14 見た目詐欺没落令息は、運命に翻弄されます。
ミレーヌ・ファラー。
その出自はアベラール王国の筆頭公爵家、ボードレール家である。
もっともミレーヌの母は正妻ではなく、ボードレール公爵夫人に仕えていたレディースメイドであった。妻のメイドを気に入ったボードレール公爵が無理矢理に関係を迫り、その結果生まれたのがミレーヌである。
街外れに小さな屋敷を買い与えられ、公爵の公然の愛人として囲われてしまった母の元でミレーヌは、幼少期を過ごした。元は子爵家の次女だった母は、こんなことさえなければどこかの下級貴族に普通に嫁ぐことが出来たであろうに、身勝手な男の欲望で日陰者の道を歩むことになってしまったのだ。
お前さえ生まれなければ、まだ何とかなったかもしれないのに。
物心つく前から何千回、何万回と繰り返されたその言葉の意味をミレーヌが理解できるようになった頃には、母は寝台から身を起こすこともままならない病の底にいた。もう何年も父の訪れはなく、艶を失ってカサカサに乾いてしまった母の唇からは、お前さえいなければ、お前さえ生まれなければと恨み言ばかりが繰り返された。
恨むなら私ではなく、お父様でしょう?
母にそんな言葉をぶつけることもなくミレーヌは、九歳という幼さで母を看取った。
母亡きあともミレーヌは、父が母に買い与えたその屋敷で数人の使用人とともに暮らしていたが、あと数日で十二歳になるという日に執事が迎えに来て、ボードレール公爵家に引き取られた。
正妻との間に三人の子宝に恵まれたものの、その三人ともが男子だったために公爵は、未来の王太子妃、ゆくゆくはこの国の王妃にすべき娘を欲した。それで何年も前に打ち捨てて、すっかり忘れていた愛人に娘がいたことを思い出し、迎えを寄こしたのだ。
十二歳から十八歳になるまでの六年間をミレーヌは、ボードレール公爵家で過ごした。
それは、地獄のような日々だった。
王太子の婚約者の座を得るために、何人もの家庭教師が雇われた。寝る間もないほどに知識を詰め込まれ、体が悲鳴をあげるほどに礼儀作法とダンスを叩き込まれて、その上に半分だけ血の繋がった二人の兄と一人の弟からの嫌がらせを受けた。
もっとも兄弟たちの嫌がらせは主に言葉によるものだったので、陰湿な嫌味も嘲笑も聞き流してしまえばそれで済んだ。だけど公爵夫人、義母の折檻は体罰だったのだ。ミレーヌがほんの些細なミスを犯したら、必ずその夜は夫人の部屋に呼ばれた。そして、細くとも鋭いムチで背中を打たれた。
ピシッ、ピシッというムチの音をミレーヌはその後、ずっと忘れることが出来なくなった。服で隠れるところばかりを執拗に打つ義母の顔は、まるで悪魔か何かのように醜く歪んでいた。
十八歳になり、公爵令嬢として順当に婚約者候補となったミレーヌは、だけど王太子の婚約者には選ばれなかった。選ばれたのは、王太子と学園で知り合い、愛を育んだという可愛らしい伯爵令嬢だった。ミレーヌを含む数人の高位貴族の令嬢が婚約者候補として三か月ほどを城で過ごしたのだが、それはきちんと審査した上で選びましたという体裁を取り繕っただけであって、最初から彼女に決まっていたのだろう。
主だった貴族を招いて開かれた夜会で幸せそうに婚約の挨拶をする王太子を見た時、ミレーヌは逃げるなら今だと思った。
思えば王城で暮らせた三か月は、とても幸せな日々だった。兄弟たちに罵倒されることもなく、夜に公爵夫人の部屋に呼ばれることもない。城の使用人たちはミレーヌを公爵令嬢として敬ってくれたし、ミレーヌを選んではくれなかったものの王太子は優しく接してくれたのだった。
だけど選ばれなかった以上は、もう城に滞在することは出来ない。王太子妃の侍女になりたいと願い出てみたが、公爵令嬢にそんなことはさせられないと断られてもいた。
数日のうちに荷物をまとめて城を出なくてはならない、だけどどこに帰ればいいと言うのだろう。用済みとなったミレーヌがボードレール公爵家に戻ればどんな目に合うかわからず、だったら母と暮らしたあの屋敷に帰ろうかと思ったが、母の名義だったはずの屋敷はいつの間にか売り払われていたのだった。
身分を捨て、一人で生きようとミレーヌは決めた。
夜会からそっと抜け出し、豪華なドレスをかねてから用意してあった質素なものに着替え、その上に下働きのメイドたちが着るようなマントを羽織った。母がまだ公爵のお気に入りだった頃に与えられたといういくつかの宝飾品をマントの隠しポケットに入れ、あとは何も持たずに逃げ出す。
表の城門には門番がいて、とても通ることは出来ないけれど、使用人たちが頻繁に出入りする裏口からならお使いに行くメイドのふりをするだけで簡単に出ることが出来た。特に今夜は王太子の婚約を祝って城中に酒が振舞われたので、浮かれた雰囲気が公爵令嬢の不在を有耶無耶にしてくれたのだ。
そうやって街に出たミレーヌは、一人の青年と出会った。それが仕事でアベラール王国を訪れていたファーニヴァル王国の文官、ハリソン・ファラー伯爵だった。
どうやらハリソンの一目惚れだったらしい、まあそのあたりのことは置いておくけれど。
遠いファーニヴァル王国まで逃げられるのなら、それに越したことはない。ミレーヌはハリソンのいきなりの求婚を受け入れ、手を取り合ってアベラール王国をあとにした。
ハリソンにしてみれば、異国の地で伴侶を得て帰国しただけなのだが、ミレーヌはどこの馬の骨かわからない男と駆け落ちしたと噂されたらしい。もっとも捨てた祖国で何をどう言われようと、ミレーヌには関係ないことだった。
ボードレール公爵家は、ミレーヌを追わなかった。
王太子妃になれなかった用済みの娘など、どうなろうとかまわなかったのだ。
「母上がそんな苦労をしたなんて、僕は今までちっとも知りませんでした」
そう言ってブライアンは、テーブルの上で握ったこぶしに力を込めた。とんでもない苦労をしてきた母が微笑んでいるのに、自分が涙を見せるわけにはいかないと何度も目を瞬く。
オズバーン家の居間で、ボードレール公爵家の執事だという男と面談してからブライアンは、一晩泊まって行けと言うフェリシアにごめんねと謝って、我が家に帰って来た。かいがいしく父の看病をしてくれていたエイダにお礼を言って引きあげてもらって、今はこうして起きていても平気なくらいに回復した母と向き合ってお茶を飲んでいる。
「それで、来ていたのはマルク? それとも息子のポールの方かしら」
「マルクと名乗っていましたよ」
「あらまあ、それはよくぞ老骨に鞭打って長旅に耐えたのものね」
「母上、言い方」
思わずブライアンがたしなめると、母はおどけたように軽く肩をすくめた。
「それよりブライアン、その服、とっても似合っているわ」
「返すと言ったんですけど、返されても困ると言われてしまって。結局、いただいてしまいました」
「オズバーン百貨店の品でしょう? 既製服では、最高級でしょうね」
「そうですよね」
「あなたも小さい頃は、オズバーンで服を買っていたのだけれど、覚えているかしら」
「覚えていませんよ」
「とても可愛かったのよ。試着していたらオズバーンの店員さんたちがたくさん集まって来て、天使みたいだって言われてね」
「そうですか」
今では絵本の中の王子みたいだと言われるが、小さい頃は天使だったらしい、どうでもいいが。
「オズバーン商会のお嬢さん、フェリシアさんとおっしゃるのね。ブライアンも好きな女の子が出来るお年頃なのねぇ、私も年をとるはずだわ」
「……」
母は、ブライアンと話をしだしてからずっとこの調子だった。自分の身の上を語る時もまるで他人事のように、おどけて物語調に話して聞かせたのだ。
本当は、語りたくなかったのだろう。酷なことを聞いてしまったと、ブライアンはため息をついた。
「それで、彼女との将来は考えているの?」
「さあ、まだわかりません」
「いい加減な気持ちなら、最初からおつき合いしない方がいいわ」
「わかっていますよ」
「そう……そうよね。ブライアンなら、ちゃんとわかっているわよね」
フェリシアを放したくない、幸せにしたいと思ったのはほんの数時間前のことなのに、ブライアンは今、揺れていた。マルクと名乗った老執事のしわがれた声が今もなお、ブライアンの耳元で毒のように囁いているようだ。
この十年ほど、冬になる度にクライネフ風邪の流行に襲われ続けたアベラール王国は、その人口を最盛期の半分以下にまで減らしてしまっているらしい。医者にかかるのもままならない平民はもちろん、手厚い医療を受けることができる貴族でさえも病の手から逃れることが出来なかったのだ。
筆頭公爵家であるボードレール家であっても、禍は等しく降り注いだ。
まず、すでに爵位を継いでいたミレーヌの腹違いの長兄、アルストンが命を落とした。今から八年前のことらしい。日頃の不摂生で丸々と太っていたアストンは、元々いくつかの持病があったこともあって、クライネフ風邪に罹患してわずか数日で亡くなったのだそうだ。
アルストンのあとは、アルストンの一人息子がまだ二十歳にもならない若輩の身で爵位を継いだが、あまり体が丈夫な質ではなかったそうで、これもまた父のあとを追うように翌年に没した。
次にボードレール公爵となったのはミレーヌの次兄、つまりアルストンの弟であるオースティンだった。だが、オースティンが公爵でいられたのは三年に満たなかった。またもやクライネフ風邪の猛威に負けて、帰らぬ人となったのだ。
ひどい放蕩者だったオースティンは五十を過ぎても妻帯しておらず、子供がいなかった。それで次に白羽の矢が立ったのはオースティンの弟、三男のブレナンであった。そして、今のボードレール公爵はこのブレナンである。
そう、ブレナンはまだ生きている。
ただし、辛うじてという但し書きがつくが。
幸いなことにと言っていいのかどうかは微妙なところだが、なんとかクライネフ風邪から逃げ切ることができたブレナンだが昨年、趣味の狩猟に出た際に落馬して強く頭を打ち、寝台から一歩も動けない体となってしまった。食事も自分では取れず、柔らかく煮たものをメイドに一口ずつ食べさせてもらう日々にゆっくりと衰弱しているらしい。
ブレナンには息子が二人と娘が一人いたが、妻ともどもクライネフ風邪のためにすでに亡くなっていた。つまり、ブレナンのあとを継げる者がボードレール公爵家にはもういないのだ。
皮肉なことに一番の高齢である先代の公爵、ミレーヌの父であるゲイリーはまだ健在であった。そして、王家の血を引く公爵家を潰すわけにはいかないと、三十年以上も前に出奔した娘の現状を調べさせたのだ。
ゲイリーは、ミレーヌがファーニヴァル王国のファラー伯爵家に嫁いだことはすでに知っていた。だが、そのあとのことは我関せずを決め込んでいたのだけれど、伝手を辿ってミレーヌを探してみれば、ファラー伯爵家はとっくに没落してしまっていた。
一家は行方不明で、その生死さえ定かではない。それでもあきらめずに探し続けて、ようやくミレーヌがとある仕立て屋で働いていることがわかったのは、ひと月ほど前のことである。
ゲイリーは直ちに、一番信頼の置ける執事のマルクをファーニヴァル王国に行かせることに決めた。
ミレーヌはファラー伯爵との間に三人の息子をもうけたそうだが、長男はすでに亡くなって、次男は他家の婿養子となっているそうだが、まだ三男がいる。ブライアンという名であるらしいその子を何が何でも連れて来いと命じて、マルクを送り出したのだ。
とはいえ、マルクもかなりの高齢である。マルクの息子のポールが生きていれば代わりに行かせられたが、ポールもまたクライネフ風邪の猛威の前に敗れ去っていた。
護衛はもちろん、世話をするメイドをつけてやったとしてもマルクに長旅は厳しい。不可能ではないだろうが、時間がかかってしまうだろう。
そこに折よく、薬を求めてファーニヴァル王国の商人がやって来た。
クライネフ風邪の特効薬は昨年、国を挙げての研究の果てにようやく完成した。どうしてもっと早く出来なかったのかと悔やまれるが、今更そんなことを言っても詮無いばかりであった。
ゲイリーは、ファーニヴァル王国の商人であるクロエ・オズバーンに、ボードレール公爵家の力で大量の薬を集める代わりにマルクをファーニヴァル王国まで同道させて欲しいと頼んだ。
薬を持って、最速で国まで帰る大所帯のキャラバンだ。そこに混じることが出来れば、高齢なマルクでも安全にファーニヴァル王国まで行くことが出来るだろう。
クロエは、快くその提案を受け入れた。
そうしてマルクが辿り着いたファーニヴァル王国の、ひとまず身を寄せたオズバーン家にたまたまブライアンがいたのは、ただの偶然で片付けるには出来すぎている。しかもブライアンは、明らかにアベラール王家の血をひいている証である、見事な金髪と碧眼の持ち主であったのだ。
これは運命だと、マルクは思った。
ブライアンを連れ帰るのは、長年ボードレール公爵家に忠誠を誓って来た自分に課せられた最後の使命だと、そう思った。
マルクは、アルストンが命を落としてからの不幸の連続の話を涙ながらにブライアンに聞かせ、そしてどうか一緒にアベラール王国に行って欲しいと頭を床にこすりつける勢いで懇願した。突然のことで呆然としてしまっているブライアンに、もし一緒に来てくれるなら手放してしまったファラー家の屋敷を買い戻し、ファラー伯爵夫妻が何不自由なく暮らせるだけの援助をすると畳みかけた。
お父上に最高の医者を手配しましょうと言われて、ブライアンが揺れないはずがない。いつかブライアン自身が働いて、父を医者に診せようと思っていたけれど、いつかでは遅いかもしれないのだ。
長い闘病生活で、父はガリガリに痩せてしまっている。今回のクライネフ風邪は何とか乗り切れたが、次に同じようなことがあればもう助からないかもしれないのだ。
それに、春までに今の住まいから出なくてはならない。
高い薬を買わずに済んだおかげでブライアンの手元には金貨が十五枚あるが、そのうち九枚はロンに、三枚はトム爺に返さなければならないのだった。
金貨三枚で、新しい家を借りて引っ越せるだろうか。
仮に引っ越すことは出来たとしても、そのあとの生活はどうするのか。
母は、仕事を失ったのだ。今の仕事だって探しに探してようやく見つけたのに、次の仕事がすぐに見つかるとは思えない。
行き詰ってしまっていることは、ブライアンだってわかっている。
そこにマルクの提案だ、揺れるなと言う方が無理だろう。
屋敷を取り戻し、解雇してしまった使用人たちを呼び戻すのは、ブライアンの悲願だ。いつかはと思っているが、それはいつになるんだとも思う。
それが簡単に叶ってしまう、ブライアンがアベラール王国に行くだけでだ。
母は、ボードレール家の執事が何を言いに来たのかを聞かない。聞きたくないのか、聞かなくてもわかっているから聞かないのか。
「母上、僕は……」
「どうしたの、ブライアン」
母に言えば、反対されることはわかりきっている。母の話を聞けば、ボードレール公爵家が碌な家ではないことがわかる。そんな家に行くと言えば、あなたが犠牲になる必要なんてないのよとでも言われそうだ。
だけど……ああ、だけど。
父を医者に診せたい、母をこれ以上は働かせたくない。
あの屋敷を取り戻したい、使用人たちを呼び戻したい。
「ブライアン、マルクが何を言っても相手にしなくていいのよ」
フェリシア。
ねえ、フェリシア。
僕は、どうしたらいいのだろう?




