61話 君を知らない
音は、隠せない。
どれだけ整えても、どれだけ誤魔化しても——そこにあるものは、そのまま鳴る。
だが、人の想いはどうだろう。
言葉にしなければ、届かないものがある。
言葉にしたとしても、届かないこともある。
そして——
そもそも“相手がそれを知らない”としたら。
——終わった。
誰かの声がかかる前に、響はすでに動いていた。
唇に残るわずかな感覚を気にすることもなく、ただ手順通りに片付けを始める。
ケースを開き、楽器を収める。
布で軽く水分を拭き取る。
そのとき——
「お疲れ様」
すぐ横から、声がした。
「……」
視線だけを向ける。そこにいたのは、柊木だった。いつの間にか、すぐ隣の席に座っている。
「柊木君、まさか本当に残ってたんだ」
「うん」
短く頷く。
「やっぱり上手かったよ」
その言葉に、響は一瞬だけ手を止めて——
「ありがとう」
それだけ返した。
再び、手を動かす。
ケースの金具を閉める音が、小さく鳴った。
少しの沈黙。
その中で、響はふと思い出したように口を開く。
「そういえば、一緒に帰る?」
「——あぁ、それは無理」
間を置かず、即答だった。
「……え、即答?」
響は、わずかに固まる。柊木は、きょとんとした表情で首を傾げた。
「本当は一緒に帰りたかったけど、今日塾あるからさ」
「あ、そ、そうなんだ」
「うん。じゃ」
それだけ言うと、柊木は立ち上がる。迷いもなく、そのまま歩き出した。
呼び止める間もない。
足音が、遠ざかっていく。
——早い。
あまりにも、あっさりとした別れだった。
「……」
響は、その背中を見送る。
一瞬だけ。
その表情が、わずかに歪んでいた気がした。
ほんの一瞬。
取り繕う前の、“何か”が見えたような気がした。
怒りか。
それとも——
ショックか。
どちらにしても、自分に向けられたものではない、はずだった。
——はず、なのに。
理由は分からないが、どこか引っかかる。
やがて、足音は完全に消えた。
残るのは、静かな空気だけ。
すると、コンバスを抱えた今伊と永井が、静かに歩いてきた。
ふと、今伊が足を止めた。
「……帰るの?」
何気ない一言。
響は顔を上げ、答える。
「はい」
いつも通りの、落ち着いた声だった。
「十分、練習はできましたし……」
一拍。
ほんのわずかな間。
そして——
「僕のオーディションは、終わりましたから」
静かに告げる。
その言葉に、余計な感情は乗っていない。ただ、思ったことをそのまま口にしただけのような声音。
それだけ言うと、響は何も言わずにケースを持ち上げた。
そして——
そのまま、歩き出す。
静まり返ったホール。
つい先ほどまで響いていた音の残響だけが、わずかに空間に残っている。
審査を終えた顧問たちが、ゆっくりと集まっていた。
「……全員、終わりましたね」
瞬崎が、スコアを閉じながら呟く。
「皆さん、審査お疲れ様でした」
瀬戸川が小さく息を吐く。
「全体的にレベルは悪くない。ただ——決め手に欠けるやつも多いな」
仙道が腕を組みながら言った。
「特に低音ですかね。支えきれていない場面が目立ちました」
「来島のことか?」
「個人名を出すわけではありませんが...」
瀬戸川が視線を落とす。
「最後まで止まらなかったのは評価できるが、あれでは支えにはならない」
「でも、あれはあれで“本気”でしたよ」
瞬崎が静かに言う。
「無理でも、崩れても、前に進もうとしていた音でした」
董白は、ずっと何かを考えているように下を向いていた。——周りの会話を、聞いているようで聞いていない。そんな空気だった。
「董白先生、どうしましたか?」
「……いや、なんでもない」
「響のことですか?」
瀬戸川が低く言った。
「...」
その名前が出た瞬間、空気がわずかに変わる。
瞬崎は、何も言わない。
ただ、静かにスコアを見ている。
「今までのオーディションのように、今回も上手かった」
董白が、ぽつりと呟いた。
誰も否定しない。
瀬戸川が言葉を濁す。
「……何か、引っかかった。そう言いたいんですか。董白先生?」
その一言に、沈黙が重なる。
董白は小さくため息をつくと、ゆっくりと話す。
「...芯が、少しだけ薄かった。届きそうで、届かない。そんな音だ」
空気が、止まる。
「意図的に抑えてる」
誰も、すぐには言葉を返さなかった。
「……理由は?」
仙道が問う。
董白は、わずかに口元を歪める。
「知らん。ただ——」
一拍。
「“選ばれないようにしてる”音だった」
その言葉が、静かに落ちた。
瞬崎は、目を閉じる。
そして——
「……だとしても」
ゆっくりと、口を開いた。
「それも含めて、“今の彼”なのでしょう」
誰も、否定しない。
音は、隠せない。
どれだけ誤魔化しても、
どれだけ取り繕っても、
そこにあるものは、そのまま鳴る。
「——決めましょうか」
瞬崎の声が、空気を切り替える。
オーディションは終わった。
だが——
本当の選択は、ここからだった。
バスを降りる。
家までの道を、いつも通り歩く。
だが——
歩くたびに、足の重さが少しずつ増していく。ふくらはぎに、じわりとした疲労が溜まっていた。
ふと、視線を横に向ける。
河川敷。
少し先に、腰を下ろせそうなスペースが見えた。
響は、そちらへ足を向ける。楽器と荷物を横に置き、ゆっくりと腰を下ろした。
息を、ひとつ吐く。
目の前には、川。
夕日を受けて、水面が淡く揺れている。
「……」
しばらく、そのまま眺める。
——静かだ。
(本当に、あれで良かったのかな)
あの音で。
心の中で、何度も問いかける。
答えは、出ない。
そのとき——
「——お疲れ様、響君」
後ろから、声がした。
「……」
振り返る。
そこに立っていたのは、見知らぬ人物だった。
見覚えはない。
だが——
年は、近いように見えた。
「えっと……誰ですか?」
その言葉に——
目の前の人物の動きが、一瞬だけ止まった。
まるで、そんなわけがない、とでも言うように。
「……え?」
わずかに、声が漏れる。信じられないものを見るような目で、響を見つめる。
「え、何言ってるの?僕だよ、僕」
戸惑いを隠せないまま、言葉を重ねる。
だが——
「……?」
響は、首を傾げるだけだった。
「……あの、本当に誰ですか?」
その声に、嘘はない。
からかっている様子も、ない。
ただ、純粋に——知らない。
「……」
沈黙が落ちる。
風が、わずかに吹いた。川の水面が揺れ、夕日の光が細かく砕ける。
その人物は、少しだけ考えるように視線を落とし——
やがて、口を開いた。
「……じゃあさ、東堂成昭君って知ってる?」
その名前に——
響の意識が、わずかに引っかかる。
東堂成昭。
知っている名前だ。
「……はい。一応、部活の先輩なので」
静かに、頷く。
それを聞いた瞬間——
目の前の人物の表情が、ほんのわずかに緩んだ。
「そっか……」
小さく息を吐く。
「じゃあ、その人の友達って言えばいいかな」
一拍。
「僕は——巴海斗」
名乗る声は、落ち着いていた。
「……海斗さん、ですか」
響は、その名前をなぞるように繰り返す。
だが——
それ以上、言葉は続かない。
沈黙。
風が、また一つ吹く。川の音だけが、静かに流れていた。
会話は、思ったよりも弾まない。
それでも、海斗は、ほんの少しだけ間を置いてから、再び口を開いた。
「……東堂君、今どうしてる?」
静かな声だった。響は、特に考える様子もなく答える。
「同じ吹奏楽部です」
「そうなんだ」
短く返す。だが、その表情はどこか硬いままだった。
「トロンボーン……だよね?」
「はい」
視線を落とす。夕日の光が、長く影を伸ばしていた。
「部活は……どう?」
少しだけ、言葉を選ぶように。
「うまくやれてる?」
「……特に問題はないと思います」
響の答えは、淡々としていた。
「練習も普通ですし、皆さん上手いです」
事実だけを並べる。
そこに感情は、ほとんどない。
「東堂先輩も——」
その言葉に、海斗は一瞬だけ目を細めた。
「……そっか」
小さく、息を吐く。
「じゃあ——」
少しだけ、迷う。
それでも、聞かずにはいられなかった。
「東堂君、何か言ってなかった?」
視線が、まっすぐ響に向く。
「その……君に対して」
その問いに——
響は、ほんの一瞬だけ考えた。そして口を開く。
「……あの、なんでそんなこと聞くんですか?」
空気が、止まる。
風の音だけが、やけに大きく聞こえた。
「……東堂君に謝らなきゃいけないことがあるんだ」
海斗が、小さく呟く。その声は、どこか沈んでいた。そして、ゆっくりと話し始めた。
「……東堂君とは、中学の吹奏楽で出会ったんだ」
風が、草を揺らす。
「東堂君はトロンボーン。僕はユーフォでさ」
小さく、笑う。
「最初から、彼すごくてさ。上手いし、面倒見もいいし……」
少しだけ、懐かしむような声。
「僕みたいなのにも、普通に話しかけてくれてさ」
そのまま、言葉を続ける。
「……すぐ仲良くなった」
一瞬、間が空く。
その空気が、少しだけ変わる。
「でも——」
海斗の声が、わずかに落ちた。
「三年になってから……自分の演奏が、どうしてもダメになって」
視線を、足元へ。
「……嫌になったんだ」
短く、吐き出すように。
「このまま続けても、意味ないなって」
響は、何も言わない。
ただ、静かに聞いている。
「だから——辞めた」
その言葉は、あまりにもあっさりとしていた。
だが——
その裏にあるものは、軽くない。
「でも、東堂君を……一人にしちゃった」
ぽつりと、零れる。
「きっと今も、怒ってると思う」
苦笑する。
「そりゃそうだよね。あんなに優しくしてくれたのにさ」
風が、また吹く。
夕日が、少しだけ傾いた。
「……だからさ」
海斗は、顔を上げた。
まっすぐ、響を見る。
「ちゃんと、話したいんだ」
その目は、逃げていなかった。
「仲直り、したくて」
静かな、でも確かな言葉。
「……でもさ」
一拍。
「東堂君、僕と話そうとしてくれないんだよね」
苦笑が、ほんのわずかに混じる。
「何度か電話もしたんだけど……最初は出てくれてたのに、だんだん反応してくれなくなって」
風が、静かに吹き抜ける。
「今はもう……全然だよ」
言い終わったあと、ほんの少しだけ沈黙が落ちた。
海斗は、小さく息を吸う。
そして——ゆっくりと吐いた。
「だから、君から東堂君に、伝えておいてほしいことがあるんだ」
海斗は、まっすぐ響を見る。
そして——
言葉を続けた。
..................
言葉は、口にしなければ伝わらない。それが分かっていても、止まることがある
あと一歩で届くはずのところで、それ以上進めなくなることもある。
今はまだ——
その途中にいるだけだ。
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次回もお楽しみに!!




