63話 心の譜面
※少し遅れました。申し訳ありません。
夕暮れの音は、いつも少しだけ寂しい。教室に残る影も、廊下に伸びる光も、どこか曖昧で、確かなものじゃない。
それでも人は、そこで立ち止まる。言葉にできないまま、ただ時間だけが過ぎていく場所で。
今日という日もまた、そんな時間の中にある。何も終わっていないのに、確かに何かが変わってしまった日。
その先に進むかどうかは、まだ誰にも分からない。
放課後の音楽室には、まだ結果発表の余韻が残っていた。
名前を呼ばれた者も、呼ばれなかった者も——誰も、いつも通りには戻れていない。
楽器庫の前で、振原は一人、バスクラをケースにしまっていた。金具の閉まる音が、小さく響く。
少し離れた場所で、陽翔は立ち止まる。声をかけようとして、言葉が出ない。
振原は、そんな陽翔の気配に気づいたのか、顔を上げた。
「……どうしたの?そんな顔して」
軽く笑う。いつものような口調。けれど、その笑みはどこか硬かった。
「先輩……その……」
陽翔の喉が詰まる。
何を言えばいいのか、分からなかった。
振原は視線を戻し、淡々とケースを閉じる。
「気にしなくても大丈夫」
短く言って、肩をすくめた。
「選ばれたのは、君でしょ……私は、違った。それだけ」
その言葉に、陽翔は何も返せない。
胸の奥が、重く沈む。
わずかな沈黙。
振原はケースの持ち手を握りながら、ぽつりと続けた。
「……陽翔君の努力は無駄じゃなかったってことだよ」
一拍
「君の方が、上だった」
冗談めかした言い方だった。けれど、その声の奥にあるものを、陽翔は聞き取ってしまう。
「そんなこと……」
否定しかけて、止まる。
その先を、言葉にできなかった。
振原は陽翔の前まで来ると、軽く肩を叩いた。
「東海、頑張ってね。私もできる限りのサポートはするから」
今度の笑顔は、先輩としての笑顔だった。
それだけ言うと、振原は振り返らずに歩き出す。バスクラのケースを抱えた背中が、少しずつ遠ざかっていく。
陽翔は、その背中を見送ることしかできなかった。
呼び止める言葉は——最後まで、出てこなかった。
理科棟一階、古びた教室の中。
若田は、譜面台の上の楽譜を見つめていた。
—— Solo
そう書かれたその一行が、やけに重く感じる。
「……」
指先が、ゆっくりと楽器に触れる。いつもと同じはずの動作。けれど、どこか感覚が違った。
マウスピースに息を入れる。
——音が鳴る。
正しい音。
音程も、響きも、問題はない。
それでも——
若田は、途中で息を止めた。
音が、途切れる。
「……なんで、僕なんだよ」
小さく漏れた声は、誰にも届かない。
視線が、譜面から外れる。
頭の中に、ひとつの音が蘇る。
——あのときの音。
正確で、揺るがなくて、どこまでも届いていくような音。
「……もっと、いるじゃないか」
自分よりも、上手い人間が。
分かっているはずだった。
聞いてしまったからこそ、分かってしまっている。
「……響君」
名前が、自然と零れる。
あの無表情。
何を考えているのか、まるで分からない目。その奥にあるものを、想像しようとして——
止まる。
「……」
ほんのわずかな違和感。
あれだけの音を持っていながら、
どうして——
「……まさか」
すぐに首を振る。
「いや、そんなはずはない」
そう言い聞かせるように呟く。
それでも、違和感だけは消えなかった。
答えは出ていない。
けれど、引っかかるものだけが、残る。
譜面に視線を戻す。そこに並ぶ音符が、さっきよりも遠く感じた。
若田は、もう一度楽器を構える。
息を入れる。
——音が鳴る。
その音は、どこか空を切るように——何も残さず、静かに消えていった。
夕方の校舎は、どこか静かだった。
部活を終えた生徒たちが、少しずつ帰っていく。
その流れの中で——
来島は、一人で歩いていた。足取りは重い。
誰とも話さず、ただ前だけを見て進む。
その背中を——
「来島君」
後ろから、声がかかった。
足が、止まる。
振り返ると、少し息を切らした永井が立っていた。
「はぁ、はぁ、すぐいなくなっちゃうんだから」
「……永井か」
短く言う。
それ以上、言葉は続かない。
永井は一歩近づく。
少しだけ間を置いて、口を開いた。
「い、一緒に帰ろ?」
来島は、ふっと視線を外す。
「……まぁ、いいよ」
永井は来島の横に並んだ。
夕暮れの公園。
人の気配はまばらで、遠くから子どもの笑い声がかすかに聞こえていた。
ベンチに、二人並んで座っている来島と永井。
それぞれ、自販機で買ったジュースを手にしていた。缶の冷たさだけが、やけに現実感を伴って指先に伝わる。
プルタブを開ける音が、ほぼ同時に重なる。だが——そのあとは、言葉が続かない。
永井は缶を持ったまま、視線を落としていた。何か言いたそうに、けれど言えないまま、時間だけが過ぎていく。
来島は、その様子に気づいていた。
「……どうしたの?そんな暗い顔して」
永井は、すぐには答えなかった。
しばらくして、小さく息を吐く。
「……怒ってる、よね……」
「は?」
思わず、短く返す。
その直後——
「本当にごめん」
永井は、勢いよく頭を下げた。ベンチの上で、深く、真っ直ぐに。
来島は、一瞬言葉を失う。
「……なんで謝るんだ?意味わかんねぇよ」
少しだけ眉をひそめる。
永井は顔を上げないまま、続けた。
「だって……」
声が小さくなる。
「僕はいっつも君にメンバー入れ入れって強要してた。いつもいつも、次こそはいけるって...」
言葉が、そこで止まる。
それ以上、続かなかった。
来島は、小さく息を吐く。
「……だから?」
短い一言だった。
永井の肩が、わずかに揺れる。
来島は続ける。
「それで今さら謝って、何か変わるのかよ」
視線は前のまま。
「別に、お前のせいじゃねえだろ」
来島は続ける。
「……瞬崎先生も言ってただろ」
缶を軽く揺らす。
「
結局、オーディションはオーディションなんだから」
自嘲気味に笑う。
「今までも、落ちたのは——俺が下手だったってだけだ」
永井は、何か言おうと口を開く。
「でも、それは——」
「いいって」
被せるように、来島が言った。
言わせないように。
永井の言葉が、途中で止まる。それでも続けようとした。
「だって——」
「だからさ」
今度は、はっきりと遮った。
少しだけ強く。
一拍。
「俺だって、このままは嫌なんだ」
その声は、さっきよりも少し強かった。
「来年……いや、この一年で、一回でもいい。絶対にメンバー入る」
言い切る。
迷いはなかった。
「だから——」
ほんの少しだけ、間を置く。
「絶対、全国行こうぜ」
来島は、何事もなかったように笑った。
放課後の廊下は、すでに夕方の色に染まり始めていた。窓から差し込む光が、長く伸びて床に影を落としている。
自主練を終え、音楽室へ向かう途中、平井は足を止めた。
「……」
胸の奥が、妙に落ち着かない。それは不安というより、むしろ——ずっと抱えてきた重さのようなものだった。
結果発表。
呼ばれた名前。
そして、自分の名前。
「……ほんとに、いいのかな」
小さく漏れた声は、廊下に溶けていく。
そのとき——
「平井」
後ろから声がした。
振り返ると、瀬戸川が立っていた。
「せ、先生……」
思わず姿勢を正す。
瀬戸川はいつも通りの淡々とした表情のまま、少しだけ目を細める。
「選ばれたな」
「……はい」
短く答えると、平井は視線を落とした。
瀬戸川は、少しだけ間を置いてから言う。
「不安か?」
その一言に、平井は一瞬言葉を失う。
「……まぁ、少しは」
正直に答える。
「周りの人もすごい人ばっかりで……自分でいいのかなって」
瀬戸川は、しばらく黙っていた。
それから、静かに言う。
「お前は、努力でここに来た」
その言葉は、強くはない。
けれど、はっきりしていた。
平井は顔を上げる。
瀬戸川は続ける。
「選ばれたのは偶然じゃない。結果だ。」
一拍。
「同じだろう?あの時と」
平井の頭の中に過去の出来事が再び蘇る。
塾で瀬戸川先生と出会い、私の未来を導いてくれた。
成績だとか、態度だとか、
みんなが私を忌み嫌う中、瀬戸川先生だけは、いつも味方をしてくれた。
嬉しかった。あれが無かったら、私はどうなっていたんだろう...
「……でも」
言いかけたところで、瀬戸川が軽く手を上げて遮る。
「“でも”は禁止だ」
少しだけ厳しい声。
その直後、ほんのわずかに口元が緩む。
「お前はもう、ここにいる側だ」
その言葉で、空気が変わる。
平井はゆっくりと息を吐いた。
「……はい」
小さく、でも確かに返事をする。
瀬戸川はそれを見て、短く頷いた。
「全力でやって来い」
それだけ言って、歩き出す。
平井はその背中を見送る。
さっきまでの不安が、完全に消えたわけじゃない。
それでも——
胸の中に、少しだけ熱が残っていた。
「……頑張ろ」
小さく呟いて、平井も歩き出す。
すでにほとんどの生徒が帰ったあとだった。窓の外では、夕日がゆっくりと傾いている。
音楽室には——響と東堂の姿が残っていた。
東堂は壁際に立ち、腕を組んでいた。
「今回も、問題ない。よくやった響」
静かな声だったが、迷いはない。
響はすぐには答えなかった。
音楽室の空気だけが、わずかに揺れる。差し込む光が、譜面台の金属に反射していた。
「……」
短い沈黙。
響は、ただ視線を前に向けたまま、小さく息を吐いた。
「それなら良かったです」
それだけだった。
東堂はその返事に対して、特に反応しない。
「これで、今回も問題ない」
その言葉は確認ではなく、“確定”だった。まるで最初から結果が決まっていたかのように。
「どの道、お前がいれば全国に行く事なんて余裕なんだからな。そうなんだろ?クソが」
東堂はそう言ってから、ふと窓の外を見た。
沈みかけの夕日。
その光の中で、音楽室の影が長く伸びていく。
そのとき、響がようやく口を開いた。
「……本当に僕はこのままで良いんですか?」
静かでも、鋭くもない。
ただ、確認でもなく、問いでもない声。
東堂は振り返る。
「何がだ?」
響は少しだけ目を細めた。
「毎回自分の実力に嘘つくなんて」
その一言だけだった。
東堂は少しだけ沈黙する。
だがすぐに、いつもの声に戻る。
「誰かに脅されようが、わざと下手に吹こうが、結果は結果だ。どうせ皆んなはそれで納得する」
その言葉に迷いはない。
揺れもない。
ただ“当然”として置かれている。
響はそれ以上、何も言わなかった。視線を落とすこともなく、ただ前を見ている。
音楽室には、時計の秒針の音だけが残る。
カチ、カチ、と規則的に刻まれる音。
「全国でも同じだ。お前はいつも通り若田にソロを譲ればいい」
それは命令でも圧でもなく、確信だった。
響は少しだけ間を置いてから——
「……はい」
とだけ返した。
その瞬間、夕日がさらに沈み、音楽室の中の光が一段暗くなる。
東堂はもう何も言わず、教室を出ていく。
扉が閉まる音。
パタン。
《ユーフォ楽しそうですね》
《先輩、一緒に練習しましょうよ》
《先輩と吹くの、楽しいです》
《もっと聞いていたいんです》
《なんでそこまで上手く吹けるんですか》
《先輩は何も悪くないですよ》
《先輩、何やってるんですか!?》
《先輩はそんな人じゃないですよ!》
《やめてください...》
《戻ってきてください...》
《先輩のユーフォ、また聞かせてくださいね...大好きです》
——何かが聞こえた。
響は一瞬、耳を塞ぐ。
けれどそれでも、音は止まらない。
「……うるさい」
誰に向けたのか分からない言葉が、喉の奥から漏れる。
次の瞬間。
響は何故か目の前にあった譜面台を思いっきり殴り飛ばす。誰の譜面台かなんて考えなかった。
思った以上に譜面台は吹き飛び、
バゴォォン!
凄まじい音と共に、譜面台は壁に激突した。譜面台のパーツが少し飛び散る。心底どうでも良かった。
響はそのまま床に崩れ落ちる。床がやけに冷たい。
手の甲から、じわじわと血が滲んでいるのが見えた。それでも、痛みは遅れているみたいに遠かった。
「……」
声は出ない。
立ち上がり方も、もう分からない。
しばらくの間——
響はそのまま動けなかった。
ただ、壊れた譜面台の残骸を見つめながら、自分が何を壊したのかだけが、遅れて理解できていった。
うまくいくことだけが、前に進む理由じゃない。止まってしまうことも、揺れてしまうことも、その人の音の一部だ。
それぞれの場所で、それぞれの“音”が少しずつ形を変えていく。
正しいかどうかではなく、どう向き合うか。
違うだろうか?
感想、評価、ブクマ是非お願いします。
次回もお楽しみに!!




