65話 踏み出した瞬間
音楽というものは、整っているように見えて、実はとても不安定な構造の上に成り立っている。
ひとつの音、ひとつの判断、ほんのわずかな選択の違いが、その全体の流れを大きく変えてしまうことがあるからだ。
響は、包帯の巻かれた手を押さえながら、小さく言った。
「……なんで、それを?」
奏多は少しだけ首を傾げる。
「今日の朝のあの譜面台だけどさ」
視線が、ゆっくりと響の手に落ちる。
「普通に倒れただけじゃ、ああはならないよね。フレームの歪み方も、接合部の壊れ方も……“落ちた”って感じじゃなかった」
淡々とした口調だった。
責めるでもなく、ただ事実を並べていく。
「それに——」
ほんの少しだけ、視線が細くなる。
「“やった側”も、無事じゃ済まない」
そのまま、包帯に触れそうな距離で止まる。
「……ねぇ、響君」
間。
逃げ場を与えない沈黙。
「——あれ、君でしょ?」
短い沈黙。
風の音だけが、わずかに通り抜ける。響は視線を逸らしたまま、小さく吐き捨てるように言った。
「……違う」
間髪入れずに返した言葉。
けれど、その声にはわずかな揺れがあった。
奏多は何も言わない。
ただ、じっと見ている。
「……違うって」
もう一度、今度は少しだけ強く言う。
「そんなわけない。僕が、そんなこと——するはずが...」
言い切れない。
言葉が途中で止まる。
その隙間を、奏多は静かに埋めた。
「じゃあさ」
穏やかな声だった。
「誰がやったの?」
響の肩が、ほんのわずかに揺れる。
「……知らない」
「見てないのに?」
間。
「……」
「じゃあ、“たまたま”あんな壊れ方したって思ってる?」
淡々と、言葉を重ねていく。
逃げ道を、一つずつ潰すように。
「それで、ちょうど同じ日に手も怪我してるんだ」
返事はない。
響は、ただ包帯を押さえる手に力を込める。
「……ねぇ」
少しだけ、声のトーンが落ちる。
「僕、別に怒ってないよ。むしろ、理由の方が気になってる」
その言葉に、響の指先がぴくりと動いた。
「だって理由もなしに、あんなことする人じゃないでしょ」
優しい言い方だった。
否定もしない。責めもしない。
ただ——逃げ場だけが、どこにもない。
「……だからさ」
静かに、決定打を置く。
「“やってない”って言うなら、ちゃんと説明してよ」
沈黙。
長い、長い沈黙。
響の喉が、わずかに動く。
けれど——
言葉は、出てこなかった。
自主練を終え、片付けを済ませる。
今日は珍しく、いつも遅くまで残る人たちも、早々に帰っていった。
静まり返った音楽室。
最後に残ったのは、東堂一人だった。
譜面台を畳む音が、やけに大きく響く。
(……なんだ?)
ほんの些細な違和感。
理由は分からない。
ただ、どこか——
“静かすぎる”。
鍵を閉め、職員室へ向かう。
ノック。
「失礼します」
中には、瞬崎一人だけが残っていた。
「今日は、東堂君が最後なんですか?」
書類から目を上げずに、そう言う。
「今日は、みんな早く帰ったらしいです」
淡々と返しながら、鍵を差し出す。
瞬崎はそれを受け取る。
それだけの、はずだった。
「……そうですか」
短い返答。
それ以上、会話は続かない。
東堂は軽く頭を下げ、そのまま背を向ける。
——その時だった。
ふと、足が止まる。
(……なんだ?)
胸の奥に、引っかかるものがあった。
さっきから消えない、あの違和感。
静けさ。
人の少なさ。
それだけじゃない。
——“何かが起きている気配”。
振り返ることはしない。
けれど、分かる。
(……おかしいな)
ほんのわずかに、口元が歪む。
「……ま、いいか」
小さく呟いて、今度こそ歩き出す。
違和感を、置き去りにするように。
夕方の光は少しだけ傾いていて、風が木の葉を揺らしている。
その音に紛れるように、奏多はぽつりと口を開いた。
「……あと、さっき止まっちゃったけど、瞬崎先生や天奏先輩のことも」
隣に座る響は何も言わず、視線だけを向ける。
奏多は空を見たまま続けた。
「瞬崎先生の言ってること、少し前まではなんか空っぽな感じしたし」
響の指が、わずかに動く。
奏多はそれに気づいているのかいないのか、淡々と話を続ける。
「天奏先輩だって、自分を押し殺してるみたいな音出してたし」
少し間を置く。
「でも最近はさ……なんか違う」
響が小さく問い返す。
「違うって?」
奏多は肩をすくめた。
「うまく言えないけど……“戻ってきてる”感じ?」
その言葉に、響の表情がわずかに変わる。
奏多はそこで、少しだけ声のトーンを落とした。
「……でさ、これ、全部響君が関係してるよね」
風が止まったように感じた。
響はすぐには答えない。
奏多は横目で見ながら、軽く笑う。
「別に責めてないって。むしろ逆」
「逆?」
「それに君の音は、ある意味分かりやすいもん。君の本当の音は、誰かを救うことも出来る」
少しだけ言葉を選ぶように間を空ける。
「でも逆に、誰かを壊しちゃう時もある」
奏多はベンチの背もたれに体を預けた。
「きっと、譜面台のことも、そうなんでしょ?」
奏多は、少しだけ間を空けた。
風の音が、二人の間をすり抜ける。
「……ま、その話は一旦いいや。僕が聞きたいのは…」
何気ない調子で、話題を切り替える。
「オーディションのユーフォソロ」
響の視線が、わずかに揺れた。
「若田先輩、また取ってたよね」
響はすぐに口を開く。
「……それは、先輩の実力が——」
言い終わる前に、奏多が遮った。
「違うでしょ」
声は強くない。けれど、はっきりとした否定だった。
響が言葉を止める。
奏多は、横目でちらりと見る。
「少なくとも、音だけで見れば——響君が外れる理由はない」
静かな断言。
逃げ道を残さない言い方だった。
響の眉が、わずかに寄る。
「……そういう言い方は、先輩に対して——」
「別に先輩が悪いって話じゃないよ」
被せるように、淡々と返す。
「ただ事実の話」
一拍。
そして、ほんの少しだけ視線を細めて、
「響君が負ける要素、どこ?」
——空気が、止まった。
風の音だけが、遅れて戻ってくる。
響は何も言えない。
言葉が、出てこない。
奏多はそれ以上は追わない。ただ、ベンチに体を預けたまま、空を見上げていた。
「それも含めて、たまたまにしては出来すぎてる感じがするんだよ」
ゆっくりと、言葉を置いていく。
「譜面台のことも、オーディションのことも——タイミングが揃いすぎてる」
響の指先が、わずかに強張る。
奏多はそこで一度、言葉を切った。
少しだけ、横目で響を見る。
「……まあ、ただの考えだけどさ」
強くは言わない。
断定もしない。
それでも——
「例えば誰かが、流れ作ってるとか」
ぽつり、と落とす。
「響君が、本来の実力出せないように」
間。
風が通り抜ける。
奏多はそれ以上は言わない。
ただ、静かに待つ。
「……どう思う?」
問いかけは、あくまで軽い。
けれど——
逃げ場は、やっぱりどこにもない。
響の喉が、わずかに動く。
その答えを、奏多は急かすこともなく、ただ見ていた。
しばらくの沈黙。
これ以上隠すのは無駄だ。そう思った。
そして——
「……やられてたよ」
低く、はっきりと。
言い切った。
奏多の視線が、わずかに動く。
響は俯いたまま、続ける。
「地区の時から、ずっと」
一拍。
「東堂先輩に」
空気が、重く沈む。
もう曖昧には戻らない。
ごまかしも、言い訳もない。
ただ事実だけが、そこに置かれる。
「……練習の順番変えられたり、オーディションも——ソロ、譲れって言われた」
淡々と並べる声は、
逆に感情を削ぎ落としていた。
「最初は偶然だと思ってたけど」
小さく息を吐く。
「違った」
その一言で、すべてが確定する。
奏多は少しだけ目を細めた。
「……そっか」
短い相槌。
驚きはない。
むしろ——納得している声音だった。
風が、また木の葉を揺らす。
さっきと同じはずなのに、もう同じ音には聞こえなかった。
奏多は視線を空に向けたまま、ぽつりと続けた。
「でも、それだとちょっと変じゃない?」
響の眉が、わずかに動く。
奏多は構わず続ける。
「だって響君さ」
間。
「あの音、簡単に人黙らせられるじゃん」
淡々とした言い方。
評価でも、皮肉でもない。
「なのにさ、そんなのに君が素直に乗る?」
空気が、わずかに張り詰める。
響の指先が、微かに強張る。
言葉が、出ない。
奏多はそれを見ながら、少しだけ首を傾げた。
「なんていうか……噛み合ってないんだよね。やってることと、中身が」
風が、止まる。
「君なら、一回くらい、音で返すでしょ」
その一言が、
静かに突き刺さる。
響の喉が、わずかに動く。
奏多はそこで、少しだけ考えるように目を細めた。
「……なんだろ」
小さく息を吐く。
「自分のこと、ちゃんと分かってない感じ?」
断定ではない。
あくまで、推測。
それでも——
奏多は、はっきりと口にしていく。
「経験とか、感覚とか——普通なら積み上がってるはずのものが、なんかズレてる気がする」
沈黙。
奏多はすぐに視線を外す。
「……まあ、分かんないけどね」
軽く流す。
けれど、その後に続いた一言は、軽くなかった。
「なんか、“途中から始まってる”みたいな感じ」
奏多はそれ以上は踏み込まなかった。ただ、静かにベンチに体を預けたまま、空を見ていた。
「……変だよね」
ぽつり、と。
その一言だけが、
やけに長く、残った。
昇降口を出て、いつもの自転車置き場に向かった。
残っているのは、自分の自転車だけだった。
やけに、静かだ。
風が吹いて、チェーンのわずかな音だけが鳴る。
東堂はポケットに手を入れ——止まった。
「……やべ」
小さく呟く。
「自転車の鍵、校内だ」
振り返る。
当然、校舎の明かりは落ちている。
職員室の窓も、真っ暗だ。
(……マジかよ)
舌打ちが、夜の空気に吸い込まれる。
瞬崎先生も、もういない。さっき、すぐ帰ると言っていた。
しばらく立ち尽くしたあと、東堂は小さく息を吐いた。
「……しゃーねぇ」
自転車から手を離す。
その瞬間——
カラン、と。
誰も触れていないはずの隣のスタンドが、わずかに揺れた。
東堂の足が止まる。
風だろうか。
そう思って、視線を逸らそうとして——やめた。
(……なんだ?)
胸の奥の違和感が、少しだけ強くなる。
さっきから消えない、あの感覚。
“何かがおかしい”。
東堂は数秒だけその場に立ち尽くしたあと、首を軽く振った。
「……くだらねぇ」
自分に言い聞かせるように呟く。
そして、背を向けた。
歩き出す。
アスファルトを踏む音だけが、一定のリズムで続く。
だが——
数歩進んだところで、ふと足が止まった。
(……なんでだ?)
振り返る。
誰もいない。
当然だ。
分かっている。
それでも——
“視線”のようなものだけが、背中に残っていた。
東堂は眉をひそめる。
「……気持ちわりぃな」
吐き捨てるように言って、今度こそ歩き出した。振り返ることは、もうなかった。
奏多は、ふとポケットからスマホを取り出した。画面を見た瞬間、表情がわずかに変わる。
「うわ……そうだ今日、夜から塾の補修だったんだ。忘れてた」
すると、手に持っていたジュースを一気に流し込んだ。空になった缶を軽く振って、近くのゴミ箱に綺麗に投げ入れる。
そのまま、立ち上がる。
「ごめん、先帰るね」
いつも通りの軽い調子だった。
振り返ることもなく、歩き出す。
「あ、待って!」
反射的に、響が声をかける。
奏多の足が、止まる。
けれど——
その先が、出てこない。
何を言えばいいのか分からない。
さっきまで、あれだけ言葉を詰められていたのに。今は、自分の言葉が見つからない。
沈黙。
奏多は、ゆっくりと振り返った。
表情は、やっぱりいつもと変わらない。
少しだけ考えるように目を細めてから、口を開く。
「別に、君を責めてるわけじゃないんだよ」
穏やかな声。
けれど、軽くはない。
「たださ、思ってることがあるなら、ちゃんと言ってみたらどう?」
風が、二人の間を抜ける。
「少なくとも——」
視線が、まっすぐ響に向く。
「今の君は、音だけじゃないんだから」
それだけ言って、今度こそ背を向ける。歩き出す足は、さっきと同じ速さだった。
引き止める理由は、もうない。
胸の奥に残った言葉だけが、静かに沈んでいく。
しばらくして、響も立ち上がり、公園を後にした。
公園を出て、しばらく。ある交差点前。
響は信号を待っていた。さっきまで座っていたせいか、足が少し痺れている。その感覚をほぐすように、軽く踏み替えた。
ふと、背後に気配を感じた。
振り返る。
「……ッ!」
東堂先輩だった。向こうはスマホの画面に目を落としたまま、こちらに気づいていない。
目が合った瞬間、東堂はわずかに眉をひそめ、軽く舌打ちする。
いつものことだった。
やがて信号が青に変わる。
東堂は響を追い越すように、横断歩道へと足を踏み出した。スマホから目は離さないまま。
響もそれに続くように歩き出そうとした、その瞬間。
——遠くから、異音が混ざる。
エンジン音。
加速。
そして、遅れて気づくクラクション。
(……え?)
響は視線を上げる。
反対車線。
何かが、異常な速度で近づいていた。大きな影が、異常な速度で膨らんでいく。それは...
トラック。
その車線の先にいるのは、
東堂先輩。
スマホを眺めており、気づいていない。
『……本当に、何も分かってないんですか?』
また、あの声だ。誰のものか分からない。
しかし、気にしてる暇は無かった。考えるより先に、身体が動く。
「先輩ッ!!」
響は横断歩道を飛び出し、東堂の背中を強く押し出す。
その瞬間。
——遅かった。
金属が軋む音。
世界が一瞬、白く潰れる。
クラクションが途切れ、代わりに轟音だけが残った。
音が全てを飲み込んだ。
人の言葉、選択、そして無意識の行動。それらが交差するとき、時に予想もしなかった方向へと進んでいく。
何が正しくて、何が間違っていたのか。
その答えはまだ明かされていない。
感想、評価、ブクマ是非お願いします。
次回もお楽しみに...




