表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
心はB♭で響いている  作者: World of Tukimoto
響く音響編 —始動—

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

68/68

68話 久瀬真奈美

音は、勝手に揃うものではない。誰かが合わせようとしなければ、どれだけ同じ楽譜を見ていても、そこに生まれるのは“別々の音”のままだ。

同じ場所に立っているのに、心だけが離れていくことがある。逆に、言葉ひとつで崩れかけていたものが繋がることもある。

必要なのは、正しさではなく——向き合うこと。そして今、彼らはようやくその一歩手前に立っていた。

まだ完全ではない。まだ不安定だ。

それでも確かに、音は動き始めている。

あの時も——同じだった。


中学の音楽室。

そこには、まだ“あの頃のままの人”がいた。


今みたいに遠い存在じゃなくて、

ちゃんと同じ場所にいたはずの人。


音は、どこか噛み合っていなかった。


気づいていた。

久瀬(くぜ)は気づいていた。


でも——言えなかった。


(違う)


そう思った瞬間は確かにあった。


それでも、口は動かなかった。

空気を壊すのが怖かった。


自分の一言で、何かが崩れてしまう気がしていた。


その“誰か”は、何も言わなかった。


ただ、音を出していた。

その音だけが、やけに記憶に残っている。


誰も何も言わないまま、時間だけが過ぎていった。


そして——終わった。

それだけだった。


帰り道、小さく言った。


「もういいや」


その言葉に、誰も返さなかった。

ただ、聞いているだけ。


もしあの時。

止めずに一言でも言えていたら。


何かが違っていたのかもしれない。

でも、その“もし”は、ずっと消えなかった。

 

(……また、同じになる)

 

久瀬は、言葉を飲み込んだ。



喉の奥で、何かが引っかかる。

 

(……言えば、変わる。でも——壊れるかもしれない)


指先が、わずかに震える。

あの言葉が、頭をよぎる。


——音と言葉。


無意識に、息を吸う。


「……大丈夫」


小さな声が、ぽつりと零れる。


「落ち着いて……ゆっくり……一言ずつ……」


小さく息を吐く。


「……ふぅ」


静まり返った音楽室に、その声は思ったよりもはっきり響いていた。


「久瀬、聞こえてるよ」


狩川(きりかわ)の一言。


一瞬の間。


「……はは」

「今の全部聞こえてたな」


小さな笑いが、ぽつぽつと広がる。

張り詰めていた空気が、ほんのわずかだけ緩む。

——それでも、壊れたままだった。


「……あ」


久瀬の肩がびくりと揺れる。

一気に顔が赤くなる。


「ご、ごめん……今の……聞こえてた?」


視線を落としながら、ぎこちなく笑う。


「まぁ、そういうとこだよな」


誰かが小さく呟く。


完全に明るくなったわけじゃない。

それでも——さっきまでより、少しだけ息がしやすかった。


久瀬は、一度だけ大きく息を吸う。

そして、ゆっくりと顔を上げる。


その目は、さっきまでとは違っていた。


迷いは——まだある。

それでも、言葉を引っ込めることは選ばなかった。


「……皆んな」


静かに、口を開く。



「……今のままだと、正直に言って、私たちは東海で戦えないと思う。音は出てるし、形も間違ってない。でも——音楽じゃない。ただ、吹いてるだけだと思う」


誰も動かない。否定の言葉なのに、否定する余裕すらない。


久瀬は一度だけ視線を落とす。指先に、わずかに力が入る。


「ごめん。部長なのに、止められなかった。気づいてたのに、言えなかった。どう言えばいいのか分からなくて、それで……」


喉の奥で、言葉が詰まる。それでも、無理やり押し出す。


「何か言って、空気壊すのが怖かった。間違ってたらどうしようって、ずっと思ってた。だから……正しいことだけ言おうとしてた」


小さく息を吐く。


「でも、それって結局、何も言ってないのと同じだった」


静まり返った音楽室に、その言葉だけが落ちる。


「本当は、もっと早く言わなきゃいけなかった。変だって思った時に、ちゃんと止めなきゃいけなかった。でもできなかった。部長なのに、何もできなかった」


一人ひとりを見る。逃げずに、順番に。


「……私、自分が思ってたより、ずっと弱かった」


少しだけ、声が揺れる。


「まとめるとか、引っ張るとか、そんなこと言ってたのに……実際は、誰よりも周りの顔色ばっかり見てた」


誰も笑わない。誰も逸らさない。


「でも——」


久瀬は、ゆっくりと顔を上げる。


「それでも、このまま終わるのは嫌だ」


その声だけが、はっきりしていた。


「音ってさ、ただ出せばいいわけじゃない。誰かと重なって、初めて意味が出る。想いが乗って、初めて“音楽”になる」


少しだけ間が空く。


「でも今の私たちって……ぶつかるのが怖くて、避けてるだけじゃない?間違えたくなくて、正解だけ探してる。それで……何も伝わってない」


視線が揺れる。でも、言葉は止めない。


「言葉も同じだと思う。言わなきゃいけないこと、いっぱいあったのに……全部、飲み込んできた。傷つけるのが怖くて」


小さく、拳を握る。


「でも、言わなかった結果がこれだと思う」


誰も否定しない。その沈黙が、何よりの答えだった。


(ひびき)君と、東堂(とうどう)君のことも……私、何もできなかった。見てただけだった。関係ないって、どこかで思ってたのかもしれない」


一瞬だけ、言葉が止まる。それでも——続ける。


「でも違う。同じバンドなんだよ、私たち。一人の音が崩れたら、全部崩れる。なのに、誰も踏み込まなかった」


息を吸う。


「それが今の音に出てる。バラバラなんだよ、私たち。形だけ揃えて、中身は全部ズレてる」


少しだけ、声に力が入る。


「……私はやりたい。全国に行きたい。皆んなで、あのステージに立ちたい。その場所に立てるなら、今のままでもいいなんて思いたくない」


視線を巡らせる。一人残らず、全員に。


「そのために、今いる人間でやるしかない。いない人を理由にして、止まるのは違うと思う」


ほんの一瞬だけ、空白。


「……だから、ちゃんとぶつかろう」


言葉を、選ばずに置く。


「思ってること、全部出そう。音でも、言葉でもいい。間違ってもいいから、逃げないで向き合おう」


静かに、でも確かに続ける。


「私も逃げない。もう、黙ってるのやめる。部長としてじゃなくて、一人の奏者として……ちゃんと、皆んなと向き合う」


最後に、小さく息を整える。


「……もう一回、やらせて。今の私たちで」


ほんのわずか、声が震える。


「ちゃんと、“音楽”を作りたい」



しばらく、誰も喋らなかった。


言葉は、もう出し切ったはずなのに——

何かが、まだ空気の中に残っている。


動けない。

でも、目は逸らせない。


その中で——


「……私たちこそ、ごめん」


静かな声が落ちた。

狩川だった。

視線は久瀬から外さない。逃げる気もなかった。


「気づいてたと思う。なんか、おかしいって」


一歩、前に出る。


「でも……何も言わなかった」


ほんの少し、言葉が詰まる。


「部長がどう思ってるかとか、ちゃんと考えたことなかった」


小さく息を吐く。


「任せてた、っていうか……押しつけてたのかも」


そのまま、ゆっくりと頭を下げる。


「ごめん」


誰もすぐには動かなかった。

でも——


「……俺も」


ぽつりと、別の声が重なる。


「正直、めんどくさいって思ってた」

「自分のことだけで、いっぱいいっぱいで……」

「周り、全然見えてなかった」


一人、また一人と、言葉が零れていく。


言い訳じゃない。

ただ、置いていくような言葉。


「ごめん」


誰かが、そう言った。


それに続くように——

小さく、頭が下がっていく。


揃っているわけじゃない。

でも、確かに広がっていく。


久瀬は、それを見ていた。

少しだけ、目を見開く。

それから——ふっと、息を抜いた。


「……そっか」


小さく、零れる。


「やっぱり、みんなも同じだったんだね。言えなかったんだよね」


責める声じゃなかった。

どこか、少しだけ安心したような響き。


「怖かったんだよね。言うのも、ぶつかるのも」


視線を巡らせる。


誰も否定しない。

それが、答えだった。


久瀬は、一度だけ目を閉じる。

あの言葉が、静かに浮かぶ。


——音と言葉。

それは人に与える影響。

僕は音で、彼女は言葉。

想いの伝え方は、人それぞれだ。


ゆっくりと、目を開く。


「……でもさ」


静かに、言葉を置く。


「音だけじゃ、届かないこともあると思う」


一瞬の間。


「言葉だから、届くこともある」


部員たちの空気が、わずかに変わる。


「今の私たちって……音も、言葉も、中途半端だった」


否定じゃない。事実としての言葉。


「だから、どっちもちゃんとやろう」


少しだけ、前に出る。


「音でも、言葉でも——ちゃんと伝えよう」


視線が、自然と集まる。


「一人じゃなくて、みんなで」


その一言で、空気が揃う。


完全じゃない。

でも——確かに、同じ方向を向いた。


音はまだ揃っていない。それでも——止まってはいなかった。


少しして、音楽室の扉が開く。


「お待たせしました。おっと……」


瞬崎(しゅんざき)だった。


一瞬、室内を見渡す。


「お話の途中でしたか?」


久瀬は小さく首を振る。


「いえ、大丈夫です」


「そうですか。分かりました」


それだけ言うと、瞬崎は静かに中へ入った。


久瀬は自分の席へ戻る。


空気が、自然と切り替わる。

瞬崎が指揮台の前に立ち、一度、全員を見渡してから口を開いた。


「先に、状況だけ共有します」


声は落ち着いていた。


「響君については、当面の練習参加は難しいと判断されています。コンクールへの出場も見送りです」


部室に、わずかな沈黙が落ちる。

誰も驚かない。

すでに、どこかで分かっていたことだった。


「そして東堂君ですが——」


一瞬だけ間が空く。


「こちらはギリギリですが、回復はしています。コンクールには間に合う予定です。完全回復は、難しいですが」


静かに言い切る。


「お二人とも、特に響君については残念です。ただ、それを理由に止まるわけにはいきません。辛いのは全員同じです。だからこそ、ここを突破しましょう」


誰も言葉を挟まない。

ただ、受け止めている。


久瀬も同じだった。


(やっぱり、そうなるよね)


そう思う自分と、


(それでも、もう止まれない)


そう思う自分が、同時にいる。


瞬崎は一度息を吐く。


「では、始めましょう。チューニングから入ります」


その言葉で、空気が完全に切り替わる。


「チューニング、B♭(ベー)から」


瞬崎の声が落ちる。


一瞬の静寂のあと、楽器が動き始める音が重なっていく。金管が息を入れ、木管が音を探し、弦のように空気が揺れた。


ばらばらだった音が、少しずつ一つの方向へ寄っていく。


まだ完璧じゃない。

それでも——確かに、音が集まり始めていた。


久瀬は、その中に自分の音を重ねる。


(……ここからだ)


小さく息を吸う。

音が、始まる準備をしていた。



「残り一週間ですね」


「えぇ」


落ち着いた声だった。


「ご自信はお有りで?」


「当然」


間髪入れずに返る。


「東海でも、素晴らしき演奏をしてご覧に入れましょう」


「それは、とても楽しみですね。期待していますよ」


短い沈黙。

その空気の中で、最後の声が落ちる。


「エーストリア学園吹奏楽部、次期部長——」


一拍。


永禮沙霧(ながれさぎり)さん」

一度崩れたものを、もう一度揃えるのは簡単じゃない。むしろ、最初に合わせるよりずっと難しい。

でも、それでも続けようとする限り、音は止まらない。

間違いがなかったわけじゃない。

逃げなかったわけでもない。

それでも「もう一回やろう」と言えた瞬間から、少しずつ何かは変わっていく。

音楽は、完成してから始まるものじゃない。

揃えようとしたその時から、もう始まっている。

感想、評価、ブクマ是非お願いします。

次回もお楽しみに!!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ