13 見た目詐欺没落令息は、ぬくもりの中で目を覚まします。
柔らかなあたたかさに包まれてブライアンは、ゆっくりと瞼を押し上げた。自分の体を包んでいるのが手触りのいい高級な寝具であることは、伯爵家の令息であるブライアンにはもちろんわかる。
ここはどこだろう……ここは、ファラー家のタウンハウスだっただろうか。
深く眠ったせいでブライアンの意識は、まだはっきりとしていなかった。あたりの明るさにすぐには目が馴染まない、ブライアンが横たわっている寝台の横に誰か座っている……。
「ファルマ?」
大好きな、本当の姉のように思っているメイドの名を呼べば、寝台の横に座っていた誰かが困ったような顔をした。ファルマじゃない、彼女は……。
「え、フェリシア?」
一気に目が覚めた。すぐに起き上がろうとしたが、ふかふかの寝具に阻まれて失敗する。
「ブライアン様、そんな急に起きては駄目です。うちの前で倒れたことは、覚えておられますか? 過労だそうですよ」
「過労……」
だんだんと思い出されて来る。薬を求めて昨日は、ろくに食事もとらずに一日中走り回り、夜も寝ないで働いた。やっとのことで大銀貨三枚を手に入れて、それから……それから、どうしたのだっただろうか。
「ここは?」
「私の家です、ブライアン様。オズバーン家ですよ」
「オズバーン……」
そうだ、一晩中働いて疲れ果てて、家に帰らなければと思いながらも足が違う方向に進んだ。会いたくて、どうしてもフェリシアに会いたくなってしまって。
「うちの前で倒れていたのを通いのメイドが見つけたのです、覚えておられませんか」
「いや、倒れたのは何となく覚えている。そうか、迷惑をかけてしまったんだね」
「迷惑だなんて、そんなことありません」
ブライアンは一度、目を閉じてから再び開けた。あんなに会いたかったフェリシアが心配そうな顔で覗き込んでいる。
「僕は、どれくらい寝ていたのだろう」
「七時間か、八時間くらいでしょうか」
「そんなに?」
倒れたのは、早朝だったはずだ。あの過酷だった仕事を終えて、ふらふらとオズバーン家の前まで来た時には、あたりはもう薄明るかったのを覚えている。通いのメイドが見つけてくれたということは、ブライアンが倒れてからそれほど間を置かずに助けてもらえたのだろう。
自分はかなり運がよかったのだということに、ブライアンは気づいた。もしもあんなに寒い冬の朝に倒れたまま何時間も発見されなかったとしたら、最悪の事態だってあり得たのだ。
「ありがとう、助かった。使用人の方々にもお礼を伝えて欲しい」
「わかりました、伝えておきますね」
朝に倒れて、それから七、八時間が経ったということは、今はもう午後だろう。寝台に寝転んで、見慣れない天井を見上げていると、こんなことをしている場合ではないという焦りがブライアンの中で込み上げてきた。
「……帰らなきゃ」
そうだ、ブライアンは薬を買いに行かなければならないのだ。早くクライネフ薬を手に入れなければ、父が命を落としてしまうかもしれない。
ブライアンは、今度こそ起き上がった。たっぷりと寝たおかげだろうか、随分と体が軽い。これならまた走れそうだ。
「ブライアン様、まだ寝ていないと」
「いや、行かなければならないんだ。助けてもらったお礼には、また改めて来るから」
「お礼なんていりませんから、寝ていてください」
「駄目なんだ、フェリシア。薬を買いに行かないとならないんだ、父がクライネフ風邪で」
「お父様がクライネフ風邪なのですか?」
「ああ、だからクライネフ薬を買いに行かなくてはならないんだよ」
そういえば、手のひらに握りしめていた大銀貨はどこだろう。絶対に落とさないように、力いっぱい握っていたはずなのだけど。
「フェリシア、僕が握っていた大銀貨がどこか知らないかな」
「ブライアン様がお持ちでした大銀貨なら、そこにありますけど」
フェリシアが指さしたテーブルの上に大銀貨が重ねて三枚、置いてあった。それを見たブライアンは、はあっと大きく息を吐いた。あの大銀貨をもう一度稼ぎに行くのは、あまりに辛すぎる。
だけど、とにかくこれで金貨十五枚が揃った。金を持ってもう一度、セザールに頭をさげに行こう。昨日は怒らせてしまったけれど、必死に頼めば薬を譲ってくれると思いたい。ロンによれば、セザールはあれでもそんなに悪いやつではないそうだから。
靴は、寝台の下にあった。上着は、大銀貨の隣にきれいに畳まれて置いてあった。上着を羽織り、大銀貨はズボンのポケットに入れた。
気が急く、今この瞬間も父は苦しんでいるだろう。
頼む、生きていてくれ。すぐに戻るから。
「フェリシア、僕は行くね。助けてくれて、本当にありがとう」
「だから、まだ寝ていてくださいって。薬ならあります。クライネフ薬よりもっとよく効く薬をお分けできますから」
「……え?」
彼女は今、何と言っただろうか。薬がある? それも、クライネフ薬よりよく効く薬?
今にも走り出そうとしていたブライアンは、フェリシアの言葉がすぐには信じられずに目を大きく見開いた。
薬……あんなにも求めてやまなかった薬があるとは、一体……?
「母がアベラール王国で大量に買い付けて来たんです。アベラール王国はこの十年ほど、冬が来るたびにクライネフ風邪が流行して多くの人が亡くなったそうなのですけれど、ようやく去年、特効薬が開発されたそうで」
「特効薬……」
「はい、本当によく効くそうですよ」
薬がある。それもクライネフ薬よりも効く特効薬があるという事実が、ようやくブライアンの中に浸透してきた。
父が助かるかもしれない。
「その薬、分けてもらえる?」
「はい、もちろんです。誰かに届けさせますから、ブライアン様のお住まいの場所を教えていただけますでしょうか」
「いや、分けてもらえたら僕が持って帰るから」
「駄目です、ブライアン様にはまだ休養が必要です」
「もう平気だよ」
「だから、駄目ですってば。休まないならお薬を差し上げませんからね」
「フェリシア……」
腰に手を当てて、口を尖らせて怒った顔をするフェリシアにブライアンは苦笑いするしかなかった。そんな顔をしてもちっとも迫力がない、むしろめちゃくちゃ可愛いのだけど。
「でも、看病もしなくてはならなくてね」
「エイダに行ってもらいましょう、エイダなら私が体調を崩した時にいつも看病してくれますから慣れています」
「そんなことをしてもらって、彼女にクライネフ風邪がうつってしまったら大変だよ」
「大丈夫です。うちの者は全員、すでに薬を飲みました。アベラール王国の特効薬には、予防効果もあるそうなんです」
「それは……何というか、すごいな」
「そうでしょう? ブライアン様もあとでお飲みになってくださいね」
「いや、そんなに何本もは買えないんだ。父の分と母の分、二本を売ってもらえるとありがたい」
そんなによく効く薬なら、かなり高価だろう。金貨十五枚で二本、買えるだろうか。もしも足りなければ、あとで必ず返すからと頭をさげるしかない。
父はもちろん、母もまだ心配だから飲ませたい。予防効果まであるのなら、尚更だ。
「差し上げますよ?」
「そんな高価な薬を貰うわけにはいかないよ」
「一本、銅貨一枚ですでに販売を開始しています。オズバーン百貨店の前には、長蛇の列ができているそうですよ」
「銅貨一枚?」
「はい、銅貨一枚です」
「まさか、そんな……銅貨一枚なんて、無料みたいなものじゃないか」
「無料じゃないですよ、銅貨一枚です。私どもは商人ですので、無料で配ることはいたしません」
銅貨が十枚で、大銅貨一枚。大銅貨十枚で、銀貨一枚だ。銀貨一枚あれば、安い食堂で食事ができるだろうが、銅貨一枚では子供のおやつ代にもならない。
「大赤字じゃないの?」
「そうですね。薬の買い入れ金額とアベラール王国からの輸送費を考えると、かなりの損失です。ですがブライアン様、商売というものはお客様がいなければ成り立ちません。お客様が元気で生きていればこそ、私どもは儲かるのですよ」
澄ましてそんなことを言うフェリシアにブライアンは、つい吹き出してしまった。そんな得意そうな顔もめちゃくちゃ可愛い。
「成程、先行投資というわけだね」
「そうです……ではなくてブライアン様、のんびりこんな話をしている場合ではないのではございませんか。エイダに薬を届けさせますので、お住まいの場所を教えてください」
「住まい……」
とうとうフェリシアにファラー伯爵家が没落していることを告げる時が来たようだ。今のブライアンの住まいがあばら家だとフェリシアが知る前に、真実を告げるべきだろう。
「フェリシア、今まで黙っていたけど僕の家はね」
「ファラー伯爵家の事情は、父から聞きました。貴族名鑑に載っている住所のお屋敷には、もうお住まいではないのですよね? 今のお住まいがどこなのか、早く教えてください」
「知ってるの? 僕が名ばかりの貴族だって」
「お父様が爵位をお持ちなのですから、ブライアン様は今でも貴族に違いないでしょう? 私としましては、実は平民なんだと言っていただけた方が嬉しいのですけど」
「平民の方がいいの?」
「はい、何の問題もなくお嫁にもらっていただけますから」
「お嫁って……」
「だーかーらー、早く! 住所!」
紙とペンを借りてブライアンが簡単な地図を描くと、それを持ってフェリシアは部屋を飛び出して行った。ブライアン様は寝ていてくださいと言い忘れない彼女に、ついまた笑ってしまう。本当は、笑っている場合ではないのだけれど。
父は大丈夫だろうか、まだ生きていてくれているだろうか。
心配でたまらないのに、その一方で心がほんわりとあたたかくて。
「フェリシア……」
愛しさが、この少しの間に倍増しになった気がする。
助けてくれたからじゃなくて、薬を分けてくれたからじゃなくて。
なんだあの可愛さは、反則もいいところだろう。
「お嫁……」
本気だろうか、彼女は本気でこんな貧乏人に嫁ぐ気だろうか。確かに爵位はまだあるが、それはこの国では売れないから持っているだけであって、幾ばくかの金になるならとっくに売り払っている自信がある。
それとも容姿か、やっぱり容姿なのか。この王子然とした見た目詐欺にフェリシアは、騙されてはいないだろうか。
それでも、騙されてくれているのならそのまま騙され続けていて欲しい。今はどん底の貧乏人だけど、ブライアンだってこのままでいるつもりはないのだ。
幸せにしたい、いや幸せにする。
学園を卒業さえできれば、それなりの職につけるはずだ。そうすればどん底生活から脱出できる。頑張って働いて金をためていつか、堂々と彼女に結婚を申し込みたい。
「その前に住処か……」
ジョナスが店を含む家屋敷を売ると言うのだから、ブライアンの一家は新しい住処を見つけなくてはならない。しかし、唯一の収入源だった母の仕事は失われてしまった。
ブライアンが学園を辞めて働かなくては、もうどうにもならないところまで来てしまっている。出来ることなら学園だけは卒業したかったのだけれど、そんなことを言っていられる余裕はもうないのかもしれない。
たった今見たばかりのフェリシアに求婚する夢が急速に遠ざかった気がする、ブライアンの運命は過酷過ぎるのではないだろうか。
「ブライアン様、私は寝ていてくださいと申し上げましたよ?」
「もう平気だよ」
「駄目です」
薬を届けるよう言いつけに行ったフェリシアは、すぐに戻って来た。そして、ブライアンを寝台に無理矢理戻してしまう。
「本当にもう平気なんだけど」
「でしたら、どうしてうちの前で倒れていたのか教えてください」
「ああ、まだ説明していなかったね」
寝転んだままでブライアンは、ここ数日の経緯を話した。昨夜の仕事は守秘義務があるので詳しくは話せなかったけれど、それでも休みなく夜通し働いたと言えばフェリシアは察したようだった。
「どうして初めに私のところに来てくださらなかったのですか、お金ならご用立てできましたのに」
「来ようとはしたんだけどね、何というか……情けなくてね。僕は君の前では、格好をつけたかったんだよ」
「それでも、来ていただきたかったです」
「うん、ごめんね」
「謝らなくてもいいですけど」
「情けない男で幻滅したんじゃない?」
「ブライアン様は、格好いいですよ」
「それは、見た目?」
「見た目はもちろん格好いいですけど、それよりもご両親のために走り回るブライアン様はものすごく格好いいです」
「こんなボロボロだけどね」
「顔と髪がすごく汚れていましたけれど、お仕事たいへんだったのですね」
「いや、あれはわざと汚していたんだ。暖炉の灰を塗りつけてね」
「ええ、どうしてそんなことをなさったのです?」
もう何も隠すことのなくなったブライアンは、フェリシアとたくさん話をした。見た目だけでなく、ブライアン自身が格好いいと言ってくれた彼女をブライアンは、絶対に放したくないと思いをさらに強めた。
もっとも、これからのことを考えればなかなかに遠い夢ではあるのだけれど。
そうこうしているうちに知らせが届いた。フェリシアは、エイダと一緒に医者も両親の元へと向かわせてくれたようで、看病をするエイダを残して帰ってきたらしいその医者から母はすでに快方に向かっているので大丈夫、父も大事には至らないでしょうという診察結果を聞いて、それで本当にブライアンにのしかかっていた重いものが消えたのだった。
そのあとはありがたく食事をもらって、風呂にも入らせてもらった。オズバーン百貨店から急ぎ届けさせたという着替えを渡された時には、どうしようかと思った。いかにも高級そうなそれらは、今のブライアンでは絶対に払えない値段だろう。
仕立てのいいシャツに細めのタイを締め、その上には細かな編み模様の入った薄くても暖かいニットベスト。ズボンはグレーで、これもいかにも高級そうな光沢だ。これも着てみてくださいと渡された上着は、夜空を切り取ったような艶やかな紺色だった。
もう、どうしろと?
「きゃー、格好いい!」
リーナというメイドと手を取り合ってはしゃぐフェリシアをブライアンは、半眼で見てしまった。キミ、本当に僕の見た目だけが好きなんじゃないんだよね?
「お邪魔してもよろしいかしら」
ノックのあとで部屋に入って来たのは、とても美しい女性だった。目元がフェリシアに似ている、彼女の母親だろうか。
「ファラー小伯爵様にはお初にお目にかかります、フェリシアの母でクロエ・オズバーンと申します」
「ブライアン・ファラーです。そんなにかしこまらないでいただけたら助かります、この度は助けていただいて本当にありがとうございました」
「あら、貴族の方が平民に頭をさげるなんて」
「僕は、貴族とは言っても名ばかりなので」
「駄目ですよ、自分をさげるようなことを仰っては」
そう言ってクロエは、ころころと声をあげて笑った。そんな風に笑うと、ますますフェリシアと似ている。
「実は、アベラール王国からお客様をお連れしているのです。これは本当に偶然なのですがファラー伯爵夫人、ブライアン様のお母様を訪ねていらっしゃった方ですの」
「母を?」
誰だろう? 確かに母は、アベラール王国の出身だが、親戚か何かだろうか。
「ちょうどブライアン様が当家にご滞在中ですと申しましたところ、是非お会いしたいとおっしゃっておられるのですが、いかがでしょうか」
「会うのは、かまいませんが」
「では、居間の方にお茶のご用意をいたしますね」
ブライアンは、母の実家がどういう家なのか全く知らなかった。伯爵である父に嫁いだのだから母も貴族なのだろうと思うが、そういえばこれまで母の来歴を気にしたことがなかったのだ。どういう経緯で他国である父のところに来ることになったのか、今度聞いてみようと思いながらフェリシアに案内してもらってブライアンは、居間に足を運んだ。
そこで待っていたのは、髪がすっかり白くなって元の色がどうだったのかわからなくなった高齢の紳士だった。ブライアンとて貴族の端くれだから、その立ち姿で執事だということがすぐにわかる。
「おお、これは何と見事な金髪と碧眼……」
名乗りより先に耳に届いた感嘆の声にブライアンは、軽く首を傾げた。この老執事の来訪がブライアンの運命をがらりと変えてしまうことなど、この時のブライアンは知る由もなかった。
銅貨=10円
大銅貨=100円
銀貨=1000円
大銀貨=10000円
金貨=100000円
大金貨=1000000円
くらいな感じです。
大金貨は、あまり流通していなくて、商売人ではない庶民は金貨までしか見たことがない人がほとんどです。
金貨15枚で150万円ですから、セザールはかなりぼったくってます。




