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心はB♭で響いている  作者: World of Tukimoto
第1章 響く音響編 —始動—

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75話 東国の下剋上

大きな舞台に立つということは、そこへ辿り着いた証であると同時に、新たな道の始まりでもある。

不安や迷いを抱えながらも、それぞれが重ねてきた時間は、やがて一つの音になる。

そして、音が響いた先で見える景色は、きっと今までとは違っていた。

同じ場所に立っていても、そこから見える景色は違う。客席から見る舞台と、演奏者として立つ舞台では、その大きさも重さもまるで違っていた。


アクトシティ浜松。


東海地区でも屈指の規模を誇るこのホールは、ただ広いだけではなかった。


高い天井。

奥まで続く客席。

舞台を包み込むように設計された音響。


一つの音が、どこまでも届いていく場所。


同時に、一つの乱れも、隠すことのできない場所でもあった。


舞台袖から見える景色に、東縁(とうえん)高校の部員たちは言葉を失っていた。


ここが、

東海大会という舞台。

県大会までとはまるで違う。


そこには、全国を目指す学校だけが立つ場所の重さがあった。


それぞれが楽器を持ち、自分の呼吸を整えている。


緊張している。

怖さもある。


それでも。

誰一人として、逃げたいとは思わなかった。


ここまで来た。

地区大会で終わっていた頃から。


何度も失敗して。

何度も悔しい思いをして。


それでも音を重ねてきた。

その時間が、今この場所へ繋がっている。


「東縁高校、準備お願いします」


スタッフの声が響いた。

その一言で、空気が変わる。


楽器を持つ手に力が入る。


久瀬(くぜ)は周囲を見る。

不安そうな顔。

緊張した顔。

それでも、全員の目は前を向いていた。


そして。


「みんな、行くよ」


短い言葉。

それだけで十分だった。


扉が開く。

光が差し込む。


その先にあるのは、今までとは違う景色。

東縁高校吹奏楽部は、ゆっくりと舞台へ歩き出した。


――


ホール内にアナウンスが響く。


「プログラム十三番、長野県東縁高等学校。課題曲Ⅰに続きまして、自由曲。能世林(のぜはやし)作曲――『黎明(れいめい)〜到来の夜明け〜』指揮は、瞬崎(しゅんざき)カルマです」


静かな空間に、その名前が広がる。

かつて、誰も覚えていなかった名前。

地区大会で終わると思われていた学校。


その名前が。

今、東海大会の舞台で呼ばれている。


瞬崎は、ゆっくりと部員たちを見渡す。


不安。

緊張。

期待。

様々な感情が浮かんでいる。


それでも。

誰一人として、目を逸らしていなかった。


瞬崎は小さく息を吐く。


そして。

ゆっくりとタクトを持ち上げた。


その瞬間。

ホールから、すべての音が消えた。


待っているのは、最初の一音。


ここから先は——

東縁高校吹奏楽部(わたしたち)の音楽だった。



課題曲Ⅰ 勇者のマズルカ


最初の音が、ホールへ放たれる。


明るく。

力強く。

勇者が歩き出すような旋律。


その音は、まっすぐ前へ進んでいった。


先ほど演奏した学校。

名古屋エーストリア学園。

白律の悪魔(はくりつのあくま)。


同じ曲。


だからこそ。

聴いている者たちは、比較していた。


エト学の演奏。

一切の無駄がなく、すべての音が、決められた場所に存在していた。


完成された音。

迷いのない音。


しかし。

東縁高校の最初の響きは、違っていた。


力強い。

けれど。

その中に、熱があった。


誰か一人の答えではない。ここにいる全員が、この瞬間を作っている。そんな音だった。


トランペットが旋律を奏でる。


高く。

明るく。


その音は、先頭を進む光のようだった。

けれど、一人で突き進む音ではない。後ろには仲間の音がある。支える音がある。


だからこそ。

その旋律は、さらに遠くへ届いていく。


ホルンが重なる。


柔らかな響き。

全体を包み込むような音。


金管の厚みが増していく。


それでも。

一つひとつの音が消えない。

誰かの音が強すぎることもない。

誰かの音が置いていかれることもない。


全員が、自分の役割を理解していた。


木管が入る。

細かく動く旋律。


速いパッセージ。

一瞬でも集中を切らせば、崩れる場所。


指が動く。

息が流れる。

それぞれが楽譜と向き合う。


しかし。

ただ正確に吹くだけではない。


その音には、表情があった。


不安だった日々。

悔しかった時間。

それでも続けてきた理由。

言葉にできなかった感情。


それらが、音の中に混ざっていた。


客席の誰かが、少しだけ姿勢を変える。


東縁高校。

知らない名前だった。


しかし。

今、目の前で鳴っている音は、確かに東海大会の音だった。


低音が入る。


チューバ。

トロンボーン。


深い響きが、曲を支える。

その音は派手ではない。

前に出る音でもない。


しかし。

その土台があるからこそ、上に乗る旋律が自由に動ける。


誰かが目立つための音楽ではない。全員で進むための音楽。


それが、東縁高校の演奏だった。


打楽器が加わる。


一つの打音。

また一つ。

リズムが生まれる。

音楽が歩き出す。


まるで、何もない場所から、少しずつ道を作っていくように。


勇者の歩み。

その言葉が浮かぶ。


ただし。

それは最初から強かった者の歩みではない。


何度倒れても、

何度迷っても、

それでも前へ進んだ者の歩み。


だから。

この音には、時間があった。


中盤。


曲が少し落ち着く。

華やかだった旋律が、静かな表情へ変わる。

ホールに響く音が、少し柔らかくなる。


その瞬間。

東縁高校の強さが見えた。


大きな音。

迫力。

そういうものだけではない。


静かな場所でも、音楽を失わない。


一人ひとりが、自分の音を持っている。


フルートが歌う。

クラリネットが受け取る。

サックスが彩る。

低音が包む。


それぞれ違う音。

違う個性。


それでも、同じ方向を向いている。

その音は、決して完璧ではなかった。


ほんの小さな揺れ。

ほんの小さな迷い。


それは、確かに存在していた。


しかし。

誰かが支える。

誰かが合わせる。

誰かが一歩前へ出る。


その度に。

音は強くなった。


完璧に揃った音ではない。

成長していく音。

今、この瞬間にしか存在しない音。


そして。

曲は終盤へ向かう。


旋律が広がる。

金管が響く。

木管が走る。

打楽器が支える。


全員の音が重なっていく。


東縁高校吹奏楽部。

この学校にしか出せない響き。


それは。

魔王のような圧でもない。

金冠殿のような美しさでもない。

悪魔のような完璧さでもない。


もっと不器用で。

もっと真っ直ぐで。

だからこそ、人の心に残る音。


最後の旋律。

全員が、最後の一音へ向かう。


そして。

振り下ろされる。


最後の和音がホールいっぱいに響く。


力強く。

迷いなく。

その余韻が静かに消えていった。



誰もすぐには動かなかった。

舞台上の部員たちは、ただ前を見ている。


今、自分たちが出せるすべてを出した。

その事実だけが残っていた。


楽器を構えたまま。

視線だけが、瞬崎へ向く。


瞬崎は一度、静かに息を整える。


課題曲。

勇者が歩き出す音楽。

それは、ここまで来た東縁高校そのものだった。


しかし。

まだ終わりではない。


ここから届ける音は、今まで歩いてきた道ではなく、これから進む先。


夜が明ける、その瞬間。

瞬崎のタクトが、もう一度ゆっくりと上がる。


客席の空気が変わる。

そして、



自由曲 黎明〜到来の夜明け〜


最初の一音。

小さな音だった。


まるで。

夜明け前の、まだ暗い空。

何も見えない時間。


しかし。

確かに、何かが始まろうとしている。


木管が静かに旋律を奏でる。


細い。

儚い。

それでも、その音は消えなかった。


暗闇の中で見つけた、小さな光。

そんな音だった。


フルートが空間を漂う。

クラリネットが受け取る。

サックスが重なる。


一つひとつの音が、少しずつ景色を作っていく。


大きな変化ではない。

ほんの小さな変化。


それでも。

昨日とは違う。

昨日までとは違う場所へ進んでいる。

そんな音楽だった。


低音が入る。

チューバ。


深い響きが、まだ生まれたばかりの音楽を支える。


夜が明ける前。

一番暗い時間。


それでも。

歩みは止まらない。


音は少しずつ広がっていく。


金管が加わる。


最初は小さく。

しかし確実に。


光が差し込むように、音楽は大きくなる。


課題曲のような真っ直ぐな進行ではない。


もっと複雑だった。


迷い。

葛藤。

不安。


それでも進もうとする意思。

そのすべてが、旋律の中にあった。


中盤。


一度、音楽が落ち着く。それまで広がっていた響きが、少しずつ薄れていく。


静寂。

誰もが、次の音を待った。


その時、

一つの音が響いた。


ユーフォニアム。

若田宗一郎(わかだそういちろう)。


柔らかな音。

しかし。


その一音には、確かな存在感があった。

前へ出るための音ではない。

誰かを押しのける音でもない。


ただ。

そこにいる。

そう伝える音だった。


ユーフォの旋律が、静かにホールを満たしていく。


優しい。

温かい。

けれど、その奥には、少しだけ寂しさがあった。


若田は吹き続ける。

今までの日々。


練習。

失敗。

仲間との時間。


東縁高校として積み重ねてきたもの。

全部が、この旋律に込められていた。


派手な音ではない。

高い音でもない。


それでも。

誰も目を逸らせなかった。


なぜなら。

その音は、誰かに届けるための音だったから。


ホールの空気が変わる。


客席にいる者たちも。

舞台袖で待つ者たちも。


その音を聴いていた。

東縁高校の演奏。


ただ技術を見せるためではない。


誰かと繋がるための音。

若田の旋律の後ろで、少しずつ仲間の音が戻ってくる。


一人の音を支えるように。

包み込むように。


ユーフォの旋律が、全体へ溶けていく。


それは。

一人のソロではなかった。


東縁高校全員の音になっていた。


そして。

夜明けが近づく。

音楽が再び動き始める。


一つ。

また一つ。

音が重なる。


暗かった空が、少しずつ明るくなるように。


金管が響く。

木管が走る。

打楽器が鼓動を刻む。


全員が同じ方向を見る。


黎明。(新時代の幕開け)


つまり、


夜の終わり。(徳川(とくがわ)の終わり)

新しい時間の始まり。(明治時代の幕開け)


それは。

東縁高校が歩いてきた道そのものだった。





気付いた時には、柊木(ひいらぎ)はホールの客席に座っていた。


演奏が終わった後の記憶は、少し曖昧だ。


拍手の音。

舞台上の整列。

写真撮影。

慌ただしく動く部員たち。

楽器ケースに吸い込まれていく音。


全部が一度に過ぎていったようで、はっきりとは思い出せない。


ただ、確かに覚えているのは一つだけだった。東縁高校の音が、まだ耳の奥に残っているということ。


隣では、来島(らいとう)が小さく息を吐いていた。


「……終わったな」


永井(ながい)が苦笑する。


「終わったっていうか、やり切ったって感じだけどね」


奏多(かなた)は膝の上で手を組んだまま、舞台を見ている。


「どうだったと思う?」


誰かの問いに、誰もすぐには答えなかった。

答えられなかった。


エーストリア学園の演奏。

白律の悪魔。


完璧だった音。

それと同じ舞台で、さっき東縁高校は演奏していた。


比較なんてできないはずなのに。

気付けば、比べてしまっている。


その時だった。

ホールの照明がわずかに変わる。


空気が切り替わる。

やがてベルの音が響いた。


「……来る」


思わず柊木が小さく呟く。

ステージ袖の幕が揺れる。


そして、ホールの中央に一人の男性が現れた。


表彰式の進行役。

マイクを手に持ち、軽く一礼する。


「お待たせしました。ただ今より、表彰式をさせていただきます」


その声が、静かにホールに広がる。


「まず——」


審査員の紹介。

大会の講評。


形式的な言葉が続いていく。


例年通りの流れ。

何度も見てきたはずの光景。


それでも今日は、やけに長く感じた。

柊木は膝の上で指を組む。

視線は舞台から離れない。


早く結果が知りたい。

ただそれだけだった。


東縁高校の音が、どこに届いたのか。

自分たちが見ていたものが、正しかったのか。


それとも、

まだ足りなかったのか。


時間だけが、ゆっくりと流れていく。


そして、進行役が一度間を置いた。

ホールが静まり返る。

紙をめくる音が、妙に大きく響いた。


「それでは——」


柊木は息を止めた。


「成績を発表いたします」


その一言で。

空気が完全に変わった。



進行役の声が、ホールに落ちる。


柊木は、無意識に膝の上で指を組んだ。


心臓の音だけが、やけに大きく聞こえる。


プログラム一番から順に、高校名が読み上げられていく。


「金賞」「銀賞」「銅賞」


淡々とした言葉が、機械のように積み重なっていく。

だが柊木の意識は、すべてを追ってはいなかった。追える余裕がなかった。


頭の中にあるのは、ただ一つ。


東縁高校。

その名前が、いつ呼ばれるのかということだけだった。


時間の感覚が曖昧になる。


拍手が起こる学校。

静かなままの学校。


それぞれの反応が、遠い世界の出来事のように感じられる。


そして。


「プログラム七番。長野県豊川高等学校。ゴールド金賞」


会場に一瞬、大きな拍手が広がる。


信濃の魔王(しなののまおう)。

その名にふさわしい存在。

当然の結果のように受け止められている空気。


柊木はただ、それを聞いていた。



「プログラム九番。静岡県駿河栄聖高等学校。ゴールド金賞」


今度もまた、当然のように拍手が起こる。


駿河の金冠殿。

美しさの象徴のような演奏。


その評価に、誰も疑問を持たない。


柊木の視線は、まだ前を向いたままだった。

だが、少しずつ気付いていた。


この場にいる「強い学校」は、すでに結果を出している。


そして残っているのは——


「プログラム十二番。名古屋エーストリア学園」


白律の悪魔。

進行役が名前を読み上げる。


「ゴールド金賞」


その瞬間。


ホールの空気が一段変わった。

拍手が、明らかに大きくなる。


長くなる。

熱を帯びる。


柊木は、その光景を見ていた。


エト学の部員たち。


立ち上がる者。

抱き合う者。

泣いている者。

喜びが爆発している。


大きすぎる反応だった。


——いや。

今気付いた。

大きすぎる、というより。「当然すぎるほどの熱量」だった。


柊木はふと横を見る。

そこで、気付く。


東縁高校の席。

そのすぐ隣に——エーストリア学園がいた。


気付かなかった。

いや、気にする余裕がなかった。


同じ列。

同じ空気の中。


さっきまで、同じ時間を過ごしていた。


そして今、その隣で。


全く違う歓声が上がっている。

柊木の胸の奥が、少しだけ揺れる。


(……じゃあ、東縁は)


まだ、呼ばれていない。


進行役が再びマイクを握る。

ホールが静まる。


紙をめくる音が、やけに響く。

残っているのは。


「プログラム十三番、長野県東縁高等学校」


柊木の手には汗が滲んでいた。



「ゴールド金賞」



一瞬の静寂。


理解が追いつく前に、拍手が広がった。大きいというより、遅れて押し寄せるような音。


しかし、柊木はその光景を見ながら心中で呟く。


(……まだ全部じゃない)



全プログラムの発表が終わる。


拍手は、もうどこにもない。代わりに残っているのは、終わりの静けさだけだった。


誰もが、結果を聞き終えたあとも動けずにいる。

柊木も同じだった。


金賞の余韻は、もう遠い。今この場にあるのは、それよりもずっと重い“次”だった。


進行役が、マイクを握り直す。

一度だけ、深く息を吸う音が聞こえた。


「続いて、来る10月27日に開催される、全日本吹奏楽コンクール全国大会に出場する代表三校を発表します」


舞台上も、客席も。

同じ一点を見ている。


“三校”という言葉だけが、やけに現実味を持って響いていた。


「一校目。プログラム七番、長野県豊川高等学校」


その瞬間、客席の空気が揺れた。



当然のように、その名が全国への切符を掴む。


続いて。


「二校目、プログラム九番、静岡県駿河栄聖高等学校」


また歓声。


そこまで、あっという間だった。


柊木は息を吐く。


残りは——

あと一校。


東海三神。

二校は決まった。


なら、最後は......


進行役が、ゆっくりと紙へ視線を落とす。


「最後に——」


その一言で、ホールが静まり返る。


「プログラム十三番、長野県東縁高等学校」


その名前が響いた瞬間、時間が止まったようだった。


柊木は目を見開く。

隣から、息を呑む音が聞こえる。


少し遅れて、大きな拍手がホールを包んだ。

気がつくと、目の前には白い天井が広がっていた。


「……ここは」


見慣れない景色。

静かな病室。


なぜ自分がここにいるのか。

記憶を探しても、答えは見つからなかった。


その時。


「良かった、目が覚めたのね!」


横から聞こえた声。

知らないはずなのに、どこか懐かしい。


まだ思い出せない何かを抱えたまま、

彼の物語は、もう一度動き始める。



感想、評価、ブクマ是非お願いします。

次回もお楽しみに!!

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