62話 以上、五十五名
朝の光が、静かに部屋を満たす。時計の針が刻む音、かすかな呼吸。小さな出来事のひとつひとつが、確かに今日という時間を形作っていく。
まだ何も始まっていないように見えるけれど、変化はすぐそこにある。
今日はオーディションの結果発表。
そして大会もすぐそこだ。
アラームが鳴る、ほんの数秒前。
響は、静かに目を開けた。
いつも通りの時間。
いつも通りの朝。
無駄のない動きで身支度を整え、リビングへ向かう。
キッチンでは、母が朝食の準備をしていた。
「……」
しばらく無言のまま、席に着く。
テレビの音だけが、部屋に流れていた。
ふと、思い出したように、響が口を開く。
「お母さん、愛美は帰ってこないの?」
その瞬間——
母の手が、止まった。
包丁を持つ指先が、わずかに固まる。
「……え?」
振り返るまでに、わずかな間があった。
「ま、まぁ……愛美も大学で忙しいからね」
少しだけ早口だった。
どこか、取り繕うような声音。
「ふーん……」
短く返す。
だが、そのまま視線を外す前に、ほんの一瞬だけ母の方を見る。
——何かが、引っかかったまま残った。
けれど、それ以上は追わない。
すぐに興味を失ったように、響は視線を落とした。
「そ、そういえば!」
間を埋めるように、母が声を上げる。
「今日はオーディションの結果発表でしょ?どう、自信ある?」
「え、まぁ……うん」
曖昧に頷く。
それ以上、言葉は続かない。
会話は、そこで途切れた。
やがて、響は立ち上がる。
鞄を手に取り、玄関へ向かう。
「いってきます」
「い、いってらっしゃい」
ほんの少しだけ、間のある返事。響は気にする様子もなく、扉を開ける。
朝の空気が、静かに流れ込んできた。
——パタン。
扉が閉まる音が、家の中に残る。
その音が消えたあと、母はゆっくりと息を吐いた。
手に持っていた包丁を、そっと置く。
「……」
背後に、気配。
振り返ると、父が立っていた。
「……本当にいいのか?」
低く、静かな声。
「言わなくて」
母は、少しだけ視線を落とす。
それから、小さく首を振った。
「……言っても」
一拍。
「きっと、同じよ」
それだけ言って、再び前を向く。
キッチンには、包丁の音だけが、やけに大きく響いていた。
ホームルームの時間。
教室には、どこか落ち着かない空気が漂っていた。
席に着いている生徒たちも、どこかそわそわしている。
視線は前を向いているが、意識は別のところにあるようだった。
そんな中——
担任の瀬戸川が、チョークを手に取る。
カツ、カツ、と黒板に文字を書き始めた。
T-FES
白い文字が、黒板に浮かび上がる。
「来月末は我が東縁高校の最大行事である東縁祭、通称T-FESが始まる」
淡々とした口調で続ける。
「うちのクラスも何か出し物をしようと思うんだが、どうする?」
——反応は、薄かった。
誰もすぐには口を開かない。
小さなざわめきが、教室の端で揺れるだけ。
その空気を、瀬戸川は一瞬だけ見渡す。
だが、何も言わずに視線を黒板へ戻した。
一方で——
響は、黒板をまっすぐ見ていた。
チョークの文字を目で追い、当たり前のようにその内容を受け取る。
周囲の空気とは、どこかずれている。
「……文化祭か」
小さく、そう呟いた。
それが、今この教室の中で——
ほんのわずかに——浮いていた。
昼休み。
教室のあちこちで、弁当の蓋が開く音が重なる。
それぞれがいくつかの固まりになり、食べていた。
響、奏多、陽翔の三人もまた、いつものように机を寄せていた。
「で、文化祭どうする?」
陽翔が箸を動かしながら、軽い調子で言う。
「出し物、決めないとだろ」
「お化け屋敷とかどう?」
奏多がすぐに返す。
「定番だけど、準備めんどそうじゃない?」
「確かに。じゃあカフェ?」
「それも多そうだな」
会話は続く。だが、どこか表面だけをなぞっているようだった。
「じゃあ、劇とか?」
「誰がやるんだよ」
「陽翔君好きそうじゃん」
「なんでだよ」
小さく笑いが起きる。
「……」
響は、特に気にする様子もなく弁当を口に運んでいた。周囲の空気に引っ張られることもなく、ただ淡々と食べている。
「響は?」
不意に、陽翔が聞く。
「なんかやりたいのある?」
「……別に」
少しだけ考えて、答える。
「何でもいい」
その言葉に、わずかな間が生まれる。
「何でもいいって……」
奏多が苦笑する。
「もうちょいなんかあるだろ」
「せっかくの文化祭なんだし」
響は、少しだけ視線を上げる。
「楽しいなら、それでいいんじゃない?」
その言葉は、間違っていない。
正しい。
——正しすぎるほどに。
「……そっか」
陽翔が小さく頷く。
それ以上は、続かなかった。
再び、沈黙が落ちる。
周囲のざわめきだけが、やけに遠く聞こえた。
「——それより」
響が、静かに口を開いた。
二人の動きが、わずかに止まる。
「今日は、結果発表でしょ?」
空気が、止まる。
ほんの一言。
それだけで——
さっきまで曖昧に濁されていたものが、はっきりと形を持った。
「……あぁ」
陽翔が、短く返す。
それ以上は、何も続かない。
言葉が、出てこない。
「……」
奏多も、何も言わない。ただ、少しだけ視線を落とした。
響は、二人の反応を特に気にする様子もなく、最後の一口を口に運ぶ。
そのまま、空になった弁当箱をバッグにしまい、何事もなかったかのように、立ち上がった。
——そのまま教室を後にする。
その背中を、二人は一瞬だけ見つめる。
何かを言うべきか。
けれど——言葉は、出ない。
扉が閉まる音が、小さく響く。
「……」
残されたのは、奏多と陽翔。ほんの数秒、どちらも何も言わなかった。
周囲のざわめきが、逆に遠く感じる。
やがて——
「……なあ」
陽翔が、小さく口を開く。
「最近さ、あいつ……変じゃない?」
奏多は、すぐには答えなかった。
箸で弁当箱の中を軽くつつく。
もう、ほとんど残っていないのに。
「……まあ」
短く、返す。
それだけ。
だが——否定はしない。
「県大会のあとくらいから、ずっとあんな感じじゃない?」
「……うん」
今度は、はっきり頷く。
少しだけ視線を落としたまま。
「最初から静かではあったけど……」
言葉が、途切れる。
何か違う。
けれど、それをうまく言葉にできない。
「……なんていうか」
陽翔が、ぽつりと漏らす。
「静かっていうより……」
一拍。
「……空っぽ、みたいな」
その言葉に——
奏多の手が、一瞬だけ止まった。
「……」
否定しない。
できない。
「……大丈夫、なのかな」
小さく、零れる。
その問いに、答えはない。
ただ——
「……わかんねえ」
陽翔が、短く言った。それ以上は、続かなかった。
二人とも、弁当を片付ける。
音だけが、妙に響く。
三人でいたはずなのに——その空間には、さっきまでとは違う、重い空気が残っていた。
放課後——音楽室。
全部員が、すでに揃っていた。
誰も席を立たない。
誰も無駄な音を立てない。
ただ、静かに——その時を待っている。
地区大会や県大会のとき以上に、空気は張り詰めていた。息をするのも、わずかに意識するほどに。
「……」
響は、何も言わず前を向いていた。そのまま——ふと、視線を横に向ける。
隣にいる若田。目を閉じ、静かに呼吸を整えている。指先が、ほんのわずかに動いていた。
緊張しているのが、分かる。
そのとき——
若田の瞼が、わずかに動いた。視線に気づいたのか、目を開けようとする。
だが——
それと同時に、響は視線を前へ戻した。まるで、何も見ていなかったかのように。
「……」
再び、静寂。
誰も口を開かない。
時計の針の音だけが、やけに大きく聞こえた。
——ガチャ。
音楽室の扉が、開く。
全員の意識が、一瞬でそちらへ向いた。
入ってきたのは——
瀬戸川と、瞬崎。
二人とも、何も言わない。そのまま、ゆっくりと前へ歩いてくる。
靴音が、床に響く。
それだけで——
空気が、さらに一段、重くなる。
瞬崎が、一歩前に出る。静かに、全員を見渡した。
「……今回の結果発表は、私が行います」
落ち着いた声。だが、その一言で——空気がさらに張り詰める。
「皆さん、今回のオーディションもよく頑張っていました」
一拍。
「ですが——」
ほんのわずかな間。
「これは、あくまで“オーディション”です。結果が、全てということを忘れずに」
「——はい!」
全員の声が、揃う。
その声だけが、やけに大きく響いた。
誰も、もう動かない。
息をする音すら、消えたようだった。
「……では」
瞬崎が、手元の紙に視線を落とす。
一秒。
二秒。
——まだ、呼ばない。
その沈黙が、時間を引き伸ばす。
「結果を発表します。名前を呼ばれたら、返事をしてください」
「まずパーカッション——」
感情を挟む余地もなく、名前が呼ばれていく。
「次にオーボエ、二年、天奏若葉」
「はい」
「以上一名。次にファゴット、二年、守田木乃香」
「はい」
「一年、如月奏多」
「はい!」
「以上二名」
呼ばれる声と、返事だけが繰り返される。
「——次にバスクラリネット、三年、鷹野拾」
「...」
「鷹野さん、返事は?」
「...はい」
「一年、西村陽翔」
「え、あ、は、はい!」
「以上二名」
陽翔は思わず振原の方を見る。下を向いており、顔はよく見えなかった。
鷹野先輩と同じ三年でバスクラ。しかし、呼ばれたのは陽翔だった。
結果発表は止まらず進む。
「——次にトランペット、三年、平井紫乃」
「はい!」
平井は瀬戸川を見る。
瀬戸川は安心したように微笑んでいた。平井もそれに反応するようにウインクする。
「——一年、柊木真尋」
「はい!」
「ホルンは以上四名。次にトロンボーン」
また、努力が報われ、新たにメンバー入りを果たす者もいる。しかし、それは周りを蹴落としてこそ得られるものなのかもしれない。
「三年、狩川瑪瑙」
「はい!」
「三年、東堂成昭」
「はい」
結果発表も終盤に差し掛かる。
「——次にユーフォニアム。三年、若田宗一郎」
「はい!」
「二年、桜咲彩花」
「は、はい!」
「一年、月本響」
「はい」
「以上三名」
今回もユーフォは三人選ばれた。そして、
「ユーフォソロは、三年、若田宗一郎」
響の隣で若田は下を向いている。何かを呟きながら...
「なんで、僕なんかが...」
「若田さん、返事は?」
瞬崎の声が重なる。若田ははっとして顔を上げた。
「はい」
「次にチューバ、三年、香久山大兎」
「はい」
「二年、茅野砂漣」
「はい」
「以上二名」
そして、実力が追いつかなかったら、いつまでもメンバー入りできないこともある。
オーディションは、極めて残酷だ。
「最後にコントラバス。三年、今伊亮」
「はい」
「一年、永井營」
「はい!」
「以上二名」
瞬崎は少し間を置いた。そして、
「以上、五十五名」
静かに告げた。
その言葉で——
すべてが、決まった。
放課後の音楽室。名前が呼ばれ、返事をするたび、空気が少しずつ動く。けれど、そこに残る沈黙もまた、強く心に響く。
結果は決まった。だが、これで全てが終わったわけではない。
むしろ、これからが本当の始まりなのかもしれない――。
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次回もお楽しみに!!




