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心はB♭で響いている  作者: World of Tukimoto
響く音響編 —始動—

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53話 新たな不穏

練習は日々厳しさを増し、胸の奥には期待と不安が交錯する。

今日も、響たちは自分たちの音と向き合う。

少しずつ、でも確実に――彼らは前へ進んでいく。

家に入った(ひびき)は、鞄を静かに床へ置き、そのままソファに腰を下ろした。


まだ胸の奥に、合奏の余韻が残っている。


「お母さん、愛美(みなみ)はどうしたの?」


キッチンで皿を並べていた母の手が、ぴたりと止まった。


水道の水音だけが、やけに大きく聞こえる。


「ちょっと……揉めちゃってね」


振り返らないままの返事。


「何で?」


響がそう重ねた瞬間、母の指先がわずかに強く皿を掴んだ。陶器がかすかに鳴る。


「それは……」


言い淀んだ、そのとき。


インターホンが鳴り響いた。母はほっとしたように小さく息を吐き、すぐに玄関へ向かう。


「おかえりなさい、あなた」


「なんだ、響も帰ってたのか」


父は靴を脱ぎながら母の顔を見て、何かを察したように一度だけ頷いた。その視線のやり取りが、短いのに重い。


響はさっきの続きを聞こうと口を開きかける。


けれど――


「さ、早く夕飯にしましょう」


母の声が、少しだけ強く響いた。


それ以上は言っても無駄だと、空気が告げている。


テーブルの上には、三人分の箸しか並んでいなかった。


響は何も言わず、ソファに置いたままの鞄を見つめる。


胸の奥に残っていたはずの音が、いつの間にか遠くなっていた。うやむやにされたような気分だけが、静かに沈んでいった。



夕食が終わって数時間。


自室で問題集を解いていた響は、ふと喉の渇きを覚えた。


シャーペンを置き、椅子を引く音が小さく響く。


廊下に出ると、家は静まり返っていた。階段を降りる足音だけが、やけに大きい。


冷蔵庫からペットボトルを取ろうと、リビングの前まで来たとき。


扉の向こうから、低い声が漏れた。


「本当に、大丈夫なのかしら」


母の声。


「それは愛美次第じゃないか」


父の落ち着いた声が返る。


響は足を止めた。


「でも……」


「それに、あの二人をこう導いたのは俺たちだ。二人には何も責任はない」


母の声が、わずかに強まる。


「でも、愛美は苦しんでるのよ!?ずっと心配してた。いつかああなってしまうのが」


沈黙。


それから父が、低く言った。


「だったら――」


一拍。


「だったら、なぜ響を止めなかった?いつかあいつがああなる事くらい、お前だって分かってたはずだろう。響は昔からそういう性格なんだ」


響の指先が、ドアノブの手前で止まる。


「自分以外は、どうなったって構わない。自分がやれるならそれでいい、と」


頭の奥で、何かが小さく鳴った。呼吸の仕方が、わからない。


そんなはずはない。

――何を、言っているんだ。


冷蔵庫のモーター音が、やけに遠い。


響は、結局ドアノブに触れることすらできなかった。



翌朝。


カーテンの隙間から差し込む光が、机の上を白く照らしていた。


響は机に突っ伏したまま、ゆっくりと目を開ける。

  

「あれ……」


頬に紙の跡がついている。問題集は開きっぱなし。シャーペンが転がっていた。


「いつの間に……」


記憶を辿ろうとする。


夕食。

部屋。

喉が渇いて――


そこから先が、曖昧だ。


胸の奥に、うっすらと重たい感覚だけが残っている。


何かあった気がする。

けれど、形にならない。


「……まぁ、いいか」


小さく呟く。


響は学校の準備を済ませると、朝食を済ませ家を出ていった。


「行ってきます...」


「気を付けて、いってらっしゃい」


母は優しい声で見送った。少し母の瞳が泳いでいるようだった。


多分気のせいだろう。


響は視線を前に向け、歩き出した。



ホール練習、そして東海大会オーディションが迫る。音楽室の空気は、どこか張り詰めていた。


誰も口には出さない。

けれど、考えていることは同じだ。


ステージに立ちたい。

中央に立ちたい。

東海大会の舞台に、自分の音を置きたい。


椅子に座る背中が、いつもよりまっすぐだった。



全体合奏が始まる。


だが、昨日よりもわずかに硬い。


瞬崎(しゅんざき)の指揮棒が上がった。


「課題曲、頭から。いつも以上に本番を想定していきましょう」


「はい!」


一拍の静寂。

振り下ろされる。

音が立ち上がる。


だが二小節目で、瞬崎が止めた。


「ストップ」


静まり返る音楽室。


「焦っていますね」


誰も顔を上げない。


「速くはなっていませんが、気持ちが前のめりです。音が落ち着いていません」


指揮棒が木管へ向く。


「フルート、入りのタンギングが浅いです。逃げないでください。最初の音が曖昧だと、その後全部が揺れますよ」


「はい」


次に金管。


「トランペット、音量だけで主張しないように。遠くに飛ばす意識を。ホールは押しても響きません」


「はい!」


「そしてユーフォ、音の立ち上がりや処理が雑に聞こえます。大会では技術面でそういうのが点が引かれる原因になりやすいです」


「はい」


仙道(せんどう)が一歩前に出る。


「今のクレッシェンド、全員同じ方向を向いていません。音を一つにまとめる意識を持ちましょう」


「はい!」


次に打楽器を指す。


「スネア、自分に集中しすぎて、周りをまだ見れていませんね?」


「は、はい...」


「ただ正しいリズムで叩いてるだけでは管楽器の皆さんの意味が無くなってしまいますよ」


「はい」


空気がさらに締まった。


再開。


しかし、すぐに止まった。


瞬崎の声が落ちる。


「皆さん、ここは誰が主役ですか?主役が分からない演奏は、誰も記憶しませんよ」


オーボエへ視線が向く。


「トップ、少しだけ前へ」


「はい」


天奏が息を吸う。


再び合図。

音が変わる。

旋律が浮き上がる。


董白(とうはく)が頷く。


「そうだ。今の位置だ。響きを怖がらないこと。君の音は、壊れない。東海のどこの高校にも劣らないくらいだ」


「ありがとうございます」


天奏は静かに礼する。


空気が少しだけ柔らいだ。董白は全員を見渡した。


「他のみんなもそうだ。この数ヶ月で随分と間違えたじゃないか。ナーガフェスの時よりもさらに!」


董白はドヤ顔で続ける。


「僕は音楽だけは嘘はつかない」


「音楽以外はつくんですね?」


瞬崎が笑顔でツッコむ。


「瞬崎君、君は一旦黙っててくれないかなぁ?今僕良いこと言おうとしてたのに」


「これは失礼。気になってしまったので、つい」


少しの笑いが起きた。董白は咳払いしてはっきり言った」


「はっきり言おう。今の君たちはもう数ヶ月前の君たちじゃない。差別だの冷遇だの何だかは知らないが、あの東海三神にも立ち向かえる程にまで成長してきている」


パーカスの男子が手を挙げる。


「豊川とかエト学に勝てるってことっすか?」


董白は視線を向け、さらに強く言った。


「勝てるとは、言ってない!!でも...」


改めて全員を見渡す。


「勝てないとも言ってない!!君たちに足りないのはずはり、堂々しさだ!」


瞬崎や仙道も静かに聞く。


「強豪だから無理、なんて戯言は通用しない。それぞれ何かが違えど、元は皆同じ高校だ」


部員は誰一人として喋らない。喋れない。


「大会もオーディションも、自分達の120%を出すことに集中するんだ。と、いうわけでみんな明後日のオーディションも頑張ってくれたまえ!」


拍手が起きる。


「董白にしては珍しく真面目でしたね」


「珍しくは余計だろ?」


瞬崎はわざと残念そうに言う。


「ですが、そういうのは指導の最後に言った方がよかったのでは?」


「うーん...確かに!!」


再び部内は笑いに包まれた。



合奏後、天奏(てんそう)は椅子に腰掛け、少し息を整えていた。


そこへ仙道が静かに隣に座る。


「天奏さん」


「先生?」


仙道は深く頭を下げた。


「ごめんなさい」


「ど、どうしたんですか?急に」


「私、あなたの本当を見誤ってた。あなたの音は、こんなにも美しかったんだなって」


天奏は静かに耳を傾ける。


「私は指導者として、奏者の技術向上を援助するのは当然。でも、逆にあなたの可能性を潰してしまっていた」


「そんなことは……」


「それに気付かず、私は自分の理想ばかり押し付けていた。本当にごめんなさい」


仙道は再び頭を下げる。しばらくして顔を上げると、穏やかな目で天奏を見つめた。


「あなたには、他の誰よりも可能性を感じられる。だから、もっと"自分の音を大事にして"」


天奏は一瞬、言葉を噛みしめるように黙った。


「その言葉……」


「どうしたの?」


天奏は立ち上がり、窓の外の空を見上げた。


「昔、ある人に似たようなことを言われた気がしたんです」


「それは、どんな人?」


天奏は仙道の方を向き、静かに答えた。


「私のことを一番に理解してくれた心友、ですかね」



家に帰ってきた響は、静かな廊下を歩いていた。夕暮れの柔らかな光が、窓から差し込み床に長い影を落とす。


ふと、廊下の奥にある一つの部屋が目に入った。


――愛美の部屋


扉の小さなプレート板には、確かにそう書かれている。


「しばらく帰ってこないよな……」


誰もいない廊下の静けさを確かめるように、響は小さく息を吐き、手を扉の取っ手にかけた。心臓が少しだけ早まるのを感じながら、勇気を振り絞って扉を開ける。


部屋の中には、少し埃が舞い、久しぶりに開けられたような空気が漂っていた。


カーテンの隙間から夕陽の光が差し込み、家具や楽譜をオレンジ色に染める。


奥の机に、何かが置かれているのが目に入った。手を伸ばして近づくと、それはCDケースだった。


オーボエの絵が描かれたパッケージに、響の視線が止まる。音楽家のプロ仕様のものだとすぐにわかった。


思わず手に取る。


「そういえば、昔オーボエやってたって言ってたな」


背後の埃っぽい匂いと、静まり返った空間が、少しだけ懐かしい気持ちを呼び覚ます。


ケースの裏側に目をやると、奏者の名前が書かれていた。


響はしばらく、その文字をじっと見つめた。部屋の静寂と夕暮れの光が、心の奥に小さな波紋を広げていく。



――天奏勇夫(てんそうはやお)



「広っ!」


思わず来島(らいとう)が声を漏らす。


「ステージ側に立つなんて、滅多にないからさ……めっちゃ驚いた」


「中ホールだけどね」


奏多(かなた)は冷静に返す。だが、頬の奥で少しだけ鼓動が早くなるのを感じていた。


久瀬(くぜ)が視線をホール全体に巡らせる。


「人員確認、終わったー?」


各パートリーダーが手で合図を送る。久瀬はひとつずつ確認し終えると、目線を瞬崎に向けた。


「先生、お願いします」


瞬崎が一歩前に出る。ホール内の空気が一瞬、張り詰める。


「今日、このホール練という時間を、1秒1秒、大切に、そして有意義に使いましょう」


「はい!」


息を呑む音すら聞こえそうな静寂の後、瞬崎は少し声を張る。


「では、皆さん。準備を始めてください」


ホール中に響き渡るその声に、誰もが胸を高鳴らせた。


「オーディションの時間です!」

夕暮れに差し込む光の中、響は一枚のCDと向き合った。誰のためでもなく、誰に気付かれるでもなく――自分自身の音と、向き合う瞬間。

このオーディションで、響たちの音はどんな景色を描くだろうか。

緊張と期待が交錯するホールへ、一歩を踏み出す。

感想、評価、ブクマ是非お願いします。

次回もお楽しみに!!


※3月5日は桜咲彩花の誕生日です。番外編にて誕生日スペシャルを公開予定。そちらもお楽しみに!!

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