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心はB♭で響いている  作者: World of Tukimoto
響く音響編 —始動—

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52話 迷いを超えて

お待たせしました。本日から連載を再開いたします。長い間空けてしまいすみません。これからもよろしくお願いします。


あれから、天奏先輩は変わった。

朝、誰よりも早く音楽室に来ている。譜面台の角度を直す仕草が、迷わない。音を出す前の呼吸が、深い。

誰のものでもない、自分の音を出すために。

……僕が変えたんじゃない。

先輩自身が、変わろうとしたんだ。

全体合奏が始まる。


チューニングのB♭の音が、いつもよりまっすぐに伸びた。


「今日は課題曲のBからいきましょう」


瞬崎(しゅんざき)の指揮棒が上がる。


一拍の静寂。


振り下ろされた瞬間、音が立ち上がった。


――揃っている。

縦が合い、横が流れる。

淀みがない。


木管の入りが柔らかく、金管がそれを受け止める。打楽器が呼吸の隙間を縫う。


瞬崎の眉が、わずかに上がった。


「……止めます」


音が止まる。


「今の入り、悪くありません。特に木管。フレーズの受け渡しが自然でした」


視線がゆっくりと天奏(てんそう)へ向く。


「オーボエ、トップの音が安定していますね。無理に主張しない。けれど芯がある。全体が乗りやすいです」


天奏は姿勢を崩さない。


「ありがとうございます」


短い返事。声は落ち着いている。


再び合奏。


今度はクレッシェンドの箇所。


瞬崎が言う。


「そこ、音量で押さないようにしてください。響きで膨らませる。自分の音を遠くに飛ばす意識で吹きましょう」


天奏の音が、すっと空間に伸びる。


張り詰めない。焦らない。

ただ、真っ直ぐ。


それに合わせるように、周囲の音も自然と整っていく。


董白(とうはく)がちらりと天奏を見る。

目を見開いた。


曲が終わる。


瞬崎は一瞬だけ沈黙したあと、静かに言った。


「……良いですね」


一拍。


「昨日までとは、音の重心が違います」


教室の空気がざわつく。


董白(とうはく)が思わず声を上げる。


「天奏さん。素晴らしいじゃないか!昨日までとは大

違いだ。なんかいいことでもあったのかな?」


いつもの調子の軽い声。

視線が一斉に集まる。


天奏は、ほんの少しだけ息を吐いた。

そして、柔らかく微笑む。


「はい」


その一言。

教室が止まる。


柊木(ひいらぎ)が目を丸くした。他の二年は楽器を落としそうになって慌てる。


瞬崎でさえ、口を開きかけて止まった。


――肯定した。

天奏が、自分の変化を。


(ひびき)は、視線を下に落としたままだった。


何も言わない。

指先で、楽器の縁をなぞる。


これが、先輩が自分で掴んだ音。


だから僕は、何も言わない。

ただ、次の小節を待つ。



合奏が終わり、小休止。


譜面台の高さを直しながら、柊木が小声で言う。


「……天奏先輩、なんか別人じゃなかった?」


永井(ながい)が頷く。


「うん、音が迷ってなかった」


奏多(かなた)が腕を組む。


「昨日までは、どこか抑えてる感じだった。今日は抜ける感じ」


三人の視線が、自然と響に集まる。


「響はどう思う?」


響は楽器の縁を指でなぞる。

少しだけ間を置く。

「……え、あーまぁ、うん。変わったと思う」


「だよね?何かあったのかな」


永井が食いつく。


響は視線を上げない。


「さぁ。でも」


一拍。


「先輩が自分で選んだんだと思う」


永井が眉を上げる。


「選んだ?」


「音を」


短い答え。

三人は一瞬黙る。

奏多がぽつり。


「天奏先輩……すごい楽しそうだったね」


響の指が止まる。

楽しそう。

その言葉が胸に残る。


「……そうだね」


それだけ言って、響は譜面を閉じる。


ふと何気なく顔を上げた。


高い天井の向こう、窓から切り取られた空が、やけに明るかった。



天奏は、一人で渡り廊下に出た。


校舎と校舎を繋ぐ、少し古い通路。金属の手すりに触れると、ほんのり熱を帯びている。


夏の風が、まっすぐ吹き抜けた。


制服の裾が揺れる。


遠くで、運動部の掛け声が聞こえる。


その上を、さっきまでの合奏の残響が、まだ胸の奥に残っていた。


「……あ、いたいた」


背後から声。


振り向くと、桜咲(おうさき)が立っていた。風に前髪を揺らしながら、じっと天奏を見る。


「変わったね」


唐突で、でも優しい声音。天奏は、少しだけ目を細めた。


「そう見える?」


「うん」


迷いのない即答。


桜咲は手すりにもたれ、外を見ながら続ける。


「今日の音、迷ってなかった。前は……どこかで止めてた感じがあったけど」


風が強くなる。

天奏の髪が揺れる。


止めていた。

その言葉は、痛いほど正しい。


「……怖かったの」


ぽつりと、天奏は言う。


「自分の音が、誰かを傷つけるかもしれないって」


桜咲は何も言わない。

ただ、待つ。


「だから、自分から閉じ込めてた。誰にも触れさせないように」


風が、二人の間を通り抜ける。

金属がかすかに鳴った。


「でも」


天奏は空を見上げる。

雲がゆっくり流れていく。


「背中を押してくれた人がいたの」


桜咲が視線を向ける。


「へえ」


少しだけ、口角が上がる。


「誰?」


天奏は答えない。


代わりに、目を閉じる。

あの音。

あの確信。


壊せるほどの音なら、もっと強いはずだ。


胸の奥で、その言葉が静かに響く。


「大事なことを、思い出させてもらっただけ」


風が吹く。


その一瞬、天奏の表情は驚くほど穏やかだった。


「音は、壊すためにあるんじゃない。重なるためにあるって」


桜咲は小さく息を吐く。


「……そっか」


それ以上は聞かない。


名前を出さない理由も、出さないことで守っている何かも、きっと分かっている。


「じゃあ、その人にはちゃんと感謝しなきゃね」


天奏は少し考えた。

それから、頷く。


「うん。でも……」


風に紛れそうな声で続ける。


「歩くのは、私だから」


その言葉には、もう迷いがない。

桜咲は、ふっと笑う。


「...そっか」


渡り廊下の先、空が広がる。

夏の風が、もう一度吹き抜けた。


閉じていたものは、もうない。残っているのは、前を向いた呼吸だけ。


渡り廊下の先、空が広がる。

天奏は静かに目を開けた。


同じ空の下で、

誰かもきっと、顔を上げている。



翌日、放課後部活。


音楽室に部員が集まる。

いつもよりざわつきが大きい。


扉が開いた。

瞬崎が入ってくる。


いつも通りの表情。

いつも通りの足取り。


「おはようございます。まずオーディションについて、こちらを配ります」


その声だけで、空気が揃う。

封筒が配られる。

一人一枚、紙が渡る。


久瀬(くぜ)が日程表を見て、思わず声を漏らした。


「え、この日って……ホール練習じゃ」


その言葉を待っていたかのように、瞬崎が口を開く。


「紙に書いてある通り、8月15日にホールを借りて練習することは、以前お伝えしましたね」


一拍。


「董白先生、仙道(せんどう)先生とも相談し、そのホール練習日に東海大会オーディションを行うことにしました」


ざわり、と空気が揺れる。


「ホ、ホールのど真ん中で一人で、ですか……?」


誰かが呟く。


瞬崎は微笑んだまま、はっきりと頷いた。


「えぇ。皆さんはステージ中央に立ち、一人で演奏してください」


さらりと言う。


「審査員は私、瀬戸川(せとがわ)先生、董白先生、仙道先生。そしてお手伝いいただく保護者の皆様です」


息を飲む音。


「もちろん、これはオーディションです」


笑顔のまま。


「誰かが選ばれ、誰かが選ばれない」


教室の温度が下がった気がした。


「ホールという本番さながらの空間で行えば、きっと皆さんの本当の音が出るでしょう」


すると瞬崎はもう一つの束を持ち上げた。


「それから、こちらを」


配られる紙。

東海大会プログラム。

紙がめくられる音が一斉に鳴る。


部員たちはすぐに、自分たちの順番を探し始めた。


「どこだ……」


「13番か。悪くないな」


誰かが言う。


「でも待って。他が……」


ざわめきが止まる。瞬崎は自分の紙を見ながら、淡々と言った。


「今配った通り、東縁(とうえん)高校は22団体中、13番目」


一拍。


豊川(とよがわ)高校は7番。駿河栄聖(するがえいせい)高校は9番。そして——」


少しだけ視線を上げる。


「エーストリア学園は、私たちの前。12番目です」


空気が重くなる。


三神(さんじん)、前に固まりすぎだろ……」


「エト学の後とか絶対比べられる。終わった」


「嫌がらせかよ……」

 

数字が急に“現実”になる。


強豪の演奏直後。

観客の耳が肥えた状態で、自分たちが出る。


ざわめきが広がる前に、瞬崎が口を開いた。


「怖気付く心配はいりませんよ」


声は穏やか。


「これは至って普通の配置です。前が誰であれ、後が誰であれ、関係ありません」


間。


「皆さんは、自分の音を出すだけです」


静かに、はっきりと。


「オーディション含め、楽しみにしていますよ」


その笑顔は、優しいのに逃げ道がなかった。



夏の夕空が明るく、金色の光が建物の影に差し込む中、ひんやりとした風が響の頬をかすめる。


今日の合奏やオーディションの余韻が、まだ胸の奥でくすぶっていた。


玄関の前で響は一度立ち止まり、深く息を吸った。空気は涼しいけれど、胸の中はまだ熱を帯びている。


その瞬間、扉が勢いよく開いた。それにぶつかり響は尻餅をついた。


「痛ッ!」


中から出てきたのは愛美(みなみ)だった。響の目に映るや否や、愛美は舌打ちをして、軽く眉をひそめた。


「うざい」


それだけ言うと、愛美は何も言わずに足早に去っていく。背中の影が夕日に伸びて、あっという間に消えた。


その直後、慌てた様子で母が顔を出す。


「ひ、響!帰ってたの?それより、大丈夫?怪我はない?」


「あ、うん。大丈夫」


響は立ち上がり、少し手で服を直すと、母と一緒に家の中へ入っていった。


――でも、あの愛美の目には、響に対する複雑な憎悪の色が、わずかに滲んでいたように見えた。

天奏の音は迷わず空に伸び、閉じていた心が少しずつほどけていくのがわかった。

その変化を、響は静かに胸の奥で受け止める。楽しそうな先輩の笑顔に、わずかな安心を覚えつつも、夕暮れに映ったあの愛美の目が心の片隅に引っかかる。

小さな影は消えることなく、明日へも微かに響き続けるだろう――。

感想、評価、ブクマ是非お願いします。

次回もお楽しみに!!

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