43話 消えない違和感
音楽は、正確であればいいわけではない。音程が合い、リズムが揃い、技術が完璧でも、そこに何かが欠けていることはある。
それに気づいてしまった瞬間から、もう以前と同じようには、聴けなくなる。
「鍵なら、天奏さんが先に持っていきましたよ」
「そうですか」
ここ最近、ずっと部活に一番乗りだったのは響だった。
しかし、最近は違う。
音楽室の鍵はすでに開いている。扉を引くと、微かに木の床が軋んだ。
中には、天奏がいた。
譜面台の前に立ち、オーボエを構えている。まだ音は出していない。
ただ、譜面をじっと見つめたまま、動かない。
「……おはようございます」
響が声をかけると、天奏は少し遅れて振り返った。
「おはよう」
それだけ。
表情はいつもと変わらないはずなのに、どこか張りつめて見えた。
天奏はすぐに前を向き直り、ゆっくりと息を吸う。
次の瞬間、音楽室にオーボエの音が広がった。
澄んでいて、音程も完璧。
指も息も、何一つ狂っていない。
――上手い。
思わず、そう思う。
けれど、胸の奥に引っかかるものがあった。
音は綺麗なのに、どこか遠い。壁に反射して戻ってくるはずの響きが、途中で消えてしまうような感覚。
天奏はフレーズを吹き終えると、何も言わずに楽器を下ろした。
音楽室には、再び静寂が落ちる。その静けさが、なぜか以前より重く感じられた。
昼休み。
響は屋上で、陽翔、奏多、来島と並んで弁当を広げていた。
青空の下、風は穏やかで、遠くから運動部の声が聞こえてくる。
けれど、響は箸を動かしながらも、ずっと別のことを考えていた。
――朝の音。
あの、完璧で、なのに遠かったオーボエの音が、頭から離れない。
「はぁ……」
不意に、来島が大きくため息をついた。
「またオーディションかぁ。大会ごとに毎回あると、やっぱ疲れるよな」
「まぁね」
奏多が苦笑しながら答える。
「みんな、合格するために必死だから」
「だよなぁ」
陽翔が箸を止めて、軽い口調で言った。
「上手い人、多いしさ。特に――響とか」
「……」
響は返事をせず、弁当を見つめたまま。
「あと、東堂先輩とか」
その名前を聞いた瞬間、来島の眉間にしわが寄った。
「その名前は出すな。弁当が不味くなる」
「ひどっ」
陽翔は笑いながらも、話を続ける。
「それにさ、天奏先輩とか?」
来島が顔を上げる。
「天奏先輩? あぁ、あのオーボエの人?」
「イングリッシュホルンもね」
奏多が付け足す。
「……」
来島は少し考えるように口を閉じ、それからぽつりと言った。
「あの先輩、上手いけど……なんか変だよな」
「おい、先輩に対して失礼だろ」
陽翔がすぐにツッコむ。
「いや、違うって」
来島は首を振った。
「悪い意味じゃなくてさ。なんかこう……自分で自分を、押し殺してるみたいな音なんだもん」
その言葉に、響の手が止まった。
押し殺している。
朝の、あの音が脳裏に浮かぶ。綺麗で、正確で、なのに――どこにも届かなかった音。
「……」
響は何も言わず、再び箸を動かした。
「……なんか、あったんかな?」
来島が口を開く。
少しの間を置いて、奏多が渋々と口を開いた。
「実はさ。ファゴットの守田先輩にも聞いてみたんだよ」
「守田先輩?」
陽翔が反応する。
「でもね……」
奏多は言葉を探すように、一度視線を落とした。
——ごめん、あの子には、あまり関わらないでほしい。
「そう言われちゃって」
来島が思わず声を上げる。
「何それ。めっちゃ気になるやつじゃん」
「だよね」
奏多は苦笑する。
「僕もそう思ったけど……それにしても、あり得ないくらい拒絶されたんだ」
軽い調子で言っているはずなのに、その言葉はどこか重かった。
天奏若葉。
ただ“上手い先輩”だったはずの存在に、少しずつ、触れてはいけない何かの輪郭が見え始めている。
放課後。
忘れ物を思い出した響は、昇降口とは反対方向に足を向け、自分のクラスの教室へ戻っていた。
廊下には、もうほとんど人はいない。吹奏楽部の部室から聞こえる音も、今日はなぜか遠く感じる。
――早く取って、戻ろう。
そう思った、そのときだった。少し先の廊下の角から、かすかに声が聞こえてきた。言い争っているような、張りつめた空気の声。
響は足を止める。
無意識のうちに、その方向へと歩き出していた。
角を曲がると、そこにいたのは二人。
桜咲と、茅野だった。
「何か、私たちが力になってあげないと!」
桜咲が、珍しく強い口調で言う。
その向かいで、茅野は腕を組み、静かに返した。
「関係ない。私たちが介入する必要はない」
「もう!」
桜咲は苛立ったように声を上げる。
「茅野はいっつもそう。他人事みたいに言ってさ」
「他人だから。違う?」
淡々とした茅野の言葉に、桜咲が言葉を詰まらせる。
「……同じ二年生同士でしょ?」
「それだけじゃないの?」
一瞬の沈黙。
桜咲は唇を噛みしめ、何も言い返せなかった。
「…………」
二人の間に、重たい空気が落ちる。
――何、言い争ってるんだ?
物陰からその様子を見ながら、響はそう思った。けれど、その会話の端々に、どこか引っかかるものを感じていた。
力になる。
介入する必要はない。
その言葉が、なぜか――
朝の、あのオーボエの音と、重なった気がした。
「……話はそれだけ。練習しなきゃ」
茅野はそう言い残し、桜咲に背を向けた。
「ちょ、待ってよ!」
桜咲の声が廊下に響く。
けれど、茅野は振り返らない。足取りは迷いなく、そのまま歩き去っていった。
残された桜咲は、その場に立ち尽くす。拳を握りしめ、俯いたまま。しばらくして、ふっと顔を上げた瞬間だった。
――視線が、合った。
物陰にいた響と、真正面から。
「……っ」
しまった。
反射的に身を引こうとしたが、もう遅い。
「ちょっと!」
桜咲は一瞬で状況を察し、次の瞬間には全速力で走り出していた。
廊下に、足音が近づく。
「どこまで、聞いてたの?」
響の前で立ち止まり、真っ直ぐに問いかける。
「え、あ……いや、その……」
言葉が、うまく出てこない。
偶然聞いてしまった。
盗み聞きするつもりなんてなかった。
けれど、そう言い訳するほど、状況は軽くなかった。
桜咲の目は、冗談を許さない色をしている。
響は息を整えながら、次に何と言うべきかを必死に探していた。
すると桜咲は、ぐっと息を詰めたまま言った。
「お願い。さっきのことは……忘れてほしい」
一瞬、言葉を切り、視線を落とす。
「一年を、巻き込むわけにはいかないから」
そして、もう一度。
「……お願い」
その声は、先ほどまでの勢いとは違っていた。
冗談でも、強がりでもない。
とてつもなく必死で、追い詰められている響き。
響は、何も言えなかった。ただ、言われるがままに――小さく、頷く。
それを見て、桜咲はほっとしたように息を吐く。けれど、その表情は、どこかまだ硬いままだった。
全体合奏。
放課後の音楽室に、いつもと変わらない音が満ちていく。譜面を開き、椅子に座り、指揮台の前に瞬崎が立つ。董白と仙道は、その少し後ろ。見慣れた光景だった。
「では、頭から通します」
瞬崎の一声で、指揮棒が上がる。合図とともに、音が重なった。
――いつも通りだ。
テンポも、バランスも、大きく崩れてはいない。誰かが極端にミスをすることもなく、音楽は流れていく。
「金管、少し前に出す意識で」
董白の声が飛ぶ。
「木管、縦は合ってます。でも横を聴いて。特に内声は」
「パーカス、今の入りは、半拍早く」
仙道の淡々とした指摘。
瞬崎も、すぐに続ける。
「中低音、支えを切らさないように。フレーズの終わり、気を抜かないでください」
――分かっている。
言われていることは、全部分かっているはずだった。
けれど。
響の耳には、それらの声がほとんど届いていなかった。
聞こえているのは――ただ一つ。
オーボエの音。
天奏の音だけが、やけに鮮明に、響の中に入り込んでくる。澄んだ音。正確な音程。乱れないフレーズ。
それなのに。
(……やっぱり)
胸の奥で、同じ違和感が膨らんでいく。
上手い。
間違いなく、誰よりも上手い。
けれど、その音は、どこかで止まっている。
前に進まない。
誰かに触れようとしていない。
「――ストップ」
瞬崎の声で、音が切れる。
「今の全体、悪くありません」
そう前置きしてから、指揮棒で譜面を示す。
「ですが、全体的に“守り”に入っています。東海では、それでは通用しません」
「はい!」
董白が一歩前に出る。
「綺麗にまとめるのは大事だ。でもな、綺麗なだけの音は、山ほどある」
視線が、部員たちを一人ずつなぞる。
「もっと出せ。失敗してもいい。怖がるな」
「はい!」
仙道は、木管の方を見て、静かに言った。
「……特に旋律。上手く吹くという意識だけが大切ではありません」
その言葉に、天奏の肩が、ほんのわずかに動いた。
それを、響は見逃さなかった。
「もう一度、頭から」
指揮棒が、再び上がる。
音が重なる。
けれど、響の中では、もう合奏ではなかった。
周囲の音が、遠ざかっていく。
ユーフォの音も、トランペットも、打楽器も。
すべてが、背景に沈んでいく。
残ったのは――
天奏の、あのオーボエの音。
完璧で。
綺麗で。
そして、どこにも届かない音。
気づいてしまった以上、もう、前と同じようには聴けない。
合奏は、何事もなかったかのように続いていく。
大きな事は何も起きていない。それでも、確かに空気は変わっていた。
誰かが踏み込んではいけない線を引き、誰かがそれに気づき、そして誰かは、まだ知らないままでいる。
音は、今日も鳴っている。ただ、その意味だけが、少しずつ変わり始めていた。
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次回もお楽しみに!!




