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心はB♭で響いている  作者: World of Tukimoto
響く音響編 —始動—

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54/63

54話 演奏の前に

オーディションの日。

舞台に立つのはほんの数分。けれど、その数分のために、それぞれがいろいろな時間を積み重ねてきた。

吹く前の静かな時間。

その中にある、小さな変化や言葉を。

天奏(てんそう)は楽器の準備を終え、ホワイエでリードを整える。静かな空間に、オーボエのAが細く伸びた。


基準の音。

誰かが合わせる音。


(天奏と私は、ずーっと一緒だよ。)


あの時の比奈の声が、ふと胸をかすめる。


比奈。

あの言葉をくれたのは、確かに比奈だ。でも——そこへ導いたのは、きっと(ひびき)君。


「緊張してる?」


いつの間にか隣に守田(もりた)が座っていた。ファゴットを膝に抱えている。


「……ううん」


少しだけ息を吐く。


「今は、楽しみの方が大きいかも」


守田が目を丸くする。


「なんか、変わったね」


天奏は天井を見上げた。


高い天井。淡い光。吸い込んだ空気が、胸の奥までまっすぐ落ちていく。


——もう、逃げない。

大丈夫。音は、ちゃんと私の中にある。


天奏はゆっくりと楽器を構えた。


そして、息を吸う。


——課題曲「勇者のマズルカ」のJ。


舌先がリードに触れる。


最初の一音が、淡く空間にほどけた。

軽やかな舞曲のリズム。

けれど足取りは、浮つかない。


速さに乗るのではなく、自分で踏み出す。

指が滑る。

息が流れる。

音は細い。けれど折れない。


ホワイエの高い天井に触れ、やわらかく跳ね返る。


(……聴こえてる?)


胸の奥で、小さく問いかける。

比奈にではない。

響にでもない。


——自分に。

次のフレーズへ、迷いなく進んでいく。


それは、誰のものでもない——私の音。



ホール舞台袖。


陽翔(はると)はバスクラを握りしめた。黒く長い管体が、やけに重い。


手が、わずかに震えている。地区大会以来、ホールで吹くのは初めてだった。


「やべぇ……めっちゃ緊張する」


小さく呟く。誰も聞いていないのに、声がひどく乾いていた。


舞台の向こうから、クラリネットの音が流れてくる。


軽やかで、粒が揃っている。


上手い。

上手いな、くそ。


喉がごくりと鳴る。


リードを唇に当てる。

乾いている。いや、唇が乾いているのか。


指を動かしてみる。

キーがやけに冷たい。


心臓の音がうるさい。

ドクン、ドクンと、胸の奥で暴れている。


(落ちたらどうしよう)


頭に浮かんだ瞬間、無理やり振り払う。


(いや、いける。最近調子いいし、安定してきたし)


自分に言い聞かせる。でも、足先がじんわり冷えている。


クラの演奏が終わった。


一瞬の静寂。

その静寂が、怖い。


「次、バスクラ。三年から」


それを聞くと、先輩の一人が何も言わずにホールに入っていく。


三年、鷹野拾(たかのひろい)


残ったのは二人。陽翔と、鷹野と同じ三年、振原美結(ふりはらみゆ)


ホールの奥から、椅子を動かす小さな音が聞こえてくる。


その静けさの中で、振原がぽつりと言った。


「……うちのクラってさ」


少し間を置く。


「なんであんなに、人のこと見ないんだろうね」


突然の言葉に、陽翔は戸惑った。


「え……?」


振原は舞台の扉を見たまま続けた。


「別にさ、うちのクラって全員がめちゃくちゃ上手いわけじゃないじゃん」


さらっと言う。


「本当に安定して上手い人なんて、正直言って数人くらいだと思う」


陽翔は何も言えない。


振原は小さく息を吐いた。


「でもさ。なんか、みんな自分のこと上手い側だと思ってるよね」


少し苦笑する。


「ちょっとミスするとすぐ言うくせに、自分のミスは普通に流すし」


舞台の奥から、クラリネットの音が聞こえてくる。

振原はそれを少しだけ聴いてから言った。


「で、一回『あの人はこういう人』って決めたら、もうそれで終わり。そのあとどれだけ変わっても、誰もちゃんと聴こうとしない」


陽翔の胸が、わずかにざわつく。振原は横目で陽翔を見た。


「陽翔君も、そうじゃない?」


ドキッとする。


「……俺は」


言葉が詰まる。振原は淡々と続けた。


「入った頃、ミス多かったでしょ。だから多分、その時点で決まったんだよね。あいつは下手、って」


陽翔は視線を落とした。

振原は言葉を続ける。


「でもさ、今の陽翔君、普通に吹けてるじゃん」


舞台の向こうから低い音が聞こえ始めた。


——鷹野のバスクラだ。

振原はそれを少し聞きながら言った。


「地区の時も聴いてたけど。低音ちゃんと鳴ってたし、音程もかなり安定してた。少なくとも、最初の頃とは全然違う」


少し間。


「でも誰も見てない」


静かな声だった。


「ちゃんと聴いてないんだよね」


振原は少しだけ苦笑した。


「なんかさ、みんな人のこと、音じゃなくてイメージで見てる。だから最初の印象がずっと残るんだよ」


そしてぽつりと言う。


「それ、結構怖いよね」


陽翔は黙って聞いている。振原は肩をすくめた。


「まあ、私もそんなに見られてる側じゃないけど」

軽く笑う。


「だから余計分かるんだと思う」


陽翔は少しだけ顔を上げた。


「ちゃんと聴いてたら分かるよ。人って普通に変わるし、練習したら上手くなるし、音も変わる」


そしてまっすぐ陽翔を見る。


「少なくとも私はちゃんと聴いてる」


その言葉は静かだったけど、はっきりしていた。


「最近の陽翔君、普通に上手いよ」


胸の奥が、少し揺れる。振原は視線を舞台に戻した。


「だからさ、今日のオーディション」


少しだけ笑う。


「変にビビらなくていいと思う。普通に吹けば、大丈夫」


舞台の奥で、バスクラのフレーズが続いている。


陽翔はしばらく黙っていた。

そして小さく言った。


「……そう、ですか」


振原は軽く頷く。


「うん」


陽翔は握っているバスクラを見た。さっきまでやけに重かった楽器が、ほんの少しだけ軽く感じた。



しばらくして、ホールの扉が開いた。


鷹野が出てくる。思ったより早かった。鷹野はバスクラを肩にかけたまま、舞台袖に目を向けた。


陽翔と振原。


二人と視線が合う。

けれど、何も言わない。そのまま軽く会釈だけして、静かに歩き出す。


靴音が廊下に消えていった。残されたのは、また静かな空気だった。


振原が小さく息を吐く。

そしてゆっくり立ち上がった。


「行ってくるね」


振り返って、そう言う。陽翔は一瞬だけ言葉を探した。


「……はい」


それしか言えなかった。振原は少し笑って、ホールの扉へ向かう。


扉が開く。

光が一瞬だけ差し込む。

そしてまた、閉じた。


舞台袖に残ったのは、陽翔一人。胸の奥で、心臓がまた大きく鳴り始めていた。



しばらくの間、天奏は同じフレーズを繰り返していた。


息の流れを確かめるように。

指の感覚を思い出すように。

音は静かなホワイエに溶けていく。


そのとき、入口の方から声がかかった。


「次、オーボエ、フルート。天奏さんからです」


天奏はゆっくりと顔を上げた。


——来た。

楽器を持ち直して立ち上がる。胸の奥が少しだけ高鳴った。


でも、不思議と怖くはなかった。ホールへ続く廊下に向かって歩き出す。


その背中に、守田が声をかけた。


「頑張ってね」


天奏は振り返る。そして小さく笑った。


「うん」


短く答えて、また前を向く。ホールの扉が近づいてくる。


向こうには、あの広い空間。


天奏は一度だけ深く息を吸った。


——大丈夫。


足を止めず、そのまま舞台袖へと歩いていった。



しばらくして、ホールの扉が開いた。


振原が出てくる。鷹野の時と違って、結構な時間がかかった気がした。


振原はバスクラを肩にかけたまま、舞台袖に目を向ける。


陽翔と目が合う。

そして小さく笑った。


「頑張って」


それだけ言って、廊下の奥へ歩いていった。


扉の向こうが、また静かになる。


そして係の声が響いた。


「次の人は中へ」


胸の奥が、ドクンと鳴る。


——来た。

陽翔はバスクラを握り直した。


足が少し重い。

それでも一歩踏み出す。


ホールの扉を押し開ける。

広い空間が目の前に広がった。


客席は暗い。


陽翔はゆっくり歩き、中央まで進む。


何人もの視線がこちらに向けられている。審査員の先生たちだ。


喉が少し乾く。

それでも、陽翔は口を開いた。


「バスクラリネット、一年、西村(にしむら)陽翔です」


一度だけ息を吸う。


「よろしくお願いします!」


声がホールに響いた。

人はよく、最初の印象で誰かを決めてしまう。

あの人はこういう人。

この人はこういう音。

けれど本当は、人も音も、少しずつ変わっていくもの。

それに気づく人もいれば、気づかないままの人もいる。

そして今日、それぞれが舞台に立ち、自分の本当を出す。

音はきっと、嘘をつかない。

感想、評価、ブクマ是非お願いします。

次回も楽しみに!!

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