64話 変わらない君
朝の空気は、昨日と何も変わらないはずだった。校舎に差し込む光も、廊下に響く足音も、いつも通りのはずなのに——
東海大会に向けたメンバー。
舞台に立つ者と、立たない者。
その線引きは、もう覆らない。
「えぇ?」
一人の声が、全員の視線を集めた。
奏多だった。首を傾げながら、壁際に落ちているものを拾い上げる。
「何これ?なんで僕の譜面台こんな壊れてるの?」
足元には、小さなパーツが散らばっていた。金属の歪んだフレーム、砕けた接合部。
原形をとどめていない。
まるで、何かに叩きつけられたみたいに。
誰も、何も言わない。
ただ、どこか空気が重くなる。
「……ま、いいや。譜面台のスペアはいくらでもあるし」
あっさりと、奏多は笑った。
いつも通りの、軽い声。
「譜面台のスペアってなんだよ」
来島が、半分呆れたように突っ込む。
「そのままの意味だよ。いつもバッグに2本は入れてるもんね」
そう言って、何事もなかったかのように新しい譜面台を取り出す。
カチ、カチ、と組み立てる音だけが、やけに響いた。
それ以上は、誰も深く触れようとはしなかった。
「全員揃いましたね」
瞬崎は短く言って、譜面台の前に立つ。
一拍の沈黙。
そして、何事もないように口を開いた。
「皆さん、おはようございます」
「おはようございます!」
「今日は、今後の部活についての話があります。まず、部費の徴収について」
そうして持っている紙を配っていく。全員に行き渡ったことを確認すると、再び口を開いた。
「今まで通り、二ヶ月分として一人一万円徴収します。続いて今後の予定について。先程配った紙の裏を見てください」
わずかに資料をめくる音。裏には8月後半以降の予定表がびっしりの載せてあった。
東海大会
文字羅列の中にポツンとあったその単語で、少しだけ空気が動いた。
「今月28日が、東海大会の本番です。皆さんの目標を達成するために、何をしなければいけないのか...皆さんなら分かりますね?残りわずかです。くれぐれも時間だけは無駄にしないように」
「はい!!」
全員の声が重なった。
「そして、もう一つ。東海大会後、9月末には文化祭もあります。吹奏楽は、毎年コンサートとして出演してるんですよね」
「はい、そうです」
久瀬が反応した。
瞬崎はそれを確認し、続ける。
「こちらも、人様の前で演奏出来る数少ない場です。大会後だからだと怠けず、こちらもしっかりと準備してください」
部員達が返事をする前に瞬崎がさらに付け足した。
「ちなみに、全国に行けなかったら文化祭コンサートには出ないということですので」
「えぇぇ!?」
部員はそれぞれ悲鳴のような声を上げた。
「当然です。私は、皆さんに一つ一つの演奏機会を大切にしてもらいたいのです。しかし生半可な覚悟で舞台に立つ必要はありません。このことは校長先生と話して決めました」
「まじかよ」
「先生相変わらずだなぁ」
「生半可な気持ちて...」
「なんちゅーこと言ってんだ」
様々な声が飛び交う。
東海大会。
文化祭
——そして全国
形は違えど、すべては“音を届ける場所”だった。
そこからは、ひたすら合奏だった。
通して、止められて、戻されて——また最初から。同じ箇所を、何度も、何度も繰り返す。
「そこ、音程が下がっています。もう一度」
「はい!」
瞬崎の声が、容赦なく飛ぶ。
演奏が止まる。
「トランペット、今の誰ですか」
一瞬の沈黙。
誰も答えない。
「……分からないなら、全員やり直しです。最初から」
「はい!」
「返事の余裕があるなら、答えてみてはどうですか?分かりませんだけでも言ってください」
息をつく間もなく、再びカウントが入る。
音が重なり、また崩れる。
「違います。今のは雑です」
「フレーズの終わり、処理が甘いです」
「合わせる気はあるんですか?」
何度も何度も指摘される。淡々とした口調なのに、その一つ一つが確実に突き刺さる。
横から、董白の声も重なった。
「クラリネット、息が足りてない。音、死んでるよ」
逃げ場はなかった。
通して、止められて、戻されて——また最初から。何回目なのか、もう分からない。
誰かの音がかすれる。別の誰かが、わずかに入りを外す。
ほんの少しのズレが、すぐに止められる理由になる。
気がつけば、息は浅くなり、腕は重くなっていた。それでも、演奏は止まらない。
——その中で。
一つだけ、変わらないものがあった。
奏多だった。
息も、音も、表情も。
最初から何一つ変わっていない。
周りが少しずつ崩れていく中で、ただ一人、同じまま吹き続けている。
まるで、この空気ごと関係ないみたいに。
演奏が続く中で。
「——ストップ」
瞬崎の声で、音が止まる。
「……ユーフォ、いや、月本君」
名指しされた瞬間、わずかに空気が揺れた。
「今のパッセージ、指が回っていませんね」
視線が集まる。響は一瞬だけ間を置いてから、いつものように答えた。
「すみません」
それ以上は、何も言わない。
瞬崎は少しだけ目を細めた。
「……その手の怪我。どうしましたか?」
瞬崎の瞳には、赤く染みた包帯が無造作に巻かれているのが写った。
一拍。
ほんのわずかな沈黙。
「昨日、帰りにちょっと転んでしまって」
あっさりとした声だった。
嘘とも、本当ともつかない言い方。
「そうですか」
瞬崎はそれ以上は追及しなかった。ただ、視線だけが一瞬、手元に落ちる。わずかに動きの鈍い指。
「大会前です。怪我には十分注意してください。演奏に影響しますからね」
「はい」
短く返す。
再び、カウントが入る。
音が重なり、流れていく。
——その中で。
誰も知らないまま、ただ一つだけ事実が残っていた。
その傷は、転んで出来たものではない。
合奏が終わった瞬間、空気が一気に緩んだ。
「はぁ……」
「きつ……」
「何回やんだよ、あれ……」
「四時間も休みなしで吹き続けたもんね」
あちこちから、疲れ切った声が漏れる。その中で、奏多の周りには自然と人が集まっていた。
来島や永井、柊木、それに何人かの先輩たち。
「お前ほんとバケモンだろ」
「なんでそんな平気なんだよ」
「僕らも見習わないとね」
「教えてほしいわぁ」
呆れ半分、感心半分の声。
奏多はいつも通り、軽く笑った。
「だって大好きだもん。音楽も、ファゴットも」
いつもの答え。それ以上でも、それ以下でもない言葉。
笑いが起きる。
——そのはずだった。
ふと、視線が外れた。
部屋の出口。
そこに、響の姿があった。包帯で巻かれた手を、わずかに押さえている。そのまま、振り返ることもなく音楽室を出ていく。
一瞬だけ、間が空いた。
(あれ)
いつもなら、あのまま残る。誰よりも長く、自主練をしていくはずの彼が。今日に限って、何もせず帰る。
——違う。
合奏のときから、どこかおかしかった。
指の動き。
ほんのわずかなズレ。
さっきの、怪我の話。
全部が、繋がる。
「……ごめん、今日は用事あったわ」
ふと、奏多はそう言った。
「は?今さら?」
「嘘つけよ」
笑い混じりの声が飛ぶ。それでも奏多は、いつもの調子のまま肩をすくめた。
「ほんとほんと。また明日ね」
それ以上は聞かせない。さっさと譜面台を畳み、荷物をまとめる。
「おい、ちょっ——」
呼び止める声を背に、そのまま音楽室を出た。
視線の先には、まだ消えていない背中。
——少しだけ、歩幅を速めた。
「響君ー!」
後ろから声をかける。
振り返った響が、わずかに目を見開いた。
「……奏多君?」
少しだけ驚いたような声。
「どうしたの?奏多君。いつも自主練してくのに」
「それは、響君もでしょ?」
間を置かずに返す。
響の動きが、ほんの少しだけ止まった。
奏多はそのまま一歩近づいて、怪我をしていない方の手を、軽く掴んだ。
「今日、一緒に帰ろ?」
いつもの調子。
軽い声。
けれど、離す気はなかった。
響は一瞬だけ視線を逸らす。
「……いや、今日は一人がい——」
言い切る前に、
「ダメ」
間髪入れずに、遮った。
いつもと変わらない笑顔のまま。けれど、その手の力がほんの少しだけ強くなる。
「これ以上“いいえ”って言うなら——」
一拍。
「このまま離さないよ?」
冗談みたいな言い方だった。本気なのか、そうじゃないのか分からない。
ただ一つだけ確かなのは、
逃がすつもりがない、ということだった。
響は小さく息を吐いた。
「……分かった」
観念したように呟く。
「いいよ。一緒に帰ろう」
その言葉を聞いて、ようやく、奏多は手を離した。
通学路の途中、小さな公園の前で、奏多がふと足を止めた。
「疲れたー。ちょっとあそこの公園で休まない?」
軽い調子で振り返る。
「……別にいいけど」
短く返すと、奏多はそのまま歩き出した。
響も、何も言わずに後をついていく。
夕方の公園は、人もまばらだった。ブランコが風に揺れて、かすかに軋む音がする。
近くの自販機で、それぞれ適当に飲み物を買う。そして、適当にベンチに腰を下ろすと、奏多は大きく伸びをした。
「はー……さすがに今日は疲れたかも」
そう言いながらも、表情はいつも通りだった。
「そんな疲れてるようには見えなかったけどね」
響は前を向いたまま答える。
そのまま、しばらく景色を眺める。そして奏多は、独り言のように呟いた。
「ここ最近さ、なんか色々起きるよね。なんか瞬崎先生は……まぁ元々ちゃんとした先生なんだろうけど、前よりアドバイスが的確になったし」
少しだけ間を置く。
「天奏先輩も、県大会以降すごい良くなったし」
響は何も言わない。
ただの独り言だと思って、聞き流していた。
——その時だった。
手に、鋭い痛みが走る。
「……っ」
思わず、包帯の巻かれた手を押さえた。
ほんの一瞬のことだった。
けれど。
その動きを、奏多は見逃さなかった。
視線が、ゆっくりと落ちる。
手元へ。
そして、もう一度、顔へ。
少しの沈黙。
「……あ」
小さく、何かに気付いたように呟く。
そのまま、ふっと笑った。
「そっか......」
いつもと同じ、柔らかい笑顔のまま。
「やっぱり、響君なんだね?」
ほんの些細な違和感だった。
見過ごしてもよかったはずのもの。けれど、一度気付いてしまえば——もう見ないふりはできない。
その先にあるものが、何であっても。
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次回もお楽しみに!!




