78話 忘れられた記憶
人は、同じ出来事を見ても、同じように記憶するとは限らない。
誰かにとっては救いだったことが、誰かにとっては傷になることもある。そして、そのすれ違いは、時に長い年月を経ても消えない。
病室にいた全員の視線が、一斉に扉の方へ向く。
「海斗ッ!?」
真っ先に声を上げたのは東堂だった。
「海斗君……!?どうしたの?」
続いて母親も驚いたように声を掛ける。
海斗は肩で大きく息をしながら、病室の入口に立っていた。
「はぁ……はぁ……」
乱れた呼吸を整えようとしながら、何かを小さくつぶやく。
「……って、違うじゃん」
誰にも聞こえないほどの声だった。
「ここ病室だから……東堂君いるわけないんだった……」
勢いだけで駆けつけたせいか、自分の勘違いに気づき、小さく苦笑する。
ゆっくりと顔を上げた、その瞬間――。
「……え?」
目の前に立つ東堂と視線が合う。
海斗の目が大きく見開かれた。
「東堂君……?」
信じられないものを見たように、思わず声が漏れる。
東堂もまた、目の前にいる海斗から視線を離せずにいた。
次の瞬間だった。
「東堂君ッ!!」
海斗は表情をぱっと明るくし、一目散に東堂へ駆け寄る。
「すごいじゃん!!全国だよ、全国!!やったーーー!!!」
勢いそのままに東堂へ飛びつく。
「うおっ!?」
受け止めきれず、東堂はそのまま後ろへ倒れ込んだ。
「お、おい……!」
病室の床へ押し倒されるような形になり、東堂は思わず声を上げる。
「ちょ、おい、やめろって!」
海斗はそんなことなど気にも留めず、満面の笑みで東堂の肩を揺さぶる。
「本当にすごいよ!全国大会なんて!東堂君たちなら絶対行けるって思ってたけど、本当に行っちゃうなんて!」
東堂は困惑したまま、目の前ではしゃぐ海斗を見つめる。
その時だった。
「やめなさい」
低く、冷たい声が病室に響く。
海斗の動きが止まった。
父親が一歩前へ出る。
「ここは病室だ。それを分かっているのかね?」
その一言で、海斗はようやく我に返った。
「あっ……!」
慌てて東堂から離れ、その場で深く頭を下げる。
「も、申し訳ありませんでした!嬉しくて、つい……ここが病室だということも忘れてしまって……本当にすみません!」
病室に静寂が戻る。
父親は海斗をまっすぐ見つめたまま、淡々と言った。
「……帰りたまえ。響に用事がないのならな」
その言葉に、海斗は再び深く頭を下げる。
「お願いします」
震える声だった。
「響君と……東堂君と、話をさせてください。」
さらに頭を下げる。
「お願いします。」
病室は静まり返る。
父親は腕を組み、しばらく何も言わなかった。
握り締められた拳だけが、小さく震えている。
重い沈黙が流れたあと、父親はゆっくりと口を開いた。
「……私たちは、すぐ外にいる」
その視線が東堂へ向けられる。
「そのことを忘れるな。特に東堂君は」
東堂は静かにうなずいた。
「……はい」
父親はそれ以上何も言わず、母親へ目配せする。
母親は心配そうに響たちを見つめながら、小さくうなずいた。
「何かあったら、すぐ呼んでね」
そう言い残し、二人は病室を後にする。
静かに扉が閉まり、病室には、響、東堂、そして海斗の三人だけが残された。
響は口を開けたまま、目の前の二人を見つめていた。
東堂はゆっくりと響の前まで歩み寄る。
「……響。本当に何も覚えてないのか?」
「え……?」
響は思わず目を瞬かせる。
いつもの東堂とは違う。
荒々しい口調でも、突き放すような態度でもない。まるで、何かを確かめるような、怯えるような声だった。
(東堂先輩……?どうしたんだろう……)
そんな東堂の様子に戸惑っていると、
「え、待って。」
今度は海斗が口を開いた。
「覚えてないって、どういうこと?」
病室の空気が止まる。
東堂がゆっくりと海斗を見る。
「……お前、知らなかったのか。」
海斗は首を横に振る。
「知らないよ。何があったの?」
東堂は事故後のことを、途切れ途切れに海斗へ話し始めた。
目を覚ました響が、自分たちとの記憶を失っていたこと。
響は黙ってその話を聞いていた。
確かに、目を覚ましたあと、両親や医師から何度も説明は受けた。
「事故で記憶に障害が出ています」
「思い出せないことがあっても不思議ではありません」
そう何度も言われた。
けれど、どれだけ説明を聞いても、不思議と実感は湧かなかった。
(記憶がない……そうなんだろうな)
そう理解はしている。でも、それはどこか、自分以外の誰かの話を聞いているような感覚だった。
東堂の話を聞いているうちに、海斗の表情から笑顔が消えていく。
口を開こうとしては閉じ、何度も息をのみ込む。
やがて、静かに顔を上げた。
「……知ってるよ」
病室の空気が止まる。
「東堂君が、響君にどんなことしてきたか。」
東堂の表情が一変した。
「……何だよ、急に」
さっきまでの穏やかな口調は消え、いつものぶっきらぼうな話し方へ戻る。
海斗は東堂から目を逸らさない。
「僕、全部知ってる。」
「…...」
「だから今日は、それを話しに来た」
長野市立西野中学校吹奏楽部。
当時は、県内でも決して強豪とは呼ばれない、ごく普通の吹奏楽部だった。
部員たちは笑い合い、ときには真剣に練習しながらも、「全国」を本気で目指すような空気はない。
そんな部に、その年、新たな新入部員が入ってきた。
「今年は結構入ったね」
「賑やかになりそうだな」
先輩たちは笑いながら新入部員を眺める。
その中に、一人だけ。
少し変わった一年生がいた。
誰とも積極的に話そうとはしない。
入部初日から、楽器と譜面だけを見つめている。
「……あの子、誰だっけ?」
「確か、一年生だったよね。」
「名前は忘れたけど」
その程度だった。
誰も、その一年生を特別視してはいなかった。
ただ一人。
海斗だけは、ふとその姿に目を留める。
朝早くから音楽室へ来て。
昼休みも譜面を開き。
放課後になれば、誰よりも遅くまで楽器を吹き続ける。
「……すごいな」
思わず、そんな言葉が漏れた。
「誰よりも練習してる。」
東堂は一度だけその方向を見る。
「まぁ、一年なんて最初だけだろ」
興味なさそうにそう言って、自分の練習へ戻った。
この頃はまだ東堂も、その一年生のことなど、気にも留めていなかった。
それから数週間。
「あれ?」
最初に違和感を覚えたのは、誰だったのか。
もう誰も覚えていない。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
あの一年生は、毎日いた。
休日の朝。
まだ校門すら開いていない時間。
「え……?」
登校してきた部員が思わず足を止める。
校門の前。
ケースを抱え、一人静かに立っている姿があった。
「おはようございます」
ただ、それだけ言って、小さく頭を下げる。
「いや……学校、まだ開かないよ?」
「はい。分かってます」
一年生は頷く。
それだけだった。
慌てる様子もなければ、不満そうな顔もしない。まるで、それが当たり前であるかのように、静かに校門が開くのを待っていた。
「何してるの?」
海斗が笑いながら尋ねる。
「学校が開くまで、ソルフェージュをしようと思って」
「外で?」
「はい」
あまりにも自然に答えるその姿に、海斗は苦笑するしかなかった。
「すごいなぁ……」
その横で、東堂は小さく鼻を鳴らす。
「好きなんじゃねぇの」
まだ、その程度だった。
放課後。
「もうすぐ施錠だからねー!」
顧問の声が廊下へ響く。
「はーい!」
部員たちが片付け始める。
だが、一人だけ。
まだ楽器を吹き続けていた。
「あと五分だよー!」
「はい」
返事だけは早い。
それでも楽器は置かない。
時計の針だけを確認しながら、最後の一音まで吹き続ける。
「おいおい……」
「間に合うのか?」
部員たちが見守る中、
残り数十秒。
ようやく楽器を下ろした。
ケースへしまい、譜面を片付け、椅子を戻す。
すべてを終えた頃には、施錠時刻ぴったり。
一秒も遅れない。
「……」
誰も何も言えなかった。
ルールは守っている。
だから注意もできない。
けれど。
「あそこまでやるか……?」
そんな空気だけが、音楽室に残った。
東堂も黙ってその姿を見送る。
まだ、この頃は。
ただの"変わった一年生"だった。
それからしばらくして。
「え?」
音楽室のあちこちから、そんな声が聞こえ始めるようになった。
「今の……何?」
ユーフォの音だった。
けれど、吹いているフレーズはユーフォの譜面ではない。
「それ、何吹いてるの?」
海斗が声を掛ける。
一年生は譜面から目を離さないまま答えた。
「クラリネットのトリルです。」
「……クラ?」
「はい」
「いや、何で?」
「指の練習になりますし、他のパートも理解しておかないと、合わせられないので」
あまりにも当たり前のように言う。
海斗は思わず苦笑した。
「いや、そういう問題じゃなくて……」
その音は、どう聞いても完璧だった。近くで聞いていた部員たちも顔を見合わせる。
「え、ユーフォであれ吹けるの?」
「聞いたことないぞ……。」
一年生は気にする様子もなく、また譜面へ視線を落とした。
「よし……次」
小さく呟く。
その一言だけだった。
別の日。
「どれくらい音出るの?」
近くにいた二年生が何気なく聞いた。
「そうですね」
少し考えてから答える。
「三オクターブ上のFくらいです」
「……は?」
音楽室が静まり返る。
冗談だと思った。
だが。
そのまま楽器を構え、本当に吹いてみせた。
耳を疑うような高音。
もちろん、チューナーの針は全く動かなかった。
誰も声が出なかった。
「……」
「嘘だろ……」
東堂も初めて演奏の手を止める。
視線だけが、その一年生へ向いていた。
またある日。
「ここ、息続かないんだよな」
ユーフォの二年が呟く。
一年生は譜面を覗き込みながら言った。
「ここですか?」
「うん」
「僕はこの二十三小節間、息継ぎしないで吹くので、先輩は途中でカンニングブレスしてください」
「……え?」
何を言われたのか分からなかった。
「いや、だから先輩は今まで通り、キツくなったら息継ぎしていいんですよ」
だが。
実際に吹くと、本当に最後まで息継ぎをしなかった。
海斗は目を見開いたまま、その演奏を聞いていた。
(……何なんだ)
その頃にはもう。
「あいつは普通じゃない」
そんな言葉が、部員たちの間で自然と交わされるようになっていた。
誰よりも早く来る。
誰よりも遅くまで吹く。
誰よりも速く成長していく。
驚きと感心。
そして、少しの戸惑い。
まだこの時は、それだけだった。
誰も知らなかった。
その"異常"が、やがて一人の心を大きく揺さぶり、三人の運命を大きく変えてしまうことを――。
止まっていた時間は、少しずつ動き始めた。けれど、それはまだ始まりに過ぎない。
あの頃、部室で何が起きていたのか。一人の新入部員が現れたことで、少しずつ変わっていった日常。
その"異常"は、やがて一人の心を大きく揺さぶることになる。
感想、評価、ブクマ是非お願いします。
次回もお楽しみに!!




