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心はB♭で響いている  作者: World of Tukimoto
響く音響編 —始動—

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43/63

43話 消えない違和感

音楽は、正確であればいいわけではない。音程が合い、リズムが揃い、技術が完璧でも、そこに何かが欠けていることはある。

それに気づいてしまった瞬間から、もう以前と同じようには、聴けなくなる。

「鍵なら、天奏(てんそう)さんが先に持っていきましたよ」


「そうですか」


ここ最近、ずっと部活に一番乗りだったのは(ひびき)だった。


しかし、最近は違う。


音楽室の鍵はすでに開いている。扉を引くと、微かに木の床が軋んだ。


中には、天奏がいた。


譜面台の前に立ち、オーボエを構えている。まだ音は出していない。


ただ、譜面をじっと見つめたまま、動かない。


「……おはようございます」


響が声をかけると、天奏は少し遅れて振り返った。


「おはよう」


それだけ。


表情はいつもと変わらないはずなのに、どこか張りつめて見えた。


天奏はすぐに前を向き直り、ゆっくりと息を吸う。


次の瞬間、音楽室にオーボエの音が広がった。


澄んでいて、音程も完璧。

指も息も、何一つ狂っていない。


――上手い。


思わず、そう思う。


けれど、胸の奥に引っかかるものがあった。


音は綺麗なのに、どこか遠い。壁に反射して戻ってくるはずの響きが、途中で消えてしまうような感覚。


天奏はフレーズを吹き終えると、何も言わずに楽器を下ろした。


音楽室には、再び静寂が落ちる。その静けさが、なぜか以前より重く感じられた。



昼休み。


響は屋上で、陽翔(はると)奏多(かなた)来島(らいとう)と並んで弁当を広げていた。


青空の下、風は穏やかで、遠くから運動部の声が聞こえてくる。


けれど、響は箸を動かしながらも、ずっと別のことを考えていた。


――朝の音。


あの、完璧で、なのに遠かったオーボエの音が、頭から離れない。


「はぁ……」


不意に、来島が大きくため息をついた。


「またオーディションかぁ。大会ごとに毎回あると、やっぱ疲れるよな」


「まぁね」


奏多が苦笑しながら答える。


「みんな、合格するために必死だから」


「だよなぁ」


陽翔が箸を止めて、軽い口調で言った。


「上手い人、多いしさ。特に――響とか」


「……」


響は返事をせず、弁当を見つめたまま。


「あと、東堂(とうどう)先輩とか」


その名前を聞いた瞬間、来島の眉間にしわが寄った。


「その名前は出すな。弁当が不味くなる」


「ひどっ」


陽翔は笑いながらも、話を続ける。


「それにさ、天奏先輩とか?」


来島が顔を上げる。


「天奏先輩? あぁ、あのオーボエの人?」


「イングリッシュホルンもね」


奏多が付け足す。


「……」


来島は少し考えるように口を閉じ、それからぽつりと言った。


「あの先輩、上手いけど……なんか変だよな」


「おい、先輩に対して失礼だろ」


陽翔がすぐにツッコむ。


「いや、違うって」


来島は首を振った。


「悪い意味じゃなくてさ。なんかこう……自分で自分を、押し殺してるみたいな音なんだもん」


その言葉に、響の手が止まった。


押し殺している。


朝の、あの音が脳裏に浮かぶ。綺麗で、正確で、なのに――どこにも届かなかった音。


「……」


響は何も言わず、再び箸を動かした。


「……なんか、あったんかな?」


来島が口を開く。


少しの間を置いて、奏多が渋々と口を開いた。


「実はさ。ファゴットの守田(もりた)先輩にも聞いてみたんだよ」


「守田先輩?」


陽翔が反応する。


「でもね……」


奏多は言葉を探すように、一度視線を落とした。


——ごめん、あの子には、あまり関わらないでほしい。


「そう言われちゃって」


来島が思わず声を上げる。


「何それ。めっちゃ気になるやつじゃん」


「だよね」


奏多は苦笑する。


「僕もそう思ったけど……それにしても、あり得ないくらい拒絶されたんだ」


軽い調子で言っているはずなのに、その言葉はどこか重かった。


天奏若葉。


ただ“上手い先輩”だったはずの存在に、少しずつ、触れてはいけない何かの輪郭が見え始めている。



放課後。


忘れ物を思い出した響は、昇降口とは反対方向に足を向け、自分のクラスの教室へ戻っていた。


廊下には、もうほとんど人はいない。吹奏楽部の部室から聞こえる音も、今日はなぜか遠く感じる。


――早く取って、戻ろう。


そう思った、そのときだった。少し先の廊下の角から、かすかに声が聞こえてきた。言い争っているような、張りつめた空気の声。


響は足を止める。


無意識のうちに、その方向へと歩き出していた。


角を曲がると、そこにいたのは二人。


桜咲(おうさき)と、茅野(かやの)だった。


「何か、私たちが力になってあげないと!」


桜咲が、珍しく強い口調で言う。


その向かいで、茅野は腕を組み、静かに返した。


「関係ない。私たちが介入する必要はない」


「もう!」


桜咲は苛立ったように声を上げる。


「茅野はいっつもそう。他人事みたいに言ってさ」


「他人だから。違う?」


淡々とした茅野の言葉に、桜咲が言葉を詰まらせる。


「……同じ二年生同士でしょ?」


「それだけじゃないの?」


一瞬の沈黙。


桜咲は唇を噛みしめ、何も言い返せなかった。


「…………」


二人の間に、重たい空気が落ちる。


――何、言い争ってるんだ?


物陰からその様子を見ながら、響はそう思った。けれど、その会話の端々に、どこか引っかかるものを感じていた。


力になる。

介入する必要はない。


その言葉が、なぜか――

朝の、あのオーボエの音と、重なった気がした。


「……話はそれだけ。練習しなきゃ」


茅野はそう言い残し、桜咲に背を向けた。


「ちょ、待ってよ!」


桜咲の声が廊下に響く。


けれど、茅野は振り返らない。足取りは迷いなく、そのまま歩き去っていった。


残された桜咲は、その場に立ち尽くす。拳を握りしめ、俯いたまま。しばらくして、ふっと顔を上げた瞬間だった。


――視線が、合った。


物陰にいた響と、真正面から。


「……っ」


しまった。


反射的に身を引こうとしたが、もう遅い。


「ちょっと!」


桜咲は一瞬で状況を察し、次の瞬間には全速力で走り出していた。


廊下に、足音が近づく。


「どこまで、聞いてたの?」


響の前で立ち止まり、真っ直ぐに問いかける。


「え、あ……いや、その……」


言葉が、うまく出てこない。


偶然聞いてしまった。

盗み聞きするつもりなんてなかった。


けれど、そう言い訳するほど、状況は軽くなかった。


桜咲の目は、冗談を許さない色をしている。


響は息を整えながら、次に何と言うべきかを必死に探していた。


すると桜咲は、ぐっと息を詰めたまま言った。


「お願い。さっきのことは……忘れてほしい」


一瞬、言葉を切り、視線を落とす。


「一年を、巻き込むわけにはいかないから」


そして、もう一度。


「……お願い」


その声は、先ほどまでの勢いとは違っていた。


冗談でも、強がりでもない。

とてつもなく必死で、追い詰められている響き。


響は、何も言えなかった。ただ、言われるがままに――小さく、頷く。


それを見て、桜咲はほっとしたように息を吐く。けれど、その表情は、どこかまだ硬いままだった。



全体合奏。


放課後の音楽室に、いつもと変わらない音が満ちていく。譜面を開き、椅子に座り、指揮台の前に瞬崎が立つ。董白と仙道は、その少し後ろ。見慣れた光景だった。


「では、頭から通します」


瞬崎の一声で、指揮棒が上がる。合図とともに、音が重なった。


――いつも通りだ。


テンポも、バランスも、大きく崩れてはいない。誰かが極端にミスをすることもなく、音楽は流れていく。


「金管、少し前に出す意識で」


董白の声が飛ぶ。


「木管、縦は合ってます。でも横を聴いて。特に内声は」


「パーカス、今の入りは、半拍早く」


仙道の淡々とした指摘。


瞬崎も、すぐに続ける。


「中低音、支えを切らさないように。フレーズの終わり、気を抜かないでください」


――分かっている。


言われていることは、全部分かっているはずだった。


けれど。


響の耳には、それらの声がほとんど届いていなかった。

聞こえているのは――ただ一つ。


オーボエの音。


天奏の音だけが、やけに鮮明に、響の中に入り込んでくる。澄んだ音。正確な音程。乱れないフレーズ。


それなのに。


(……やっぱり)


胸の奥で、同じ違和感が膨らんでいく。


上手い。

間違いなく、誰よりも上手い。


けれど、その音は、どこかで止まっている。

前に進まない。

誰かに触れようとしていない。


「――ストップ」


瞬崎の声で、音が切れる。


「今の全体、悪くありません」


そう前置きしてから、指揮棒で譜面を示す。


「ですが、全体的に“守り”に入っています。東海では、それでは通用しません」


「はい!」


董白が一歩前に出る。


「綺麗にまとめるのは大事だ。でもな、綺麗なだけの音は、山ほどある」


視線が、部員たちを一人ずつなぞる。


「もっと出せ。失敗してもいい。怖がるな」


「はい!」


仙道は、木管の方を見て、静かに言った。


「……特に旋律。上手く吹くという意識だけが大切ではありません」


その言葉に、天奏の肩が、ほんのわずかに動いた。


それを、響は見逃さなかった。


「もう一度、頭から」


指揮棒が、再び上がる。


音が重なる。


けれど、響の中では、もう合奏ではなかった。


周囲の音が、遠ざかっていく。


ユーフォの音も、トランペットも、打楽器も。


すべてが、背景に沈んでいく。


残ったのは――


天奏の、あのオーボエの音。


完璧で。

綺麗で。

そして、どこにも届かない音。


気づいてしまった以上、もう、前と同じようには聴けない。


合奏は、何事もなかったかのように続いていく。

大きな事は何も起きていない。それでも、確かに空気は変わっていた。

誰かが踏み込んではいけない線を引き、誰かがそれに気づき、そして誰かは、まだ知らないままでいる。

音は、今日も鳴っている。ただ、その意味だけが、少しずつ変わり始めていた。

感想、評価、ブクマ是非お願いします。

次回もお楽しみに!!

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