表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
心はB♭で響いている  作者: World of Tukimoto
響く音響編 —始動—

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

71/73

71話 成り上がり者

大きな舞台へ向かう時、人は必ず何かを背負っている。

期待か、不安か。

あるいは、誰かとの約束か。

その重さは違っても、進む先だけは同じだった。

ホテルの夕食会場には、賑やかな声が広がっていた。


長机に並べられた料理。

湯気の立つ白米。

そして——大鍋いっぱいのカレー。


「うぉぉぉぉぉ!!!」


真っ先に反応したのは来島(らいとう)だった。


「カレーだぁぁぁ!!」


「うるさ」


陽翔(はると)が即座にツッコむ。


「いや待って!?ホテルのカレーってテンション上がるだろ普通!」


「知らねぇよ……」


来島はすでに目を輝かせながら皿を持っている。


「しかも見ろこれ!絶対うまいやつ!」


「お前、今日それしか言ってなくない?」


「いや、カレーは人生だから」


「意味分かんねぇ」


周囲から小さく笑いが漏れる。


大会前日。

張り詰めた空気は確かにある。でも、こういうどうでもいい会話が、その緊張を少しだけ和らげていた。


「来島、取りすぎじゃない?」


「東海前だからカロリー必要なんだよ」


「言い訳になってないって」


そんなやり取りを聞きながら、天奏(てんそう)は小さく息を吐いた。さっきまで感じていた重さが、ほんの少しだけ薄れている。


スプーンでカレーを掬う。

そのまま口へ運ぼうとした——その時だった。


「天奏さん」


声。


顔を上げると、そこに立っていたのは若田(わかだ)だった。


「先輩?」


若田は一度、小さく息を吐く。

少しだけ、迷っているようにも見えた。


「後で話したいことがあるんだけど、時間ある?」


天奏は時計へ視線を向ける。

すぐには寝ない予定だった。


「……分かりました」



三年男子の部屋は、消灯前のわずかな時間だけ騒がしさが残っていた。


「はいはい、もう消灯時間。早く寝るよ」


今伊(いまい)がリモコンを手に取りながら言うと、部屋のあちこちから不満の声が上がる。


「えぇ〜、まだテレビ見てたいのに」

「まだ二十二時じゃん」

「せっかちだなぁ」

「バカ真面目だし」


「そこまで言う!?ほら香久山(かぐやま)君も何か言って…って、もう布団の中だし」


「よし、今伊の次にうるさいやつはもう寝たんだな」

「もう少しテレビ見ようぜ」

「枕投げとかどう?」


「はいはい、もう寝るよ、消灯!!」


「はーい」


今伊が少し強引にリモコンを押し、部屋の電気が落とされた。


一気に訪れる静けさ。しかし完全な無音ではなく、誰かが寝返りを打つ気配だけが残っている。


しばらくして、その中の一つの布団が、わずかに動いた。


「若田君、どうしたの?」


今伊が薄く声をかける。


暗闇の中で、若田は短く答えた。


「トイレ」


それだけ言うと、若田は静かに布団から抜け出し、部屋を出ていった。扉が閉まる音は、ほとんど気にならないほど小さかった。


今伊はそれを見届けると、小さく息を吐いた。誰も気にしない。気にする理由もない。


ただ、ほんの少しだけ違和感が残ったまま、本当の意味で部屋は静かになった。



ロビーの窓辺には、夜の光が静かに差し込んでいた。外はもう暗く、ガラス越しに街の明かりだけが遠く滲んでいる。


天奏は自販機で買った缶ソーダを指先で持ったまま、壁にもたれていた。


「ごめん、遅れた」


背後からの声に気づき、若田が現れる。


天奏は軽く首を横に振った。


「私も今ここに来たばかりなので」


短い沈黙。


缶の中で氷が小さく揺れる音だけが、やけに大きく感じられた。


やがて天奏が視線を上げる。


「先輩、話ってなんですか?」


若田は一度だけ視線を落とし、それからゆっくりと天奏を見た。


いつもより少しだけ、声が柔らかい。


「……最近の天奏さん、なんか変だよ」


天奏の指先が、缶の表面をわずかに強く押す。


若田は続けた。


「演奏が悪いってわけじゃない。むしろ、良くなってる部分もある」


一拍置く。


「でも……」


視線が少しだけ下がる。


「どこか、引っかかる」


天奏は何も言わない。


若田は言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。


「何があったのか、県大会のあたりからずっと気になってた」


その言葉に、天奏のまばたきが一瞬だけ止まる。


「それに、中学の時から見てるから分かる」


若田は静かに視線を上げる。


「今の君は、何かを抱えたまま吹いてるように見える」


少し間。

ロビーの空気だけが静かに流れる。


若田はほんのわずかに眉を寄せた。


「心配なんだ。何かあったなら、無理に全部話せとは言わない」


一拍。


「でも……一人で抱えてるなら、それは違うと思う」


それに対し天奏は、はっきりと首を横に振った。


「抱えてなんていません」


迷いのない声だった。


ロビーの静けさの中でも、その言葉だけはやけに真っ直ぐに響く。


一拍。


天奏は続けた。


「むしろ……導いてくれた人がいます」


若田の視線がわずかに動く。


「その人が」


少しだけ間を置いて、天奏は静かに言った。


「比奈が」


その名前を聞いた瞬間、若田の表情がわずかに固まった。


すぐに目を伏せる。


比奈。

その存在は、軽く扱っていいものではないと分かっていた。


そして——誰かに話すべきではない、とも。

若田は小さく息を吐いた。


(これは……深入りしない方がいい)


心の中でそう判断する。


「……そうか」


短く、それだけ返す。

天奏は続ける。


「それに、自分を責めるようなことはもうしていません」


若田が顔を上げる。


天奏はまっすぐ前を見ていた。


「怖くないんです。もう」


その言葉は、迷いがなかった。

若田は一瞬、言葉を失う。


(怖くない……?)


意味が分からなかった。


あの天奏が?

中学の頃から知っている、あの慎重で、音に対して繊細すぎるくらいだった天奏が。


何を言っているのか、分からなかった。

若田は小さく視線を落とす。


(……僕は、何か勘違いしてるのか)


比奈のことも、そして天奏の“変化”も。


若田はまだ何も知らない。


(ひびき)に過去を打ち明けたことも、その影響も。


ただ、目の前にいる天奏だけが、確かに“別の場所”に立っているように見えた。


(まさか、天奏さん……比奈のことを……)



翌日。


ホテルを後にしてしばらく走ったバスは、やがて大きな建物の前でゆっくりと停車した。


窓の外に広がっていたのは、圧倒的な存在感を持つ会場だった。



アクトシティ浜松。



車内の空気がわずかに変わる。


ついに、東海大会当日を迎えた。


「忘れ物のないように。それでは、バスを降ります」


瞬崎の声が静かに響く。


ドアが開く。


誰かが息を呑む音がして、それから一人、また一人とバスを降りていく。


近づけば近づくほど、その大きさは現実味を増していった。


ガラス張りの巨大な建物。

高く伸びた通路。

次々と出入りしていく人影。


地方大会とは思えない規模感に、何人かの部員が思わず足を止める。


「……デカすぎない?」

「県大会と全然違うんだけど……」

「なんかもう、全国会場みたい……」

「これが東海……」


圧倒されるように見上げる。


アクトシティ浜松。

その存在感だけで、“ここから先は別世界だ”と理解させられるようだった。


そんな中、不意に周囲がざわつき始めた。


「あれ……」


誰かの声。

部員たちがそちらへ視線を向ける。


「あれ、豊川(とよがわ)高校だ」


その瞬間、空気が変わった。


視線の先。

そこには、深い紺色の制服を揃えた集団が歩いていた。


長野県豊川高等学校。


隊列は乱れていない。

無駄な私語もない。

だが、静かなわけではなかった。


歩いているだけなのに、“音”がある。

張り詰めた空気。

圧力。

周囲を自然と黙らせるような存在感。


「うわ……」

「なんか、近寄りづら……」

「あれが……信濃の魔王(しなののまおう)……」


香久山が小さく呟く。


先頭を歩く部員の目は真っ直ぐ前だけを見ていた。


その姿は、“東海常連校”という言葉だけでは足りない何かを纏っている。


東縁(とうえん)の何人かが、無意識に息を呑んでいた。


すると今伊が、別方向へ視線を向ける。


「あれは、駿河栄聖(するがえいせい)かな?」


その先には、また別の集団がいた。


静岡県駿河栄聖高等学校。


豊川とはまるで違う。

整った白基調の制服。

揃いすぎるほど綺麗な立ち姿。


歩幅。

姿勢。

視線。


その全部が、まるでステージの上みたいだった。


「え、何あれ……モデル?」

「ていうか全員オーラ強くない?」

「なんかキラキラしてるんだけど……」


女子部員たちから思わず声が漏れる。だが、その華やかさの奥にある空気は甘くない。


一人一人の表情には、一切の隙がなかった。


駿河の金冠殿(するがのきんかんどの)”。


その異名に相応しい、完成された強豪校だった。

東縁の空気が少しずつ緊張していく。


そんな時だった。


「これはこれは、東縁高校さんじゃありませんか」


突然かけられた声。

部員たちが一斉に振り返る。


そこに立っていたのは、一人の男性だった。


柔らかな笑み。

落ち着いた声。

だが、その目だけは妙に鋭い。


少し離れた場所には、大勢の女子部員たちが並んでいる。


統一された黒の制服。

綺麗に揃った立ち姿。


後ろに並ぶ女子生徒たちもまた、異様なほど隙がなかった。


そして、その男性の視線は、最初から一人だけを見ていた。


東縁の部員たちではない。

瞬崎だった。


ほんの一瞬。

その目が見開かれる。


「これはこれは」


瞬崎が小さく口元を緩める。


「白律の悪魔さんではありませんか」


その言葉が落ちた瞬間だった。


男性の表情が、わずかに変わる。その名前を口にするなと睨むように。しかし、その笑顔は崩れなかった。


むしろ先ほどよりも丁寧になる。

周囲の東縁部員たちは顔を見合わせる。


「白律の悪魔……」

「もしかして、エト学?」

「マジ?」


小声が飛ぶ。

だが瞬崎は特に反応しなかった。


男性は小さく息を吐く。

そして改めて一歩前へ出た。


「おっと自己紹介がまだでしたね」


その仕草はどこまでも洗練されている。


「改めまして」


右手を差し出した。


「名古屋エーストリア学園吹奏楽部主顧問、mark trial(マークトライアル)です」


流れるような発音。

外国人らしい名前だった。


だが。


「本日はどうもよろしくお願いします」


日本語は驚くほど自然だった。

違和感がまるでない。


その場にいた誰もが、一瞬だけ驚くほどに。


マークは微笑んだまま手を差し出している。


瞬崎はその手を見つめる。

そして静かに応じた。


「東縁高校吹奏楽部顧問、瞬崎カルマです」


差し出された手を握る。


握手。

ただそれだけのはずだった。


しかし。

二人の間に流れる空気は、周囲の誰も入り込めないほど張り詰めていた。


マークの笑顔は崩れない。

瞬崎の表情も変わらない。


「東縁高校の活躍は耳にしております」


穏やかな声。だが、その目だけはまるで品定めをするように東縁の部員たちを見ていた。


「創部以来弱小校だった学校が、今年で東海大会まで」


小さく肩を竦める。


「実に素晴らしい」


東縁の部員たちが少しざわつく。


東海三神の一角、エト学の顧問にそう言われれば、悪い気はしない。


しかし。

瞬崎は笑顔のまま答えた。


「ありがとうございます」


柔らかな声。


「ですが、まだまだですよ」


一拍。


「東海、さらにその先となれば、私たちより遥かに上の学校がたくさんありますから」


マークの眉がわずかに動く。


瞬崎は続けた。


「特にエーストリア学園さんは、東海を代表する名門です」


「いやいや」


マークも負けじと笑う。


「それを言うなら東縁高校さんでしょう。CDを聴かせてもらいました。今年の県大会の演奏は実に見事です」


「恐れ入ります」


「いえいえ。そんなことありません」


「ご謙遜を」


「そちらこそ」


笑顔。

笑顔。

笑顔。


だが、どちらも一歩も譲らない。


周囲にいた部員たちは徐々に困惑し始めていた。


「……なんか怖くない?」


来島が小声で呟く。


「分かる」


陽翔も小さく頷く。


「二人とも笑ってるんだけどさ」

「めちゃくちゃ笑ってるんだけどさ」

「なんでこんな怖いんだろうな……」


東縁の部員たちの感想は、ほぼ一致していた。目の前で行われているのは友好的な挨拶のはずだった。


なのに。

まるで見えない刃を突き付け合っているような空気だけが、確かに存在していた。


マークの笑顔は崩れない。

だが、そのまま一歩近づいた。


さらに一歩。

握手したまま、瞬崎だけに聞こえる声で囁く。


「潰してやるよぉ。東縁——いや、瞬崎ィ」


その声は先程までとは別物だった。

柔らかさなど欠片もない。

冷たく、粘つくような悪意。


瞬崎の表情が僅かに止まる。


「現実を教えてやる」


マークは嘲笑うかのように瞬崎を見つめる。


「音楽ってのは夢を見るためのものじゃない――上下を、はっきり思い知らせるためのものだ」


さらに声を落とす。


「成り上がり者に、夢は見させねぇよ」


そして手を離した。

何事もなかったかのように。


気付けば、マークは再び穏やかな笑顔に戻っている。


「それでは、また後ほど」


丁寧に一礼する。

遠くで待つ部員たちの元へ歩いていく背中は、先ほどまでと何も変わらなかった。


「あ、あの……瞬崎先生?」


久瀬が恐る恐る声を掛ける。


瞬崎は動かない。

その手はわずかに震えていた。


だが。

表情だけは違った。

自信に満ちている。


瞬崎はゆっくりと息を吸った。そして背を向けるマークと、その先にいるエーストリア学園へ向かって声を放つ。


会場前の空気を切り裂くような声だった。


「いいでしょう」


周囲の視線が集まる。


「成り上がり者の夢を——」


瞬崎の口元が僅かに上がる。


「あなた達に見せて差し上げます!!」


その声は、遠く離れたエーストリア学園の列まで確かに届いていた。

強い相手と出会った時、人は自分の現在地を知る。

届かないと思うか。

追いつきたいと思うか。

その答えは、これからの音が教えてくれるだろう。

感想、評価、ブクマ是非お願いします。

次回もお楽しみに!!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ