56話 視界の先
今日もホールには音が満ちていた。ただの練習やオーディションとは違う、緊張と期待が入り混じる空気。
部員たちはそれぞれの思いを胸に、音に向き合う——静かな時間の中で、小さな変化が生まれ始める。
「分かってるよな?」
鋭い目が、まっすぐ響を射抜いている。
「今回も若田先輩に譲れ、と?」
響は静かに言う。
「当たり前だ」
迷いのない声。響の言葉を途中で断ち切るようだった。
「どうして、先輩は僕にそこまでさせるんですか?」
東堂の視線がさらに強くなる。
「お前には関係ない」
短い言葉。
しかし響は引かなかった。
「理由になってません。矛盾してますよ!」
「うるさい!」
怒声と同時だった。
東堂は足を突き出す。
ガタン!!
譜面台が蹴り飛ばされた。金属の脚が床を滑り、鈍い音を立てる。
倒れた譜面台。
床に散らばる楽譜。
響はその光景を、ただ静かに見下ろしていた。
そして、小さく呟く。
「……やっぱり」
響は顔を上げる。
「どう考えても僕ら二人だけの問題じゃないですよね」
東堂の眉がわずかに動く。
「何かあったんですか?」
そのとき——
「東堂!」
少し離れた場所から声が飛んできた。
廊下の奥に、狩川の姿が見える。
東堂は舌打ちを一つする。
そして響を睨みつけ、低く言い捨てた。
「……余計なことを考えるな」
そのまま背を向ける。数歩歩き、ふと足を止めた。振り返らないまま、言葉だけを残す。
「お前はもう、誰とも関わるな」
東堂はそのまま狩川の方へ歩いていった。
足音が遠ざかる。
オーボエの音が、遠くのホールから流れてくる。
響はしゃがみ、散らばった楽譜を拾い上げた。紙を揃えながら、小さく呟く。
「……何で、あの人は僕に?」
ホールに、最後の音が静かに溶けていった。
天奏はゆっくりと息を抜き、オーボエを下ろす。
澄んだ余韻が、まだ空間に残っているようだった。
審査席で、瞬崎が顔を上げる。
「ありがとうございます。オーディションは以上です。お疲れ様でした」
落ち着いた声が、静かなホールに広がる。
天奏は客席へ体を向ける。
そして、深く礼をした。
「ありがとうございました」
短い言葉。
それだけを残し、天奏は楽器を持ったまま下手へ歩いていく。
ステージから姿が消える。
その直後だった。
まるで入れ替わるように——
上手から、一人の影が現れる。
守田だった。大きなファゴットを抱え、静かにステージへ歩いてくる。
さっきまで天奏が立っていた場所へ向かって。
廊下の奥。
東堂が歩いてくると、壁にもたれていた狩川が顔を上げた。
「どこ行ってたの?」
呆れたような声だった。狩川は小さくため息をつく。
「ちょっと散歩してただけだ」
「余裕ぶっこきすぎでしょ。オーディションなのに」
東堂は足を止める。
「お前には言われたくない」
短く返した。
狩川は肩をすくめる。
「それはどういう意味?あと一応副部長なんだけどね、私」
その瞬間だった。
東堂の足が止まった。
空気が、わずかに変わる。
そして——
東堂の声のトーンが落ちた。
「関係ねぇよ、そんなもん」
低い声。
さっきまでとは明らかに違う温度だった。
狩川の表情が、ほんの少しだけ変わる。
「役職だの、立場だの……そんなもん、何の意味もねぇ」
狩川が少し眉をひそめる。
東堂は視線を逸らしたまま続けた。
「結局」
短く息を吐く。
「最後に残るのは、吹いた音だ。どれだけ偉そうな肩書きがあっても、音が駄目ならそこで終わり」
東堂の拳が、わずかに握られる。
「逆に——」
一瞬だけ言葉が止まる。
「何も持ってなくても、音が良けりゃ全部ひっくり返る」
廊下に静かな空気が流れる。
狩川は、東堂の横顔をじっと見ていた。
「お前だって分かってるんだろ?」
守田のオーディションは、思っていたよりもあっさりと終わった。
しばらくして、ホールの扉が開く。
下手の方から、ファゴットを抱えた守田が出てきた。
舞台袖に立っていた奏多に気づくと、守田は小さく手を振る。奏多もすぐにそれに気づき、ぱっと笑って手を振り返した。
守田は軽く頷くと、そのまま廊下の奥へと歩いていく。
その背中を見送りながら、奏多は楽器を抱え直した。
「よし、次は僕だ」
小さく呟く。
そして奏多は、上手の扉を開き——ホールへ足を踏み入れた。
奏多はゆっくりとホールの中央へ向かって歩き出した。
一歩、また一歩。
その間も、視線は客席や天井へと動いている。
(うわ……やっぱりこのホール広いなぁ。反響板も高いし、残響長そうだな。あれだけ高さあると音が一回上に抜けてから返ってくるタイプかも。側壁も平らじゃないし……これ、拡散させるための作りだよね。だから響きがまとまりすぎないのか。客席の傾斜も結構ある。後ろの席までちゃんと音が届く設計だなぁ。こういうホールって、低音が前に出やすいんだよね。床も木だし……あーこれ絶対いい音するやつだ。さっきの天奏先輩の音、めちゃくちゃ真っ直ぐ飛んでたもんな。そう言えば、オーボエってもともと指向性強いけど、それでもあれだけ輪郭はっきりしてたってことは、このホール、残響あるけど音が濁らないタイプだ。ということは……ファゴットの低音も、ちゃんと前まで届くはず。ホールって本当に面白くてさ、同じ曲でも場所によって全然違って聞こえるんだよね。残響長いホールだと音が溶ける感じになるし、逆にドライなホールだと細かい音まで全部聞こえるし。前に聴いたホールなんか、ファゴットの低音がめちゃくちゃ広がる場所があってさ。あれ面白かったなぁ。あの反響板の角度も絶妙だなぁ……)
そのとき。
「そろそろいいですか?」
瞬崎が、少し笑いながら口を開いた。
「わぁ!すみません!」
奏多は慌てて背筋を伸ばす。そして客席へ体を向けた。
「一年、ファゴット、如月奏多です!よろしくお願いします!」
元気な声がホールに響く。
それを見て、董白が身を乗り出した。
「随分とホールが好きなようじゃないか。鑑賞とか好きなんか?」
興味津々だった。
奏多はぱっと笑う。
「ホールというより、音楽関連は基本全部好きですよ」
そう言うと、楽しそうに続けた。
「演奏会とかもよく行きますし、ホールによって響きが全然違うのも面白いんですよ。例えば同じ曲でも、残響の長さとか、音の広がり方とかで印象が変わるじゃないですか。あと楽器ごとの鳴り方も違うんですよ。トランペットとかオーボエは結構前に飛ぶんですけど、ファゴットってホールによって音のまとまり方が結構変わるんですよね。残響が長いホールだと低音がふわっと広がる感じになるし、逆に響きがタイトなホールだと、音の芯がすごくはっきりするんです。あと、同じホールでも席の場所で全然違って聞こえるんですよ。前の席だと直接音が多いんですけど、後ろの席だと反響が混ざってオーケストラ全体が一つの音みたいに聞こえたりして。そういうの考えながら聴くのも楽しくて、つい色んなホール行きたくなっちゃうんですよね。だからこういう大きいホールで演奏できるの、めちゃくちゃ楽しみなんです。普段の音楽室と違って音の返り方も全然違いますし、低音も遠くまで届く感じするじゃないですか。あとファゴットって、オーケストラでも結構面白い役割あるんですよ。低音だけじゃなくて旋律もありますし、時々すごくコミカルなフレーズもあって——」
瞬崎が、小さくため息をついた。隣で仙道が、董白の肩を軽く叩く。
「董白先生、何してるんですか?」
董白は「あ」と小さく声を出した。
そのとき、瞬崎が口を挟む。
「もう大丈夫ですよ。十分伝わりました。では、そろそろ始めましょうか。課題曲D、九小節目からお願いします」
「あ、はい」
(やばい、また長々と話しちゃった)
慌ててファゴットを構える。そして、静かに息を吸った。
ファゴットの音が、ふわりとホールに広がった。
低音のはずなのに、どこか軽やかだった。重く沈むのではなく、前へと転がるように進んでいく。
フレーズが動き出す。
指が自然に動く。キーの音はほとんど聞こえない。音と音が滑らかにつながり、旋律がひとつの流れになっていく。
(ああ、やっぱりこのホールいいな)
奏多は心の中で小さく思う。
音が前へ飛ぶ。
吹いた瞬間、空気が少し遅れて返ってくる。その感覚が分かる。
(低音もちゃんと前に出る)
息を流す。
ファゴットの音が、客席の奥へと伸びていく。
リズムが跳ねる。
舞曲特有の軽い動き。
奏多の体も、わずかに揺れていた。
決して大きくはない。だが、音楽に合わせて自然に動いている。
——楽しそうだ。
ただ正確なだけではない。
音の流れが、生きている。
フレーズが次へ進む。
速いパッセージ。
指が迷いなく動き、音程も揺れない。低音が土台を作り、その上に旋律が軽く跳ねる。
まるで音楽そのものを遊んでいるようだった。
審査席。
董白が、わずかに口元を上げる。
「……」
誰にも聞こえないほど小さく息を吐く。
その表情は、どこか楽しそうだった。
(こりゃ……なかなかの素質を持ってるな。下手すりゃ——)
董白は、さっきまでステージに立っていたオーボエ奏者の姿を思い出す。
(あいつにも、届くかもしれん)
演奏はまだ続いている。
だが、董白にはもう分かっていた。
この音は——
あの二人のようにただの高校生の音ではない。
董白は小さく笑う。
ニヤリ、と。
そろそろ自分の番が呼ばれる。
久瀬はもう一度、荷物を確認する。
楽譜、水筒、予備のリード——すべて揃っている。
ふと、視線がガラス張りの非常出口の方へ向いた。
視界に映るのは、自分や他の部員たちのバッグ。
色とりどりの鞄が、廊下の光に淡く反射している。
だが、ガラス越しの外に、一人、誰かが立っていた。
少し遠く、はっきりとは見えない。
久瀬の目が、じわじわと輪郭を拾い始める。
服の色、姿勢、髪の流れ——
そのシルエットが、確実に形を成していく。
「え……」
久瀬の手が止まり、水筒を落としそうになる。慌てて握り直した。
向こうも自分に気づいたのか、ふっと視線を合わせると、すぐに走り去っていった。
自分たち、いやホールから逃げていくように。
久瀬は、ゆっくりと口を開く。
「海斗君……?」
ひとつの演奏が終わり、ホールには静かな余韻だけが残る。
しかしオーディションはまだ続く——舞台の向こうには、次に立つ者たちの音が待っている。
そして最後に、久瀬の視界に僅かに入った海斗と。その姿が、これからの物語に小さな波紋を広げるかもしれない。
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次回もお楽しみに!!




