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心はB♭で響いている  作者: World of Tukimoto
第1章 響く音響編 —始動—

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76話 月本響?

大会というものは、終わった瞬間にすべてが終わるわけではない。むしろ本当の意味での“続き”は、そのあとに静かに始まっていく。

歓声が遠ざかり、拍手が消え、楽器を片付ける音だけが残る時間。その中で、それぞれが抱えているものだけは、まだ音にならずに胸の奥に残っていた。

勝った者にも、届いた者にも、そして届かなかった者にも、等しく、次の一歩は訪れる。

ただしその一歩が、同じ場所に続いているとは限らない。

大会が終わり、外の広場に人の波がゆっくりと流れ出していく。


アクトシティ浜松の前は、まだ余韻の熱を残したまま、多くの吹奏楽部員たちで埋まっていた。笑い声も、悔しさの混じった声も、あちこちで小さく交差している。


その中で、東縁(とうえん)高校の一団は、少しだけ離れた場所に立っていた。


全国大会出場。

その言葉だけが、まだ現実になりきらずに胸の中に残っている。


やがて、瞬崎(しゅんざき)が一歩前に出た。部員たちの前に立つと、ゆっくりと視線を全員に向ける。


一人ずつ確認するように見て、それから静かに息を吸った。


「……今日は、本当にお疲れ様でした」


少しだけ間を置く。


「そして、全国大会出場、おめでとうございます」


その言葉は、特別に飾られたものではなかった。けれど、その一言で、空気がわずかにほどける。


久瀬(くぜ)が小さく頭を下げた。


「ありがとうございます」


その声に続くように、他の部員たちも次々と礼をする。


瞬崎は、ほんの少しだけ目を細めた。

そして、続ける。


「正直に言えば、ここまで来られるとは思っていませんでした」


一瞬、空気が止まる。


「でも、それでもここに立っているということは、偶然ではありません。積み重ねた時間があって、ぶつかって、悩んで、それでも音を止めなかった結果です」


視線が部員たちの間をなぞる。


「だからこれは、今日の結果ではなく——ここまで来た“過程”の証明です」


少しだけ間。


「……ただし」


空気が変わる。


「まだ終わりではありません」


その一言で、広場の音が遠く感じられるほど、東縁の周囲だけが静かになる。


瞬崎は続けた。


「全国は、ここよりもずっと厳しい場所です。今日の演奏が通用する保証はありません」


誰も反論しない。

むしろ、その言葉を待っていたような静けさだった。


「でも——」


瞬崎はわずかに口元を緩める。


「それでも、行く意味はあります。ここまで来た音が、どこまで届くのか。それを確かめるために」


一拍置いて、最後に言った。


「だから、これからも私達は“挑戦者”です。もう一度、積み上げ直してください」


言葉が終わる。

しばらく、誰も動かなかった。


そして久瀬が、もう一度しっかりと頭を下げる。


「はい。よろしくお願いします」


その声に、他の部員たちも続いた。


「よろしくお願いします!!」


広場の空気の中で、その声だけが少しだけ強く響いた。


「いやー……最高だったよ、ほんと!」


董白(とうはく)は目元をぬぐいながら、それでも笑っていた。


涙は止まっていないのに、言葉だけが先にあふれていく。


「泣いちゃったじゃん、もう……ボロボロだよ、ほんとに」


笑っているのか泣いているのか分からない顔で、それでもしっかりと前を見ている。


その隣で、仙道(せんどう)は静かに拍手を続けていた。


大げさではない。けれど、一つひとつの拍手に確かな重みがある。


「本当に……みなさん、見事な演奏でしたよ」


穏やかな声だった。その言葉には、評価でも批評でもない、純粋な敬意だけが乗っていた。


久瀬が部員達を見渡し、手を挙げる。


「それでは、これから打楽器を積み込みます。バスはもうしばらくかかりそうなので、打楽器が終わったらここで待っていて下さい」


「はい!!」


そうして、部員達は同じ方向に歩き出した。



打楽器の最後の音が消えたあと、会場の空気が一気に緩んだ。


柊木(ひいらぎ)はそのままホワイエへと足を運んでいた。


壁に貼り出された結果表。

視線が自然とそこに吸い寄せられる。


――長野県東縁高等学校 金賞 ◎ 3位


「……ギリギリだな」


思わず、声が漏れる。


確かに全国は決まった。それでも、この順位は偶然ではない“現実”としてそこにあった。


柊木の脳裏に、さっきの演奏がよみがえる。


あの音。

どこかで聞いたような、でも確かに違う音。


(彼なら、きっと——)


言葉になりかけた瞬間、それは途切れた。


「あら、こんなところで何をしているのです?」


耳元ではっきりとした声。

柊木は振り返る。


そこに立っていたのは、白髪の少女だった。

整った姿勢。落ち着いた立ち方。

どこか“育ちの違い”を感じさせる雰囲気。


いかにも、お嬢様のような——


柊木はすぐに口を開いた。


「何か用ですか、永禮沙霧(ながれさぎり)さん」


少女は一瞬だけ目を細めた。


「あら、覚えていてくださったのですね」


そう言うと、スカートの端をつまみ、優雅に一礼する。

カーテシーだった。


「改めて、名古屋エーストリア学園吹奏楽部、次期部長の永禮沙霧でございますわ」


その所作は、舞台上の礼儀というより“見せるための礼”に近かった。


柊木はすぐに返す。


「今更そんな丁寧な挨拶はいらない。わざとだろ」


柊木は目を細めた。


「で、何の用だ。大会は終わった。東縁高校は、お前たちエト学を破った。それが事実だ」


永禮は、まるでそれを楽しむように小さく笑った。


「もちろん承知しておりますわ。今日は敗北を認めましょう。あれは見事な演奏でした」


しかし、その笑みはすぐに温度を失う。


「けれど……本当に、あれが東縁高校(あなたたち)の“すべて”でしょうか?」


「……どういう意味だ」


柊木の声がわずかに低くなる。

永禮は一歩だけ近づいた。


「一人、足りていないでしょう?」


空気が止まる。

柊木の指先が一瞬だけ動きを失う。


「それは……」


言いかけた言葉が、喉の奥で止まる。


永禮はその反応を見て、確信したように目を細めた。


「来年、またここでお会いしましょう。そのときこそ——あなたたちの“完成”を見せていただきますわ」


そして、静かに笑う。


「それが本当に“完成”なら、ですけれど」


柊木は軽く舌打ちをして視線を逸らした。

そのとき、永禮が背中越しに言う。


「一つだけ忠告を」


柊木の足が止まる。


「全国金を狙っているのでしょう?しかもあなたは、“一位以外”に価値を感じないタイプ」


柊木は振り返らない。


永禮は淡々と続けた。


「静森(しずもり)学園にお気をつけて。あれがいる限り——あなたの夢は、永遠に届きませんわ」



「いよいよ全国ですね先輩!」

「緊張してる?」

「いや、楽しみの方が大きいですよ。全国でも、先輩のユーフォ聴かせてください!」

「もちろん。そのためにここまで来たんだから」

「帰ったら祝勝会しましょう!」

「その前に金賞取らないとな」

「約束ですよ、先輩。絶対に——」



――キキィィィッ!!



「危ない!!」

「え……?」


――ドンッ!!


「おい!!」

「誰か!救急車!!」

「しっかりしろ!」

「そんな……先輩……」

「救急隊です!離れてください!」


「……全国、行こうって約束しましたよね?先輩……」


…………。

…………。



ゆっくりと、意識が浮かび上がる。暗闇の中から、少しずつ光が差し込んでくる。


重たいまぶたをゆっくりと開くと、真っ白な天井が視界いっぱいに広がっていた。


鼻をかすめる消毒液の匂い。

聞き慣れない機械の電子音。


(……ここは)


ぼんやりと周囲を見渡す。

その時だった。


「……っ!」


ベッドの横にいた女性が、目を大きく見開いた。


「あなた……!」


隣にいた男性も勢いよく立ち上がる。


「響(ひびき)!」


女性の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。


「よかった……本当に……よかった……!」


震える声のまま、ベッドへ駆け寄る。


「目を覚ましてくれたのね……!」


男性も安堵したように何度も頷く。


「すぐ先生を呼んでくる!」


病室を飛び出していく足音が響く。


女性は涙を拭うことも忘れ、響の手をそっと握った。


「ずっと心配してたのよ……。もう会えないんじゃないかって。本当に、本当によかった……」


その表情には、心の底からの安堵が浮かんでいた。


(……誰だ)


響は女性を見つめる。


どこか懐かしいような気もする。


けれど。

名前も。

顔も。

何ひとつ思い出せない。


やがて病室の扉が開き、男性とともに医師や看護師が入ってきた。


「目が覚めましたか」


医師は優しく微笑む。


「気分はどうですか?」


響は小さく首を振る。


「事故からしばらく意識が戻らなかったんですよ。でも、こうして目を覚ましてくれて本当に良かった」


男性も安心したように息を吐く。


「響、本当に心配したんだぞ。」


女性は涙をこらえながら笑顔を向ける。


「もう大丈夫だからね。」


二人は事故のこと。

病院へ運ばれたこと。

眠り続けていた時間。

いろいろなことを話してくれる。


けれど、そのどれもが響には初めて聞く話だった。


何を言われているのかは分かる。でも、その話が自分のことだとは思えない。


頭の中は真っ白だった。

しばらく黙っていた響は、小さく口を開く。


「……えっと」


病室にいた全員が、響へ視線を向ける。

響は困ったように二人を見つめた。





「……あなた達は、誰ですか?」



病室に、短い沈黙が落ちた。


女性の笑顔が、一瞬だけ止まる。

男性も、言葉を失ったまま響を見つめていた。

数秒。


けれど女性は、無理に口角を上げる。


「ま、まぁ……事故のあとだものね」


少しだけ笑いながら言う。


「疲れてるのよね。急に目が覚めたばかりだし、まだ頭がぼんやりしてるだけよ」


明るく振る舞おうとしている。


その声は優しい。

しかし、その手は小さく震えていた。


「そうよ、きっとそう。先生も言ってたものね。ゆっくり休めば、ちゃんと元に戻るって……」


自分に言い聞かせるように何度も頷く。


男性も苦笑いを浮かべる。


「そうだな。まだ混乱してるだけだ。焦らなくていい」


「ええ、そうよ。だから心配しなくていいの。私たちは——」


女性の言葉が止まる。


響は、ただ二人を見つめていた。


(……何を言ってるんだ)


目の前の二人は、どうしてこんなにも安心したような顔をしているのだろう。


どうして、自分の名前を知っているのだろう。

どうして、自分を見て泣いているのだろう。


何ひとつ分からない。目の前にいるのは、初めて会う人にしか思えなかった。


女性は、震える手をぎゅっと握りしめながら、それでも笑顔を崩さなかった。


「じゃあ……少しだけ聞いてもいい?」


響は小さくうなずく。


「自分の名前は分かる?」


「……」


響は少し考えてから、静かに首を横へ振った。


「分かりません」


女性の笑顔が、わずかに揺れる。


男性が慌てて言葉をつないだ。


「じゃあ、中学校は?通っていた学校の名前は?」


「……分かりません」


「吹奏楽は?」


「吹奏楽……?」


響はその言葉を繰り返す。初めて聞く単語を確かめるように。


「聞いたことがあるような気はします。でも……思い出せません」


病室の空気が少しずつ重くなっていく。

女性は必死に笑おうとする。


「じゃあ、お父さんは?」


「……」


「お母さんは?」


響は困ったように二人を見比べた。


「すみません……分かりません」


その一言で、女性の笑顔が消えた。男性も何か言おうとして口を開くが、言葉にならない。


「じゃあ……友達は?」

「先生は?」

「部活は?」

「家は?」

「今日が何日か分かるか?」


一つ、また一つと質問が投げかけられる。しかし返ってくる答えは、どれも同じだった。


「分かりません」

「覚えていません」

「思い出せません」


病室から笑顔は完全に消えていた。


女性は口元を押さえ、小さく震え始める。男性は唇を固く結び、何も言えずに立ち尽くしていた。


響だけが、その様子を見つめている。


(……どうして)


自分には何も分からない。


それなのに、目の前の二人は、まるで世界が崩れていくような表情をしていた。


誰も言葉を発せない。

響もまた、何を話せばいいのか分からなかった。


ただ、視線だけがゆっくりと動く。


その時だった。

ベッドの脇に置かれた小さな棚の上。一枚の紙が目に留まる。


「……?」


響はそっと手を伸ばし、それを手に取った。

少し厚みのある紙。


(なんだ、これ……)


葉書だった。

表には誰かの名前が書かれている。しかし、その文字にも見覚えはない。


響はゆっくりと裏返した。

裏面には、誰かが書いた文字が並んでいた。


その瞬間だった。


――ズキッ。

頭の奥に鋭い痛みが走る。


景色が一瞬だけ揺らぐ。


誰かが笑っている。

誰かが楽器を構えている。


夕焼け。

音。

そして――。


「……東堂(とうどう)先輩、海斗(かいと)先輩……!!」


確かにそう口にした。

ひとつの大会が終わるとき、空気は一度だけ静かになる。

しかしその静けさは、決して“終わり”ではない。むしろそこから先のほうが、ずっと複雑で、ずっと現実的で、そして時に残酷になる。

誰かの言葉が残り、誰かの表情が残り、そして説明されないままの違和感だけが、ゆっくりと積み重なっていく。

音楽はまだ続いている。

ただ、その形が少しずつ変わっていくだけだ。

感想、評価、ブクマ是非お願いします。

次回もお楽しみに!!

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