69話 出発
一週間という時間は、長いようで短い。積み重ねてきたものを整理するには短すぎて、不安を整理するには、少しだけ長い。
それでも、時間は待ってくれない。
音は止まらず、日常は続いていく。
そして彼らは、まだ形になりきらないまま——次の場所へ向かう。
東海大会まで、残り一週間。
空気は以前とは違う。
張り詰めているのに、止まっていない。
音楽室には、すでに楽器を構える部員たちの姿が並んでいた。
その前で、董白が静かに腕を組む。
「そうか、それは残念だったな」
瞬崎から伝えられた、響と東堂の件。
いつもなら大きな声で笑っている彼も、この時だけは真顔だった。
「みんなも、辛いと思う。演奏としてもかなりのマイナスだ」
重い現実を、誤魔化さない。
「どうにか、このマイナスを払拭しないとな」
董白は、改めて部員たちを見渡した。
視線を逸らす者はいない。
「東海まで残り一週間。追い上げってこともあって——これからかなり厳しく行くぞ」
低く、はっきりした声。
「覚悟はできてるか?」
その問いに、一番最初に声を返したのは久瀬だった。
「できてます」
迷いのない声が、音楽室に響く。
「みんなで、そう決めましたから。絶対、次に行くって」
一瞬だけ、空気が止まる。
だが次の瞬間——
董白の表情が、ふっと崩れた。
「ハハハッ!!」
いつもの、大きな笑い声。
「そうか!その言葉、しっかり記憶したぞぉ?」
空気が、一気に前を向く。
董白は勢いよく指揮棒を持ち上げた。
「よし!!そうと決まれば、早速十回通しからだ!!」
部員たちがざわつく。
「じゅ、十回!?」
「またですか!?」
「鬼だ……」
そんな声すら、どこか明るい。
董白はニヤリと笑う。
「行けるか?」
その問いに——
「は、はい!!」
今度は、一人じゃなかった。
音楽室に、全員の声が重なる。
董白は、その返事を聞きながら小さく目を細める。
(……変わったな、お前たち)
ほんの少し前まで、噛み合わなかった音。言葉を飲み込み、空気ばかりを読んでいた部員たち。
だが今は違う。
まだ完璧じゃない。
まだ不安定だ。
それでも確かに、
“同じ方向を向こうとしている”。
董白は静かに指揮棒を構える。
「——始めるぞ」
その声と同時に、
東縁高校吹奏楽部、最後の追い上げが始まった。
「へぇ、響が?」
スマホ越しに返した声は、思っていたより淡々としていた。
部屋のベッドに腰を下ろしたまま、愛美は窓の外を見る。
夕暮れの光が、静かに部屋へ差し込んでいた。
「あぁ。しばらく練習も出られないらしい」
父の声。
「ふーん」
愛美は、そっけなく返す。
興味がないような反応。
でも、指先だけは無意識にシーツを掴んでいた。
「愛美も、一回くらい見舞い行ってやればどうだ?同じ姉弟だろ」
その瞬間。
愛美の表情が、わずかに固まる。
「行けるわけないでしょ」
即答だった。
自分でも驚くくらい、早く言葉が出た。
電話の向こうが少し静かになる。
愛美は、小さく視線を落とした。
胸の奥が、ざわつく。
思い出したくないのに、
勝手に浮かぶ。
あの音。
あの演奏。
そして——あの顔。
無意識に、指先へ力が入る。
響。
心の中で名前を呼んだ瞬間、
感情がぐちゃぐちゃに絡まった。
怒りなのか、
後悔なのか、
苛立ちなのか、
自分でも分からない。
ただ、一つだけはっきりしていた。
——響、あんたのせいで、私の音楽はめちゃくちゃだ。
翌日。
音楽室には、いつもより少し早い時間から部員たちが集まっていた。
空気は静かだった。
だが、その静けさは重苦しいものではない。
どこか張り詰めた、集中前の静寂だった。
そんな中、瞬崎が前へ出る。
「今日から、東堂君が部活に復帰します」
その一言で、空気がわずかに動く。
「幸い、予定よりもだいぶ早く回復できたそうです」
瞬崎は続ける。
「ですが、まだ完全ではありません。無理はしないように」
その言葉と同時に——
音楽室の扉が、静かに開いた。
「……失礼します」
東堂だった。
部員たちの視線が、一斉に向く。
以前より少し痩せた顔。それでも、その目だけはちゃんと前を向いていた。
「心配をかけてしまい、すみませんでした」
東堂は、深く頭を下げる。
「コンクールに向けて、最後の追い上げをしていきます。よろしくお願いします」
その声は、決して大きくなかった。
けれど——確かに、そこにいた。
音楽室の空気が少しだけ緩んだ。
だが同時に、全員の視線は自然と別の場所を思い浮かべてしまう。
東堂の手には、まだ松葉杖が握られていた。
そして——
もう一人は、いない。
いや、出られない。
その事実だけが、静かに胸へ残る。
誰も口にはしなかった。
「では、お昼休憩にします」
瞬崎の声が、音楽室に響いた。その瞬間、張り詰めていた空気が一気に緩む。
「はぁぁ……」
「腕死んだ……」
「十回通しは本当に人がやる量じゃない……」
あちこちから疲れた声が漏れ、部員たちはそれぞれ椅子にもたれかかった。
楽器を置く音。
水筒の蓋を開ける音。
譜面をめくる音。
そんな日常の音が、静かに広がっていく。
その中で——
「奏多君!」
明るい声が飛んだ。
奏多かなただった。
振り返ると、そこには永井の姿。さらにその隣には、来島と柊木らもいる。
「一緒に昼食べよー」
いつもの調子。
だが奏多の表情は暗かった。
疲れたわけではない。
どこかずっと、気持ちが沈んでいるような顔。
「えっと……今日は……」
言葉を濁す。
だが、その瞬間。
「よし!一緒に食べるってことだな!」
来島が勢いよく奏多の手を掴んだ。
「え、ちょ、ちょっと……!」
「ほら、そんなこと言わずに」
永井も苦笑しながら続く。
「一人でいると、また変なこと考えるでしょ」
「……」
図星だったのか、
奏多は何も返せなかった。
来島はそのまま奏多を引っ張っていく。
「ほら行くぞー!今日は購買戦争だからな!」
「いや、意味分かんないって…」
柊木が呆れたように口を開く。
奏多は言われるがまま、来島たちに連れて行かれた。
昼休み。
来島達は、中庭のベンチへ移動していた。
来島はパンの袋を開けながら、何気ない調子で口を開く。
「ふーん。あの日、響と一緒にいたんだ」
「……うん」
奏多は小さく頷く。
「それで、塾だって言って響を置いて帰ったと」
「……そう」
短い返事。
そのまま沈黙が落ちる。奏多は視線を下げたまま、指先をぎゅっと握った。
だが——
「へぇー……あ、でさ」
来島は普通に次の話題へ移ろうとした。
「え、それだけ?」
柊木が思わず声を上げる。
「なんでそんな軽いの?」
驚いたように来島を見る。
だが来島は、きょとんとした顔で返した。
「だって、奏多は何も悪くないじゃないか。一緒に帰っただけなのに」
「つまり、響が悪いってこと?」
柊木の目が少し鋭くなる。
だが来島は怯まない。
「別に誰が悪いとか言ってないだろ?」
そのまま、真っ直ぐ奏多を見る。
「俺が気になってるのは、なんで奏多がそこまで引きずってるのかってこと」
その言葉に、奏多の肩がわずかに揺れる。
しばらく黙り込んでから、
小さな声が落ちた。
「……だって」
視線は、下を向いたまま。
「僕が……響君を置いて行かなければ……」
途切れ途切れに、言葉を押し出す。
「そもそも、僕が帰ろうなんて誘わなければ……こんなことには、ならなかったかもしれない」
指先に力が入る。
「だから……」
その先が、続かない。
来島は少しだけ黙った。
ふざけた空気は、もうない。
だが、その目は真っ直ぐだった。
「……確かにさ」
静かな声。
「違う行動してたら、結果変わってた可能性はあるかもしれない」
奏多の肩が、小さく揺れる。
「でも、それって今だから言える話だろ?」
来島は続ける。
「事故なんて、後からなら何とでも言える。“あの時こうしてれば”なんて、誰だって考える」
小さく息を吐く。
「でも、お前、響を置き去りにしたわけじゃないだろ」
奏多がゆっくり顔を上げる。
「一緒に帰って、途中で別れただけだ。塾行くのだって普通のことだろ」
責める声じゃない。
ただ、事実を並べるような声。
「なのに、お前だけが全部背負おうとしてる」
奏多の指先が、わずかに震える。
来島は静かに言った。
「辛いのは分かる。引きずるのも分かる。……でも、それと“お前が悪い”は別だ」
一瞬だけ、風が吹く。
「少なくとも俺は、お前が悪いなんて思ってない」
奏多は何も返せなかった。
ただ——
少しだけ、握っていた指の力が緩んでいた。
音楽室には、まだ静かな空気が残っていた。
東堂は窓際に立ったまま、ぼんやりと外を眺めている。
校庭。
揺れる木々。
走っていく生徒たち。
そのどれもが、どこか遠かった。松葉杖に体重を預けながら、小さく息を吐く。
その時——
「昼、食べないの?」
背後から声が落ちた。
東堂の肩がわずかに動く。
「……久瀬」
振り返ると、そこには久瀬が立っていた。
東堂は小さく眉を寄せる。
「何の用だ?」
低い声。
「怪我を哀れみにでも来たのか?」
刺々しい言い方だった。
だが久瀬は、表情を変えない。
「そんなことじゃない」
真っ直ぐな視線。
東堂の表情が、さらに曇る。
「……じゃあ何だよ」
短く吐き捨てる。
久瀬は少しだけ黙った。
それから、静かに口を開く。
「海斗君のこと、覚えてる?」
その瞬間。
東堂の動きが止まった。
空気が、一気に変わる。
「……お前」
低い声。
東堂は久瀬を睨みつける。
その目には、明確な警戒が浮かんでいた。
「お前まで、海斗のことを——」
「……やっぱり、なんだね」
久瀬は小さく息を吐く。
確信したような声だった。
「……響君からも、聞いたんでしょ」
「チッ——」
東堂が舌打ちをする。
視線を逸らし、窓の外を見る。
「なんで……そんなことを」
その声には、苛立ちだけじゃない。どこか諦めたような色も混ざっていた。
久瀬は少しだけ苦笑する。
「まぁ、一応私、部長なので」
冗談っぽく言う。
「みんなのことは、ちゃんと把握しておかないと」
東堂は何も返さない。
静かな沈黙。
その中で——
久瀬は、一度だけ視線を落とした。
小さく息を吸う。
そして、もう一度東堂を見る。
「……それに」
その声は、さっきまでより少しだけ静かだった。
「きっと謝りたいんだよ」
東堂の眉が、わずかに動く。
久瀬は続けた。
「響君も、海斗君も」
一瞬だけ、間。
「——中学の時のこと」
風が吹く。
窓の外の木々が、小さく揺れた。
東堂は何も言わない。
だがその表情だけが、ほんの少しだけ変わっていた。
一週間という残り時間は、思っていたよりもずっと早く過ぎていった。
部員たちは楽器ケースや荷物を抱えながら、慌ただしく動き回っている。
その中で——
「各パート、人員確認できましたか?」
久瀬の声が響いた。
「フルート、全員います!」
「トランペット、全員です!」
「パーカス、揃ってます!」
各パートリーダーたちが順番に返していく。
久瀬は小さく頷いた。
「では、まもなく出発します。トイレなどは今のうちに済ませておいてください」
「はい!」
返事が重なる。
周囲では、様々な声が飛び交っていた。
「いよいよか……」
「なんか急に緊張してきた」
「やばい、実感出てきた……」
期待と不安が入り混じった声。
誰もが落ち着かない。
でも、その表情は前を向いていた。
そうしているうちに、運転手が荷物室を開ける。
「それじゃ、荷物積んでくださーい」
「はい!」
部員たちが一斉に動き出す。
ケースを抱えて走る者。
友達同士で騒いでいる者。
静かに深呼吸を繰り返している者。
それぞれの“大会前”が、そこにあった。
「それでは、皆さん乗り込んでください!」
瞬崎の声が飛ぶ。
「荷物はバスの下へ。忘れ物ないように」
部員たちは次々にバスへ乗り込んでいく。
その中で——
「奏多君、隣いい?」
柊木が声を掛けた。
「え? あ、うん」
奏多は少し驚きながら頷く。
柊木はそのまま隣へ腰を下ろした。
バスの中は、まだざわざわとしている。
窓の外では、先生たちが最終確認をしていた。
「どう? 緊張する?」
柊木が何気なく尋ねる。
「……うん」
奏多は静かに答えた。
でも、その返事は驚くほど早かった。
柊木は少しだけ目を丸くする。
「奏多君らしくないね」
小さく笑う。
「いつもなら“楽しみ〜!”って笑ってるのに」
「……」
奏多は何も返さなかった。
ただ、膝の上で指先を握る。
そんな奏多を横目に、柊木は窓の外を眺めながらぽつりと呟いた。
「……そういえば、響も中学の時からそんな感じだったなぁ」
「え?」
奏多が勢いよく振り返る。
「え、ちょっと待って、今なんて——」
だが、その声は届かない。
エンジン音が大きく鳴り、同時にバスがゆっくりと動き始める。
窓の外で、東縁高校の校舎が少しずつ遠ざかっていった。
誰かが小さく息を吐く。
誰かが窓の外を見つめる。
誰かが目を閉じる。
それぞれの想いを乗せたまま——東縁高校吹奏楽部を乗せたバスは、静かに走り出した。
静岡
アクトシティ浜松へと向かって。
気付けば、同じ場所に立っていても、見えている景色は少しずつ違っている。
揃っているようで、完全には揃っていない。それでも、止まることはできない。
進むということは、時にそのまま不完全を抱えたまま歩くことでもある。
次に待つ場所は、その“まま”を試す舞台になる。
感想、評価、ブクマ是非お願いします。
次回もお楽しみに!!




