72話 信濃の魔王
同じ時間を過ごしていても、見えている景色は変わる。
まだ客席にすら入っていない段階から、音はすでにそこにあって、空気を変えていく。
中でも、ただ上手いというだけでは済まされない演奏は、聴く側の感覚そのものをねじ伏せるように場を支配することがある。静かに、しかし逃げ場のない圧で。
その一つひとつを受け取りながら、次の瞬間へと進んでいくんだろう。
会場に入った東縁高校吹奏楽部は、指示された場所へ楽器ケースや荷物をまとめていた。広々としたホワイエには、各校の部員たちが行き交っている。
その頭上。
高い天井に設置されたスピーカーから、ホール内の演奏が流れていた。
既にプログラムは始まっている。
誰かがケースを置く手を止める。
「……うまくない?」
小さな声だった。
しかし、その言葉に何人かが反応する。
「いや、うまいな」
「普通に県代表だしな」
「それにしてもレベル高くない?」
金管の響きがホワイエまで届いてくる。
壁越し。
スピーカー越し。
それなのに音の輪郭がはっきりしていた。
「木管めっちゃ綺麗じゃね?」
「ピッコロ聞こえた?」
「聞こえた」
「なんで聞こえるんだよ……」
思わず苦笑が漏れる。
来島も腕を組みながら天井を見上げた。
「東海ってやっぱ違うな」
「今さら?」
陽翔が呆れたように返す。
「いや、だってさ。まだホールにも入ってないんだぞ?」
その言葉に、一瞬だけ周囲が黙る。
確かにそうだった。
今聞こえているのは、客席で聴いているわけでもない。
スピーカー越し。
うまい。
それだけは、誰にでも分かった。
「県大会とは空気違うな……」
誰かが呟いた。
その時だった。
曲が終わる。
少し遅れて、スピーカーから大きな拍手が響いた。
ホール中を包み込むような拍手。
その音に、東縁の部員たちは自然と顔を見合わせた。
東海大会。
ついにここまで来たのだと、改めて実感させられるように。
自分たちの出番までは、まだ時間があった。荷物の整理も一段落し、ホワイエの空気も少し落ち着き始めている。
そんな中、不意に奏多が立ち上がった。
「そろそろ豊川高校の演奏だよ」
その言葉に、近くにいた柊木が顔を上げる。
「マジ?」
「うん。次の次だったはず」
奏多は腕時計を確認しながら頷いた。
「聴きに行こ」
それだけ言うと、さっさと歩き始める。
「うん」
「行こうぜ」
柊木たち一年生も慌てて後を追った。
その様子を見ていた久瀬が小さく笑う。
「私たちも行こうか」
「そうだな」
「どうせなら聴いておきたいし」
二、三年生たちも次々と立ち上がり始める。
東海三神。
その一角である豊川高校の演奏を、誰もが聴いてみたかった。
その時だった。
『ただいまの演奏は、プログラム五番、岐阜県立朱鷺沢高等学校でした』
場内アナウンスが響く。
同時に、ホールへ続く扉がゆっくりと開いた。
それまで閉ざされていた空間から、人の流れが生まれる。
演奏を聴き終えて出てくる者。
次の演奏を聴くために入っていく者。
拍手の余韻とざわめきが混ざり合い、ホール前の空気がわずかに揺れた。
東縁の部員たちも、その流れに加わる。
目指す先は、客席。
次にステージへ上がる学校の演奏を聴くために。
次々と部員たちがホールへ向かう。
だが。
荷物の並ぶ場所に、二つの影だけが残っていた。
茅野と若田。
茅野は壁にもたれながら譜面へ視線を落としている。
ふと、そのまま口を開いた。
「聴きに行かなくて良かったんですか?」
若田は顔を上げない。
楽譜を膝の上に広げたまま答える。
「他校の演奏を聴くのもいいけど、自分のことにも集中したいし」
茅野は小さく頷く。
「まぁ、いいんじゃないですか。そういうのも」
それだけ言うと、茅野は譜面を閉じた。
「少し歩いてきます」
そして荷物置き場を離れ、メインホワイエの一階へ向かう。
残されたのは若田一人。
静かな空間の中。
若田は自由曲の楽譜へ視線を落とした。
ページの端。
手書きの文字が目に入る。
頑張りましょう!!
皆の、響君の分も。
桜咲
若田は動かない。
楽譜を見つめたまま。
ただ静かに立ち尽くしていた。
ホールに拍手が響いた。
演奏を終えた団体が一礼し、静かにステージを後にする。
客席にはまだ余韻が残っていた。
「うまかったな……」
「金管めちゃくちゃ鳴ってたな」
「フルートも綺麗だった」
周囲の部員たちが小声で感想を交わしている。
東縁の部員たちも、それぞれ思うところがあった。
東海大会。
やはり県大会とは違う。
そんなことを改めて実感していた時だった。
客席のざわめきが、わずかに変わる。
下手から次の団体が姿を現した。
制服を見た瞬間、誰かが息を呑む。
「……豊川だ」
小さな呟き。
だが、その言葉は周囲にも伝わった。
長野県豊川高等学校。
東海三神の一角。
信濃の魔王。
部員たちは整然とした足取りでステージへ向かう。
急ぐわけでもない。
誇示するわけでもない。
それなのに。
一人ひとりが放つ空気だけで、客席の視線を引き寄せていた。
誰も騒がない。
誰も笑わない。無駄な動きが一つもない。
まるで演奏は既に始まっているかのようだった。
やがて全員が着席する。
最後に、一人の男が指揮台へ向かった。
客席の空気がさらに引き締まる。
しばらくして準備が整う。
そして場内アナウンスが響いた。
「プログラム七番、長野県豊川高等学校。課題曲Ⅱに続きまして、自由曲。樽屋雅徳作曲——マードックからの最後の手紙。指揮は、荒鳥月世です」
荒鳥は客席へ向かって静かに一礼した。
それだけで、ホールに拍手が広がる。
決して大きな動作ではない。
だが、その姿には不思議な存在感があった。
やがて拍手が収まる。
荒鳥は流れるように向きを変えた。
奏者たちの方へ。
無駄のない動作でタクトを構える。
誰も動かない。
誰も音を立てない。
静寂。
そして——
タクトが振り下ろされた。
次の瞬間。
豊川高校の音がホールを満たした。
課題曲Ⅱ 祝典行進曲「ライジング・サン」。
冒頭のファンファーレがホールへ放たれる。
力強い。
ただそれだけではない。
響きに濁りがない。
金管群が放つ輝かしい音色は真っ直ぐ客席へ届き、その下を支える低音群が確かな土台を築いていた。
音が重なる。
音が進む。
一つひとつの音符に迷いがない。
マーチ特有の前進する力。
それが最初の数小節から客席全体へ伝わってくる。
木管が旋律を受け渡す。
金管がそれを支える。
打楽器は決して前に出過ぎない。
だが存在感は消えない。
全てが正確だった。
正確すぎるほどに。
リズム。
音程。
バランス。
アーティキュレーション。
そのどれもが高い水準で揃っている。
しかし機械的ではない。
音楽として生きている。
行進曲として歩き続けている。
フレーズが広がる。
旋律が歌う。
対旋律が絡み合う。
それぞれの声部が独立しながら、一つの音楽を形作っていた。
中間部。
響きは柔らかくなる。
木管の繊細な音色。
そこへ重なるホルン。
穏やかな流れの中にも緊張感は消えない。
音楽は止まらない。
常に前へ。
常に先へ。
やがて再現部。
主題が戻る。
響きはさらに大きく。
さらに鮮やかに。
金管群が輝く。
トランペットが天井へ向かって響きを放つ。
トロンボーンが厚みを加える。
チューバが支える。
打楽器が全体を引き締める。
豊川高校の音楽は最後まで乱れない。
焦りもない。
力みもない。
ただ堂々と。
圧倒的な完成度のまま進んでいく。
曲は終盤へ到達する。
響きが積み重なる。
エネルギーが集まる。
祝典の名に相応しい壮大なサウンドがホールを満たした。
そして最後の和音。
強く。
美しく。
揺るぎなく。
力強く鳴り響いた音は、長い余韻を残しながら静かに消えていった。
演奏の余韻が、まだ空間に漂っていた。
やがて。
荒鳥は静かにスコアをめくる。
紙の擦れる小さな音だけが響いた。
次は自由曲。
荒鳥は再びタクトを構える。
指揮台の上に立つ姿は変わらない。
だが。
ホールの空気だけが、わずかに変わっていた。
一拍。
そして――。
タクトが上がった。
マードックからの最後の手紙。
静かな音がホールへ広がる。
先ほどまでの祝典行進曲とは全く違う。
柔らかな木管の響き。
その音は穏やかだった。
どこまでも。
果てしなく続く海原のように。
フルートが旋律を歌う。
クラリネットが重なる。
ホルンがその下を支える。
音楽は静かに進んでいく。
波は穏やかだった。
空は晴れている。
船は進む。
広大な海を。
希望を乗せて。
夢を乗せて。
豊川のサウンドは透明だった。
決して大きくない。
だが小さくもない。
必要な音だけが、必要な場所へ届いていく。
旋律が受け渡される。
木管から金管へ。
金管から再び木管へ。
その流れは自然だった。
まるで海風が吹き抜けるように。
音楽はさらに広がっていく。
穏やかに。
雄大に。
どこまでも続く水平線を描くように。
やがて。
中、低音が動き始める。
チューバ。
ユーフォニアム。
トロンボーン。
それまで海の下に隠れていた何かが、ゆっくりと姿を現すようだった。
空気が変わる。
木管の音色にもわずかな緊張が混じる。
打楽器が刻むリズム。
その一音一音が静かに不安を積み重ねていく。
音楽は止まらない。
進み続ける。
だが。
どこかおかしい。
何かが近づいている。
そんな予感だけが残る。
豊川の演奏は一切揺らがない。
テンポも。
響きも。
乱れない。
だからこそ、その不安が際立っていた。
旋律の奥。
和音の隙間。
見えない影が広がっていく。
やがて金管が鳴る。
強く。
重く。
空気を押し潰すように。
ホールの温度が変わったように感じられる。
打楽器が加わる。
低音が唸る。
音楽は勢いを増していく。
避けられない運命へ向かうように。
前へ。
前へ。
ただ前へ。
そして——。
突如として放たれる強烈な響き。
金管群が咆哮する。
打楽器が炸裂する。
ホール全体が震えた。
衝突。
巨大な氷山。
砕ける船体。
悲鳴。
混乱。
豊川高校は言葉を使わない。
それでも伝わる。
音だけで伝わる。
荒れ狂う波。
崩れる日常。
迫り来る絶望。
全てが音になっていた。
トランペットが鋭く突き抜ける。
トロンボーンが吠える。
ホルンが重なる。
低音群が大地のような圧力を生む。
音楽は激しさを増していく。
だが崩れない。
どれだけ複雑になっても。
どれだけ音数が増えても。
豊川のアンサンブルは乱れない。
一つの巨大な生き物のように動き続ける。
やがて。
混乱の中から一つの旋律が浮かび上がる。
細く。
儚く。
消えてしまいそうな音。
それは叫びだった。
助けを求める声。
届くかも分からない願い。
遠く離れた誰かへの想い。
木管が歌う。
静かに。
苦しむように。
金管が応える。
音楽は再び表情を変える。
激しさの中に悲しみが混ざる。
絶望の中に祈りが混ざる。
音が重なる。
想いが重なる。
ホール全体を包み込むように。
やがて旋律は広がっていく。
激しさは消えていた。
残るのは静かな海。
冷たい夜。
そして。
最後に残された言葉。
豊川の演奏は語りかけるようだった。
大きな音ではない。
派手な技巧でもない。
一音一音を丁寧に紡いでいく。
まるで手紙を書くように。
大切な誰かへ。
二度と会えない誰かへ。
想いを残すように。
旋律が続く。
木管が歌う。
金管が支える。
低音が包み込む。
その全てが一つになっていた。
ホールの空気が静かに満たされていく。
誰も動かない。
誰も音を立てない。
音楽だけが流れている。
最後の場面。
全ての声部が重なる。
大きく。
しかし決して荒々しくなく。
祈りのように。
鎮魂歌のように。
響きは天井へ昇っていく。
そして。
最後の和音。
長く。
静かに。
どこまでも優しく。
音が消えていく。
余韻だけが残る。
まるで海の彼方へ溶けていくように。
最後の手紙だけが、確かにホールへ残されていた。
ホールの空気は、しばらく動かなかった。
音が消えているのに、何かがまだ残っていた。
余韻という言葉では足りない。
静寂は沈黙ではなく、満ちていた。
やがて、客席のどこかで小さな拍手が生まれる。
一つ。
また一つ。
それは波のように広がっていき、ようやくホール全体を包み込んだ。
だが、その拍手もどこか遅れていた。
音楽に追いついていないまま、必死に形を保っているようだった。
東縁の部員たちは、誰もすぐには動けなかった。
言葉が出ないというより、言葉にする前に何かが整理できていなかった。
そのまま、場内アナウンスが響く。
「ただいまの演奏は——」
現実が、静かに次へ進み始めている。
同じ曲でも、同じ演奏はひとつとして存在しない。積み重ね方も、届け方も、そしてそこに込められるものも、それぞれ違う。
ステージの上で鳴っていたものは、ただの音ではなく、その学校そのものだった。
次に進むたび、その違いはさらに鮮明になっていく。
感想、評価、ブクマ是非お願いします。
次回もお楽しみに!!




