44話 不調のオーボエ
いつも通りの朝、いつも通りの練習。
だけど、どこか違う空気が部室に漂っていた。
微かに揺れる音と、言葉にできない違和感。
今日もまた、音楽が静かに何かを告げている――。
朝の校門を抜けると、空は朝の光に染まり始めていた。
校舎の影が長く伸び、登校する生徒たちが足早に教室へ向かう。
若田と久瀬は、その流れの中を並んで歩いていた。
久瀬が口を開く。
「みんな、確かに上手くなってる。でも……東海ってなると、やっぱりもっと全体のレベルを引き上げないといけないよね」
「確かに」
若田は頷く。
「それこそ、技術的に“見本”になってくれる人が、もっといてもいいと思うんだ」
「例えば?」
若田が促すと、久瀬は指折り数えるように言った。
「響君でしょ。あと……ちょっと荒いけど、東堂君とか」
そこで、一拍。
「あとは……天奏さん、とか」
若田の足が、ぴたりと止まった。
「……天奏か」
久瀬が思い出したように言った。
「あ、そういえば、若田君も天奏さんと同じ寵栄中だったよね」
若田の表情が、一瞬だけ硬くなる。
「天奏さんさ……最近、なんか調子悪いんじゃないかな。若田君、同じ中学だし、なんか助けになってあげないの?」
若田は考えるように下を向くと静かに口を開いた。
「うん、でも今は関わらない方がいいと思う」
「どうして、同じ部員だし、何より同じ中学なら話しやすいでしょ」
若田は分かっていた。
――冴山さんの件がある。
それがある限り、関われるわけがないんだと......
「では、もう一度頭から」
瞬崎の合図で、音が重なる。
「金管は二小節目、もう少し音を前にしてください」
「クラリネットは、ハーモニー下げすぎないように」
「打楽器、テンポ引っ張らないで。今は我慢してください」
瞬崎の指示は的確で、テンポよく飛んでいく。
董白も、トランペットパートに視線を向けて一言。
「今の入り、全員で揃えろ。個人で突っ込むな」
仙道はパーカスを止めた。
「スネアのロール、もっときめ細かくしてください」
――いつも通りだ。
誰もがそう思っていた。
「もう一回、頭から」
再開。
だが、三十小節ほど進んだところで。
「……ストップ」
瞬崎の声が、少し低くなる。
「オーボエ、今のフレーズ」
天奏は、すぐに顔を上げた。
「入りが、半拍遅れています」
「……はい」
「もう一回」
再開。
今度は、そこを越えた。
が――。
「ちょいちょい、ストップ」
今度は董白だった。
「今の、音程」
空気が、わずかに張りつめる。
「天奏、わずかに上ずってる」
天奏は一瞬、唇を噛み、それから頷いた。
「すみません」
再々開。
だが、流れが続かない。
フレーズの終わりが揺れる。
呼吸が浅い。
音色が、定まらない。
「……ストップ」
仙道が、珍しく強めに言った。
「リード、変えました?」
「変えてません」
「じゃあ、奏法ですかね」
沈黙。
瞬崎は、腕を組んだまま、しばらく何も言わなかった。
合奏室に流れるのは、空調の音だけ。
董白がぽつりと呟く。
「……今日は、止まりすぎだな」
誰も否定しない。
明らかに、どこかがおかしい。
瞬崎の視線が、オーボエパートに向いた。天奏は、楽器を構えたまま、微動だにしない。
――技術じゃない。
その場にいる全員が、薄々気づき始めていた。
「すみません、先生」
天奏が静かに手を挙げる。
「天奏さん、どうしましたか?」
「体調が悪いので、保健室に行ってきます」
瞬崎は少し下を向いた後、すぐに戻して口を開いた。
「分かりました。あまり無理はしないでくださいね」
「失礼します」
そう言って天奏は音楽室を後にした。
「仙道君」
董白が口を開く。
「彼女大丈夫かい?さすがにおかしいぞ」
「確かに、普通ではありませんね」
「ちゃんと指導してるのかい?」
「あなたには、言われたくありません」
仙道ははっきり言った。
「もともとはあなたが私を推薦したんですよね?」
「な、なんだとー!!」
そんなやりとりに部内の空気は少し緩む。瞬崎がそんな空気をすぐに正した。
「董白先生、仙道先生、今は練習中ですよ?」
「あ、すみません」
2人揃って頭を下げる。
「皆さん、続けます。もう一度頭から」
瞬崎は、そんなことお構いなしかのように続けていく。
全体合奏が終わり、バスパートの練習教室に戻ると、空気はどこか重かった。
ケースを置く音、椅子を引く音。それらがやけに大きく響く。
誰からともなく練習を再開する中、来島が、独り言のようにぽつりと口を開いた。
「……今日の天奏先輩、いつも以上に不調だったな。結局あれ以降、帰って来なかったし」
誰に向けたわけでもないその言葉に、音が一瞬だけ途切れる。
「俺もそう思ってた」
香久山が、楽器を手入れしながら頷いた。
「入りも音程も、あんなに崩れる人じゃないだろ」
「僕も思った」
今伊も小さく同意する。
「ミスっていうより……なんか、集中できてない感じだったかな」
教室の端で、桜咲は窓の方を向いたまま、何も言わない。
夕焼けに染まり始める空を、じっと見つめている。外では、部活帰りの生徒たちが校門へと向かっていく。
その光景は、あまりにもいつも通りだった。
一方で、教室の隅。
若田は誰とも言葉を交わさず、黙々と練習を続けていた。
低く、安定した音だけが、一定のリズムで鳴っている。
視線は楽譜に落ちたまま。
誰の顔も、見ようとしない。
響は、その様子を横目で見ながら、楽器を構え直した。
――やっぱり、何かある。理由はまだ分からない。
教室には再び音が戻る。だがその中に、言葉にできない違和感だけが、確かに残っていた。
やがて、他の生徒たちも帰り支度を終え、校内には静けさが戻った。
練習教室に残っているのは、響ひとり。
最後にもう一度だけ音を出そうとしていたが、ふっと息を吐き、楽器をケースの横に置いた。
「……休憩するか」
そう呟き、水筒に手を伸ばす。
その瞬間だった。
――ひゅう、と。
開いていた窓から、夕方の風が吹き込んだ。
「うわっ」
譜面台が勢いよく倒れ、ファイルが床に落ちる。中から楽譜がばらばらと飛び散った。
「ちょ、待って……」
響は慌てて立ち上がり、散らばった紙を拾い集める。一枚一枚、元のファイルに戻していった。
見慣れた譜面。
何度も吹いてきた音。
――全部、いつものものだ。
そう思いながら、最後に残った一枚へと視線を移した。机の脚のそばに、ぽつんと落ちている紙。
「……?」
響は首を傾げながら近づき、しゃがみ込む。拾い上げたそれは、確かに楽譜だった。
だが......
「こんなの……持ってたっけ?」
紙は、ひどく黄ばんでいた。端は少し擦り切れ、全体から古い紙特有の匂いがする。
最近印刷したものでは、明らかにない。いや、むしろ手書きのようにも感じられた。
そして。
「……血?」
五線譜の一部に、赤黒い染みが残っていた。滲んだようでもあり、飛び散ったようにも見える。
時間が経って、色が沈んだ血の跡。響の指が、そこで止まる。
「なんだ……これ」
知らない楽譜。
知らない血痕。
なのに、不思議と目が離せなかった。
響は少し躊躇しながらも、譜面台にその古びた楽譜を立てた。
「……吹いてみるか、暇だし」
ユーフォを構え、唇を当てる。
息を送り込むと、淡い音が部屋に響いた。五線譜の上の音符は、古くとも、今まさに響の手で命を得る。
その瞬間、教室の空気が、微かにざわめくように変わった。
少し遠くの理科棟。
薄暗い廊下に、天奏はひとり歩いていた。
片付けをしようと音楽室に向かう途中だった。手にはまだ、楽譜や小物の残りが握られている。
すると遠くから、微かに何かの音が聞こえた。天奏は立ち止まり、耳を澄ます。
「これって……」
足元の床に反響する、その微かなリズム。天奏の呼吸が、自然と速くなった。
恐怖や不安ではない――ただ、吸い込まれるような、引き寄せられる感覚。
やがて、足取りを徐々に早め、その音のする方向へと向かう。
廊下の先、光の届かない場所へ、確かに自分は導かれているようだった。
突然、教室の扉が勢いよく開く。
「うわぁぁ!!」
響は驚いて、自然と視線を向けた。そこに立っていたのは、息を切らし、顔に疲労が刻まれた天奏だった。
「なんで、天奏先輩がここに?」
その瞬間、響の脳裏に、ある記憶が走った。
「あっ」
「すみません、大丈夫ですか?」
「あ、はい……大丈夫です」
「よかった。すみません」
「あ、いたいた。もう練習始まるよ!」
「ごめん!今行く」
その存在を――すぐに、意識の外へ追いやるように。
――あの時だ。
仙道先生と天奏先輩がぶつかって、あの紙を落としていったあの日。
それが……この楽譜だったんだ。
「……して」
その一言は、震えながらも強い意志を帯びていた。
「え?」
「返して……」
響は、一瞬何を言われたのか理解できず、目を見開く。
「あの、聞こえないんですけ……」
「返して!!!!!」
天奏は譜面台の上から、楽譜を引き剥がすようにして奪い取る。その声には抑えきれない必死さが込められていた。
天奏はその楽譜をギュッと抱きしめた。そしてすぐに背を向ける。
それでも響は咄嗟に口を開いた。
「先輩、それは……なんですか?」
天奏は振り返りもせず、冷たく答える。
「あなたには関係ない」
「……でも、このところずっと調子悪いですよね。その楽譜、何か関係してるんですか」
「関係ないって言ってるでしょ!!!」
天奏の手は譜面を握ったまま、出口へと向かう。
響の声のトーンが低くなった。
「その楽譜の血、先輩のものじゃありませんよね。何があったんですか?」
「あなたには...」
「話してください」
「......」
「部活として見過ごすわけにはいきません」
すると天奏はため息を吐き、握りしめた楽譜に力を込めたまま、ゆっくりと口を開いた。
日が沈み、部室には静けさが戻った。
残されたのは、見慣れたはずの音と、心に引っかかる違和感だけ。
彼女の過去が、明かされようとしていた。
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次回もお楽しみに!!




