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心はB♭で響いている  作者: World of Tukimoto
響く音響編 —始動—

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59話 ぐだぐだチューバ

舞台に立つということは、逃げ場のない場所に、自分を置くということだ。

音は、隠せない。

どれだけ取り繕っても、どれだけ誤魔化そうとしても——

今の自分が、そのまま鳴る。

それでも、鳴らさなければならない瞬間があるのだ。

静かなはずの舞台袖に、音が満ちていた。


——気がついたときには、もうそこに立っていた。

どこをどう歩いてきたのか、覚えていない。


ただ、気づけば——目の前にはホールへと続く扉があって、その向こうから、音が流れ込んできている。


ユーフォの音だ。

……多分。


「……マジ無理」


小さく、来島(らいとう)は呟いた。


喉が乾いている。息が浅い。心臓の音が、やけにうるさい。


手のひらが、汗で滑る。チューバを抱え直そうとしても、うまく力が入らなかった。


音は、ずっと鳴っている。

滑らかで、途切れない。


なのに、どこか——落ち着かない。


ちゃんとした音だ、ってことくらいは分かる。


——でも。

それ以上は、入ってこない。


(誰だ、今の……)


考えようとして、やめた。

そんな余裕、ない。


視界の端に、人影があった。


舞台袖のすぐ前。ホールへと続く扉の近くに、ひとり立っている。


背筋を伸ばして、静かに前を見ているその姿。


——(ひびき)だ。

来島は、わずかに息を止めた。


(じゃあ……今、吹いてるの……桜咲(おうさき)先輩?)


多分。

順番的に、そうなるはずだ。


でも。


確信は持てなかった。

音が、うまく掴めない。


ただ——

鳴っている、ということだけが分かる。


来島は、ぎゅっと唇を噛んだ。


視線を落とす。自分の手が、わずかに震えているのが見えた。


「……やばい、ほんとに無理……」


音は、まだ続いている。けれど、その音が何をしているのか、どんな音なのか。


来島には、もうほとんど分からなかった。


ただひとつ。

確かなのは——


もうすぐ、自分の番が来るということだけだった。


逃げ場は、もうない。



やがて——

そのユーフォの音も、小さくなっていった。ゆっくりと、遠ざかるように消えていく。


「ありがとうございました」


ホールの中で、誰かの声がした。マイク越しの、はっきりとした声。


(……終わった?)


来島は、わずかに顔を上げる。

次の瞬間——


下手(しもて)側の扉が開いた。


姿を現したのは、桜咲だった。ユーフォを手にしたまま、静かに歩いてくる。


その表情は、大きく崩れてはいない。けれど、どこか張り詰めていたものが、わずかにほどけているようにも見えた。


(……やっぱり、桜咲先輩か)


小さく、胸の内で呟く。

順番通りだ。

それくらいは、分かる。


そのとき——

ふと、違和感に気づいた。


(あれ……)


さっきまで、目の前にいたはずの姿。


舞台袖の、すぐ前。

扉の近くに立っていたはずの人影。


——いない。


来島は、一瞬だけ視線をさまよわせる。

けれど、すぐに見つかる。


もう、そこにはいなかった。


ホールの中。

扉の向こう側。


(……もう、入ってるのかよ)


それだけを、なんとか認識する。それ以上は——考えられない。


手の震えは、まだ止まっていない。

ただ呼ばれるのを、待つしかなかった。



ホワイエの中央。


人の流れから、わずかに外れた場所。そこに——二人だけが立っていた。


コントラバスを横に置いたまま、永井(ながい)は小さく息を吐く。


「……なんか、逆に落ち着きますね」


ぽつりと漏れた言葉。

周りには、誰もいない。

さっきまでのざわめきも、ここまでは届かない。


今伊(いまい)は、その様子を見て小さく笑った。


「でしょ?人いない方が、変に気張らなくて済むし」


永井は、わずかに肩の力を抜く。指先に残っていた緊張が、少しだけほどけていくのが分かった。


「……でも」


ふと、言葉が止まる。


「ちゃんと、できるかな」


小さな声だった。

自分に言い聞かせるような、曖昧な響き。


今伊は、少しだけ間を置いてから口を開く。


「できるよ」


即答だった。


「ナーガフェスのときより、全然いい」


「……それ、前も聞きました」


「だからだよ」


今伊は、軽く頷く。


「同じ事を言うってのはつまり、それだけ君がちゃんと自分をキープできてるって事だから」


永井は、ゆっくりと息を吸う。

胸の奥に、少しだけ温かいものが広がる。


「現状維持は何よりも大切だと思ってる」


「……そうなんですね」


小さく呟く。


「君の事言ってるのに、他人事みたいな反応だね」


「あはは、すみません」


その声は、さっきよりもほんの少しだけ、落ち着いていた。


呼ばれる時を、静かに待てるくらいには。



「来島さん?」


声がした。


「来島さん?」


もう一度。


「——来島さん」


はっとして、顔を上げる。


(……え?)


一瞬、何が起きているのか分からなかった。視界が、遅れて戻ってくる。


目の前には、舞台袖の扉。係員がこちらを見ている。


(あ……)


呼ばれている。


(もう……?)


気づいたときには、順番が回ってきていた。


「は、はい!!」


反射的に、声が出る。自分でも驚くくらい大きな声だった。


そのまま——

来島は、ほとんど勢いのまま扉に手をかける。


開ける。

ホールの空気が、一気に流れ込んできた。


一歩、踏み出す。チューバを抱えているはずなのに、足がやけに軽い。


いや——


軽い、というより。

止まれない。


そのまま、中央へと進む。


視線が、前に固定される。

周りは、ほとんど見えていない。


気づけば——

定位置に立っていた。


(……え、もう?)


心臓の音が、また強くなる。

手が震える。

呼吸が、浅い。


それでも——

やらないといけない。


来島は、震える手でマイクを取る。

口を開く。


「い、一年、チューバの来島青馬(おうま)です。よ、よろしくお願いします!!」


声が、少しだけ裏返った。


それでも。

確かに、ホールに届いた。


マイクを置こうとした、そのときだった。


「大丈夫ですか?」


瞬崎(しゅんざき)の声が、静かに届く。


「何か不調があるなら、言ってもらって構いませんよ」


来島の肩が、びくりと揺れた。


「え、あ、いや……大丈夫です!!」


反射的に、言葉が出る。


「……緊張しすぎじゃないか?」


横から、声が飛んだ。

董白(とうはく)だ。


「この距離でも、震えてるのが見えるぞ」


来島の手が、さらに強く震える。


「董白先生、不安を煽るような真似はやめてください」


すぐに、仙道(せんどう)が静かに制する。


一瞬だけ、空気が揺れた。


けれど——

瞬崎は気にした様子もなく、穏やかな声で続ける。


「大丈夫ですよ。自分のペースで、ゆっくりでいいです」


その言葉は、強くはない。

けれど、確かに届いた。


「……は、はい」


小さく、頷く。

呼吸を、ひとつ。


ほんの少しだけ——

さっきより、息が深くなった気がした。


来島は、チューバを構え直す。軽く音を出して、ピッチを確かめる。


震えは、まだ残っている。

それでも——


「では」


瞬崎が、静かに告げる。


「課題曲、Lからラストまで。お願いします」


来島は、ゆっくりと息を吸う。


——吸えていない。

胸の奥まで、届かない。


それでも——

吹く。

音が、出た。

低い音。


だが——

わずかに、揺れている。


(やばい)


頭の中で、すぐに分かる。

音が、安定していない。


次の音へ。


タンギングが、ほんの少しだけ遅れる。


(違う)


分かっているのに、修正が追いつかない。


フレーズが、続く。

息が、足りない。

音が、少し細くなる。


(やばい、やばい、やばい)


焦りが、強くなる。


その分だけ——

さらに息が浅くなる。


音程が、ほんのわずかに下がる。


(戻せ)


無理やり、押し上げる。


その瞬間——

音が、少しだけ荒れる。


でも。

止まらない。

止められない。


フレーズは、まだ続いている。

指は、動いている。

楽譜通りに、進んでいる。


それなのに——

全部が、うまくいっていない。


(くそ……!)


それでも。

音は、途切れない。


ひとつ、またひとつと——形の整わない音を、無理やり繋いでいく。


綺麗じゃない。

揺れている。


でも——

確かに、前には進んでいる。


やがて、フレーズの終わりが見える。


(あと、少し……!)


息が、持たない。

それでも——


押し込む。

最後の音。


わずかに、震えた。


来島は、息を吐く。


(……終わった……?)


「はい、そこまでで大丈夫ですよ」


瞬崎の声が、静かに響く。


「次は……自由曲。頭からB、そしてDをお願いします」


間を置かない指示。


「は、はい!」


来島の返事は、さっきよりもさらに早い。

考える前に、声が出ていた。


(休む暇、ない……)


さっきの演奏の感触が、頭の中に残っている。


上手くいかなかった感覚。

崩れた音。


でも——

振り返っている余裕はない。


来島は、再びチューバを構える。

そして息を吸う。

浅い。


それでも——

吹く。


音が、出た。


今度は——

最初から、安定しない。


(あ……)


出した瞬間に分かる。

音が、浮いている。


芯がない。

次の音へ、指は動く。


だが——

ほんのわずかに、遅れる。


(違う、違う)


頭の中では、正しい音が鳴っている。


でも。

体が、ついてこない。


フレーズが進む。


音が、揺れる。

音程が、定まらない。


(落ち着け……!)


思えば思うほど——

息が乱れる。


次の瞬間。

タンギングが、少しだけ引っかかった。

音が、濁る。


(やばい)


焦りが、一気に広がる。


でも。


止められない。

止まったら——終わる。


だから——

無理やり、前に進む。

音を、繋ぐ。

形は、崩れている。


それでも。

繋ぐ。

繋ぐ。

繋ぐ。


その中で——ほんの一瞬だけ。


音が、揃った。

息が、はまる。


(……あ)


一音だけ。

綺麗に、鳴った。


Bまで吹き終えて——一拍置いて、次はDから吹き始める。


だが——


次の瞬間には、また崩れた。

息が、足りない。

音が、細くなる。


(くそ……!)


押し込む。

無理やり、音を出す。

その分だけ——

音が、荒れる。


フレーズは、まだ終わらない。頭の中は、ぐちゃぐちゃだった。


どこを吹いているのか。

今どこなのか。

分からなくなりかける。


それでも——

指だけは、動いている。


(止まるな……)


必死に、繋ぐ。


やがて——

終わりが見える。


(あと、少し……!)

 

来島は、息を吸う。

うまく、吸えない。


それでも——

吹く。


最後の音が、かすかに揺れながら消えていく。


来島は、ゆっくりとチューバを下ろした。


腕が、重い。

息が、荒い。


一気に力が抜ける。


(……終わった)


張り詰めていたものが、ほどけていく。膝から崩れそうになるのを、なんとかこらえる。


そのとき——


「はい、ありがとうございます」


瞬崎の声が、静かに届く。


(やっと……終わった……)


思わず、息が漏れる。


「次は、そうですね……」


(……え?)


来島の思考が、一瞬止まる。


“次”。


(何を言ってるんだ……?)


頭の中で、言葉がうまく繋がらない。


(……あ、次の人のことか)


ぼんやりと、そう理解する。


そのとき——


「自由曲、Lのグランディオーソからラストまで、お願いします」


「……え、あ、はい!」

(今の、“ありがとうございます”って何だったんだよ……)



舞台袖へと続く通路。


コンバスを抱えた今伊と永井は、静かに歩いていた。先ほどまでのざわめきは、もうほとんど残っていない。


オーディションも、残るはこの二人。


その途中——


ふと、今伊が足を止めた。


視線の先。ホワイエの一角で、楽器ケースを閉じている姿があった。


——響だ。


静かに、手際よく荷物をまとめている。


その動きに、迷いはない。まるで、最初からこうすることが決まっていたかのように。


今伊は、少しだけ眉をひそめた。


「……帰るの?」


何気ない一言。


だが——

どこか引っかかる。


響は顔を上げる。


「はい」


いつも通りの、落ち着いた声だった。


「十分、練習はできましたし……」


一拍。

ほんのわずかな間。


そして——


「僕のオーディションは、終わりましたから」


静かに告げる。


その言葉に、余計な感情は乗っていない。ただ、事実を述べただけのような声音。


けれど——


今伊は、何も言えなかった。

永井もまた、言葉を失っていた。


その言葉の意味を、理解するまでに——ほんの少し、時間がかかる。


響は、軽く一礼すると、そのまま踵を返す。


足音は、静かだった。


やがて——

その姿は、消えていく。


残されたのは、わずかな沈黙。


「……終わった、のか」


今伊が、小さく呟く。


その声は、どこか納得しているようで——同時に、理解しきれていないようでもあった。

すべてが終わったわけではない。

音は止まっても、そこに残るものは、消えない。

崩れた音も、

繋ぎきった音も、

そして——まだ鳴っていない音も。

それぞれの“続き”は、まだ、この先にある。

感想、評価、ブクマ是非お願いします。

次回もお楽しみに!!

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