77話 静かに崩れる世界
大会が終わったあとに残るものは、達成感だけではない。むしろ本当の意味での“現実”は、そのあと静かに姿を現す。
うまくいった者も、届かなかった者も、同じ場所に立っているはずなのに、見えている景色は少しずつ違っていく。
言葉にならない不安は、時に小さな噂となって広がり、気づかないうちに誰かの心を揺らしていく。
音楽が鳴り止んだあとも、物語は止まらない。ただ、その形を少しずつ変えながら続いていくだけだ。
翌日。
東縁高校吹奏楽部を乗せたバスは、長い移動を終え、長野県へと戻ってきた。
見慣れた校舎が視界に入ると、どこか張り詰めていた空気が少しだけ和らぐ。
「帰ってきたな……」
誰かがぽつりとつぶやく。
バスがゆっくりと正門前で停車し、部員たちは順番に降りていった。
すると、そこには校長をはじめ、多くの教職員たちが並んで待っていた。部員たちの姿が見えると、自然と大きな拍手が広がる。
「皆さん、本当にお疲れさまでした!」
校長が笑顔で一歩前へ出る。
「そして――全国大会出場、おめでとうございます!」
再び大きな拍手が響く。
「創部以来、初の全国大会出場です。本当に素晴らしい結果でした」
教頭をはじめ、先生たちも次々と祝福の言葉を送る。
「おめでとう!」
「よく頑張ったな!」
「全国でも東縁らしい演奏を期待しているぞ!」
思いがけない歓迎に、部員たちは少し照れくさそうに笑いながら頭を下げた。
「ありがとうございます!」
「応援ありがとうございました!」
全国大会への切符を手にした喜びが、ようやく現実のものとして胸に広がっていく。
けれど、その笑顔の裏では、まだ誰も知らない出来事が、静かに動き始めていた。
職員室へ戻ると、瞬崎は机の上に荷物を置き、小さく息をついた。
その時だった。
「瞬崎先生」
声を掛けられ、振り返る。
そこには瀬戸川が立っていた。
「お疲れ様でした」
「ありがとうございます。瀬戸川先生も、お疲れ様でした」
互いに軽く頭を下げる。
瀬戸川は穏やかに笑みを浮かべた。
「まさか、本当に全国大会へ出場する日が来るとは思いませんでした」
少しだけ遠くを見るように目を細める。
「ここは、長い間ずっと地区大会で銅賞止まりでした。県大会すら夢のまた夢。それが当たり前になっていたんですから」
静かに息をつく。
「それが今では東海大会を勝ち抜き、代表として全国大会へ出場するまでになった……本当に信じられません」
瀬戸川は改めて瞬崎へ視線を向ける。
「もちろん、ここまで努力してきた部員たちが一番素晴らしいです。ですが、その部員たちをここまで導いた瞬崎先生も、本当にすごい方ですね」
少し照れ笑いを浮かべる。
「正直、同じ教師として尊敬していますし……少し圧倒されてしまいます」
瞬崎は静かに首を横へ振った。
「ですが、ここから先は今までと同じようにはいきません」
瀬戸川は真剣な表情で耳を傾ける。
「今年の私たちは、挑戦者でした。だからこそ、失うものなくぶつかることができた」
一度言葉を切り、静かに続ける。
「しかし、東海大会でエーストリア学園を破ったことで、その状況も変わります。東海三神の一角を倒した学校として、下剋上の名は全国へ轟いていることでしょう」
瞬崎は窓に視線を向け、続ける。
「全国大会ではもちろん、来年以降も、私たちはこれまで以上に警戒される存在になります。研究され、対策され、それでも勝たなければならない。それが、一度結果を残した学校の宿命です」
瀬戸川は静かにうなずいた。
「……それも含めてまた、やるんでしょう。オーディションを」
その言葉に、瞬崎は迷うことなく笑みを浮かべる。
「もちろんです。全国大会で吹くにふさわしい、東縁高校吹奏楽部の真の奏者を集めます。全国へ行くからこそ、妥協はできません。誰であろうと、もう一度その座を勝ち取ってもらいます」
瀬戸川はその言葉を聞き、小さく笑みをこぼした。
「これから、さらに忙しくなりますね。」
瞬崎も穏やかに笑みを返す。
「ええ。もう、成り上がり者ではありませんから」
――プルルルル。
静かな職員室に、一本の電話が鳴り響く。
瞬崎は受話器を手に取った。
「はい、東縁高校。……瞬崎です。」
しばらく相手の話に耳を傾ける。
「……はい。……え?」
その表情が、わずかに変わった。
目を見開き、息をのむ。
「……それは、本当ですか?」
職員室の空気が静まり返る。瀬戸川も、思わず瞬崎の様子を見つめていた。
瞬崎は短く返事をし、静かに受話器を置く。
沈黙が流れる。
瀬戸川がおそるおそる口を開いた。
「……何か、あったんですか?」
瞬崎はしばらく黙っていた。
そして、静かに答える。
「……月本君が、記憶障害になったそうです」
その知らせは、本来ならまだ部員たちの耳に入るはずのないものだった。
けれど、学校という場所では、一つの出来事が思いがけない速さで広がることがある。
職員室で交わされた会話を、偶然耳にしてしまった生徒がいた。
「……え?月本が?」
その一言が、別の生徒へ。
そしてまた別の生徒へ。
噂は、あっという間に校内を駆け巡っていった。
当然、その話は吹奏楽部にも届く。
「嘘……だよね?」
「記憶障害って……どういうこと?」
「前まで普通だったじゃん……。」
「全国大会は……?」
戸惑いの声が、部室のあちこちから聞こえてくる。
誰も確かなことは知らない。
知っているのは、「月本響が記憶障害になったらしい」という噂だけ。
だからこそ、不安だけが静かに広がっていくのだった。
柊木は最初、その噂を信じようとはしなかった。
(そんなはずがない)
響が記憶障害?
そんな言葉を、簡単に受け入れられるわけがない。
「どうせ誰かの勘違いだ」
そう自分に言い聞かせる。
だが、時間が経つにつれ、その話は校内中へ広がっていった。
「本当らしいよ」
「職員室で先生が話してたって」
「病院から連絡があったんだってさ」
誰もが、まるで事実であるかのように口にする。
(違う。)
(そんなわけない。)
(あいつが……。)
胸の奥で何かが軋む。
(あいつは……。)
(やっと……。)
(ようやく……。)
途切れ途切れに、誰かの笑顔が脳裏をよぎる。
夕暮れ。
何かを必死に追い掛ける背中。
「約束だ」
誰かの声。
「絶対、忘れるな。」
(忘れるな……?)
その言葉だけが、頭の中で何度も何度も繰り返される。
(忘れるな……。)
(忘れるな……。)
(忘れるな……。)
「柊木君?」
どこか遠くから声が聞こえた。
「……」
「柊木君?」
現実の音が少しずつ近づく。
だが、耳には届いているのに意味を持たない。
(違う。)
(響が忘れるわけがない。)
(あいつだけは……。)
「柊木君!」
肩を軽く揺さぶられる。
その瞬間。
「――うるさいッ!!!!」
反射的に腕を振り払う。
ドンッ。
「うわっ!」
奏多の体が大きくよろめき、そのまま床へ倒れ込んだ。
空気が、一瞬で凍りつく。
柊木だけが、荒い呼吸を繰り返していた。
奏多は、目の前にいる柊木の表情を見つめたまま、一歩も動けない。
柊木のその表情は、今まで一度も見たことのない顔だった。
怒りでもない。
悲しみでもない。
何かが壊れてしまったような、張りつめた表情。
その目を見た瞬間、奏多は思わず息をのんだ。
「……僕、そんなに君に迷惑をかけるようなこと、した?」
震えた声が静かな教室に落ちる。
柊木は荒い呼吸を繰り返したまま、何も答えられない。
「ごめんね……」
奏多は無理に笑おうとした。
「無理に話してほしいなんて言っちゃって。僕、バカだからさ、こういう時、周りの空気を読むのとか、本当に苦手なんだ」
その笑顔は最後まで形にならなかった。
静かに立ち上がる。
頬を伝う涙を拭うこともなく、小さく頭を下げた。
「ごめんなさい」
一歩。
「ごめんなさい」
また一歩。
「ごめんなさい……」
その言葉だけを繰り返しながら、奏多は教室を後にした。
扉が静かに閉まる。
――パタン。
その音が響いた瞬間だった。
「……っ」
柊木の膝から力が抜ける。
そのまま床へ崩れ落ちた。
両手で頭を抱え、苦しそうに息を吐く。
「僕は……」
震える声が漏れる。
「何をやってるんだ……」
視界に焼き付いて離れない。
怯えきった奏多の表情。
震える声。
流れ続ける涙。
そして、自分の腕が奏多を突き飛ばした瞬間。
「違う……違うんだ……」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
「僕は……あいつに」
そこまで口にしたところで、言葉は喉の奥に詰まった。
苦しげに頭を抱えたまま、柊木は何度も何度も首を振る。
「違う。こんなつもりじゃ……なかった……」
教室にはもう誰もいない。
静まり返った空間に、柊木の途切れ途切れの呼吸だけが、重く響いていた。
扉が静かに開いた。
東堂はすぐに一歩前へ出て、深く頭を下げる。
「……響君の部活の先輩です。東堂成昭です。」
病室の空気がわずかに動く。
母親は戸惑いながらも、震える声で言った。
「東堂君じゃない……。聞いたわよ、全国大会に出るんだってね。すごいじゃない」
そして視線を響へ向ける。
「それで……響に何か用なの?」
東堂は一瞬ためらったあと、口を開いた。
「彼と、少しだけ話をしてもいいですか?」
その言葉に、父親の表情が一気に変わる。
「ダメだ」
即答だった。
「ど、どうしてですか……」
東堂の声がわずかに揺れる。
父親は一歩も動かずに言った。
「事故のあと、彼と何かあったそうだな。突き飛ばした、と聞いている。」
東堂は言葉を失った。
「君を許すつもりはない。二度と響の前に顔を見せるな」
母親が慌てて止めに入る。
「ちょっと、あなた……!それは言い過ぎよ!」
だが父親は冷たく母親を見た。
「響がこうなるまで放っておいたのは誰だ?私たち、いや、私だ」
母の動きが止まる。
「この件は私が責任を取る。これ以上、外部の人間を関わらせるな」
東堂は何も言えず、ただ拳を握りしめていた。
そして父親は静かに告げる。
「帰りたまえ。本当に目障りなのはどちらだったのか……よく考えるんだな」
その時だった。
廊下から、激しく走ってくる足音。
「――ッ!」
扉が勢いよく開く。
東堂が振り向くより早く、その人物は声を上げた。
「東堂君ッ!!!!!」
息を切らせながら立っていたのは、巴海斗だった。
音が止んだあとに残るのは、静けさだけではない。言葉にできなかった感情や、整理できないままの違和感が、少しずつ形を持ち始めていく。
同じ時間を過ごしていても、見えているものはもう同じではない。
それでも歩みは止まらないのだ。
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次回もお楽しみに!!




