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心はB♭で響いている  作者: World of Tukimoto
第1章 響く音響編 —始動—

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74話 白律の悪魔

同じホールに立っていても、見えている景色は同じとは限らない。音の強さも、美しさも、完成度も、その基準はひとつではない。

ただ確かなのは、その場所に立つということが、何かを変えてしまうということだ。

昔から、あの学校の吹奏楽部は存在していた。

校内でもかなり古い歴史を持つ部活だった。


それでも——

誰も、その名前を覚えてはいなかった。


創部してから何年経っても、結果は変わらない。


地区大会敗退。

そして、銅賞。


それが当たり前だった。


どれだけ練習しても。

どれだけ時間をかけても。


届かなかった。

周囲の部活動が全国という舞台へ進み、名前を残していく中で、吹奏楽だけは取り残されていた。


「あの部活は、昔からそうだ」


いつしか、そんな言葉まで聞こえるようになった。

けれど、理由は単純ではなかった。


才能がなかったわけじゃない。

努力していなかったわけでもない。


ただ——

誰も知らなかった。


どうすれば、音が一つになるのかを。


一人ひとりが楽譜を追い、必死に音を出していた。でも、それはまだ“演奏”でしかなかった。


音楽にはなっていなかった。


だから、何度挑んでも届かなかった。

何度悔しい思いをしても、変わらなかった。


……はずだった。


そんな学校が。


今は——

東海大会という、大きな舞台に立っている。


かつてなら、誰も想像しなかった場所。

夢物語だと思っていた景色。


それでも今、確かにそこにいる。

まるで、夢を見ているようだった。


そして、その事実だけが静かに残っていた。


後に、東国(あずまのくに)の下剋上と呼ばれることになる、この日を。



「……」


チューニングルームへ向かう準備を進めながら、東縁(とうえん)高校の部員たちは言葉を失っていた。


楽器ケースを閉じる音。

譜面を確認する音。

小さな呼吸。


いつも通りの準備のはずなのに、どこか空気が重い。


先ほどまで見ていた演奏。


豊川(とよがわ)高校。

信濃の魔王(しなののまおう)。


そして——


駿河栄聖(するがえいせい)高校。

駿河の金冠殿(するがのきんかんどの)。


東海三神(とうかいさんじん)と呼ばれる存在。

その音は、想像以上だった。


「……なあ」


誰かが小さく声を漏らす。


「俺たち……本当にここで吹くのか?」


返事はなかった。


「いや、そりゃ吹くけど……」


楽器を持つ手が、少しだけ止まる。


「だってさ……あれ見ただろ」

「豊川の演奏……」

「あんなの、どうやって勝負するんだよ……」


誰かが息を吐いた。


「音の圧が違いすぎる」

「俺たちも県大会では結構やれたと思ったけど……」

「ここに来ると、全然違うな」


その言葉に、周囲の空気が沈む。


「駿河もやばかった」

「綺麗すぎて、逆に怖かった」

「なんというか……俺たちとは見てる場所が違う感じがした」

「これが東海大会か……」


部員たちの表情から、少しずつ自信が消えていく。


誰も手を抜いてきたわけではない。

誰も努力していなかったわけでもない。


それでも。

目の前に現れた強者たちは、自分たちが積み上げてきたものを簡単に超えているように見えた。


「……」


来島(らいとう)も黙ったまま、楽器ケースを見つめていた。いつものような落ち着いた表情ではない。


来島が静かに口を開く。


「正直に言うけど、怖いな」


その一言で、何人かが顔を上げた。


「来島が言うのかよ……」


「いや、俺だって怖いものは怖い」


来島は苦笑する。


「豊川も、駿河も……本物だった」


その言葉に、誰も否定できない。


「俺たちが今まで戦ってきた相手とは、違う」


隣で永井(ながい)も小さく頷く。


「なんかさ」


「?」


「自分たちが、場違いに思えてくる」


その言葉に、周囲が静まる。


「ここって、本当に全国に行くような学校が集まる場所なんだなって、今さら実感した」


誰かが呟いた。


「……勝てるのか?」


その一言が、部屋に落ちた。


少し離れた場所で、奏多(かなた)も静かに楽器ケースを開いた。


金具が外れる小さな音だけが響く。

その横に、柊木(ひいらぎ)が歩み寄る。


「大丈夫そう?」


奏多は静かに頷いた。


「うん」


返事はした。

けれど、その表情はどこか遠くを見ているようだった。


「……どうしたの?」


柊木は少しだけ首を傾ける。


「これから本番なのに」


奏多はすぐに答えた。


「分かってるんでしょ?」


その言葉に、柊木の表情がわずかに曇った。

しばらく沈黙が続く。


やがて、柊木がゆっくり口を開いた。


「……そんなに気になることなの?」


一拍。


「響(ひびき)君が——」


最後まで言い切る前に、奏多が遮った。


「どうしても知りたいって言ったら、ダメ?」


柊木は答えなかった。

ただ、ゆっくり立ち上がる。

そして背を向けた。


「君みたいな人が、嘘をつくとは思えない。ただの興味本位でもないんだよね?」


静かな声。


「本心だって信じてる」


奏多が顔を上げる。


柊木はそのまま歩き出した。

少しだけ距離が開いたところで、続ける。


「東海大会が終わって、それで……」


少し間を置く。


「僕が話す気になれるような結果だったら、話してあげる」



廊下を、全力で走った。

走ってはいけない場所だと分かっていた。


誰かに注意されてもおかしくない。

それでも、足を止めることができなかった。


頭の中には、ただ一つの名前しかなかった。


そして——

勢いよく扉を開ける。


「響君!!」


病室の中に声が響いた。


そこには二人の夫婦が座っていた。

その隣にはベッド。

そして、一人の少年が静かに目を閉じている。


母親が驚いたように立ち上がった。


「か、海斗(かいと)君……?」


海斗はその場で大きく息を乱していた。

走ったからだけではない。


遅れて聞いた知らせ。

響が事故に遭ったという事実。


気付いた時には、もう病院の前に立っていた。


「海斗君、どうしてここに?」


海斗は顔を上げた。


「ひ、響君が……!大丈夫なんですか!?」


そのままベッドへ近づこうとする。


しかし——

父親が海斗の腕を掴んだ。


「まず、用件を聞こう」


低い声。


「勝手に私たちの息子に触れようとするな」


掴む力は、想像以上だった。

海斗の表情が歪む。


「ちょっとあなた、やりすぎよ」


母親がすぐに声をかける。


その言葉で、父親は手を離した。


海斗はすぐに謝罪した。


「す、すみません。取り乱してしまいました。」


「構わん」


一度息を整え、父親は続ける。


「で、何の用かね?」


海斗は静かにポケットへ手を入れた。

取り出したのは、一枚の葉書。


「目を覚ましたら……これを響君に渡してください」


深く頭を下げる。


「彼を助けるためです。お願いします」


父親は無言で葉書を受け取った。

しばらくそれを見る。


「これは、なんの葉書なのかな?」


海斗は少しだけ視線を落とした。


「それは……」



チューニングルーム。


扉が閉まる。

外の音が少し遠くなった。


聞こえるのは、楽器の音だけ。

一人ひとりが、自分の音と向き合っていた。


「……あれ?」

「少し低い?」

「本当だ。さっきより下がってる」

「大丈夫。まだ時間あるから」


互いに音を確認しながら、少しずつ整えていく。


「嘘、さっき合わせたのに」

「本番前あるある」

「落ち着けってことかな」

「手が震えてるし」

「でも吹けば止まるよ」

「どう、綺麗に出てる?」


いつものような余裕はない。

けれど、音だけは真っ直ぐだった。


最初はばらばらだった音。


不安。

緊張。

迷い。

それぞれ違うものを抱えながら。


それでも。

同じ曲へ向かうために。

少しずつ、音が重なっていった。


その時。


パンッ。


瞬崎(しゅんざき)が手を叩いた。


一つの音が響く。


部屋の中の音が止まる。

全員の視線が集まった。


瞬崎はゆっくりと部員たちを見渡す。


一人ひとりの表情。

緊張している者。

不安を隠そうとしている者。

すべてを確認するように。


そして、静かに口を開いた。


「チューニングB♭(ベー)で」


その一言で、空気が変わった。

クラリネットが最初に音を出す。


一定の音。

真っ直ぐな響き。


その音を中心に、フルート。

サックス。

ホルン。

トランペット。

トロンボーン。

ユーフォニアム。

チューバ。


それぞれの音が加わっていく。


少しずつ。

一つずつ。

ばらばらだった音が、同じ場所へ集まっていく。


誰かの音に合わせるのではない。

全員が同じ方向を向くための音。


最後の音が重なった。

短い静寂。

瞬崎が頷く。


「……大丈夫ですね」


部員たちの表情には、まだ緊張が残っていた。


瞬崎はその様子を見ていた。

そして、ゆっくり口を開く。


「……緊張していますね」


何人かが視線を落とす。


「当然です。ここにいる学校は、どこも強豪ばかり。簡単に届く場所ではありません」


誰も反論しない。


「ですが皆さんも、ここまで簡単に来たわけではない」


その言葉に、何人かが顔を上げる。


「地区大会で終わっていた頃から、皆さんは変わった。できなかったことに向き合って、何度もやり直した。悔しい思いも、苦しい時間もあったでしょう」


瞬崎の視線が、全員へ向く。


「でも、そのすべてが今日につながっています」


静かな声。


「魔王だろうと、金冠殿だろうと」


少し間を置く。


「私たちが積み重ねてきたものまで、奪うことはできません」


部員たちの表情が少し変わる。


「勝つためだけに吹く必要はありません。東縁高校吹奏楽部として、今の自分たちにできる音を出してください」


一拍。

 

「それで十分です」


その言葉が、静かに響いた。


「行きましょう」


瞬崎が扉へ向く。


「皆さんならできます」


そして、手を伸ばした瞬間。


「すみません!」


声が響いた。


瞬崎の手が止まる。

振り返る。


そこには、久瀬(くぜ)が立っていた。


瞬崎は少しだけ目を細める。

まるで、待っていたと言うように。


「久瀬さん」


名前を呼ばれ、久瀬は一度息を吸った。


緊張している。

それでも、視線は逸らさない。


「少しだけ……時間をください」


瞬崎は静かに頷いた。


久瀬は部員たちを見る。

いつも一緒に練習してきた仲間たち。ここまで来るために、何度も苦しんだ仲間たち。


「私は……」


言葉を探す。


「部長として、ちゃんとできていたのか分かりません」


部員たちが静かに聞く。


「迷ったこともあった。みんなを不安にさせたこともあった。自分が引っ張れているのか、何度も分からなくなった」


久瀬は拳を握る。


「正直、今だって怖い。豊川も、駿河も……本当にすごかった。私たちが、ここにいていいのかって思った」


少し間。


「でも」


顔を上げる。


「ここまで来たのは、私一人の力じゃない。みんながいたから」


一人ひとりを見る。


「上手くいかない時も、悔しい時も、それでも楽器を持ち続けた。諦めなかった」


声が少し震える。


「そんなみんなの音を、私は何度も聞いてきた。だから」


一歩前へ出る。


「ここで終わりたくない」


静かな部屋に響く。


「せっかくここまで来た。東縁高校として、まだ見たい景色がある。まだ、届けたい音がある」


全員を見る。

そして——


「みんなで全国行こう!!」


一瞬の沈黙。


次の瞬間。

全員の声が重なった。


「はい!!!」



舞台袖。


東縁高校の部員たちは、静かにステージを見つめていた。


自分たちの出番は、もうすぐそこまで迫っている。


本来なら、最後の確認をする時間。

しかし——


誰も、動けなかった。

聞こえてくる音があまりにも異質だったから。


「……」


誰かが息を呑む。


ステージ上。


名古屋エーストリア学園。

白律の悪魔(はくりつのあくま)。


その演奏は、すでに会場全体を支配していた。


課題曲Ⅰ「勇者のマズルカ」


終盤。

華やかな旋律が響いている。


しかし、ただ明るいわけではない。

一音一音が、寸分の狂いなく配置されている。


「……すごい」


小さな声。


「なんだよ……これ」


誰かが呟く。


豊川のような圧とは違う。

駿河のような美しさとも違う。


音が、迷わない。

全員が同じ答えを最初から知っているようだった。



課題曲が終わった。


しかし。

その瞬間に訪れるはずだった区切りは、なかった。


指揮者はタクトを下ろさない。

奏者たちも楽器を完全には下げない。


わずかな呼吸。

わずかな静寂。


そのすべてが、次の音楽へ繋がっていた。

まるで、最初から一つの曲だったかのように。


そして。

空気が変わる。


明るく華やかな課題曲の余韻が消える。

残ったのは、張り詰めた静けさ。


指揮者はタクトをさらに高く上げた。


その瞬間。

会場全体の時間が止まった。


一拍。


そして——



アルフレッド・リード作曲。

エル・カミーノ・レアル。


始まりの音が放たれる。


鋭い。

しかし、冷たいわけではない。


強い意志を持った音だった。

金管の響きが一気に空間を押し広げる。


華やか。

壮大。


それでも、その音には余計なものがなかった。

必要な音だけが、必要な場所に存在している。


トランペットが前へ出る。

輝くような高音。

しかし、ただ目立とうとしている音ではない。


その旋律は、全体を導く光のようだった。


ホルンが重なる。

柔らかい響き。

だが、その奥には確かな力がある。


金管の厚みが増していく。


それでも。

濁らない。

一つひとつの音が独立しているのに、全体として一つになる。


それは矛盾しているようだった。

普通なら、どこかでぶつかる。

どこかが強くなりすぎる。

どこかが埋もれる。


しかし。

エーストリアの音には、それがない。すべてが最初から決められているようだった。


木管が入る。


細かく動く旋律。


速い。

正確。


しかし、そこに機械的な冷たさはなかった。


クラリネットが流れるように旋律を運ぶ。音の粒が一つずつ鮮明に聞こえる。


指の動き。

息の流れ。

すべてが音になっている。


フルートがその上を走る。


透明な響き。

空気を切るような軽やかさ。

それでも、決して弱くない。


細い線のようでいて、その線は簡単には切れない。


音楽が前へ進んでいく。

止まらない。

迷わない。

まるで一本の道が最初から存在しているように。


低音がその道を支える。


チューバ。

ユーフォニアム。

トロンボーン。


深く、重く。

しかし、その重さは足を止めるものではない。


進むための土台。

大地のような響き。


その上で、旋律が駆ける。


打楽器が入る。

リズムが生まれる。


一打。

また一打。


その一つひとつが音楽の骨組みになる。


派手な音ではない。

しかし、その一つが欠ければ全体が変わる。


すべてが意味を持っていた。


音楽は広がっていく。


旋律が受け渡される。

木管から金管へ。

金管から木管へ。


誰かが主役になるのではない。

全員が、その瞬間に必要な役割を担っている。


だからこそ。

大きな流れが生まれる。



中間部。


一瞬、音が落ち着く。

先ほどまでの輝きが少しだけ遠ざかる。


残るのは静かな旋律。

優しい音。


しかし。

そこに安心だけはなかった。

どこか遠くを見ているような音。

長い旅の途中。

まだ辿り着いていない場所。


それでも歩き続ける。

そんな景色が浮かぶ。


木管が歌う。


柔らかい。

繊細。

けれど、芯がある。


一音一音に迷いがない。


ここでいいのか?


そんな迷いすら存在しない。

ただ、自分の役割を果たしている。


ホルンが包み込む。

低音が支える。


音が重なる。

それでも、静寂は壊れない。


むしろ。

重なるほど、透明になっていく。


やがて。

少しずつ音楽が動き始める。


最初は小さく。

しかし確実に。

リズムが戻る。


低音が歩み出す。

その上に旋律が乗る。


一歩。

また一歩。


そして。

音楽は再び大きな流れへ変わっていく。


金管が響く。

先ほどより強い。


しかし。

音量で押しているわけではない。一人ひとりの音が最大限まで磨かれている。


だから、大きく聞こえる。

力を出しているのに、乱れない。


熱があるのに、冷静。

その両方が同時に存在している。


それが、白律の悪魔。


完璧に揃えられた音。

しかし、その中には確かな人間の意思がある。


音楽はさらに高まる。

旋律が駆け上がる。


木管が光を作る。

金管がそれを押し広げる。

打楽器が全体を支える。


すべてが一つの場所へ向かう。



終盤。


音が積み重なる。

さらに。

さらに。


普通なら、ここで崩れる。


熱が勝つ。

勢いが勝つ。


しかし。

崩れない。

最後まで。

一音たりとも。

形を失わない。

まるで巨大な建造物。


細部まで計算され、どこにも隙がない。


そして。

指揮者のタクトが大きく振り抜かれる。


最後の和音。

強い。

圧倒的。

それでも、美しい。


響きがホールいっぱいに広がる。


そして、

ゆっくり消えていく。



音がなくなった後。

そこに残ったのは、ただの余韻ではなかった。


完成された音楽の残像。

白く、冷たく、どこまでも正確な響き。


それが、静かにその場に残っていた。



しばらくして、静寂に包まれていたホールに、少しずつ音が生まれた。


一つ。

また一つ。

やがて、それは大きな拍手へと変わっていく。


ステージ上のエーストリア学園へ向けられた、圧倒的な称賛。


その音を聞きながら、東縁高校の部員たちは、誰もすぐには動かなかった。


白律の悪魔。

その名に相応しい演奏だった。


完成されていた。

美しく。

正確で。

一切の迷いがない。


強豪と呼ばれる理由が、そこにはあった。


けれど。

久瀬は、静かに部員たちを見渡した。


不安そうな表情。

緊張している表情。

それでも、誰一人として逃げようとしている者はいなかった。


ここまで来た。

ここまで、みんなで来た。


久瀬はゆっくりと拳を握る。


そして——

小さく。

しかし確かに。

拳を突き上げた。


全員の視線が集まる。


久瀬は、静かに口を開いた。


「みんな、行くよ」

拍手の意味は、いつも同じではない。称賛のときもあれば、理解が追いつかないまま鳴ることもある。

それでも音は、鳴った瞬間からもう戻らない。

次の舞台へ。


.........

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