54話 演奏の前に
オーディションの日。
舞台に立つのはほんの数分。けれど、その数分のために、それぞれがいろいろな時間を積み重ねてきた。
吹く前の静かな時間。
その中にある、小さな変化や言葉を。
天奏は楽器の準備を終え、ホワイエでリードを整える。静かな空間に、オーボエのAが細く伸びた。
基準の音。
誰かが合わせる音。
(天奏と私は、ずーっと一緒だよ。)
あの時の比奈の声が、ふと胸をかすめる。
比奈。
あの言葉をくれたのは、確かに比奈だ。でも——そこへ導いたのは、きっと響君。
「緊張してる?」
いつの間にか隣に守田が座っていた。ファゴットを膝に抱えている。
「……ううん」
少しだけ息を吐く。
「今は、楽しみの方が大きいかも」
守田が目を丸くする。
「なんか、変わったね」
天奏は天井を見上げた。
高い天井。淡い光。吸い込んだ空気が、胸の奥までまっすぐ落ちていく。
——もう、逃げない。
大丈夫。音は、ちゃんと私の中にある。
天奏はゆっくりと楽器を構えた。
そして、息を吸う。
——課題曲「勇者のマズルカ」のJ。
舌先がリードに触れる。
最初の一音が、淡く空間にほどけた。
軽やかな舞曲のリズム。
けれど足取りは、浮つかない。
速さに乗るのではなく、自分で踏み出す。
指が滑る。
息が流れる。
音は細い。けれど折れない。
ホワイエの高い天井に触れ、やわらかく跳ね返る。
(……聴こえてる?)
胸の奥で、小さく問いかける。
比奈にではない。
響にでもない。
——自分に。
次のフレーズへ、迷いなく進んでいく。
それは、誰のものでもない——私の音。
ホール舞台袖。
陽翔はバスクラを握りしめた。黒く長い管体が、やけに重い。
手が、わずかに震えている。地区大会以来、ホールで吹くのは初めてだった。
「やべぇ……めっちゃ緊張する」
小さく呟く。誰も聞いていないのに、声がひどく乾いていた。
舞台の向こうから、クラリネットの音が流れてくる。
軽やかで、粒が揃っている。
上手い。
上手いな、くそ。
喉がごくりと鳴る。
リードを唇に当てる。
乾いている。いや、唇が乾いているのか。
指を動かしてみる。
キーがやけに冷たい。
心臓の音がうるさい。
ドクン、ドクンと、胸の奥で暴れている。
(落ちたらどうしよう)
頭に浮かんだ瞬間、無理やり振り払う。
(いや、いける。最近調子いいし、安定してきたし)
自分に言い聞かせる。でも、足先がじんわり冷えている。
クラの演奏が終わった。
一瞬の静寂。
その静寂が、怖い。
「次、バスクラ。三年から」
それを聞くと、先輩の一人が何も言わずにホールに入っていく。
三年、鷹野拾。
残ったのは二人。陽翔と、鷹野と同じ三年、振原美結。
ホールの奥から、椅子を動かす小さな音が聞こえてくる。
その静けさの中で、振原がぽつりと言った。
「……うちのクラってさ」
少し間を置く。
「なんであんなに、人のこと見ないんだろうね」
突然の言葉に、陽翔は戸惑った。
「え……?」
振原は舞台の扉を見たまま続けた。
「別にさ、うちのクラって全員がめちゃくちゃ上手いわけじゃないじゃん」
さらっと言う。
「本当に安定して上手い人なんて、正直言って数人くらいだと思う」
陽翔は何も言えない。
振原は小さく息を吐いた。
「でもさ。なんか、みんな自分のこと上手い側だと思ってるよね」
少し苦笑する。
「ちょっとミスするとすぐ言うくせに、自分のミスは普通に流すし」
舞台の奥から、クラリネットの音が聞こえてくる。
振原はそれを少しだけ聴いてから言った。
「で、一回『あの人はこういう人』って決めたら、もうそれで終わり。そのあとどれだけ変わっても、誰もちゃんと聴こうとしない」
陽翔の胸が、わずかにざわつく。振原は横目で陽翔を見た。
「陽翔君も、そうじゃない?」
ドキッとする。
「……俺は」
言葉が詰まる。振原は淡々と続けた。
「入った頃、ミス多かったでしょ。だから多分、その時点で決まったんだよね。あいつは下手、って」
陽翔は視線を落とした。
振原は言葉を続ける。
「でもさ、今の陽翔君、普通に吹けてるじゃん」
舞台の向こうから低い音が聞こえ始めた。
——鷹野のバスクラだ。
振原はそれを少し聞きながら言った。
「地区の時も聴いてたけど。低音ちゃんと鳴ってたし、音程もかなり安定してた。少なくとも、最初の頃とは全然違う」
少し間。
「でも誰も見てない」
静かな声だった。
「ちゃんと聴いてないんだよね」
振原は少しだけ苦笑した。
「なんかさ、みんな人のこと、音じゃなくてイメージで見てる。だから最初の印象がずっと残るんだよ」
そしてぽつりと言う。
「それ、結構怖いよね」
陽翔は黙って聞いている。振原は肩をすくめた。
「まあ、私もそんなに見られてる側じゃないけど」
軽く笑う。
「だから余計分かるんだと思う」
陽翔は少しだけ顔を上げた。
「ちゃんと聴いてたら分かるよ。人って普通に変わるし、練習したら上手くなるし、音も変わる」
そしてまっすぐ陽翔を見る。
「少なくとも私はちゃんと聴いてる」
その言葉は静かだったけど、はっきりしていた。
「最近の陽翔君、普通に上手いよ」
胸の奥が、少し揺れる。振原は視線を舞台に戻した。
「だからさ、今日のオーディション」
少しだけ笑う。
「変にビビらなくていいと思う。普通に吹けば、大丈夫」
舞台の奥で、バスクラのフレーズが続いている。
陽翔はしばらく黙っていた。
そして小さく言った。
「……そう、ですか」
振原は軽く頷く。
「うん」
陽翔は握っているバスクラを見た。さっきまでやけに重かった楽器が、ほんの少しだけ軽く感じた。
しばらくして、ホールの扉が開いた。
鷹野が出てくる。思ったより早かった。鷹野はバスクラを肩にかけたまま、舞台袖に目を向けた。
陽翔と振原。
二人と視線が合う。
けれど、何も言わない。そのまま軽く会釈だけして、静かに歩き出す。
靴音が廊下に消えていった。残されたのは、また静かな空気だった。
振原が小さく息を吐く。
そしてゆっくり立ち上がった。
「行ってくるね」
振り返って、そう言う。陽翔は一瞬だけ言葉を探した。
「……はい」
それしか言えなかった。振原は少し笑って、ホールの扉へ向かう。
扉が開く。
光が一瞬だけ差し込む。
そしてまた、閉じた。
舞台袖に残ったのは、陽翔一人。胸の奥で、心臓がまた大きく鳴り始めていた。
しばらくの間、天奏は同じフレーズを繰り返していた。
息の流れを確かめるように。
指の感覚を思い出すように。
音は静かなホワイエに溶けていく。
そのとき、入口の方から声がかかった。
「次、オーボエ、フルート。天奏さんからです」
天奏はゆっくりと顔を上げた。
——来た。
楽器を持ち直して立ち上がる。胸の奥が少しだけ高鳴った。
でも、不思議と怖くはなかった。ホールへ続く廊下に向かって歩き出す。
その背中に、守田が声をかけた。
「頑張ってね」
天奏は振り返る。そして小さく笑った。
「うん」
短く答えて、また前を向く。ホールの扉が近づいてくる。
向こうには、あの広い空間。
天奏は一度だけ深く息を吸った。
——大丈夫。
足を止めず、そのまま舞台袖へと歩いていった。
しばらくして、ホールの扉が開いた。
振原が出てくる。鷹野の時と違って、結構な時間がかかった気がした。
振原はバスクラを肩にかけたまま、舞台袖に目を向ける。
陽翔と目が合う。
そして小さく笑った。
「頑張って」
それだけ言って、廊下の奥へ歩いていった。
扉の向こうが、また静かになる。
そして係の声が響いた。
「次の人は中へ」
胸の奥が、ドクンと鳴る。
——来た。
陽翔はバスクラを握り直した。
足が少し重い。
それでも一歩踏み出す。
ホールの扉を押し開ける。
広い空間が目の前に広がった。
客席は暗い。
陽翔はゆっくり歩き、中央まで進む。
何人もの視線がこちらに向けられている。審査員の先生たちだ。
喉が少し乾く。
それでも、陽翔は口を開いた。
「バスクラリネット、一年、西村陽翔です」
一度だけ息を吸う。
「よろしくお願いします!」
声がホールに響いた。
人はよく、最初の印象で誰かを決めてしまう。
あの人はこういう人。
この人はこういう音。
けれど本当は、人も音も、少しずつ変わっていくもの。
それに気づく人もいれば、気づかないままの人もいる。
そして今日、それぞれが舞台に立ち、自分の本当を出す。
音はきっと、嘘をつかない。
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次回も楽しみに!!




