57話 揺れない音、見えないもの
お待たせしました。予定よりだいぶ遅れてしまいすみません。本日から連載を再開します。これからも頑張っていきますので温かい目で見守っていただけると幸いです。あと久々の投稿でだいぶグダグダな文になってるかもしれません。
オーディションは、まだ終わらない。
同じ舞台に立っていても、聞こえてくる音はそれぞれ違う。
揺れを抱えたまま進む者。
揺れを消し去ったように見える者。
その違いは、ほんの僅かで——
だが確かに、空気を変えていく。
次に響く音は、どこへ向かうのか。
気付いたときには、久瀬は外に出ていた。冷たい空気が、肺に流れ込む。
足が止まらない。
何かに引かれるように、前へ進んでいた。
——追いかけちゃダメだ。
きっと何かが起きてしまう。
そんな予感が、じわじわと広がっていく。
それでも——
足は、ホールから離れていった。
「……海斗君」
姿は見えないのに、気付けば声が漏れていた。
ホールの上手側。瞬崎は名簿を確認しながら、次の演奏者を待っていた。
そのとき、上手の扉が静かに開く。
一人の演奏者が歩み出てきた。中央に立つと、ホールを見渡し、二階席まで視線を巡らせ——
「三年、トランペット、平井紫乃です。よろしくお願いします!」
声がホールに響いた。
視線が、何度も譜面へと落ちる。
音を出す前に、何かに縋るように。
トランペットを持つ手が、わずかに震えていた。
それを見た瀬戸川が、ふと口を開く。
「……手、震えてるぞ」
平井ははっとして顔を上げる。その表情は、ほんの少しだけ柔らいだ。
「心配するな。ほとんどの奴は緊張する」
「は、はい!ありがとうございます」
小さく息を吸い、握り直す。震えは、まだ完全には止まっていない。
瞬崎はその様子を一通り見届けると、マイクを口元へ寄せた。
「チューニングは大丈夫ですか?」
「はい」
平井は軽く音を出す。短い音が、ホールにすっと溶けた。
「では、自由曲のCからお願いします」
息を吸う。
次の瞬間、音が放たれた。
まっすぐな音が、ホールへ伸びる。
——あの日。
地区大会、県大会——
そのオーディションに落ちた、あの瞬間。
音が、震えていた。
思うように、音が出なかった。
フレーズが進む。
今の音は違う。
芯がある。
揺れない。
——合格した人達に向けて曲を作った。
吹いたとき、みんなが笑ってくれた。
喜んでもらえた。
その記憶が、胸に残っている。
でも——
それだけじゃ、足りない。
音が、さらに前へ出る。
(私も——そこに、行きたい)
息を流す。
トランペットの音が、空間を掴む。
もう、あの頃とは違うんだ。
最後の音が、静かにホールへ溶けていく。
平井はゆっくりとトランペットを下ろした。
——終わった。
一瞬、時間の感覚が遅れる。
まだ音の余韻が、空間に残っているようだった。
「はい、ありがとうございます。平井さんのオーディションはここまでです」
平井は客席へと向き直る。
「ありがとうございました」
深く頭を下げる。
顔を上げたとき、胸の奥にあった重さが、少しだけ軽くなっていた。
何も言わず、下手へと歩き出す。
その足取りは、ほんのわずかに、来たときよりも前を向いていた。
その姿を見届けた瞬崎は演奏順を確認しながら呟く。
「残りのトランペットとホルンが終わったら休憩ですね」
自分の番が終わってから、しばらく時間が経っていた。
ホルンのオーディションが終われば、休憩に入る予定だ。
平井はホワイエの隅で、まだトランペットを手にしたままだった。さっきの演奏が、頭の中で何度も繰り返される。
(あの入り、少し浅かったかも……あと中間のフレーズ、もう少し前に出せたはず……)
無意識に、指がバルブの上をなぞる。
音は出さない。ただ、感覚だけを確かめるように。
そのとき——
「平井!」
少し離れた場所から、声が聞こえた。
すぐに、その正体が分かった。
「……瀬戸川先生?」
思わず顔を上げる。
視線の先、ホワイエの奥にその姿が見えた。
平井は一瞬だけ立ち止まり、すぐに足を踏み出す。
トランペットを握る手に、わずかに力がこもった。
「……先生、どうしましたか?」
声に少しだけ震えが混じる。遠くから、ゆっくりと瀬戸川先生が歩み寄ってくる。
「オーディション、お疲れ様。音、良かったぞ」
「......ありがとうございます」
「平井、落ち着いてるか?」
「はい……でも、やっぱり入りが浅かったかもしれません。中間のフレーズも、もう少し前に出せたはずです」
瀬戸川は穏やかに頷く。
「そうか。平井はいつも、自分に厳しいな」
「……私、昔からそうでしたよね」
その言葉に瀬戸川が少しだけ笑った。
「そうだな。君がまだ塾に通っていた頃から、変わらなかった」
(平井さん、だっけ?この講座の担当の瀬戸川だ。よろしく)
(もう課題範囲終わったのか。しかも全問正解か。凄いじゃないか)
(……またあいつかよ)
(なんであいつばっか)
(テストいいからって、調子乗るなよ)
(うざいんだよ)
平井は自然と、幼い頃の記憶を思い出す。塾の教室。周囲の同級生たちは、成績優秀な自分に嫉妬し、陰口を言ったり、態度で示したりしていた。誰にも話せない悔しさや不安。
そのとき、いつもそばにいてくれたのが瀬戸川先生だった。授業後、誰もいない教室で静かに話してくれる先生。
(平井、君は君のままでいいんだ。周りの声に惑わされる必要はない)
(お前はもっと、自分を信じて進むんだ。きっと大丈夫)
(一人で悩む必要なんてない。私は、いつでも君の味方だ)
先生の言葉一つ一つ。それらにどれほど救われたことか。平井は今も、その瞬間を忘れたことはない。
「先生……あの頃、ありがとうございます。あのままじゃ、私は……多分、続けられなかったと思います」
瀬戸川は肩をすっと押すように手を添え、にっこりと笑った。
「覚えていてくれて嬉しいよ。でも、君自身があの時、踏ん張ったんだ。私はただ、見守っていただけだ」
平井は目を伏せ、小さく息をつく。心の奥に残る重さが、少しずつ軽くなっていくのを感じた。
「今日の演奏はどうだった?」
「……まだ、足りない気がします。でも、少し前に出せたかな、とも思います」
瀬戸川は真剣な眼差しで平井を見つめる。
「平井は昔から、考えすぎるくらい考える子だった。それでいて、実力があるから周りの嫉妬も強かった。けれど、君はそれを乗り越えてきた。今日の演奏だって、あの頃の君なら絶対にできなかったはずだ」
平井は肩の力を抜き、少し微笑む。
「先生……あの頃と比べると、やっぱり少しは成長できたんですか?」
「もちろんだ。まだ伸びる余地はある。でも、君の努力や心構えを見ていれば、私は安心だよ」
平井は深く息を吸い込み、握ったトランペットをそっと胸に抱いた。あの日の自分、塾の教室、そして今、目の前にいる先生——すべてが、今の自分を作っているのだと、改めて思った。
少し間を置き、平井は口を開いた。
「でも……そんな瀬戸川先生が、私の学校に来たときは驚きましたけどね」
瀬戸川は軽く笑い、目を細める。
「そうか。まあ、東縁高校で君とまた一緒に関われるとは、私も思わなかったけどな」
「先生がいるから、吹奏楽部も頑張れるんです」
平井の言葉に、瀬戸川は少し照れくさそうに笑う。
「それは嬉しいけど、あくまで君自身の力だ。私はただ、君の力を信じて見ているだけだ」
平井は小さくうなずく。胸の奥にあった重さは、もう以前ほどは重くない。
「……はい。ありがとうございます、先生」
その声には、静かな自信が含まれていた。
瀬戸川は優しく頷き、平井の肩を軽く叩く。
「改めて、オーディションお疲れ様。この後は自主練していくのか?」
平井は少し考えてから言う。
「……はい。少しだけ、やっていこうと思います。さっきのところ、もう一度確かめたいので」
「そうか、頑張れよ」
ホワイエの一角。
三人は並んで座り、簡単な昼食を取っていた。
「……いや、でもさ」
陽翔がぽつりと呟く。手に持ったパンを見たまま、視線はどこか落ち着かない。
「瀬戸川先生、めちゃくちゃ褒めてくれたんだけど……逆にそれが怖いっていうか」
苦笑いに近い表情だった。
「なんか、“まだいける”って言われてる感じがしてさ。あれ、期待されてるってことだよね……?」
少しだけ肩が落ちる。
その様子を見て、柊木が軽く口を開いた。
「さっきホワイエから少し聞こえてたけど、普通に良かったと思うよ」
あっさりとした言い方だった。
「え、ほんとに?」
陽翔が顔を上げる。
「うん。少なくとも“怖がる出来”じゃない」
柊木は淡々と言う。
「むしろ、あれで怖がってたらキリないでしょ」
「うわ、それ言う……」
陽翔は苦笑しながら頭をかく。
少しだけ、空気が軽くなった。
その流れのまま、陽翔がふと顔を上げる。
「そういえば、柊木ももう終わったんだよね?」
「うん」
「じゃあ、どうするの?帰る?」
陽翔の問いに、柊木は一瞬の間も置かずに答えた。
「逆に帰ると思う?」
即答だった。
「いや……やっぱ思わない」
陽翔は即座に引き下がる。
柊木は小さく笑った。
「オーディション終わったら帰ってもいいらしいけどね。結果発表も明日だし」
そこで一拍置いて、言葉を続ける。
「でもまあ、残る」
視線が、隣へ向いた。
「響のオーディション終わるまで、練習して待つ」
「え、僕?」
突然名前を出された響が、少しだけ目を丸くする。
「当然でしょ」
柊木は当然のように言う。
「響の音、ちゃんと聞きたいし」
「なんで柊木君はそんなに僕のこと気にするのさ」
その一言は軽い調子だったが、どこかまっすぐだった。
陽翔もそれに乗るように笑う。
「確かに。僕も気になる」
視線が、自然と響に集まる。
ほんの一瞬だけ、空気が変わった。
昼の穏やかな時間の中に、次の音を待つ気配が混ざる。
休憩が終わり、再びホールに静寂が戻る。
空気が、少しだけ張り詰めていた。
その中で、次の名前が呼ばれる。
上手の扉が開き、一人の演奏者が姿を現した。
無駄のない足取りで中央へ進む。
そのまま、客席へと向き直る。
「三年、トロンボーン、東堂成昭。よろしくお願いします」
低く、よく通る声だった。
その声が響いた瞬間、審査員席の空気がわずかに揺れる。
ほんの僅かに——
表情が曇った。
瞬崎はその空気を感じ取りながらも、淡々とマイクを取る。
「ではまず、自由曲のBからDまで、お願いします」
事務的な声がホールに流れる。
東堂は静かに頷いた。
トロンボーンを構える。
一切の迷いがない動きだった。
そして——
息が、吹き込まれる。
音が、放たれる。
重く、芯のある音。
それは確かに“上手い”と分かる音だった。
だが——
(……違う)
どこかで、そう感じる。
フレーズが進むごとに、精度はさらに上がっていく。
音程、音色、音圧。
どれも隙がない。
天奏とはまた違う音。
技術的な完成度だけで言えば、ここまでの演奏者の中でも頭一つ抜けていた。
それでも——
何かが、引っかかる。
整いすぎている。
乱れがない。
だからこそ、音の奥にあるものが見えない。
感情がないわけではない。
——だが、それすらも“組み込まれている”ように感じる。
まるで——
“最初から答えが決まっている演奏”のように。
音は、正確に空間を満たしていく。
その精密さに、誰もが言葉を失う。
だが同時に、誰もがどこかで違和感を抱えていた。
その違和感の正体に、まだ名前はない。
音は、嘘をつかない。
どれだけ整っていても、どれだけ完成されていても——
そこにある“何か”は、必ず残る。
それが届くのか、届かないのか。
その差は、まだ誰にも分からない。
オーディションは続く。
そして——まだ、終わっていない。
感想、評価、ブクマ是非お願いします。
次回もお楽しみに!!




