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心はB♭で響いている  作者: World of Tukimoto
響く音響編 —始動—

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58話 正しい演奏

静まり返ったホールに、ひとつずつ音が刻まれていく。

その一音は、わずか数秒。だが、その数秒の中に、それぞれが積み重ねてきた時間が詰まっている。

正確であること。

崩れないこと。

求められるものは、明確だ。

——だからこそ、その中で何を選ぶのか。

音は、すでに鳴り始めている。

最後のフレーズ——低く、重みのある音がホールに響き渡った。


その音は静かに、しかし確かに空間を揺らし、余韻としてしばらく消えずに残った。


しばらくして東堂(とうどう)は静かにトロンボーンを下ろし、肩の力も抜ける。


瞬崎(しゅんざき)がスコアを見ながら口を開く。


「はい、ありがとうございます。東堂さんのオーディションは以上です。お疲れ様です」


「ありがとうございました」


——東堂の声は確かに響いた。


しかし、瞬崎や董白(とうはく)など審査員の目には、声に想いが込められているようには映らなかった。


東堂は静かに下手から、ホールを出て行った。


——誰も、すぐには動かなかった。


ほんのわずかな余韻だけが、空間に残っている。


ホール内が静寂に包まれる。


しばらくすると、董白が軽く首をかしげて、瞬崎に話しかける。


「あの、東堂君だっけ?上手いは上手いんだけど……なんかパッとしないんだよなぁ」


瞬崎は小さく頷く。


「そうですか……確かに、少し物足りないかもしれませんね」


その声は淡々としていたが、心の奥では音の違和感を鋭く感じ取っていた。



ホワイエの一角。


ユーフォを手にした若田(わかだ)桜咲(おうさき)(ひびき)の三人が、静かに音を確認しながら軽くチューニングを行っていた。


「息の流れは一定に。音量だけで音色を変えすぎないように」


「はい」


若田がさりげなく響と桜咲にアドバイスする。


響は小さく頷き、唇を軽く振動させる。桜咲も同じように音を確かめながら、息を整える。


しばらくの沈黙のあと、係員の声がホワイエに響いた。


「次、ユーフォの準備をお願いします。若田さんから舞台へ移動を」


若田はゆっくりと立ち上がり、背筋を伸ばす。


「じゃ、行ってくるね」


短く告げると、舞台袖に向かって歩き出す。

残った響と桜咲は、若田の背中をしばらく見つめた。


しばらくして桜咲が小さく息をつき、響に向き直った。


「……あのさ、響君」


「はい?」


桜咲はにっこりと微笑み、言葉を続ける。


天奏(てんそう)、変わったって思わない? なんか……前よりずっと柔らかくなったというか、落ち着いたというか」


響は少し口ごもる。


「確かにそうですね」


桜咲はゆっくりと目を細め、響に感謝の気持ちを込めて言った。


「響君がやってくれたんでしょ?あの、フルートとオーボエの演奏が聞こえた日。……誰が吹いてたのかは分からないけど」


「え、いやー、それは...」


「ありがとう」


「え?」


響は首を傾げる。あれ?自分、何か天奏先輩にしたっけ?確かになんか変わったようには思えたけど...


「天奏も、君がそばにいてくれてよかったって思ってるんじゃないかな」


「えっとー、その……」


桜咲は少し間を置いてから、再び微笑む。


「私も、今日ここに来て、なんだか安心したというか。天奏も、ちゃんと前に進んでるんだなって思えて」


響は小さく頷く。

けれど——その変化の理由を、自分が作ったとは、どこかで思えずにいた。



舞台袖へと続く通路。


静かな足音だけが、わずかに響いていた。


その途中で——若田は一人の姿とすれ違う。


東堂だった。

演奏を終えたばかりのはずなのに、その表情には疲れも見せず、ただ穏やかに若田を見ている。


視線が合う。


東堂はふっと優しく微笑むと、すれ違いざまに若田の肩へ軽く手を置いた。


「ソロ、頑張れよ」


短い一言。

だが、その言葉は不思議と重く、まっすぐに胸へ落ちてくる。


若田は一瞬、言葉に詰まった。

けれどすぐに小さく頷く。


「……うん」


東堂の手が離れる。


若田は、そのまま足を止めることなく、再び前へと歩き出した。



舞台袖に到着した若田は、足を止めた。


視線の先——上手(かみて)側の入口から、次のトロンボーンの演奏者がホールへと入っていくのが見える。


その背中はすぐに視界から消え、代わりにホールの静寂だけが残った。


下手側に目を向けると、オーディションを終えたばかりであろう狩川(きりかわ)の姿があった。楽器を手にしたまま、どこか力の抜けた足取りで歩いていく。


若田はその様子を一瞬だけ見つめ、すぐに視線を前へ戻した。


設置されたモニターに、ホール内の様子が映し出されている。


音は聞こえない。それでも、演奏の流れや空気は、わずかに伝わってくる。


若田はユーフォを軽く握り直し、静かに息を整えた。

——もうすぐだ。



ホワイエの別の一角。


チューバを抱えた三人——香久山(かぐやま)茅野(かやの)来島(らいとう)が、それぞれの位置で待機していた。


「あぁ、マジで嫌だ……ホールでど真ん中とか無理……」


来島がうなだれるように呟く。楽器を抱えたまま、明らかに落ち着かない様子だった。


香久山が苦笑しながら声をかける。


「大丈夫だって。審査員席、まぁまぁ暗いし……先生もそんなに見えないと思うよ。多分」


「やめて、先生とか言わないで……余計無理……」


来島は顔をしかめながら首を振る。


そのやり取りから少し離れた場所で、茅野はホール入口の方へ視線を向けていた。


耳を澄ませるように、わずかに身体を傾ける。


「……そろそろユーフォ、始まりますね」


静かな声だった。


「私たちも、ぼちぼち移動の準備を始めましょう」


香久山が少し驚く。


「え、早くない?ユーフォ三人いるよ?」


「はい、少し早い方が丁度いいですよ」


「うわぁぁ……嫌だぁぁ……」


それでも来島の嘆きだけは、変わらなかった。



舞台袖での時間が、いつもより長く感じられた。


モニター越しに見ていたトロンボーンの演奏が終わる。


——次だ。

自分の番。


若田は小さく息を吸い、上手の扉に手をかけた。そして、ゆっくりと扉を開く。


ホールの空気が、静かに流れ込んできた。


一歩、足を踏み入れる。そのまま迷いなく中央へと歩みを進める。足取りは一定で、無駄な揺れはない。


やがて定位置に立つと、客席へ向き直った。


「三年、ユーフォニアム、若田宗一郎(そういちろう)です。よろしくお願いします!」


はっきりとした声が、ホールにまっすぐ届く。


軽く一礼した。


瞬崎の声がホールに響く。


「では、お願いします。チューニングは大丈夫ですか?」


若田は迷いなく答えた。


「大丈夫です」


その返答に、瞬崎は小さく頷き、満足そうにスコアへ視線を落とす。


「では、始めましょう。ユーフォは……まず課題曲の頭からBまで」


「はい」


若田はユーフォニアムを構える。


その姿勢は正しく、無駄がない。まるで教本に載っているかのような、理想的なフォームだった。


ゆっくりと息を吸う。

——揺れはない。


息が、静かに流れ込む。

次の瞬間——音が生まれた。


柔らかく、無理のない立ち上がり。それでいて芯はぶれず、まっすぐに空間へと伸びていく。


課題曲「勇者のマズルカ」。


その冒頭は、本来ならばわずかな不安定さや揺れが出やすい箇所。


だが——若田の音には、それがない。


音程は正確で、揺らぎがない。息の流れは一定で、フレーズは自然に繋がっていく。


一音一音が丁寧に置かれ、無理に前へ出ることもない。


だが確実に、空間の中心を捉えている。


技術的な乱れは、一切見当たらない。

タンギングも、スラーも、すべてが均一。

細かなニュアンスまで、きちんと制御されている。


——まさに、模範。

教本に書かれている“正しい演奏”を、そのまま音にしたようだった。


フレーズが進む。

テンポは安定し、揺れることはない。音量も自然にコントロールされ、無理な強弱は感じさせない。


その音は、聴く者に安心感を与える。


この人なら大丈夫だ。

そう思わせる、確かな信頼。


決して派手ではない。

だが、崩れない。


音はただ——そこにあるべき形で、そこに存在していた。


最後のフレーズが、静かに収束していく。音は無理に残ることもなく、自然に空間へ溶けていった。


若田はゆっくりとユーフォを下ろす。

一連の流れに、乱れはない。


瞬崎はその様子を見て、小さく息をつくようにしてマイクを取った。


「はい、ありがとうございます。次は、自由曲のソロですね。いけますか?」


「はい」


迷いのない返答だった。その声にも、先ほどと同じく揺れはない。


若田は再びユーフォを構える。

姿勢は変わらない。

最初から最後まで、一貫している。


ゆっくりと息を吸い——

音が、生まれる。


自由曲「黎明(れいめい)〜到来の夜明け〜」。


そのソロは、繊細な音色と安定した息のコントロールが求められる難所。


だが、若田の音はそこで迷わない。柔らかく、それでいて確かな芯を持った音が、静かに広がっていく。


空間を押し広げるのではなく、自然に満たしていくような響き。


無理に主張することはない。

だが確実に、音の中心を捉えている。


フレーズが進む。


細かなダイナミクスの変化も、丁寧に処理されていく。


強くするべきところでは無理なく音が前に出る。

引くべきところでは、自然に引く。


不自然さは一切感じさせない。


音は安定し続ける。


揺れない。

崩れない。


その演奏には、聴く者を不安にさせる要素が存在しなかった。


ただ——安心できる。

——任せられる

そう思わせる音だった。


音色は均一で、どの音域でも質が変わらない。息の流れは途切れず、フレーズは滑らかに繋がる。


技術的な完成度は高く、隙は見当たらない。それは、長い時間をかけて積み上げてきたもの。日々の練習の積み重ねが、そのまま音になっている。


決して派手ではない。

だが——確実に届く。


音は、最後のフレーズへと向かう。


流れは崩れないまま、静かに終わりへと収束していく。


そして——

最後の音が、穏やかに響いた。


その音もまた、無理に残ることなく、自然に消えていく。


余韻だけが、静かに空間に広がった。


若田はゆっくりとユーフォを下ろす。そこには、やり切ったという確かな感覚があった。


——少なくとも、この場で大きく評価を落とすことはない。

そう思わせるだけの演奏だった。


 

ホールの外。

足音が、廊下に乱れていた。


「……まさか、久瀬(くぜ)さんに見つかるなんて」


息を切らしながら、辺りを見渡す。視線を巡らせる。人影はなかった。


「……久瀬さんがいるなら、きっといるはず」


そして——


「……響君」

音は、確かにそこにあった。揺れることなく、崩れることもなく、ただ、あるべき形で響いていた。

それは、誰もが認める“正しさ”。

けれど——

その音の奥にあるものに、気づいた者は、まだ少ない。

選ばれる音と、選ばれない音。

まだ、多くの者には見えていない

オーディションもいよいよ終盤。

感想、評価、ブクマ是非お願いします。

次回もお楽しみに!!

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