68話 久瀬真奈美
音は、勝手に揃うものではない。誰かが合わせようとしなければ、どれだけ同じ楽譜を見ていても、そこに生まれるのは“別々の音”のままだ。
同じ場所に立っているのに、心だけが離れていくことがある。逆に、言葉ひとつで崩れかけていたものが繋がることもある。
必要なのは、正しさではなく——向き合うこと。そして今、彼らはようやくその一歩手前に立っていた。
まだ完全ではない。まだ不安定だ。
それでも確かに、音は動き始めている。
あの時も——同じだった。
中学の音楽室。
そこには、まだ“あの頃のままの人”がいた。
今みたいに遠い存在じゃなくて、
ちゃんと同じ場所にいたはずの人。
音は、どこか噛み合っていなかった。
気づいていた。
久瀬は気づいていた。
でも——言えなかった。
(違う)
そう思った瞬間は確かにあった。
それでも、口は動かなかった。
空気を壊すのが怖かった。
自分の一言で、何かが崩れてしまう気がしていた。
その“誰か”は、何も言わなかった。
ただ、音を出していた。
その音だけが、やけに記憶に残っている。
誰も何も言わないまま、時間だけが過ぎていった。
そして——終わった。
それだけだった。
帰り道、小さく言った。
「もういいや」
その言葉に、誰も返さなかった。
ただ、聞いているだけ。
もしあの時。
止めずに一言でも言えていたら。
何かが違っていたのかもしれない。
でも、その“もし”は、ずっと消えなかった。
(……また、同じになる)
久瀬は、言葉を飲み込んだ。
喉の奥で、何かが引っかかる。
(……言えば、変わる。でも——壊れるかもしれない)
指先が、わずかに震える。
あの言葉が、頭をよぎる。
——音と言葉。
無意識に、息を吸う。
「……大丈夫」
小さな声が、ぽつりと零れる。
「落ち着いて……ゆっくり……一言ずつ……」
小さく息を吐く。
「……ふぅ」
静まり返った音楽室に、その声は思ったよりもはっきり響いていた。
「久瀬、聞こえてるよ」
狩川の一言。
一瞬の間。
「……はは」
「今の全部聞こえてたな」
小さな笑いが、ぽつぽつと広がる。
張り詰めていた空気が、ほんのわずかだけ緩む。
——それでも、壊れたままだった。
「……あ」
久瀬の肩がびくりと揺れる。
一気に顔が赤くなる。
「ご、ごめん……今の……聞こえてた?」
視線を落としながら、ぎこちなく笑う。
「まぁ、そういうとこだよな」
誰かが小さく呟く。
完全に明るくなったわけじゃない。
それでも——さっきまでより、少しだけ息がしやすかった。
久瀬は、一度だけ大きく息を吸う。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
その目は、さっきまでとは違っていた。
迷いは——まだある。
それでも、言葉を引っ込めることは選ばなかった。
「……皆んな」
静かに、口を開く。
「……今のままだと、正直に言って、私たちは東海で戦えないと思う。音は出てるし、形も間違ってない。でも——音楽じゃない。ただ、吹いてるだけだと思う」
誰も動かない。否定の言葉なのに、否定する余裕すらない。
久瀬は一度だけ視線を落とす。指先に、わずかに力が入る。
「ごめん。部長なのに、止められなかった。気づいてたのに、言えなかった。どう言えばいいのか分からなくて、それで……」
喉の奥で、言葉が詰まる。それでも、無理やり押し出す。
「何か言って、空気壊すのが怖かった。間違ってたらどうしようって、ずっと思ってた。だから……正しいことだけ言おうとしてた」
小さく息を吐く。
「でも、それって結局、何も言ってないのと同じだった」
静まり返った音楽室に、その言葉だけが落ちる。
「本当は、もっと早く言わなきゃいけなかった。変だって思った時に、ちゃんと止めなきゃいけなかった。でもできなかった。部長なのに、何もできなかった」
一人ひとりを見る。逃げずに、順番に。
「……私、自分が思ってたより、ずっと弱かった」
少しだけ、声が揺れる。
「まとめるとか、引っ張るとか、そんなこと言ってたのに……実際は、誰よりも周りの顔色ばっかり見てた」
誰も笑わない。誰も逸らさない。
「でも——」
久瀬は、ゆっくりと顔を上げる。
「それでも、このまま終わるのは嫌だ」
その声だけが、はっきりしていた。
「音ってさ、ただ出せばいいわけじゃない。誰かと重なって、初めて意味が出る。想いが乗って、初めて“音楽”になる」
少しだけ間が空く。
「でも今の私たちって……ぶつかるのが怖くて、避けてるだけじゃない?間違えたくなくて、正解だけ探してる。それで……何も伝わってない」
視線が揺れる。でも、言葉は止めない。
「言葉も同じだと思う。言わなきゃいけないこと、いっぱいあったのに……全部、飲み込んできた。傷つけるのが怖くて」
小さく、拳を握る。
「でも、言わなかった結果がこれだと思う」
誰も否定しない。その沈黙が、何よりの答えだった。
「響君と、東堂君のことも……私、何もできなかった。見てただけだった。関係ないって、どこかで思ってたのかもしれない」
一瞬だけ、言葉が止まる。それでも——続ける。
「でも違う。同じバンドなんだよ、私たち。一人の音が崩れたら、全部崩れる。なのに、誰も踏み込まなかった」
息を吸う。
「それが今の音に出てる。バラバラなんだよ、私たち。形だけ揃えて、中身は全部ズレてる」
少しだけ、声に力が入る。
「……私はやりたい。全国に行きたい。皆んなで、あのステージに立ちたい。その場所に立てるなら、今のままでもいいなんて思いたくない」
視線を巡らせる。一人残らず、全員に。
「そのために、今いる人間でやるしかない。いない人を理由にして、止まるのは違うと思う」
ほんの一瞬だけ、空白。
「……だから、ちゃんとぶつかろう」
言葉を、選ばずに置く。
「思ってること、全部出そう。音でも、言葉でもいい。間違ってもいいから、逃げないで向き合おう」
静かに、でも確かに続ける。
「私も逃げない。もう、黙ってるのやめる。部長としてじゃなくて、一人の奏者として……ちゃんと、皆んなと向き合う」
最後に、小さく息を整える。
「……もう一回、やらせて。今の私たちで」
ほんのわずか、声が震える。
「ちゃんと、“音楽”を作りたい」
しばらく、誰も喋らなかった。
言葉は、もう出し切ったはずなのに——
何かが、まだ空気の中に残っている。
動けない。
でも、目は逸らせない。
その中で——
「……私たちこそ、ごめん」
静かな声が落ちた。
狩川だった。
視線は久瀬から外さない。逃げる気もなかった。
「気づいてたと思う。なんか、おかしいって」
一歩、前に出る。
「でも……何も言わなかった」
ほんの少し、言葉が詰まる。
「部長がどう思ってるかとか、ちゃんと考えたことなかった」
小さく息を吐く。
「任せてた、っていうか……押しつけてたのかも」
そのまま、ゆっくりと頭を下げる。
「ごめん」
誰もすぐには動かなかった。
でも——
「……俺も」
ぽつりと、別の声が重なる。
「正直、めんどくさいって思ってた」
「自分のことだけで、いっぱいいっぱいで……」
「周り、全然見えてなかった」
一人、また一人と、言葉が零れていく。
言い訳じゃない。
ただ、置いていくような言葉。
「ごめん」
誰かが、そう言った。
それに続くように——
小さく、頭が下がっていく。
揃っているわけじゃない。
でも、確かに広がっていく。
久瀬は、それを見ていた。
少しだけ、目を見開く。
それから——ふっと、息を抜いた。
「……そっか」
小さく、零れる。
「やっぱり、みんなも同じだったんだね。言えなかったんだよね」
責める声じゃなかった。
どこか、少しだけ安心したような響き。
「怖かったんだよね。言うのも、ぶつかるのも」
視線を巡らせる。
誰も否定しない。
それが、答えだった。
久瀬は、一度だけ目を閉じる。
あの言葉が、静かに浮かぶ。
——音と言葉。
それは人に与える影響。
僕は音で、彼女は言葉。
想いの伝え方は、人それぞれだ。
ゆっくりと、目を開く。
「……でもさ」
静かに、言葉を置く。
「音だけじゃ、届かないこともあると思う」
一瞬の間。
「言葉だから、届くこともある」
部員たちの空気が、わずかに変わる。
「今の私たちって……音も、言葉も、中途半端だった」
否定じゃない。事実としての言葉。
「だから、どっちもちゃんとやろう」
少しだけ、前に出る。
「音でも、言葉でも——ちゃんと伝えよう」
視線が、自然と集まる。
「一人じゃなくて、みんなで」
その一言で、空気が揃う。
完全じゃない。
でも——確かに、同じ方向を向いた。
音はまだ揃っていない。それでも——止まってはいなかった。
少しして、音楽室の扉が開く。
「お待たせしました。おっと……」
瞬崎だった。
一瞬、室内を見渡す。
「お話の途中でしたか?」
久瀬は小さく首を振る。
「いえ、大丈夫です」
「そうですか。分かりました」
それだけ言うと、瞬崎は静かに中へ入った。
久瀬は自分の席へ戻る。
空気が、自然と切り替わる。
瞬崎が指揮台の前に立ち、一度、全員を見渡してから口を開いた。
「先に、状況だけ共有します」
声は落ち着いていた。
「響君については、当面の練習参加は難しいと判断されています。コンクールへの出場も見送りです」
部室に、わずかな沈黙が落ちる。
誰も驚かない。
すでに、どこかで分かっていたことだった。
「そして東堂君ですが——」
一瞬だけ間が空く。
「こちらはギリギリですが、回復はしています。コンクールには間に合う予定です。完全回復は、難しいですが」
静かに言い切る。
「お二人とも、特に響君については残念です。ただ、それを理由に止まるわけにはいきません。辛いのは全員同じです。だからこそ、ここを突破しましょう」
誰も言葉を挟まない。
ただ、受け止めている。
久瀬も同じだった。
(やっぱり、そうなるよね)
そう思う自分と、
(それでも、もう止まれない)
そう思う自分が、同時にいる。
瞬崎は一度息を吐く。
「では、始めましょう。チューニングから入ります」
その言葉で、空気が完全に切り替わる。
「チューニング、B♭から」
瞬崎の声が落ちる。
一瞬の静寂のあと、楽器が動き始める音が重なっていく。金管が息を入れ、木管が音を探し、弦のように空気が揺れた。
ばらばらだった音が、少しずつ一つの方向へ寄っていく。
まだ完璧じゃない。
それでも——確かに、音が集まり始めていた。
久瀬は、その中に自分の音を重ねる。
(……ここからだ)
小さく息を吸う。
音が、始まる準備をしていた。
「残り一週間ですね」
「えぇ」
落ち着いた声だった。
「ご自信はお有りで?」
「当然」
間髪入れずに返る。
「東海でも、素晴らしき演奏をしてご覧に入れましょう」
「それは、とても楽しみですね。期待していますよ」
短い沈黙。
その空気の中で、最後の声が落ちる。
「エーストリア学園吹奏楽部、次期部長——」
一拍。
「永禮沙霧さん」
一度崩れたものを、もう一度揃えるのは簡単じゃない。むしろ、最初に合わせるよりずっと難しい。
でも、それでも続けようとする限り、音は止まらない。
間違いがなかったわけじゃない。
逃げなかったわけでもない。
それでも「もう一回やろう」と言えた瞬間から、少しずつ何かは変わっていく。
音楽は、完成してから始まるものじゃない。
揃えようとしたその時から、もう始まっている。
感想、評価、ブクマ是非お願いします。
次回もお楽しみに!!




