55話 それぞれの一音
静まり返ったホールに、ひとつの音が広がる。
それは、誰かの努力の音かもしれない。
誰かの才能の音かもしれない。
あるいは——まだ誰にも知られていない音かもしれない。
同じ舞台に立っていても、聞こえる音はそれぞれ違う。
そう、全く同じ音なんて、あるはずがないんだ。
舞台の中央に立つと、思った以上にホールが広く感じた。
客席は暗い。けれど、前方の審査席だけははっきりと見える。
マイクが軽く鳴った。
「西村さんは、経験者なんですよね」
瞬崎の声が、ホール全体に静かに広がる。
陽翔は近くのマイクを入れ、少しだけ姿勢を正した。
「はい。小一から六年間やっていました。中学はスポーツをやっていたので……」
「そうですか。ありがとうございます」
瞬崎は軽く頷く。
「チューニングは大丈夫ですか?」
「はい」
陽翔はバスクラを構え、軽く音を出した。低い音がホールの奥まで伸びていく。
——響きが違う。
いつもの音楽室とは、まるで別の空間だった。
審査席には、瞬崎の他に瀬戸川、董白、仙道が並んでいる。
視線が集まっているのが分かる。瞬崎が楽譜に目を落とし、そして顔を上げた。
「では、課題曲、頭からお願いします」
「はい」
陽翔はバスクラリネットを構えた。
一度だけ息を吸う。
そして——息を入れた。
低い音が、ゆっくりとホールに広がる。
最初の一音。
深く、柔らかい響きだった。音は床を伝い、客席の奥へ静かに転がっていく。
(……出た)
陽翔は心の中で小さく呟く。思っていたより、ずっと落ち着いている。
課題曲「勇者のマズルカ」。
舞曲特有の軽いリズムが、低音から動き始める。
バスクラの役割は、派手ではない。旋律を支え、全体の土台を作る。
だからこそ——崩れないことが大事だ。
指が動く。
キーの感触は冷たいはずなのに、もう気にならない。
息が流れる。
低音が一定の重さで前へ進んでいく。ホールの空気が、ゆっくり揺れるのを感じた。
(落ち着け)
舞台袖で鳴っていた心臓の音は、いつの間にか静かになっていた。
代わりに聞こえるのは、自分の音だけ。
フレーズが進む。
八分音符が軽く跳ねる。
舌がリードに触れ、音が粒になって前へ飛ぶ。
少し速いパッセージ。
指が滑る。
音程も、崩れない。
(いける)
胸の奥で、確かな感覚が広がる。振原の言葉が、ふと頭をよぎった。
(——最近の陽翔君、普通に上手いよ)
思わず、少しだけ息が軽くなる。
(普通でいい)
派手じゃなくていい。
ただ、ちゃんと鳴ればいい。
音は、嘘をつかない。
低音がホールの奥まで伸びていく。
フレーズの終わり。
音を少しだけ長く保つ。
ホールの天井に触れた響きが、やわらかく返ってくる。
そして、次のフレーズへ。
息を吸う。今度は少しだけ強く吹き込んだ。
音の芯が太くなる。低音が、ぐっと前に出た。
客席の空気が、わずかに動く。
そのままフレーズを駆け抜ける。
リズムは崩れない。
音も揺れない。
最後の音。
陽翔は息を流しきった。
低い音が、ゆっくりとホールの奥へ消えていき、静寂が戻った。
ホワイエ。
静かな空間に、係の声が響いた。
「次、ファゴットのお二人です。移動をお願いします」
守田は楽器を持ち直す。隣にいる奏多の方をちらりと見た。
「……頑張ろうね」
少しだけ硬い声だった。奏多はその顔を見て、ぱっと笑った。
「はい!」
そして続ける。
「めっちゃ楽しみです!」
守田は一瞬、目を丸くする。
「……楽しみ?」
奏多はうんうんと頷いた。
「はい。ホールで吹くの、やっぱ気持ちいいじゃないですか」
その表情には、緊張よりも期待の方が大きく見えた。
守田は少しだけ息を吐く。
「……そっか」
そして楽器を持ち直す。
「じゃあ、行こうか」
二人は並んで、ホールへ続く廊下を歩き出した。
扉の向こうから、かすかにバスクラリネットの低い音が聞こえてくる。
静寂の中で、瞬崎がすぐに口を開いた。
「ありがとうございます。次は、自由曲の終盤、スペシャルのSから159小節までお願いします」
「はい」
陽翔は小さく返事をする。再びバスクラリネットを構えた。
さっきよりも、ほんの少しだけ手の力が強くなる。
——自由曲、黎明〜到来の夜明け〜。
頭の奥で楽譜を思い出そうとする。
(Sから……)
一瞬、指の運びをなぞる。
課題曲にはかなり時間を使って練習してきた。安定して吹けるように、何度も繰り返した。
でも——自由曲は違う。
終盤のこの部分は、全体の中でも難しいところだった。なのに練習時間を大してとっていなかった。
(大丈夫、大丈夫……)
そう言い聞かせる。けれど、さっきまで落ち着いていた心臓が、また少し速くなり始める。
息を吸う。
そして、吹き始めた。
低音が、もう一度ホールに広がる。
さっきより、少し強い。自由曲特有の重い和音が、低音から積み上がっていく。
最初のフレーズは問題ない。
指も動く。
音程も外れていない。
(ここまでは大丈夫)
次の小節へ進む。
だが、その瞬間——
ほんのわずかに、指が遅れた。カチ、とキーが鳴る。
音は出た。
けれど、ほんの一瞬だけリズムが揺れる。
(やば)
胸の奥がざわつく。
すぐに立て直す。
息を流す。
音を前へ押し出す。
低音を太く保つ。
(落ち着け)
自分に言い聞かせる。けれど頭の奥では、別の声が響く。
(ここ、あんまり練習してない)
指が少し速くなる。
音がわずかに硬くなる。
フレーズは続く。
もうすぐ終わる。
(あと少し)
息を強く流す。
低音がホールの奥へ伸びていく。
最後の音。
さっきより少しだけ短く、切り上げた。
音が消える。
ホールに、再び静寂が落ちた。
再び、瞬崎が口を開いた。
「ありがとうございます。西村さんのオーディションはこれで終了です。お疲れ様でした」
「ありがとうございました」
陽翔は客席に向かって深く礼をした。
そのとき。
「変わったな」
瀬戸川の声が、審査席から静かに届く。
陽翔は顔を上げた。距離があるせいで、どんな表情をしているのかはよく分からない。
けれど、その声にはどこか嬉しそうな響きがあった。
「地区大会の頃から、随分と上手くなったじゃないか」
「そ、それは……」
思わず視線を落とす。
先生にこうして褒められるのは、嬉しいことのはずだった。
なのに――
胸の奥に、別の感情が引っかかる。
「俺は、まだまだです」
気づけば、そう口にしていた。
一瞬の沈黙。
瀬戸川は、いつもの落ち着いた調子で言った。
「そうやって、自分をあまり侮らない方がいいぞ」
「え?」
陽翔は顔を上げる。
瀬戸川は続けた。
「もちろん、お前の言いたいことは分かる。自分より上手い人がいるのに、そんなことを言われても……そう思っているんだろう」
「そ、そんなわけ……」
言葉が詰まる。
瀬戸川は軽く息を吐いた。
「でもな」
声は、はっきりしていた。
「毎回そんな人ばかり気にしていたら、何もかも意味がなくなる」
静かなホールに、その言葉がまっすぐ響く。
「下手でも、上手でもいい。ただ。その音を出しているのは、お前自身だ。それを忘れるな」
陽翔は小さくつぶやく。
「……自分が」
瀬戸川は、最後に静かに言った。
「お前の音、よかったぞ」
その一言で、胸の奥が揺れた。陽翔は、半分涙目になりながらもう一度礼をする。
「ありがとうございました!」
声が少し震えていた。
そして楽器を抱え、舞台袖へと歩き出す。
ホールの扉が閉まる。
その背中を見送りながら、董白が楽譜をめくった。
「次は……天奏か」
上手から一人の影が歩いてきた。
天奏。
ステージ中央に立つと、客席へ体を向ける。姿勢はまっすぐで、無駄な力がどこにも入っていない。
「オーボエ、二年、天奏若葉です。よろしくお願いします」
ホールに、澄んだ声が響いた。
瞬崎は楽譜を確認しながら言う。
「では、課題曲。Jからお願いします」
「はい」
短い返事。
天奏はオーボエを構えた。
その構えは、自然だった。肩も、腕も、指も、どこにも無理がない。まるでそこに楽器があるのが当然のような、静かな形。
一度だけ、息を吸う。
そして——
そっと、息を入れた。
音が鳴った。
その瞬間、空気が変わる。
細いはずのオーボエの音が、まっすぐホールの奥へ伸びていく。
柔らかい。
なのに芯がある。
音がぶれない。
揺れない。
最初の一音から、完成された響きだった。
舞曲の旋律が流れ出す。
軽やかなリズム。
指が動く。だが、その動きはほとんど見えない。滑らかすぎて、キーの音さえ聞こえない。
フレーズが、流れる。
音と音の間が、完璧につながっている。息が切れない。音楽が途切れない。まるで、一つの長い旋律のようだった。
董白が、わずかに目を見開く。
「……」
隣の仙道も、無言のまま楽譜から顔を上げた。
音が、軽く跳ねる。
スタッカート。
粒が揃っている。
ひとつひとつの音が、小さな光のように前へ飛んでいく。
——上手い。
その一言では、足りない。
音程は揺れない。
リズムも、乱れない。
そして何より——音が、美しい。
ただ正確なだけではない。
フレーズの流れ。
強弱。
息の方向。
すべてが、最初から計算されているかのようだった。
董白は小さく息を飲む。
(……この子)
仙道も、わずかに目を細める。
一方で。
瞬崎だけは、まったく表情を変えなかった。
だがその目は——
今までより、明らかに鋭くなっていた。
逃さない。
一音も、一瞬も。
その演奏のすべてを見極めるように、天奏を見つめていた。
ステージの中央で。
天奏は、何事もないように吹き続ける。
ホールいっぱいに、澄んだオーボエの音が広がっていた。
ホワイエの端。
次の演奏に向けて、静かな空気が流れていた。
響は椅子に腰掛け、ユーフォのマウスピースを軽く布で拭く。
バルブを押し、ゆっくりと動きを確かめる。
カチ、カチ。
金属の小さな音だけが、静かな空間に響く。
焦りはない。頭の中では楽譜の流れを静かに辿っていた。
そのとき。
「おい」
背後から声が飛んできた。
聞き覚えのある声だった。
響は手を止める。
そして、口を開いた。
まるで——
これから何が起こるか、すべて分かっているかのように。
「……何の用ですか?」
ゆっくりと振り向き、そこに立っていた人物を見て、淡々と言う。
その人は腕を組んだまま響を見下していた。
「東堂先輩」
音は、同じ楽譜から生まれても同じにはならない。
それぞれの息、指、心が混ざり合って、はじめて一つの響きになる。
誰かの音が届くときもあれば、まだ届かない音もある。
けれど、そのどれもが確かにこの舞台で鳴っていた。
感想、評価、ブクマ是非お願いします。
次回もお楽しみに!!




