49話 待って……
朝の空気は、昨日より少し冷たかった。普通の日常、普通の登校。けれど、その静けさの裏に、誰も気づかない波紋が広がっていた。
今日は、ふたりの想いがすれ違う――それだけでは終わらない一日。
目を開けた瞬間、天井の蛍光灯が滲んで見えた。
白い光。
冷たい床の感触。
鼻の奥に、埃の匂い。
(……ここ、どこ?)
体を起こそうとした瞬間、足に鈍い痛みが走る。
「やっと目、覚ましたか。冴山」
低い声。
ゆっくり顔を向けると、そこに立っていたのは――見慣れた制服の男子生徒たち。
「……先輩?」
返事は、笑い声だった。
乾いた、感情のない笑い。
「なんのつもりですか」
言い終わるより先に、足元に衝撃が走る。
視界が揺れる。
呼吸が乱れる。
床に手をつく。
「痛ッ……」
「立場、分かってんのか?」
胸ぐらを掴まれる。
視界が近づく。
息がかかる距離。
「簡単な話だ。本当はな、お前にも協力してほしかった」
声は怒鳴っていない。
それが余計に怖い。
「でもお前は、天奏についた」
名前を出された瞬間、心臓が強く跳ねる。
「だから、お前を排除する」
耳鳴りがした。
「お前が消えりゃ、天奏も勝手に折れる」
その理屈が、あまりにも平然としていて。
「……そんなこと」
「ただでは帰さねぇ」
その言葉と同時に、フルートケースが蹴られて床を滑る。
カラン、と金具の音が響く。
音楽の音じゃない。
壊れる音。
夕方の空は、少しだけ紫がかっていた。校門を出た天奏は、オーボエケースを抱え直す。
(……よかった)
胸の奥が、まだ少し温かい。
「ありがとう」
比奈の声が、何度も思い出される。天奏は、ほんの少しだけ笑った。
(私も、ありがとう)
歩幅が軽い。
足取りが、弾む。
階段を降りるとき、ふと、立ち止まりかける。
(……何か)
でも、すぐに首を振る。
(気のせい、だよね)
また歩き出した。
朝の空気は、昨日より少しだけ冷たかった。頬のガーゼは外れている。
指の包帯も、もうない。鏡を見たとき、少しだけほっとした。
(今日も、頑張ろう)
部室に入る。
「冴山さん?今日は休みだって」
「……そ、そうですか」
ほんの一瞬だけ、胸が空く。
(昨日、あんなに話したのに)
少し離れた場所で、別の声。
「えー、簗取先輩と束原先輩も休み?」
「なんか珍しくない?」
天奏の指が、わずかに止まる。
けれど、何も言わない。
(偶然、だよね)
オーボエを組み立てる。
リードを差し込む。
息を入れる。
――音が、少しだけ硬い。
昨日よりも。
理由は分からない。
でも、胸の奥に、うまく名前のつかないものがある。
(……比奈、今日いないのか)
昨日の「ありがとね」が、思い出される。天奏は、ほんの少しだけ、寂しそうに笑った。
「明日、一緒に吹こう」
誰にも聞こえない声で、そう呟く。
「ほら、なんとか言ってみろよ!」
「痛い、やめて」
人気の無い暗い倉庫。比奈は先輩達に絡まれていた。
「お前はずっと自分が上だと思ってた。違うか?」
「そ、それは...」
「天奏は天才だ。俺達やお前と違って。俺らなんて眼中に無いような演奏しやがる」
「それは...」
「俺はイライラすんだよ。年下のくせに。俺らには向かうような演奏する奴がな」
先輩はイライラのあまり、近くのドラム缶を蹴り飛ばす。ゴンッと鈍い音が響き渡る。
「俺達は見てたんだよ。昨日、お前が天奏と一緒に話したり吹いてるところをな。なんともまぁ楽しそうに吹いてたじゃねぇかよ!!!」
比奈の右腕を思いっきり踏みつける。
「あぁぁ!!!」
後ろの先輩達も嘲笑うかのように見下している。
「だけどなぁ比奈、天奏はお前のことなんかなんとも思ってねぇ。あいつは自分以外のやつはみんな下手くそだと思ってるんだよ」
(そ、その通りだ)
「自分を特別だと思い込んでるクズだよ」
(そうだ。天奏は...)
「お前のことなんて、なんとも思ってないんだよ!!ははははははは!!!!!」
(その通りだ。私は、私は......)
天奏は、比奈の家へ向かっていた。今日の授業の課題やプリント、連絡だよりなどを届けるためだ。
冴山宅の玄関前に立ち、オーボエケースを抱えながらインターホンを押す。
しばらくして、扉がゆっくり開いた。中から出てきたのは、比奈ではなかった。おそらく親御さんだろう。
「あの、えっと……」
「あ、もしかして天奏さん?」
「あ、はい。比奈さんにプリントとか課題を届けに来ました」
「あら、わざわざありがとうね。でもごめんね。比奈は今出かけてるのよ」
「そ、そうなんですか……」
「うん、朝から用事があるって飛び出して行っちゃった。とりあえずこれ、受け取っておくね」
「はい、お願いします」
そう言うと、扉は閉まった。天奏は少しだけむっとした顔で歩き出す。
(……出かけられるなら学校来ればいいのに)
小さく苦笑をこぼし、帰路についた。
それから数日間、比奈は一度も登校しなかった。電話をしても、留守電にすぐ切り替わるだけで、全く繋がらなかった。
(全く、比奈ったら、どんだけサボりなんだろう)
天奏は少し呆れながらも、普段通りに練習を続けていた。授業の内容を整理したり、部活の練習計画を考えたりして、頭の中は淡々と日常のことでいっぱいだった。
ある日の夕方、家に帰ると、居間のテレビからニュースの声が聞こえてきた。
「今日未明、市内の旧しなのあ第四倉庫周辺で、謎の血痕が発見されました。警察は事件性も視野に入れ、周辺の聞き込み調査と、倉庫内部の捜索を進めています。現場は現在、立ち入り禁止となっており、詳しい状況は明らかになっていません」
天奏はオーボエケースを玄関に置き、少しだけ画面を見た。
映像には、薄暗い倉庫の外観、赤い血の跡と思われる染み、そして現場を囲む黄色い規制線が映し出されている。
警察官たちが懐中電灯で周囲を調べる姿も見えた。
「近隣の住民によりますと、早朝に倉庫周辺で奇妙な音を聞いたとの証言もあるとのことです。現在、警察は目撃者の聴取を行い、現場の検証を続けています」
天奏は、特に眉をひそめるわけでもなく、画面をぼんやりと眺めていた。
(ふーん、旧しなのあ第四倉庫ね……)
ニュースはさらに続く。
「倉庫は長らく無人の状態で、倉庫内の物品はほとんど撤去されています。地元住民からは不審な出入りも目撃されていたという情報もあり、警察は不審者の捜索も行なっています」
カメラが映す倉庫の壁には、赤い点々がついていて、それが血痕であることを強調するように、ズームがかかる。
「現場周辺では、子どもや通行人の安全確保のため、警察が警戒を強めています。今後も続報が入り次第、随時お伝えします」
天奏は、軽くため息をつき、オーボエを抱え直した。
(ま、ニュースか……ちょっと物騒だな)
それだけだ。
テレビの向こうで騒いでいる現場と、自分の生活は、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。
比奈がどうしているのか、そんなことは頭の隅にもなかった。
天奏は、ふと窓の外を見る。夕暮れの光が、町を淡く染めている。
(明日も練習、頑張ろう)
その思いだけを胸に、オーボエの手入れを始めた。
さらに月日が経ち、そろそろ部員たちも比奈への心配が限界に近づいていた頃――
音楽室の扉が大きく開いた。
「比奈!!!」
驚きの声が一斉に上がる。長く姿を見せなかった比奈が、笑顔を浮かべて立っていたのだ。
「ごめん、ずっと休んじゃって」
息を整えながら、少し照れくさそうに微笑む比奈に、部員全員が一瞬、言葉を失った。
「なんで今まで来なかったの? 本当に心配したんだから!」
「……なんか、あったの?」
問いかけに比奈は肩をすくめ、軽く笑った。
「いやー、ちょっと色々用事があってね」
「全く、心配させないでよね」
「あはは、ごめんて。また、練習頑張るから」
部員の一人がふと気づいたように、比奈の腕を見る。
「あれ、その腕の傷はどうしたの?」
比奈は腕に貼られたガーゼを見下ろし、苦笑を浮かべる。
「あーこれ?昨日、思いっきり階段から転げ落ちちゃってさ、こうなったの」
「もう、気を付けてよ。フルート、腕めっちゃ大事だし」
「それは他の楽器も同じでしょ?」
視線が比奈と天奏の間で交わる。比奈は軽くウインクをして、天奏に小さな合図を送った。
天奏は少し微笑み、胸の奥でほっとしたような感覚を覚えた。
教室には、久しぶりに戻ってきた比奈を囲む温かな空気が広がっていた。
部員たちの笑い声や小さな会話が飛び交い、長らく止まっていた時間が、ようやく動き出す。
天奏は深く息をつき、オーボエケースを抱え直す。
(よし、今日からまた頑張ろう)
その声は、自分自身への励ましでもあり、周りへの約束でもあった。
放課後の音楽室には、昼間の賑やかさとは打って変わって、静かな時間が流れていた。
天奏はオーボエを構え、比奈のフルートと音を合わせる。
「じゃあ、ソリ部分、最初から行くよ」
「うん、任せるね」
息を揃え、ゆっくりと演奏が始まる。天奏の音は、以前よりも明らかに深みと安定感が増していた。比奈のフルートに、まるで自然と寄り添うように溶け込む。
「わっ……天奏、今日すごく音が綺麗」
「そうかな……比奈のフルートも、すごくしっくりきてる」
二人の呼吸は互いに影響し合い、音の重なりは部室に柔らかく広がった。
「このソリ、前よりも強弱が自然に出せるようになったね」
「うん、天奏が合わせやすいから、私も吹きやすい」
天奏は軽く微笑む。指先の動きが滑らかで、音の立ち上がりが鮮明だ。比奈も思わず息をのむ。
「最後のフレーズ、もっと伸ばしてみようか」
「うん、天奏の音に負けないようにする」
二人の音が重なり合い、曲のクライマックスへと近づく。
「……いいね、この感じ」
「うん、完璧じゃなくても、これで十分」
演奏を終え、二人は少し息をつく。比奈の額には汗がにじみ、天奏も少しだけ肩で息をしていた。
「天奏、ありがとう。やっぱり一緒に吹くと、全然違う」
「こっちこそ……比奈がいるから、私も思い切って吹けるんだ」
言葉は少なめだが、互いの目にわずかな笑みが浮かぶ。
部室の窓から差し込む夕陽が、二人の影をゆっくり伸ばした。
「次は、もっと息を揃えてみよう」
「うん、今日の続きだね」
再び息を整え、二人は次のフレーズに向けて構えた。
ふと、天奏が腕時計に目をやった。
「あ、今日塾あるんだった! ごめん、先帰るね」
「え……」
比奈は言葉を失ったまま、ただ見つめるしかなかった。
天奏は急いでオーボエを片付け、ケースを抱え直す。教室の戸を開けると、そのまま廊下へ消えていった。
「ま、待って……」
比奈の声は出たはずだった。はずだったのに、かすれ、震え、教室の空気に溶けて消えた。天奏には届かない。
慌てた比奈は立ち上がり、背中で感じた足取りに合わせて教室を飛び出した。しかし、廊下にはもう誰もいなかった。
「天奏まで見捨てるんだ...」
比奈は無意識に笑っていた。自分でもなぜ笑っているのか分からない。目からは、血が滲んでいることに気付かないまま。
背後から、聞き覚えのある、しかし狂気じみた足音が迫ってくる。
「今日もたっぷり遊んでやるよぉ」
「は、はは、はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは……」
ある日の朝。今日は珍しく、二人で登校していた。駅で電車を待つ。
駅のアナウンスが響く。
「まもなく、電車がまいります。黄色い線の内側に下がってください」
比奈は静かに口を開く。
「天奏……」
「ん?」
「天奏は、音楽、好き?」
「も、もちろん。比奈と一緒に吹けて、楽しいし、大好き」
天奏がそう言うと、比奈はゆっくりと天奏に近づき、そっと唇を重ねる。
天奏は混乱し、頬を赤くしながらも、わずかに微笑む。
比奈はそのまま、静かに笑みを浮かべた。 その瞳の奥に、何か冷たい光が宿る。
「ふふ、私も……」
比奈は一歩後ろに下がる。 そして、震えるような笑みのまま、低く囁くように言った。
「私も……大っ嫌いだよ」
その声と同時に、比奈は線路の方へゆっくりと倒れていく。
風と踏切の警告音、そして電車の轟音――すべてが比奈を包んだ。
感想、評価、ブクマ是非お願いします。
次回もお楽しみに...
※ 今回からこの作品にR15(残酷な描写あり)の設定を付けることにします。苦手な方はご注意ください。




