堂は、歯が砕けそうなほど強く食いしばる。


(絶対に許さない。こいつだけは――)


その日。

東堂成昭(なりあき)の中で。


月本(つきもと)響という存在は、「認めたくない天才」から、「絶対に許せない相手」へと変わった。





だからこそ、

僕は、それを謝りたかったんだ......

何かが終わる時、その音は案外静かなものなのかもしれない。

誰も気付かないまま、少しずつ、少しずつ、壊れていく。

感想、評価、ブクマ是非お願いします。

次回もお楽しみに!!

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