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心はB♭で響いている  作者: World of Tukimoto
響く音響編 —始動—

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60/63

60話 最後の低音

音は、隠せない。

どれだけ取り繕っても、

どれだけ誤魔化しても、

そこにあるものは、そのまま鳴る。

——だからこそ、その音が「どう鳴っているか」だけじゃない。

「どう鳴らしているか」まで、すべて見抜かれる。

それでも、

あえて、外すことを選ぶ者がいる。

それが、本意なのか、そうじゃないのか...

舞台袖へと続く通路。


コンバスを抱えた二人の足音だけが、静かに響いていた。


やがて、視界が開ける。


舞台袖——

だが、そこには誰の姿もなかった。


「……あれ」


今伊(いまい)が、わずかに足を止める。


「誰もいない?」


順番待ちのはずの場所に、人影はない。


ほんの少し前まで続いていたはずの気配だけが、薄く残っている。


そのとき——

ホールの奥から、低い音が流れ込んできた。


チューバだ。


「……」


今伊は、耳を澄ます。


音は、続いている。低く、重く——本来なら、空間の底を支えるはずの音。


「順番的に……今は来島(らいとう)君がやってるのかな」


ぽつりと呟く。


永井(ながい)は、小さく息をついた。


「僕達、来るのちょっと遅かったかもですね」


その言葉のあとも、音は途切れない。


だが——

どこか、引っかかる。


「……なんか」


今伊が、わずかに眉をひそめる。


音は出ている。

ちゃんと鳴っている。

音程も、大きく外しているわけじゃない。


それなのに——


「少し、抜けてるな」


低音のはずなのに、芯がない。


地面に落ちきらず、どこかで浮いているような感覚。


フレーズが進む。

だが、その繋がりがわずかに揺れる。次の音へ移る一瞬が、ほんの少しだけ遅れる。


「……ああ」


永井が、小さく呟く。

呼吸が、合っていない。


音と音の間に、本来あるはずの流れがない。無理やり繋いでいるような、不自然さ。


そのせいで——

低音が、支えにならない。


「……苦しいな、これ」


今伊の声は、静かだった。


音は止まらない。

崩れながらも、前には進んでいる。


だが——

安定しない。


フレーズの途中で、わずかに音が細くなる。


息が、足りていない。そのたびに、無理やり押し込むようにして音が出る。


結果——

ほんの少しだけ、荒れる。


「……でも」


永井が、ゆっくりと口を開く。


「止まってないですね」


その一言に、今伊は小さく頷いた。


確かに——

どれだけ揺れても、崩れても。

音は、途切れていない。


前へ、前へと——無理やりでも繋いでいる。


やがて。

フレーズの終わりが近づく。

低音が、さらに細くなる。

息が、限界に近いのが分かる。


それでも——

押し込む。

最後の音。


わずかに震えながら、それはホールに残った。


そして——

音が、途切れる。


ほんの一瞬の、静寂。


今伊は、ゆっくりと息を吐いた。


「……終わったか」


その言葉は、どこか重かった。

永井もまた、何も言わない。


ただ——

今の音が、頭の中に残っていた。


綺麗ではなかった。

整ってもいなかった。


けれど。

確かに——そこにあった音だった。


そのとき——


ホールの中に、声が響いた。


「はい、ありがとうございます。来島さんのオーディションは終了です。お疲れ様でした」


瞬崎(しゅんざき)の、落ち着いた声。


少し遅れて——


「はぁ、はぁ……あ、ありがとうございました……」


息の乱れた声が、かすかに返る。


今伊と永井は、無言で顔を見合わせた。


やがて——

下手(しもて)の扉が、ゆっくりと開く。


現れたのは、来島だった。チューバを抱えたまま、足取りは重い。肩で息をしているのが、この距離でも分かる。


視線は落ちたまま——

こちらには、気づいていない。


「……」


永井が、一歩踏み出しかける。


声をかけようとして——

その瞬間。


「……いいよ」


今伊の声が、静かにそれを止めた。永井の動きが止まる。今伊は、来島の方を見たまま、わずかに微笑む。


「そっとしておいてあげよう?」


その声音は、柔らかかった。


「結構、疲れてそうだし」


来島は、そのまま二人の横を通り過ぎる。足音は重く、わずかにふらついていた。


その目は、どこも見ていなかった。


それでも——

止まらない。


その背中を、二人はただ見送る。やがて、その姿は通路の奥へと消えていった。


ほんの一瞬だけ、沈黙が落ちる。


そのとき——

「次の人は、ホールへ」


瀬戸川(せとがわ)の声が、はっきりと響いた。


空気が、切り替わる。


今伊は、ゆっくりとコンバスを握り直す。指先に、力を込める。


そして——

深く、息を吸った。


「……東海も、一緒に弾こうね」


小さな呟き。

けれど、それは確かな意志だった。


永井は、迷わず頷く。


そして、短く、はっきりと言う。

その言葉に、揺れは無かった。


「はい、先輩」



河川敷。


空は、ゆっくりと色を変えていた。昼の青が薄れ、橙が滲み始めている。風は弱く、川の流れる音だけが、静かに続いていた。


「……結局、いなかったなぁ」


小さく息を吐く。足元の砂利を踏む音だけが、やけに大きく響いた。


久瀬(くぜ)さんがいるなら、と思ったんだけど……」


呟きは、そのまま風に流れていく。


返事はない。あるわけがないと分かっていても、どこかで期待していた自分に、苦笑する。


視線を上げると、少し先に自動販売機があった。


足を向ける。

コインを入れる音。

ボタンを押す。

落ちてくるペットボトルの、鈍い音。


スポーツドリンクを取り出す。ひんやりとした感触が、手のひらに残る。


キャップに指をかける。

——そのときだった。


ふと、空気が変わった気がした。

音が、ひとつ増えたような——


いや。

“気配”がある。


ゆっくりと、振り返る。


視線の先。

河川敷の斜面。


草の上に、ひとり——座っている影があった。夕焼けを背にして、その輪郭だけが浮かび上がる。


——まるで、ずっとそこにいたかのように


一瞬、言葉が出ない。


けれど——

次の瞬間、思わず声が漏れた。


「……(ひびき)、君?」



「おーい?」


不意に呼ばれて、永井の意識が引き戻される。


「うわぁっ!」


思わず、変な声が出た。今伊が、呆れたように肩をすくめる。


「何へたれてるの?最後、永井君だよ」


「あぁ、す、すみません……」


もう、先輩のオーディションは終わったのだろうか。気が付かなかった。


慌てて姿勢を正す。コンバスを握り直す指先に、わずかに力が入る。


——最後。

その言葉が、頭の中に残る。


(……僕の番)


一度、深く息を吸う。

吐く。


そして——

永井は、ホールへと足を踏み入れた。


扉をくぐった瞬間、空気が変わる。


静けさ。

視線。


そして、音の残響だけが、薄く空間に漂っている。

一歩、また一歩と中央へ進む。


やがて——

定位置に立つ。


(……広い)


改めて、そう思った。さっきまで外で聞いていた空間とは、まるで違う。天井の高さ。客席の奥行き。音が抜けていく距離。


この中で——

自分ひとりで、音を鳴らす。


(こんな中で、弾くのか……)


胸の奥で、どくん、と音がした。心臓の鼓動が、やけに大きく聞こえる。


けれど——

逃げる理由には、ならない。


永井は、まっすぐ前を見た。

コンバスを構える。


そして——


「一年、コントラバスの永井(いとな)です。よろしくお願いします!」


はっきりと、声を出す。

そのまま、深く礼をした。


「はい、お願いします。最後の人ですね」


瞬崎の声が、ホールに響く。マイク越しなのかは分からない。けれど——いつもより、少しだけ大きく聞こえた。


「あ、最後だからと言って心配する必要はありませんよ。いつも通り弾いていただければ結構です」


「はい、ありがとうございます」


短く、返す。


瞬崎は、手元のスコアに視線を落としたまま言った。


「では、始めましょう。まずは、課題曲CからDまで、そして——Jからお願いします」


「はい」


一瞬だけ、間。


(……J)


オーディションの範囲表には、書かれていなかった箇所。


だが——

想定していないわけではない。


(来ると思ってた)


だから、準備してきた。永井は、静かにコンバスを構える。


指板に左手を置く。弓を持つ右手に、無駄な力は入っていない。


呼吸をひとつ。

ホールの空気が、わずかに張り詰める。


そして——

弾き始めた。


低音が、落ちる。

ただそれだけのはずだった。


だが——

その一音で、空間の重さが変わる。さっきまでとは違う。


浮いていた空気が、すっと沈む。

音が、地面に触れた。


次の音へ。

繋がる。


無理に繋いでいるのではない。最初から、そこに一本の線があったかのように。


揺れない。


呼吸も、指も、弓も。

すべてが、同じ流れの中にある。


(……軽い)


ふと、そんな感覚がよぎる。広いはずのホールが、遠く感じない。


音が、迷わないからだ。出した瞬間に、行き先が決まっている。


低音は、ただ支えるだけじゃない。

その上に乗る音の、道を作る。


フレーズが進む。一つひとつの音が、確実に場所を持つ。


浮かない。沈みすぎない。ただ、そこにあるべき形で、置かれていく。

 

(これでいい)


迷いはなかった。


来島の音が、頭をよぎる。

揺れていた。苦しそうだった。


それでも——

止まらなかった。


(だったら)


永井の弓が、わずかに深く入る。


音が、さらに沈む。

空間の底を、確実に捉える。


(支えきる)


そのために、ここにいる。

音は、ぶれない。

どれだけ進んでも、崩れない。


CからDへ繋がる。


一拍置く。余韻を聞いた後、Jから再び弾き始めた。ほんのわずかに、空気が変わる。


だが、永井は止まらない。


(分かってる)


ここも、同じだ。

特別じゃない。

今までと同じように——


ただ、置く。

音を。



響は、舞台袖に立っていた。ホールへと続く扉の前。中からは、微かに音が漏れている。


音は、そこにある。

視線は前に向けたまま。


特に、何かを考えている様子もない。


ただ、待っている。

それだけだった。


やがて——

通路の奥から、足音が近づいてくる。


複数人。

少しだけ慌ただしい音。


振り返ることもなく、気配だけでそれを捉える。

チューバの三人だった。


来島(らいとう)は、明らかに様子が違う。肩が上がっている。呼吸が浅い。足取りも、わずかに不安定だった。


手に持った楽器を、何度も持ち直している。緊張しているのは、誰の目にも明らかだった。


「……」


響は、それを横目に見る。


ほんの一瞬だけ。


それ以上は、特に何もない。声をかけることも、視線を向け続けることもない。


興味がないわけではない。


ただ——

関係がない。


来島は、そのまま舞台袖の奥へと進んでいく。他の二人も、それに続く。


空気が、わずかに揺れる。


だが——

すぐに、元に戻った。


静けさ。

再び、音だけが残る。


響は、動かない。

視線も、姿勢も、そのまま。


ただ——

順番を待っている。

それだけだった。


「ありがとうございました」


ホールの中に、声が響く。桜咲(おうさき)のオーディションが終わった。


下手の扉が開き、外へと出ていく。


その瞬間——

響は、上手の扉を開けた。


誰も、こちらを見ていない。最初から、そこにいることが分かっているかのように。


響は、そのまま歩き出す。

足音は、ほとんど鳴らない。


止まらない。

迷わない。

流れるように、ホールの中央へ。


やがて——

定位置に立つ。その動きは、あまりにも自然で。


まるで——

最初から、この順番だったかのように。


視線を、ゆっくりと上げる。


二階席。


その先に、誰がいるのかは分からない。


それでも——

そこに向けて、口を開いた。


「一年、ユーフォニアムの月本(つきもと)響です。よろしくお願いします」


その声は——

マイクを通したかのように、ホールの隅々まで響いた。


「はい、お願いします。ユーフォはこれで最後ですね」


瞬崎の声が、ホールに静かに広がる。


「では、始めましょう。まずは——課題曲、頭からBまで」


「はい……」


響が、小さく頷こうとした——その瞬間。


「待ってくれ」


低く、鋭い声が割り込んだ。空気が、わずかに止まる。


「先に、自由曲のソロをやってくれないか?」


董白(とうはく)の視線は、まっすぐに響へ向けられていた。


試すような——いや、

確かめるような目。


「董白先生……」


瞬崎が、わずかに目を見開く。その意図を測るように、一瞬だけ沈黙が落ちた。


だが——

すぐに、その表情はいつもの落ち着きを取り戻す。


「……分かりました」

 

短く頷く。

そして、視線を響へ。


「月本君、いいですか?」


その問いは、確認というより——

拒否は想定していない問い方だった。


響は、わずかに間を置いてから答える。


「はい、大丈夫です」


声に、揺れはない。


ただ——

ほんのわずかに、空気が沈む。


響は、ゆっくりとユーフォを構えた。

動作に無駄はない。

呼吸を整えるでもなく、

気持ちを作るでもなく、


ただ——

“そこに置く”ように。

楽器が、身体に収まる。


その瞬間。

ホールの空気が、静かに張り詰めた。


息を、吸う。


静かに。

深くはない。

それでも——足りている。


(——分かってるよな?)


不意に、言葉がよぎる。

低く、押しつけるような声。


(……お前さえいなければ、全てが上手くいく)


東堂(とうどう)の声だった。


(お前には関係ない)


ただ——

選ばないだけ。


響は、息を流した。

音が、出る。


柔らかい。

滑らかで、よく通る音。


ホールの空気に、すっと馴染む。


——上手い。

誰が聞いても、そう思う音だった。


音程は正確。

アタックも整っている。

フレーズの流れも、自然で無理がない。


だが——


(お前はもう、誰とも関わるな)


ほんのわずかに、息の流れを変える。

支えを、少しだけ緩める。


音は崩れない。

ただ——

芯が、ほんの少しだけ薄くなる。


次の音へ。

繋ぐ。


その瞬間、わずかに間を作る。


遅れではない。

“余裕”に聞こえる程度の、ほんの一瞬。


(お前が目障りなんだよ)


東堂の声が、また浮かぶ。


(わざと下手に吹けってことですか?)

(そうだ)


分かっている。


だから——

崩さない。

崩さないまま、ずらす。


フレーズが進む。

音は、綺麗だ。

整っている。


だが——

決定的な一線を、越えない。


(ここで、押せば——)


一瞬だけ、頭をよぎる。


音を、前に出す。

息を、深く入れる。

支えを、作る。


それだけで——

この空間の“中心”を、奪える。


(……やらない)


わずかに、抑える。

音量はそのまま。


だが——

“抜け”だけを、殺す。


結果として残るのは、

上手い音。


フレーズの終わりが近づく。


(もう少し)


計算は、狂っていない。

流れも、崩れていない。


ただ——

一歩だけ、届かない。


ほんのわずかに、支えを外す。


揺れない程度に。

崩れない程度に。


だが——

確実に、“決めきらない”。



董白は、響の演奏を聞きながら小さく呟いた。


その声は、誰にも届かない。響にも、瞬崎にも、瀬戸川(せとがわ)にも、仙道(せんどう)にも。


「……上手いな」


ほんのわずかに、口元が歪む。

そして——


「——だから、選ばれない。いや、選ばれちゃいけない。そう言いたいのか?」

オーディションは終わった。それぞれの音がホールに響き、残る。

同じ場所で鳴っていても、その一歩の違いが、結果を分ける。

合格か、不合格か、

その境界は——

思っているより、ずっと曖昧で。

そして、残酷だ。

感想、評価、ブクマ是非お願いします。

次回もお楽しみに!!


※近いうちに番外編「Beyond the Stage」で第二回キャラクター解説を公開します。そちらもお楽しみに!!

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