70話 仕上げの時間
長い移動の途中、ふとした景色に気持ちが揺れる瞬間がある。騒がしさの中にある軽さと、静けさの中にある重さが、同じ車内に同居していた。
それぞれの目に映るものは違っていても、同じ場所へ向かっているという事実だけは変わらない。
やがて、見慣れた山の風景は少しずつ遠ざかり、初めて立つ土地へと近づいていく。その変化は、思っているよりも静かで、でも確かだった。
姨捨サービスエリアで、一度休憩の時間が入った。
バスを降りた部員たちは、それぞれ伸びをしたり飲み物を買いに行ったりしている。
その中で——
「すっげぇぇ!!」
来島の声が、再び響いた。
「うるさいなぁ……」
陽翔が呆れたように振り返る。来島は展望スペースの柵へ張り付くように身を乗り出していた。
その先には、千曲市、そして長野市の景色が広がっている。
山々に囲まれた街並み。陽に照らされた景色は、まるで一枚の絵みたいだった。
「いやだって!見ろよこれ!めちゃくちゃ綺麗じゃん!」
「まぁ……綺麗だけど」
陽翔も隣へ並びながら答える。
「そんな驚くことなの?」
すると来島は、真顔で言った。
「だって、元都会人からしたら“大自然と大都会のコンビネーション”だもん」
「言うて長野ってそんな大都会か?」
陽翔は苦笑する。
「てかお前、どこ出身なん?」
来島はきょとんとした顔のまま答えた。
「え?東京」
その瞬間。
「はぁ!?」
「マジで!?」
「初耳なんだけど!?」
近くにいた部員たちの声が、一気に飛んだ。
「うん」
来島はあっさり頷いた。
「生まれは東京。中学ん時にこっち来た」
「いや、全然そんな感じしないんだけど……」
陽翔が呆れたように言う。
「えー」
来島は笑いながら頭を掻いた。
「まぁ、結構すぐ慣れたしな。長野」
そう言って、再び景色の方を見る。
「最初はビビったけどね。山多すぎるし、空広いし、夜静かすぎるし」
「あー……」
何人かが苦笑する。
「でも、なんか気付いたら好きになってたんだよな」
長野の街並みを見下ろしながら、来島は小さく笑った。
瞬崎と瀬戸川は、自販機の並ぶ端の方で缶コーヒーを片手に立っていた。
遠くでは、部員たちの賑やかな声が聞こえてくる。
「元気ですねぇ」
瀬戸川が苦笑混じりに呟く。
「大会前とは思えません」
「……まぁ、緊張しすぎるよりはいいんじゃないですか?」
瞬崎は缶コーヒーを軽く揺らしながら答えた。その視線は、展望スペースではしゃぐ来島たちへ向いている。
「それに、ああやって騒げるのも今のうちでしょうし」
「そうですね」
瀬戸川は小さく笑う。
しばらく、二人の間に静かな時間が流れた。
遠くの山並み。
朝の風。
サービスエリア独特の落ち着かない空気。
その中で、瀬戸川がぽつりと口を開く。
「……変わりましたね」
「ん?」
瀬戸川は静かに続けた。
「去年までは、なんともつまらない顔をしてた」
瞬崎は黙って聞いている。
「でも今は違う」
瀬戸川の視線が、部員たちへ向く。
「ちゃんと、“先へ行きたい”“上手くなりたい”って顔してます」
風が吹く。
瞬崎は小さく目を細めた。
瀬戸川は缶を握ったまま、静かに笑う。
「……だから、多分もう」
一瞬だけ間。
そして、どこか確信したように呟いた。
「東縁は、“憧れる側”の学校じゃなくなったんです」
やがて、バスは高速道路へ入る。
サービスエリアでの賑やかさも少しずつ落ち着き、車内には穏やかな空気が流れている。
眠っている者。
音楽を聴いている者。
窓の外をぼんやり眺めている者。
それぞれの時間が、静かに過ぎていった。
そして——そこから三時間ほど経った頃。
「まもなくホテルに到着します。荷物の準備は済ませておいてください」
瞬崎の声が車内へ響く。
その言葉に、部員たちがゆっくり顔を上げる。
窓の外に広がっていた景色は、もう長野とは違っていた。
遠くまで続く平坦な道。
大きな建物。
見慣れない街並み。
山に囲まれていた景色は少しずつ消え、代わりに開けた空と街の光が広がっている。
流れていく車の量も多い。
どこか落ち着かない。
でも、それが“県外へ来た”という実感を強くしていた。
「忘れ物のないようにしてください」
瞬崎がもう一度声を掛ける。
部員たちは慌てて荷物を確認し始めた。そんな中、窓の外を見つめたまま、小さく息を呑む者もいる。
——東海大会。
その言葉だけが、静かに胸の奥へ重く沈んでいく。
そうして東縁高校吹奏楽部は——静岡の地へ降り立った。
ホテルに荷物を預け、そのまま市民会館の小ホールへと向かっていた。
東海大会前日——最後の仕上げのためだ。
ホールが目に入った瞬間、部員たちの間から様々な声が飛び交う。
「思ったより小さいな」
「そんな天井高くないし」
「でも響き方全然違うな……」
周囲を見回しながら、それぞれが小さく感想を漏らしていく。
大きなコンサートホールではない。
地域の市民会館。どこか落ち着いた空気の漂う、小さなホールだった。
だが——だからこそ、音がよく見える。
少しのズレ。
わずかな乱れ。
そういうものが、はっきり浮かび上がる空間だった。
入口付近では、楽器を乗せたトラックがすでに搬入口へ横付けされている。
「一分一秒、時間を大切に、最後の練習に取り組んでください」
瞬崎の声が響く。
部員たちの表情が、ゆっくり引き締まっていく。
「はい!!」
「では、始めましょう」
瞬崎は静かにホールの扉へ視線を向けた。
「——仕上げの時間です」
ホールへ響く音。
重なり合う旋律。
張り詰めた空気。
誰も喋らない。
ただ、音だけが空間を埋め尽くしていく。
瞬崎の指揮が鋭く振られる。それに応えるように、金管が一気に音を押し上げた。
だが——
「ストップ」
瞬崎の声で、演奏が止まる。
静寂。
「トランペット、少し力みすぎています」
責める声ではない。
だが、空気は自然と引き締まる。
「このホール、思っている以上に音が飛びます。押し込まなくても届いている」
トランペットパートが小さく頷く。
瞬崎は指揮棒を下ろしたまま続けた。
「“鳴らす”じゃなく、“響かせる”を意識してください」
「はい!」
何人かが譜面へ視線を落とす。
「もう一度、Aから」
再び、音が始まった。
今度はさっきより少しだけ柔らかい。だがその分、各パートのズレがよりはっきり浮かび上がる。
客席後方で聴いていた董白が、小さく眉を寄せた。
そして——
「ストップ!ストップ!」
低く響く声。
部員たちの身体がわずかに強張る。
董白は腕を組んだまま、舞台へ向かって歩き出した。
「お前たち、綺麗に合わせようとしすぎだ」
誰も口を開かない。
「もちろん丁寧なのは大事だ。だが、それだけじゃ勝てん」
董白の声が、小ホールへ重く響く。
「東海まで来たんだぞ?もっと“前”へ出ろ」
その言葉に、金管の何人かが息を呑んだ。
董白は舞台を見渡す。
「特にD前。遠慮してる奴がいる」
視線が、一人一人を刺すように向けられる。
「失敗してもいいから行け。縮こまった音が一番つまらん」
空気が変わる。
「お前たちの音楽を、ちゃんと客席へ叩きつけろ」
「はい!!」
返事がホールへ響いた。
その声は、さっきまでよりもずっと強かった。
短い休憩時間。
天奏は譜面を見つめたまま、小さく息を吐いていた。
指先が、わずかに震えている。
その前へ、仙道がしゃがみ込んだ。
「良いわね、前よりもしっかり音が響いて来てるわ」
「……ありがとうございます」
「ただ、ここなんだけど」
仙道はそう言いながら、譜面の一部分を指差した。
「毎回入りが浅くなる時があるわね」
天奏は小さく黙り込む。
仙道は静かに続けた。
「今のあなたに大事なのは、間違えないこと考えすぎないこと」
その声は、思っていたより柔らかかった。
天奏がゆっくり顔を上げる。
仙道は小さく笑った。
「ちゃんと、“吹きたい音”を信じてみて」
その言葉に、天奏の肩からほんの少しだけ力が抜けていた。
最後の和音が、小ホールへ静かに溶けていく。その余韻だけが、しばらく空間へ残っていた。
誰もすぐには動かない。
荒い息。
額に浮かぶ汗。
震える指先。
何度も繰り返したはずの曲だった。それでも今の演奏には、今までとは違う重さがあった。
やがて——
「……以上です」
瞬崎の声が、静かに響く。
部員たちはゆっくりと楽器を下ろした。
ホールの空気はまだ熱を帯びている。
瞬崎は一度、全員を見渡した。
「よくここまで来ました」
静かな声だった。
「正直、最初、赴任してあの演奏を聞かされた直後は、ここまで来られるとは思っていませんでした」
何人かが小さく顔を上げる。
「技術も未完成でした。まとまりもなかった。ぶつかることも多かった」
その言葉に、部員たちの表情がわずかに揺れる。
思い返すものは、それぞれ違う。
「でも、今の皆さんには、“同じ音楽を届けたい”という意思があります」
瞬崎は続ける。
「コンクールは、確かに順位が出ます。結果も残ります」
一瞬だけ間。
「ですが、それだけではありません」
静かな視線が、部員たちへ向けられる。
「皆さんがここまで積み重ねてきた時間は、点数だけでは測れないものです」
誰も喋らない。
ただ、その言葉を聞いていた。
「だから明日は——今の東縁高校の音楽を、ちゃんと届けてきてください」
風のないホールに、その声だけが静かに残る。
そして瞬崎は、小さく息を吐いた。
「あと、一つ」
部員たちが顔を上げる。
「董白先生と仙道先生の指導は、今日で最後になります」
「えぇぇ!!??!」
その瞬間、空気がわずかに揺れた。
董白は腕を組んだまま、小さく笑う。
「まぁ、そういうことだ」
仙道も静かに目を細めていた。
「明日以降は、皆さんだけで戦うことになります」
瞬崎の言葉が、静かに落ちる。
「だからこそ、最後にお二人から言葉をいただきたいと思います」
瞬崎が一歩下がる。
すると董白が、「やれやれ」と言いながら前へ出た。
「……まぁ、難しい話はいい」
部員たちを見る。その目は、いつもより少しだけ優しかった。
「ここまで来た時点で、お前たちは十分頑張ってる。強豪にも引けを取らないぐらいにな」
低く、力強い声。
「だから明日は、“上手く吹こう”なんて考えるな」
何人かが顔を上げる。
董白はニヤリと笑った。
「どうせなら、“東海全部ぶっ壊す”くらいの気持ちで行け」
一瞬だけ静まり返ったあと、何人かが小さく吹き出す。だが、その目はちゃんと前を向いていた。
「ビビるな。お前たちの音楽を、真正面からぶつけてこい」
「はい!!」
今までで一番大きな返事が返る。
「じゃ、期待してるぞぉ〜?」
董白は満足そうに頷きながら後ろへ下がった。
代わりに、仙道が静かに前へ出る。
少しの沈黙。
そして、優しく笑った。
「……楽しんできなさい」
その一言に、部員たちがわずかに目を見開く。
仙道は続けた。
「ここまで苦しかったと思う。辛かったと思う。不安も、いっぱいあったと思う」
静かな声。
「でも、その全部を越えて、あなたたちは今ここにいる」
天奏が、静かに視線を上げる。
仙道はゆっくり部員たちを見渡した。
「だから明日は、“コンクール”じゃなく、“音楽”をしてきて。短い間でしたが、どうもありがとうございました」
その言葉は、驚くほど静かだった。
なのに——深く、胸へ残った。
「……ありがとうございました!!」
久瀬の声をきっかけに、部員たちが一斉に頭を下げる。
その声は、小ホールいっぱいに響いた。
董白は少しだけ目を丸くしたあと、照れ臭そうに鼻を鳴らす。
「おう」
仙道も、小さく笑いながら頭を下げ返した。
「こちらこそ」
その空気を見つめながら、瞬崎は静かに息を吐く。そして、パン、と軽く手を叩いた。
「はい。浸るのはそこまでです」
その一言に、部員たちの空気が少しだけ緩む。
「まだ今日は終わってません。片付け、積み込み、ホテル戻ってからの確認もあります」
「はーい……」
何人かが疲れた声を漏らす。
すると瞬崎は、小さく笑った。
「でも——」
部員たちが顔を上げる。
「今の演奏、良かったですよ」
一瞬だけ、空気が止まった。
瞬崎が真正面からそう言うことは、決して多くない。だからこそ、その一言の重みを全員が理解していた。
「……ありがとうございます!」
再び久瀬がそう返すと、少しずつ部員たちの表情にも笑顔が戻っていく。
緊張。
不安。
焦り。
それでも、確かにここまで積み上げてきたものがある。それを、少しだけ実感できた気がした。
舞台袖では、スタッフたちが撤収準備を始めている。
譜面をまとめる音。
ケースを閉じる音。
椅子を運ぶ音。
その全部が、“明日”へ繋がっていた。
天奏は静かに楽譜を閉じる。
祈風——
血の滲んだ譜面。
でも今は、もう少しだけ違って見えていた。
怖いだけの曲じゃない。
自分が、届けたい音楽だった。
「……」
小さく息を吐く。
そして、そっとケースを閉じた。
明日。
東海大会。
東縁高校吹奏楽部は、いよいよ本番を迎える。
大きな出来事が起きる前の時間は、意外とよく覚えている。特別な言葉があったわけでも、劇的な瞬間があったわけでもないのに、その空気だけがずっと残る。
音が鳴る前の静けさ。
誰かの一言で変わる空気。
窓の外を流れていく景色。
そういうものが積み重なって、ようやく「その日」が形になる。
明日は、その「その日」の入口になるだろう。
感想、評価、ブクマ是非お願いします。
次回もお楽しみに!!




