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心はB♭で響いている  作者: World of Tukimoto
響く音響編 —始動—

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65/73

65話 踏み出した瞬間

音楽というものは、整っているように見えて、実はとても不安定な構造の上に成り立っている。

ひとつの音、ひとつの判断、ほんのわずかな選択の違いが、その全体の流れを大きく変えてしまうことがあるからだ。

(ひびき)は、包帯の巻かれた手を押さえながら、小さく言った。


「……なんで、それを?」


奏多(かなた)は少しだけ首を傾げる。


「今日の朝のあの譜面台だけどさ」


視線が、ゆっくりと響の手に落ちる。


「普通に倒れただけじゃ、ああはならないよね。フレームの歪み方も、接合部の壊れ方も……“落ちた”って感じじゃなかった」


淡々とした口調だった。

責めるでもなく、ただ事実を並べていく。


「それに——」


ほんの少しだけ、視線が細くなる。


「“やった側”も、無事じゃ済まない」


そのまま、包帯に触れそうな距離で止まる。


「……ねぇ、響君」


間。

逃げ場を与えない沈黙。


「——あれ、君でしょ?」



短い沈黙。


風の音だけが、わずかに通り抜ける。響は視線を逸らしたまま、小さく吐き捨てるように言った。


「……違う」


間髪入れずに返した言葉。

けれど、その声にはわずかな揺れがあった。


奏多は何も言わない。

ただ、じっと見ている。


「……違うって」


もう一度、今度は少しだけ強く言う。


「そんなわけない。僕が、そんなこと——するはずが...」


言い切れない。

言葉が途中で止まる。


その隙間を、奏多は静かに埋めた。


「じゃあさ」


穏やかな声だった。


「誰がやったの?」


響の肩が、ほんのわずかに揺れる。


「……知らない」


「見てないのに?」


間。


「……」


「じゃあ、“たまたま”あんな壊れ方したって思ってる?」


淡々と、言葉を重ねていく。

逃げ道を、一つずつ潰すように。


「それで、ちょうど同じ日に手も怪我してるんだ」


返事はない。

響は、ただ包帯を押さえる手に力を込める。


「……ねぇ」


少しだけ、声のトーンが落ちる。


「僕、別に怒ってないよ。むしろ、理由の方が気になってる」


その言葉に、響の指先がぴくりと動いた。


「だって理由もなしに、あんなことする人じゃないでしょ」


優しい言い方だった。

否定もしない。責めもしない。

ただ——逃げ場だけが、どこにもない。


「……だからさ」


静かに、決定打を置く。


「“やってない”って言うなら、ちゃんと説明してよ」


沈黙。

長い、長い沈黙。


響の喉が、わずかに動く。


けれど——

言葉は、出てこなかった。



自主練を終え、片付けを済ませる。


今日は珍しく、いつも遅くまで残る人たちも、早々に帰っていった。


静まり返った音楽室。

最後に残ったのは、東堂(とうどう)一人だった。


譜面台を畳む音が、やけに大きく響く。


(……なんだ?)


ほんの些細な違和感。

理由は分からない。


ただ、どこか——

“静かすぎる”。


鍵を閉め、職員室へ向かう。


ノック。


「失礼します」


中には、瞬崎(しゅんざき)一人だけが残っていた。


「今日は、東堂君が最後なんですか?」


書類から目を上げずに、そう言う。


「今日は、みんな早く帰ったらしいです」


淡々と返しながら、鍵を差し出す。

瞬崎はそれを受け取る。


それだけの、はずだった。


「……そうですか」


短い返答。

それ以上、会話は続かない。


東堂は軽く頭を下げ、そのまま背を向ける。


——その時だった。

ふと、足が止まる。


(……なんだ?)


胸の奥に、引っかかるものがあった。

さっきから消えない、あの違和感。


静けさ。

人の少なさ。

それだけじゃない。


——“何かが起きている気配”。


振り返ることはしない。

けれど、分かる。


(……おかしいな)


ほんのわずかに、口元が歪む。


「……ま、いいか」


小さく呟いて、今度こそ歩き出す。

違和感を、置き去りにするように。



夕方の光は少しだけ傾いていて、風が木の葉を揺らしている。


その音に紛れるように、奏多はぽつりと口を開いた。


「……あと、さっき止まっちゃったけど、瞬崎先生や天奏先輩のことも」


隣に座る響は何も言わず、視線だけを向ける。

奏多は空を見たまま続けた。


「瞬崎先生の言ってること、少し前まではなんか空っぽな感じしたし」


響の指が、わずかに動く。


奏多はそれに気づいているのかいないのか、淡々と話を続ける。


「天奏先輩だって、自分を押し殺してるみたいな音出してたし」


少し間を置く。


「でも最近はさ……なんか違う」


響が小さく問い返す。


「違うって?」


奏多は肩をすくめた。


「うまく言えないけど……“戻ってきてる”感じ?」


その言葉に、響の表情がわずかに変わる。


奏多はそこで、少しだけ声のトーンを落とした。


「……でさ、これ、全部響君が関係してるよね」


風が止まったように感じた。


響はすぐには答えない。


奏多は横目で見ながら、軽く笑う。


「別に責めてないって。むしろ逆」


「逆?」


「それに君の音は、ある意味分かりやすいもん。君の本当の音は、誰かを救うことも出来る」


少しだけ言葉を選ぶように間を空ける。


「でも逆に、誰かを壊しちゃう時もある」


奏多はベンチの背もたれに体を預けた。


「きっと、譜面台のことも、そうなんでしょ?」


奏多は、少しだけ間を空けた。

風の音が、二人の間をすり抜ける。


「……ま、その話は一旦いいや。僕が聞きたいのは…」


何気ない調子で、話題を切り替える。


「オーディションのユーフォソロ」


響の視線が、わずかに揺れた。


若田(わかだ)先輩、また取ってたよね」


響はすぐに口を開く。


「……それは、先輩の実力が——」


言い終わる前に、奏多が遮った。


「違うでしょ」


声は強くない。けれど、はっきりとした否定だった。


響が言葉を止める。


奏多は、横目でちらりと見る。


「少なくとも、音だけで見れば——響君が外れる理由はない」


静かな断言。

逃げ道を残さない言い方だった。


響の眉が、わずかに寄る。


「……そういう言い方は、先輩に対して——」


「別に先輩が悪いって話じゃないよ」


被せるように、淡々と返す。


「ただ事実の話」


一拍。


そして、ほんの少しだけ視線を細めて、


「響君が負ける要素、どこ?」


——空気が、止まった。

風の音だけが、遅れて戻ってくる。


響は何も言えない。

言葉が、出てこない。


奏多はそれ以上は追わない。ただ、ベンチに体を預けたまま、空を見上げていた。


「それも含めて、たまたまにしては出来すぎてる感じがするんだよ」


ゆっくりと、言葉を置いていく。


「譜面台のことも、オーディションのことも——タイミングが揃いすぎてる」


響の指先が、わずかに強張る。


奏多はそこで一度、言葉を切った。

少しだけ、横目で響を見る。


「……まあ、ただの考えだけどさ」


強くは言わない。

断定もしない。


それでも——


「例えば誰かが、流れ作ってるとか」


ぽつり、と落とす。


「響君が、本来の実力出せないように」


間。

風が通り抜ける。


奏多はそれ以上は言わない。

ただ、静かに待つ。


「……どう思う?」


問いかけは、あくまで軽い。


けれど——

逃げ場は、やっぱりどこにもない。


響の喉が、わずかに動く。


その答えを、奏多は急かすこともなく、ただ見ていた。


しばらくの沈黙。

これ以上隠すのは無駄だ。そう思った。


そして——


「……やられてたよ」


低く、はっきりと。

言い切った。


奏多の視線が、わずかに動く。

響は俯いたまま、続ける。


「地区の時から、ずっと」


一拍。


「東堂先輩に」


空気が、重く沈む。


もう曖昧には戻らない。

ごまかしも、言い訳もない。

ただ事実だけが、そこに置かれる。


「……練習の順番変えられたり、オーディションも——ソロ、譲れって言われた」


淡々と並べる声は、

逆に感情を削ぎ落としていた。


「最初は偶然だと思ってたけど」


小さく息を吐く。


「違った」


その一言で、すべてが確定する。

奏多は少しだけ目を細めた。


「……そっか」


短い相槌。

驚きはない。

むしろ——納得している声音だった。


風が、また木の葉を揺らす。


さっきと同じはずなのに、もう同じ音には聞こえなかった。


奏多は視線を空に向けたまま、ぽつりと続けた。


「でも、それだとちょっと変じゃない?」


響の眉が、わずかに動く。


奏多は構わず続ける。

「だって響君さ」


間。


「あの音、簡単に人黙らせられるじゃん」


淡々とした言い方。

評価でも、皮肉でもない。


「なのにさ、そんなのに君が素直に乗る?」


空気が、わずかに張り詰める。


響の指先が、微かに強張る。

言葉が、出ない。


奏多はそれを見ながら、少しだけ首を傾げた。


「なんていうか……噛み合ってないんだよね。やってることと、中身が」


風が、止まる。


「君なら、一回くらい、音で返すでしょ」


その一言が、

静かに突き刺さる。


響の喉が、わずかに動く。


奏多はそこで、少しだけ考えるように目を細めた。


「……なんだろ」


小さく息を吐く。


「自分のこと、ちゃんと分かってない感じ?」


断定ではない。

あくまで、推測。


それでも——

奏多は、はっきりと口にしていく。


「経験とか、感覚とか——普通なら積み上がってるはずのものが、なんかズレてる気がする」


沈黙。

奏多はすぐに視線を外す。


「……まあ、分かんないけどね」


軽く流す。

けれど、その後に続いた一言は、軽くなかった。


「なんか、“途中から始まってる”みたいな感じ」


奏多はそれ以上は踏み込まなかった。ただ、静かにベンチに体を預けたまま、空を見ていた。


「……変だよね」


ぽつり、と。

その一言だけが、

やけに長く、残った。



昇降口を出て、いつもの自転車置き場に向かった。


残っているのは、自分の自転車だけだった。


やけに、静かだ。

風が吹いて、チェーンのわずかな音だけが鳴る。


東堂はポケットに手を入れ——止まった。


「……やべ」


小さく呟く。


「自転車の鍵、校内だ」


振り返る。

当然、校舎の明かりは落ちている。


職員室の窓も、真っ暗だ。


(……マジかよ)


舌打ちが、夜の空気に吸い込まれる。


瞬崎先生も、もういない。さっき、すぐ帰ると言っていた。


しばらく立ち尽くしたあと、東堂は小さく息を吐いた。


「……しゃーねぇ」


自転車から手を離す。

その瞬間——


カラン、と。

誰も触れていないはずの隣のスタンドが、わずかに揺れた。


東堂の足が止まる。


風だろうか。

そう思って、視線を逸らそうとして——やめた。


(……なんだ?)


胸の奥の違和感が、少しだけ強くなる。

さっきから消えない、あの感覚。

“何かがおかしい”。


東堂は数秒だけその場に立ち尽くしたあと、首を軽く振った。


「……くだらねぇ」


自分に言い聞かせるように呟く。

そして、背を向けた。


歩き出す。


アスファルトを踏む音だけが、一定のリズムで続く。


だが——

数歩進んだところで、ふと足が止まった。


(……なんでだ?)


振り返る。

誰もいない。

当然だ。

分かっている。


それでも——

“視線”のようなものだけが、背中に残っていた。


東堂は眉をひそめる。


「……気持ちわりぃな」


吐き捨てるように言って、今度こそ歩き出した。振り返ることは、もうなかった。



奏多は、ふとポケットからスマホを取り出した。画面を見た瞬間、表情がわずかに変わる。


「うわ……そうだ今日、夜から塾の補修だったんだ。忘れてた」


すると、手に持っていたジュースを一気に流し込んだ。空になった缶を軽く振って、近くのゴミ箱に綺麗に投げ入れる。


そのまま、立ち上がる。


「ごめん、先帰るね」


いつも通りの軽い調子だった。

振り返ることもなく、歩き出す。


「あ、待って!」


反射的に、響が声をかける。

奏多の足が、止まる。


けれど——

その先が、出てこない。

何を言えばいいのか分からない。


さっきまで、あれだけ言葉を詰められていたのに。今は、自分の言葉が見つからない。


沈黙。

 

奏多は、ゆっくりと振り返った。

表情は、やっぱりいつもと変わらない。


少しだけ考えるように目を細めてから、口を開く。


「別に、君を責めてるわけじゃないんだよ」


穏やかな声。

けれど、軽くはない。


「たださ、思ってることがあるなら、ちゃんと言ってみたらどう?」


風が、二人の間を抜ける。


「少なくとも——」


視線が、まっすぐ響に向く。


「今の君は、音だけじゃないんだから」


それだけ言って、今度こそ背を向ける。歩き出す足は、さっきと同じ速さだった。


引き止める理由は、もうない。


胸の奥に残った言葉だけが、静かに沈んでいく。


しばらくして、響も立ち上がり、公園を後にした。



公園を出て、しばらく。ある交差点前。


響は信号を待っていた。さっきまで座っていたせいか、足が少し痺れている。その感覚をほぐすように、軽く踏み替えた。


ふと、背後に気配を感じた。

振り返る。


「……ッ!」


東堂先輩だった。向こうはスマホの画面に目を落としたまま、こちらに気づいていない。


目が合った瞬間、東堂はわずかに眉をひそめ、軽く舌打ちする。


いつものことだった。


やがて信号が青に変わる。


東堂は響を追い越すように、横断歩道へと足を踏み出した。スマホから目は離さないまま。


響もそれに続くように歩き出そうとした、その瞬間。


——遠くから、異音が混ざる。


エンジン音。

加速。

そして、遅れて気づくクラクション。


(……え?)


響は視線を上げる。

反対車線。


何かが、異常な速度で近づいていた。大きな影が、異常な速度で膨らんでいく。それは...


トラック。

その車線の先にいるのは、


東堂先輩。

スマホを眺めており、気づいていない。



『……本当に、何も分かってないんですか?』



また、あの声だ。誰のものか分からない。


しかし、気にしてる暇は無かった。考えるより先に、身体が動く。


「先輩ッ!!」


響は横断歩道を飛び出し、東堂の背中を強く押し出す。


その瞬間。


——遅かった。

金属が軋む音。

世界が一瞬、白く潰れる。


クラクションが途切れ、代わりに轟音だけが残った。


音が全てを飲み込んだ。

人の言葉、選択、そして無意識の行動。それらが交差するとき、時に予想もしなかった方向へと進んでいく。

何が正しくて、何が間違っていたのか。

その答えはまだ明かされていない。

感想、評価、ブクマ是非お願いします。

次回もお楽しみに...

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