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心はB♭で響いている  作者: World of Tukimoto
第1章 響く音響編 —始動—

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79話 自分だけの音

努力は、必ず報われるとは限らない。それでも人は、自分だけの音を信じて、今日も楽器を手に取る。

けれど、その"音"さえ揺らいでしまったとき、人は何を信じればいいのだろう。

その"異常"は、日に日に加速していった。


最初は、ただ驚くだけだった。


「すごいな」

「よくそこまで練習できるな」


そんな言葉で済んでいた。

けれど、その頃から少しずつ、部員たちの表情に、戸惑いが混じり始める。


ある日の合奏。


「クラリネット、そこもう少し軽くいこうか」


顧問の声が響く。


クラリネットパートが何度か吹き直すものの、思うようにまとまらない。


そんな時だった。


「先生」


静かな声が音楽室に響く。


「あの……そこって、こんな感じですか?」


ユーフォを構えた一年生が、何気なく一つのフレーズを吹いた。


その音色は、誰が聞いてもクラリネットだった。

柔らかく、それでいて芯のある音。


ユーフォとは思えないほど自然な響きに、音楽室が静まり返る。


「……え?」


クラリネットの部員が思わず目を丸くする。


「今の……ユーフォだよね?」


「はい」


本人は何事もなかったかのように頷く。


「イメージしやすいかなと思って」


その一言だけだった。

誰も言葉を返せない。


「いや……何なんだ、あれ」


クラの三年が小さくつぶやく。


東堂(とうどう)も、その演奏を黙って見つめていた。その隣では、海斗(かいと)もまた、静かに息をのんでいた。


驚いていた。

けれど、それ以上に。


(……すごい)


その感情の方が、まだ大きかった。



そんな日々が続く中で海斗は、少しずつ気づき始めていた。


自分が今まで当たり前だと思っていたものが、目の前で簡単に覆されていくことに。


「先輩」


ある日の練習中。

一年生が譜面を見ながら声を掛けた。


「ここ、少しだけ変えた方がいいと思います」


「え?」


海斗は顔を上げる。


「ここの入り、もう少し息を前に出した方が音が綺麗になります」


「いや……でも、今の吹き方で合ってると思うけど」


海斗がそう返すと、一年生は少し考えるように首を傾げた。


「そうですか?」


否定するわけでもない。

ただ、純粋に疑問に思っているようだった。


「じゃあ、一回僕が吹いてみます」


そう言って楽器を構える。


次の瞬間。

同じ譜面とは思えない音が響いた。


音の立ち上がり。

音程。

響き。

全てが違う。


海斗は言葉を失う。


「……」


「こんな感じだと思ってるんですが」


一年生は楽器を下ろした。


「先輩なら、もっと良くできると思います」


悪意などなかった。

ただ、本当にそう思って言っただけだった。


「……うん」


海斗は笑顔で頷く。


「ありがとう」


そう答える。


けれど、胸の奥に、何か小さなものが残った。


それからだった。

少しずつ、海斗の周りで、そんな場面が増えていったのは。


「ここ、こうした方がいいですよ」

「この音、もう少し響かせた方がいいです」

「先輩ならできます」


その言葉は、決して間違っていなかった。

むしろ、全て正しかった。


だからこそ。

海斗には苦しかった。


反論できない。

否定できない。

言われた通りにすると、本当に音が良くなる。


自分より下の後輩に言われている。

そんな単純な話ではなかった。


目の前にいる存在が。

自分が何年もかけて積み上げてきたものを、簡単に越えていく。


その事実が、少しずつ海斗の心を削っていた。


一方で。

東堂は、その変化に気づいていた。


練習中。

以前なら楽しそうに笑っていた海斗が、最近は、一人で譜面を見る時間が増えている。


「……海斗」


「ん?」


「大丈夫か?」


「え?」


一瞬だけ、海斗の表情が止まる。

しかしすぐに、いつもの笑顔へ戻った。


「大丈夫だよ」


そう答える。


「僕なんかより、あの子の方がすごいだけだから」


その言葉を聞いた瞬間、東堂の眉が動いた。


「……何言ってんだよ」


「え?」


「お前はお前だろ」


海斗は何も言わなかった。

ただ、小さく笑うだけ。


「……うん」


その返事が、東堂には、どこか無理をしているように聞こえた。


そして。

東堂の中で、少しずつ。


あの一年生への感情が変わり始めていた。



「海斗、一緒に帰るか?」


東堂が声を掛ける。


「ごめん。もう少し残る」


海斗は譜面から目を離さない。


「またか」


「うん。まだ吹けてないところがあるから。」


東堂は何か言いかけたが、結局何も言わずに音楽室を出ていった。


静かになった部屋。

海斗は一人、何度も同じ小節を吹き続ける。


一回。

二回。

三回。


「……違う」


四回。

五回。

「違う……」


吹いては止まり。

吹いては首を振る。


一年生の吹く音が、頭から離れない。


(もっと前に)

(もっと真っ直ぐ)

(もっと響かせて)


何度吹いても、あの音にならない。


「っ……!」


思わず楽器を膝に置く。


「何でだよ……」


小さく漏れた声。

誰もいない音楽室に、それだけが響いた。


自分も努力してきた。

毎日練習してきた。


誰よりもとは言えない。

でも、決して手を抜いたことなんてない。


それなのに。

たった一年生が。

当たり前のように、自分の何年も積み重ねてきたものを超えていく。


「はは……」


乾いた笑いが漏れる。


「勝てるわけ……ないじゃん。」


その言葉を口にした瞬間だった。

胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。


悔しい。

苦しい。

でも。


一番苦しかったのは。

そんなことを思ってしまう自分自身だった。


「最低だな……僕」


目頭が熱くなる。


「あんなに頑張ってるのに」

「あんなに努力してるのに」

「あの子は……何も悪くないのに……」


分かっている。

全部分かっている。


だから、誰にも言えない。

誰も責められない。


その夜。

海斗は、一人だけ音楽室で泣いていた。



翌日。

海斗はいつも通り部活に来ていた。


「おはよう!」


いつもと変わらない笑顔。

いつもと変わらない挨拶。

誰も異変には気づかない。


いや。

一人だけ。


「……海斗」


東堂だけは、その笑顔が作り物だと分かっていた。

練習が終わり、部員たちが片付けを始める。


「海斗」


「ん?」


「ちょっと来い」


東堂は海斗を人気のない廊下へ連れ出した。

夕日が窓から差し込み、長い影を落としている。


しばらく沈黙が続いた。

やがて東堂が口を開く。


「何があった」


「……何もないよ」


「嘘つけ」


即答だった。

「俺を騙せると思うな」


海斗は苦笑する。


「本当に何も──」


「昨日、泣いただろ。」


その一言で。

海斗の表情が止まった。


「……」


「見てたわけじゃねぇ。でも分かる」


東堂は真っ直ぐ海斗を見る。


「お前、限界なんだろ」


海斗は俯いたまま動かない。

肩が、小さく震えていた。


「……東堂君」


かすれた声が漏れる。


「僕さ」


そこで言葉が止まる。

何度も息を吸い直し、ようやく、小さく笑った。


「……僕、ユーフォ向いてないのかな」


東堂の目が見開かれる。


「何言って──」


「だって」


海斗は笑っていた。

泣きそうな顔で。


「頑張っても、頑張っても届かないんだ」


海斗は一度言葉を飲み込み、小さく息をついた。


「僕がどれだけやってもできないようなことを、あの子は一日でやっちゃう。先生も、みんなも、あの子に聞けば解決する。僕が先輩でいる意味って、あるのかな」


最後の一言は、消え入りそうなほど小さかった。


東堂は何も言えなかった。


ただ。

親友が、自分を否定する姿だけが目の前にあった。


東堂は海斗の肩を強くつかむ。


「ふざけんな」


低い声だった。


「そんなこと、本気で思ってんのか?」


海斗は目を伏せたまま答えない。


「海斗」


東堂は真っ直ぐ目を見る。


「前もいっただろ?お前はお前だ」


「…...」


「確かに、あいつは化け物だ」


その言葉に海斗が少しだけ顔を上げる。


「あんな奴、俺だって見たことねぇよ。でもな」


東堂は続ける。


「あいつがどれだけ上手かろうが、お前の価値とは何の関係もねぇ」


「……」

「お前が今までどれだけ頑張ってきたか、俺は全部見てきた。朝早く来て、昼休みも練習して、家でも吹いて、誰よりも音楽のこと考えてた」


東堂は少し笑う。


「そんなお前が、簡単に負けるわけねぇだろ」


海斗の目が揺れた。


「でも……」


「でもじゃねぇ」


東堂は言葉を重ねる。


「あいつにできることがある。だったら、お前にしかできないことだってあるんだ。比べるな。お前は、お前の音を吹けばいい」


しばらく沈黙が流れる。


海斗はゆっくりとうつむき、小さく息を吐いた。

そして。


「……ありがとう」


かすかに笑った。


「少し、気持ちが楽になった」


その笑顔は、久しぶりに東堂が見た、本物の笑顔だった。


東堂も思わず笑みを浮かべる。


「そういう顔してろ」


「うん」


海斗は力強くうなずいた。


「もう少し頑張ってみる」


その言葉を聞いて、東堂は心の底から安心した。


(よかった)

(戻ってきた)



東堂と別れたあと、少しだけ前を向けた海斗は、もう一度楽器を握る。


夕焼けに染まる音楽室。

部員はほとんど帰り、静かな空間には海斗一人だけだった。


東堂の言葉が頭の中で何度も繰り返される。


(お前はお前だ)

(比べるな)

(お前の音を吹けばいい)


「……よし」


小さく息を吐き、楽器を構える。

さっきより少しだけ音が前へ飛んだ。


その時だった。


ガラッ。

静かな音楽室に扉の音が響く。


海斗が振り返る。

ユーフォを持った一年生が入ってきた。


「……あ」


目が合う。

一年生は軽く会釈した。


「まだ残ってたんですね」


「うん。ちょっとね」


海斗は笑って答える。


一年生は何も気にした様子もなく、自分の席へ向かう。


そしていつものようにユーフォに息を吹き込む。


数秒後。

静かな音が鳴る。


ロングトーン。

まるで機械のように、一切揺れない。


海斗は思わず耳を傾ける。


(……やっぱり綺麗だ)


その時。


一年生がこちらを見た。


「先輩」


「ん?」


「せっかくですし」


少しだけ首を傾げる。


「一緒に練習しませんか。」


海斗は一瞬迷った。

だが。


(比べるな)


東堂の言葉を思い出す。


「……うん」


笑顔で頷く。


「お願いしようかな」


一年生も小さく頷いた。


「はい」


二人は向かい合うように立つ。

同じ譜面を開く。


「じゃあ、最初から」


海斗が吹く。


さっきより吹けている。

東堂に励まれたことで、少しだけ自分の音を信じられていた。


最後まで吹き終える。


「どうかな」


海斗は少し照れながら笑う。

一年生は少し考えた。


「いいと思います」


海斗はほっと息をつく。

だが。

一年生は続けた。


「先輩の音、すごく好きです」


「……え?」


思わぬ言葉だった。


「柔らかくて、安心できます。基準になります」


海斗は照れくさそうに笑う。


「ありがとう」


一年生は真っ直ぐ頷く。


「僕もそれに合わせないとですね」


そう言って、静かにユーフォを構えた。


「こんな感じですか?」


ブレス。

そして。

音が鳴る。


「――――」


海斗の表情が固まる。


それは。

自分の音だった。


音色。

息の流れ。

フレーズの歌わせ方。

ビブラートの癖。

音の入り方。

音の抜け方。


全部。

全部。

自分だった。


「……」


音楽室から音が消える。


一年生は満足そうでも、自慢げでもない。

ただ確認するように言う。


「まだ少し違いますね」


海斗は返事ができない。


「先輩の方が、この音でもう少し温かいです」


そう言って譜面を見る。


「でも近づいてきました」


海斗は立ち尽くす。


(一番好きだと思っていた音)

(何年もかけて作ってきた)

(自分だけの音)


それすら。

真似できるのか。


一年生は何も知らない。

何一つ気付いていない。


「もう一回やってみます」


再び楽器を構える。

今度は、一回目よりもさらに海斗に近い音が鳴る。


「……違う」


一年生は首を傾げる。


「もっと近づけるはずなんですが」


その言葉が。

海斗の胸を貫いた。


(音まで)

(僕の音まで)

(僕だけのものじゃ……ない)


指から力が抜ける。

ユーフォが、ガタン、と床へ倒れた。


一年生が驚いて振り返る。


「先輩?」


海斗の耳には。

もう何も届いていなかった。


そのまま、何かに吸い寄せられるかのように音楽室から姿を消す。


東堂が必死に繋ぎ止めた希望は、ほんの数分で。



音もなく、崩れ落ちた。





一年生は首を傾げたまま、閉まった扉を見つめ続けていた。


「先輩。僕、何か失礼なこと言いましたか?」

……勝てないんじゃない。もう、僕には比べる場所すら残ってないんだ。


僕がここにいる意味って、何なんだろうね。



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次回もお楽しみに...

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